日本の古代史 Part39
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前スレ
日本の古代史 Part38
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1529143679/ それで、朝鮮北部や沿海州から甕棺墓の遺跡は発見されたのですか?
どうして朝鮮南部や北部九州には甕棺墓が多いのですか?? 弥生の甕棺墓は弥生前期中頃に朝鮮南部の壺棺墓が伝わり、独自に進化発展したというのが定説 北部朝鮮や沿海州から甕棺墓の遺跡は発見されないのに
最近、黄河流域からは甕棺が発見されるんですが。如何してですか?
http://japanese.china.org.cn/travel/txt/2016-10/11/content_39464386.htm
北省黄カ市の郛堤城遺跡付近で初めて甕棺墓が見つかり、
数カ月の発掘作業で計113基の甕棺墓が発掘された。 日本の甕棺墓
日本では縄文時代以降、甕棺墓が見られる。縄文後期・晩期の遺跡からは、
日本各地(東北〜近畿〜九州)で甕棺墓の風習があったことが判っている。
その後、弥生時代前期〜中期の北部九州において最盛期を迎える。
アジア各地の甕棺墓
アジアでは、まず朝鮮半島南部と中国に現れている。ほとんどが乳幼児のものであり、
成人のものは韓国の西南部と中国東部沿岸地域のみに分布する。
また、東南アジアでも紀元前数世紀の頃から、
ジャワ島やベトナム中部(サーフィン文化)を中心に甕棺墓が行われていた。
これについては、海洋民の習俗だったとする見方がある。
さらに南インドにおいても、紀元前数世紀頃の甕棺墓の跡が発見されている。 「甕棺墓」は、縄文時代からありましたが、縄文時代は、主として乳幼児の埋葬に使用。
弥生時代に入り、特に九州北部を中心にして、成人の埋葬用に広く採用されました。
甕のなかに、うずくまるように埋葬されており(屈葬)、まるで胎児が、
母親の胎内にいるときのような形ですね。
地上に大石を載せた「支石墓」であったり、墳丘を盛り土する「墳丘墓」もあります。
それらは身分の高い人の墓であったと考えられます。 では、中国には、「甕棺墓」はあったのでしょうか?
まず黄河流域ですが、
中流域で仰韶(ぎょうしょう)文化が栄えました(紀元前4800年−同2700年頃)。
そのなかの陝西省西安市の半坡(はんぱ)遺跡は、環濠で囲まれた集落ですが、
墓も発見され、成人が土壙墓、幼児や子供は甕棺に入れられていました。
また、同じ中流域の河南省鄭州市の西山遺跡(紀元前3300年−同2700年)は、
中国最古の城塞都市として話題になりました。
そこからも、子供を埋葬した甕棺が出土しました。ちなみにこの遺跡は、「史記」に登場する
五帝の初代「黄帝」の城跡ではないか、との説も出されました。 南の長江流域では、
中流域で屈家嶺(くつかれい)文化が栄えました(紀元前2600年前−同2000年前頃)。
その湖北省京山県屈家嶺遺跡は、城壁都市であり、甕棺墓も発見されました。
成人が埋葬されていたかは、不明です。
以上みてきたとおり、古代中国においても、甕棺墓は存在してました。
ただし、成人が埋葬されたかは不明で、子供・乳幼児用ということなら、
日本の縄文時代と同じです。 そんななか、昨年中国で、甕棺発見のニュースがありました。
”河北省黄■市(■は馬へんに華)の郛堤城遺跡付近で、
今年5月に初めて甕棺が埋葬された甕棺墓が見つかった。数カ月にわたる発掘調査を経て、
現在まで113の甕棺墓が見つかっている。
考古学者によると、同遺跡から出土した甕棺は戦国時代から漢代までの棺で、
吉林大学辺境考古研究センターによってそのうち6基は一次葬として埋葬された
大人の甕棺墓で、残りの107基は子供の墓と鑑定されている。
新華社が伝えた。”(Record China、2016年10月12日、より) 弥生時代と同時代であり、しかも大人用にも使用されていた点も、同じです。
このことから、古代中国甕棺埋葬の風習は途切れることなく伝えられ、
少なくとも戦国時代(紀元前403年−同221年)から漢代(前漢として紀元前206年−8年)
までは、風習として残っていたと考えられます。
