■倭人の鵜飼(うかい)
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地図をみると、「倭人の家」でのべた「干欄式建物」の青銅器の出土した雲南省昆明
の近くの滇池(てんち)の付近も、鵜飼の分布域のなかにはいっていることがわかる。

かりに、「鵜飼」と「干欄式建物」「稲作」とが、可児弘明氏のいう「ある稲作民族の文化複合」
につながるものである。すると、石寨山古墓は、前漢の初期から後漢の初期、
つまり、紀元前202年ごろから紀元後100年ごろには、その文化複合が、
蜀の地の石寨山ふきんまで、およんでいたことを示していることになる。

『古事記』の「神武天皇記」には、
神武天皇軍が「鵜飼で漁をする人々よ、助けに来てほしい」という歌もみえる。
さらに、『隋書』の「倭国伝」に、わが国の七世紀ごろの鵜飼のことを記した記事がみえる。
八世紀成立の『万葉集』では、鵜飼のことが、かなり多く歌われている。
『万葉集』の4011番の歌で、越中の国(現在の富山県)の鵜飼たちのことが歌われている。
4156番にも、富山県の辟田(さきた)の川で、「鵜飼をする歌」がのっている。