しかし、南(華南)から北(朝鮮半島)に行って、また南(九州)に下がってくるというのは、何とも不思議で、実は、稲作は九州から朝鮮半島へ伝播したのではないでしょうか?
 
事実、北九州の菜畑遺跡(約3000年前の遺跡)からは、縄文晩期後半の突帯文土器、夜臼式(弥生土器の原型)よりも古い山ノ寺式といわれる土器の層から、水田址4枚や水田稲作に

必要な道具が発見されており、朝鮮半島南部で確認された最古の水田跡(無去洞玉峴遺跡)は、約2800〜2500年前となっていることから、
ほんのわずかですが、北九州の方が早く、水田稲作が始まっています。
 
また、海流と気候の関係からも、北方ルートはありえません。なぜなら、従来長江からのルートとして考えられてきた、山東半島及び朝鮮半島西側は、
西の黄河や北の遼河から流れ込む寒流の影響で、寒冷乾燥の土地となっており、水田稲作には適さないところであるからです。逆に、

九州は南からの暖流の影響で、温暖湿潤な気候となっており、水田稲作に適しています。