そうした戦乱を逃れて、多くの人々が日本列島にやってきたことは、
繰り返しお話ししてきましたが、彼らが甕棺葬(特に成人の)の風習ももってきたのでしょう。 河北省黄驊市は、黄河河口北側にありますが、
そこから南の長江下流域にかけてにも、甕棺葬の風習が残っていた可能性もあります。
朝鮮半島には、南部を除いて甕棺は発掘されてませんから、
朝鮮半島経由陸路ではなく、海路で伝わった可能性が高いと考えられます。
https://blog-imgs-116.エフシー2.com/a/o/m/aomatsu123/201710080928516c0.jpg
<古代中国甕棺出土地><NGのため画像貼れず>
なお、甕棺墓の風習は、東南アジアへも伝播したと考えられてますので、
そのルートも図に記載しました。 >>203
考古学初心者?
それとも、いつもの中卒バカチンコロ?
土器棺墓は縄文時代から世界各地で見られるんだぞ。
その半分以上は独自出現、独自登場だ。 >>204
縄文晩期以降にならないと日本には甕棺墓は存在しない。
なぜなら、縄文晩期まで甕という器種が日本にないからだ。
それまでは深鉢の土器棺墓だ。
4000年以上前のエジプトやメソポタミアにだって土器棺墓は存在している。 >>205
縄文時代に甕棺墓はありません!
縄文晩期にならないと甕という器種自体がないから、それまでは深鉢の土器棺墓だ。
弥生前期中頃に半島から壺棺墓が伝わり、当初は乳児用の埋葬用に使用していた。
成人用の甕棺墓になるのは100年くらい後の弥生前期末からだ。 >>206-210
だったら最初から半島にも日本にも甕棺墓のまま伝わらないと話がおかしいね。
半島も日本も、最初は壺棺墓で子ども用なんだよ。
だから弥生の壺棺墓は朝鮮南部からパクった文化だと分かる訳。
ただ半島と違うのは、弥生はその子ども用の壺棺墓を大人用の甕棺墓にまで
進化発展させた点。
それ以前に甕棺墓は土器ですよ。
中国から甕棺墓が伝わっといて、何で三足や耳の付いた中国土器の炊飯器や飲食器や、
中国では7000年前から存在していた釜や竈や蒸し炊飯器の甑がないのか?
中卒バカチンコロのおまえの低すぎる知能指数に、、、
ちょーウケるwwww
. 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 九州北部と半島は確かに交流はあったが
それを引き合いに日本すべてに半島の風習が
伝わったというのは詭弁 どこに日本すべてに半島の風習が伝わったと書いてあるの?
幻覚症状があるようだな 「 土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、瘴気のたちこめた風土。
蛙と亀は穴を共にし、人と鳥は群れを同じくしておる。
ざんばら髪の君には長者の相なく、入墨(いれずみ)の民は貧相な体つき呉人の亡者、
建康(今の南京)に住まいし、ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。
おのれを阿イ農(人ベンに農オイラ)と言ふた言めには阿(オ、オ、返事の相槌)の連発。
(注、これらはそのまま今の日本語)
菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が代用飯、茶が飲物代わり。
じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)をクチャクチャ。
手には豆寇(クサ冠に豆寇・ずく)をつかみ、口にはビンロウを噛む。
中州のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根(レンコン)にかじりつき、
鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。 」
* 5世紀中国の東魏の楊衒之が撰した「洛陽伽藍記」より *
華北出身の楊元慎が、江南出身の高官張景仁を罵り、批判した言葉です、
まるで現在の日本人が、批判されてる様な気に成りませんか、どれも美味う!!! 九州の甕棺からは前漢鏡がたくさん出て来る、
楽浪郡と行き来してたんだろな。 >>218
それがどうかしたの?
中央の九州北部が弥生中期のとき、近畿は弥生前期、中部は弥生開始期、
関東は縄文晩期、東北南部は縄文後期中頃、東北北部は縄文後期初め
考古学的タイムラグな。
まさか、これくらいの考古知識ない訳ないよね?
青森は九州北部と海路で交流してたんだから、中央の土器や甕棺墓を
パクるのは当たり前の話。 >>219
素晴らしい 灰陶 だなw
ただ、弥生の甕棺墓の方が登場が早いし、伝わったときは壺棺墓だから
何の関係もないね。
ところで、おまえ、1行目が皮肉たっぷりなの分かる?(嘲笑 >>222
考古学初心者?
弥生土器と朝鮮無文土器はプロが言うにはあんまり似ていないとの事。
頻繁に交流があったようだが、双方、人の定着まではほとんどなかった。
こちらに人の定着を示す在地産の朝鮮無文土器がメインの朝鮮無文土器遺構、
あちらに在地産の弥生土器がメインの弥生土器遺構ってヤツがないんだわ。
弥生土器は朝鮮無文土器から器種や製作技術をパクらせてもらっているけどね。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 「.土地は湿地多く、虫けらどもの群がり生じ、瘴気のたちこめた風土。
蛙と亀は穴を共にし、人と鳥は群れを同じくしておる。
ざんばら髪の君には長者の相なく、入墨(いれずみ)の民は貧相な体つき呉人の亡者、
建康(今の南京)に住まいし、ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。
おのれを阿イ農(人ベンに農オイラ)と言ふた言めには阿(オ、オ、返事の相槌)の連発。
(注、これらはそのまま今の日本語)
菰(まこも)の芽と稗(ひえ)が代用飯、茶が飲物代わり。
じゅんさいの羹(あつもの)をガブガブ、蟹の黄(こ)をクチャクチャ。
手には豆寇(クサ冠に豆寇・ずく)をつかみ、口にはビンロウを噛む。
中州のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実、蓮の根(レンコン)にかじりつき、
鶏頭(みずふき)フキを採り歩いて、蛙やアサリの吸い物のご馳走。 」
* 5世紀中国の東魏の楊衒之が撰した「洛陽伽藍記」より *
華北出身の楊元慎が、江南出身の高官張景仁を罵り、批判した言葉です、
まるで現在の日本人が、批判されてる様な気に成りませんか、どれも美味う!!! 日本では縄文時代以降、甕棺墓が見られる。縄文後期・晩期の遺跡からは、
日本各地(東北〜近畿〜九州)で甕棺墓の風習があったことが判っている。
その後、弥生時代前期〜中期の北部九州において最盛期を迎える。
アジア各地の甕棺墓
アジアでは、まず朝鮮半島南部と中国に現れている。ほとんどが乳幼児のものであり、
成人のものは韓国の西南部と中国東部沿岸地域のみに分布する。
また、東南アジアでも紀元前数世紀の頃から、
ジャワ島やベトナム中部(サーフィン文化)を中心に甕棺墓が行われていた。
これについては、海洋民の習俗だったとする見方がある。
さらに南インドにおいても、紀元前数世紀頃の甕棺墓の跡が発見されている。 「甕棺墓」は、縄文時代からありましたが、縄文時代は、主として乳幼児の埋葬に使用。
弥生時代に入り、特に九州北部を中心にして、成人の埋葬用に広く採用されました。
甕のなかに、うずくまるように埋葬されており(屈葬)、
まるで胎児が、 母親の胎内にいるときのような形ですね。
地上に大石を載せた「支石墓」であったり、墳丘を盛り土する「墳丘墓」もあります。
それらは身分の高い人の墓であったと考えられます。 南の長江中流域で屈家嶺(くつかれい)文化が栄えました
(紀元前2600年前−同2000年前頃)。
その湖北省京山県屈家嶺遺跡は、城壁都市であり、甕棺墓も発見されました。
成人が埋葬されていたかは、不明です。
以上みてきたとおり、古代中国においても、甕棺墓は存在してました。
ただし、成人が埋葬されたかは不明で、子供・乳幼児用ということなら、
日本の縄文時代と同じです。 そんななか、昨年中国で、113基の甕棺発見のニュースがありました。
”河北省黄カ市(カは馬へんに華)の郛堤城遺跡付近で、
初めて甕棺が埋葬された甕棺墓が見つかった。
弥生時代と同時代であり、しかも大人用にも使用されていた点も、同じです。
このことから、古代中国甕棺埋葬の風習は途切れることなく伝えられ、
少なくとも戦国時代(紀元前403年−同221年)から
漢代(前漢として紀元前206年−8年) までは、風習として残っていたと考えられます。
そうした戦乱を逃れて、多くの人々が日本列島にやってきたことは、
繰り返しお話ししてきましたが、彼らが甕棺葬(特に成人の)の風習ももってきたのでしょう。 河北省黄カ市は、黄河河口北側にありますが、
そこから南の長江、中下流域にかけてにも、甕棺葬の風習が残っていた可能性もあります。
朝鮮半島には、南部を除いて甕棺は発掘されてませんから、
半島北部経由、陸路ではなく、海路で伝わった可能性が高いと考えられます。
https://blog-imgs-116.エフc-2.com/a/o/m/aomatsu123/201710080928516c0.jpg
<古代中国甕棺出土地> >>228
だから、それがどうかしたのかっての。
中央の九州北部が弥生中期のとき、近畿は弥生前期、中部は弥生開始期、
関東は縄文晩期、東北南部は縄文後期中頃、東北北部は縄文後期初め
考古学的タイムラグな。
まさか、これくらいの考古知識ない訳ないよね?
青森は九州北部と海路で交流してたんだから、中央の土器や甕棺墓を
パクるのは当たり前の話。 >>229
もう、あまりにも素晴らしすぎる 灰陶 だなw
さすが古代のハイテク地域だw
ただ、弥生の甕棺墓の方が登場が早いし、伝わったときは壺棺墓だから
何の関係もないね。
ところで、1行目の皮肉、おまえには分かったか?(嘲笑 >>230
土器である甕棺墓を伝えて、鬲も甑も竈も竈も灰陶も原始磁器も伝えねえのかよパッパラパー
弥生の甕棺墓は最初は壺棺墓だったって言ってるだろ中卒!
そのとき壺棺墓文化があったのは朝鮮南部だけ。
弥生の甕棺墓は定説通り、朝鮮南部の壺棺墓をパクって独自の甕棺墓文化に発展させただけ。
中国なんて何の関係もない。 >>232
だから、朝鮮無文土器と弥生土器はあまり似てないし、あちらに弥生人が定着した事を
示す在地産の弥生土器がメインの弥生土器遺構がないし、逆にこちら側にもないって
言ってるだろ脳障害チンコロ。
それに朝鮮にも日本にも中国大陸から人が渡来定着した痕跡たる生活痕遺構はない!
朝鮮の楽浪郡遺跡でさえ遼東郡漢人の生活痕遺構であって、中国大陸人の生活痕遺構ではない。 沿海州の発掘がそこまで行われてないからな
本格的に力いれたらもっと色々でてくる >>233
土器棺墓は世界各地で見られる。
エジプトやメソポタミアにだって見られる。
大半は伝来ではなく、独自出現。
ただ、弥生の甕棺墓は最初は壺棺墓だから、朝鮮南部の壺棺墓をパクって
独自に進化発展させた事が分かる。 >>234
文化の中心である九州北部が縄文晩期にならないと日本に甕という器種はない。
それまでの土器棺墓はすべて深鉢棺墓。
青森の縄文後期の甕棺墓は文化の中心である九州北部がすでに弥生中期のもの。
考古学的タイムラグが発生しているだけ。 沿海州はロシア領だし、なんせ金ないから
発掘もとことんやらないだろうな >>235
縄文時代の日本に甕棺墓はありません。
甕自体が縄文晩期になるまでありません。
青森のものは考古学的タイムラグが発生しているだけで、実際は九州北部が
弥生中期頃のもの。
残念でした。 >>236
日本に伝わったのは甕棺墓じゃなくて壺棺墓です。
残念でした。
その甕に使われている灰陶や原始磁器の焼成技術も伝わっておりません。
重ね重ね残念でした。 >>237
伝わったのは壺棺墓ですんでね。
甕棺墓以前に釜や竈や鼎や鬲や灰陶や原始磁器くらい伝えろよ中卒パッパラパーチンコロ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 1、宝貝(子安貝キイロダカラ)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/5index.files/image001.jpg
沖縄産の宝貝 (鳥羽水族館 ショッピングサイトから転載)
1−1 夏王朝の時代的な背景
縄文後期は温暖期だったので、湖北省の稲作民が華北に北上した。
この時期の華北の遺跡から発掘された温帯ジャポニカの痕跡が、その事実を示している。
この時期の中国の著名な遺跡には、山西省の汾河流域の陶寺遺跡(BC2300〜BC2000:)、
夏王朝期の遺跡だった洛陽盆地の二里頭遺跡(BC1800〜1600年頃)がある。
縄文後期後半に温暖期が終了すると、華北から稲作民が南下し、
アワ栽培者の殷王朝(BC16世紀〜BC11世紀)が生まれ、その前期の鄭州時代
(二里岡遺跡)の遺跡と、後期の安陽時代(殷墟)の遺跡が発掘されている。
宝貝は初めは装飾品として用いられたが、<遽伯睘卣>の銘文に
青銅器の価値が宝貝の数量で示されていることから、
殷代から周初にかけて真正な商品貨幣となったとしている。
ただし、この後も装飾品としても用いられたことは否定していない。 「中国における古代青銅貨幣の生成と展開」(名古屋大学) 江村治樹
宝貝が財貨的な価値を持っていた事が、漢字から確認できる。近代の金、銀、貨幣と同じ。
財物やその扱いに関する漢字の殆ど総てに、宝貝の象形である「貝」が使われているからだ。
その様な漢字は、賄、財、貨、資、賑、貢、貸、賂、贈、賜、賞、貯、買、販、購、負、貰、質、
貿、費など沢山あり、一見宝貝と関係がなさそうな「貴」も、
宝貝を沢山持つ事の象形であるとされている。
宝貝は、早い新石器時代に墓葬の副葬品として出現し、
漢代以後も辺境地帯で使用されつづけている。
宝貝は日本では子安貝とも呼ばれ、中国では海貝、貨貝と称されている。
中国で出土する宝貝のほとんどは、キイロダカラとハナビラダカラとされており、
現在でも西太平洋、沖縄、日本列島太平洋岸からインド洋沿岸の浅い海に広く棲息する
一般的な宝貝である。
黄錫全氏によると、仰韶文化の姜寨遺跡の墓葬や青海仰韶文化の墓葬から出土しており、
河南偃師県の二里頭文化の墓葬にもかなりの数量副葬されている。
殷代になると、墓葬からの大量出土の例が見られる。
二里崗文化の鄭州白家庄墓からは460 余点、安陽殷墟5 号墓(婦好墓)から6,880 点、
山東益都県蘇埠屯大墓から3,790 点出土しているとされる。
また、殷墟の墓葬には普通に宝貝の副葬が見られる。
そして、西周時代になっても大量の宝貝の副葬は一般に見られ、
車馬具の装飾としてもかなりの出土例があり、
春秋戦国時代でも引き続き墓に副葬されている。 このように新石器時代以来、大量に使用された宝貝について、ほとんどの中国の研究者は、
一貫して貨幣として流通したとみなしている。
早い時期の中国貨幣研究を代表する鄭家相、王毓銓、彭信威氏等はみな宝貝を初期の
貨幣として疑っていない。
鄭家相氏は、宝貝を自然物貨幣とし、黄帝時の貨幣制度開始より周末に至るまで
普遍的に使用されたとし、王毓銓氏も宝貝は中国古代で貨幣として用いられたことは疑いなく、
秦始皇帝が中国を統一して貨幣制度を改革するまで長期にわたって使用されたとしている。
彭信威氏は、宝貝は初めは装飾品として用いられたが、<遽伯睘卣>の銘文に
青銅器の価値が宝貝の数量で示されていることから、
殷代から周初にかけて真正な商品貨幣となったとしている。
ただし、この後も装飾品としても用いられたことは否定していない。 汪慶正氏は、宝貝は新石器時代以来、一種の実物貨幣として用いられ、
西周時代には通用貨幣となったとしている。
しかし、西周中期以後金属称量貨幣の出現とともにすでに過去の財富の象徴となり、
しだいに装飾品としての地位に下落していったとする。
近年では、黄錫全氏が、宝貝が貨幣であったことを詳細に論証しようとしている。
黄氏によると、宝貝は、新石器時代、最初は外来の珍奇な装飾品にすぎなかったが、
しだいに使用価値を備えた物品から離脱し、一般的等価物(交換の媒介)の特殊商品、
すなわち実物貨幣(あるいは自然物貨幣)に転化したとする。
夏代(二里頭文化期)になっても宝貝は一種の貨幣であったことは疑問の余地はなく、
殷代には、甲骨文や金文資料から見て、宝貝はすでに価値尺度、流通手段、貯蔵手段、
支払い手段(賞賜)で、中国における古代青銅貨幣の生成と展開の機能を備えており、
主要な流通貨幣として真正な貨幣となったとしている。
ただし、まだこの時期には主として奴隷主貴族や商人の間で流通し、
一般貧民間での流通は多くはなかったとする。 しかし、西周時代になると、貧民墓からも出土するようになり、
さらに普遍的に使用されるようになったとしている。
とくに、西周時代の宝貝の購買力については金文の実例を多く挙げ、
宝貝が貨幣としての機能を備えていたことの証拠としている。
そして、宝貝は財富の象徴として用いられる場合もあるが、
秦の統一まで貨幣として使用され続けたとしている。 宝貝はインド洋や西南太平洋などの温暖なサンゴ礁に生息する貝で、
黒潮に洗われている沖縄や日本列島沿岸にも生息するが、
東シナ海や南シナ海の大陸沿岸には生息していない。
宝貝の生息には清澄な海が必要なので、河川から流れ出る水によって海が濁っている
大陸沿岸では、濁流により窒息し生息できないからだ。
宝貝を夏・殷・周王朝に持ち込んだのは、海洋勢力だった事は間違いなく、
その候補としては海洋縄文人と倭人以外に、越と東南アジアの海洋民族が挙げられる。
越も海洋交易民だったが、稲作民である粤を母体とした海洋交易民だったから、
倭人や、南シナ海沿岸の島嶼やマレー半島を拠点としていたオーストロネシア語族民の様な、
本格的な海洋民族ではなかった。
従って沖縄取り巻く黒潮を横断し、沖縄から宝貝を組織的に持ち込む能力があったとは
考えにくい。黒潮は台湾の北から東シナ海に入り、沖縄と大陸の間を流れ、
奄美大島と屋久島の間のトカラ海峡から太平洋に流れ出しているからだ。
黒潮の平均流速は5q/hで、幅は100qもあるから、揚子江や黄河を遡上できるとか、
東シナ海沿岸を航行できるという程度の航海術では、黒潮を横切る事はできない。 論衡は、「成王の時,越常は雉を献し,倭人は暢を貢す。」と記しているから、
越常(越裳)が東南アジアから持ち込んだのか、倭人が沖縄から持ち込んだのか
議論する事になるが、越常には 献 を使って不定期性を示唆し、
倭人には 貢 を使って臣従的な関係や朝貢の定期性を想起させるから、
この文章は倭人が有力候補である事を示唆している。漢書に「歳時を以て」と記された様に、
倭人は毎年王朝に朝貢したのではなかろうか。
越は漢字文化を先導しなかったから、現代日本人は呉音で漢字を読んでいる。
この事は、越は中国の内陸での交易に関心がなく、
南シナ海沿岸の海洋民族との交易関係が深かったと想定され、
越の実質的な交易相手はインド洋沿岸の諸都市だったと想定される。
更に言えば、越はこの時代の絹布の最大生産者だった可能性が高い。
その事から類推すると、
越が宝貝の貨幣化に重要な翌割を果たしたとは考えにくい。 宝貝貨の終焉期だった春秋戦国時代に、宝貝を模した青銅貨である楚貝貨が作られ、
中国各地から多量に発掘されているが、越の活動が活発だったと想定される
東シナ海沿岸部や南シナ海北岸から発掘されず、
揚子江以北の内陸部から多数発掘されている事も、越は宝貝の貨幣化に
関与していなかった可能性を高める。
従って宝貝貨の普及に関与していた海洋民族は、
海洋縄文人とその子孫の倭人だけだった可能性が高い。
以上を纏めると、宝貝の貨幣化に重要な役割を担ったのは、
揚子江や黄河の奥深くまで遡上して交易活動を行っていた縄文人と、
温帯ジャポニカを栽培していた荊だった可能性が高まり、
両者が共同で漢字を創作した可能性も高まる。
それが竹書紀年の夏代の事績に、「九夷来御」と記された九夷であり、
周代になるとその子孫だった倭人に代わったと想定される。
これは中国の史書だけでなく、古事記の記述からも傍証される。
その詳細は(15)古事記・日本書紀が書かれた背景/古事記参照。 東南アジアの海洋民族について検証すると、倭人以外の本格的な海洋民族は、
南シナ海沿岸の島嶼にいた海洋民族になり、それに関する一番古い史書は
漢書地理誌/粤の条になる。そこに「海南島の住民は大陸の粤とは異なる習俗」で、
「海南島の住民の習俗は、東南アジアの島嶼の海洋民族と同じだ」と記され、
東南アジアの島嶼の海洋民族について詳しく記されているが、
南シナ海沿岸の海洋民族には「倭」の様な古代的な民族名や政権の名前はなく、
意味不明な読み音表記の国名が記され、漢民族との通行が始まったばかりである事を
示しているから、殷・周王朝に宝貝を供給した民族ではない事は明らかだ。
その主要国である黄支国では、通訳がいなければ話ができなかったのだから益々、
長い間宝貝を供給してきた民族とは考えられない。 以上の結論として、中国周辺の海洋民族として、倭、越、オーストロネシア語族民がいたが、
宝貝の供給者としては、越、オーストロネシア語族民の可能性は極めて低く、
縄文人と倭人だった可能性が極めて高い事になる。即ちそれが九夷だった事になり、
「九夷来御」という表現は、その様な関東縄文人を迎えた姿勢として相応しい。
時代は降るが、沖縄の宝貝の質や供給能力に関する文献もある。
明王朝が征服した雲南では、14世紀なっても宝貝が貨幣として使われていたので、
明王朝はそれに対応するために沖縄から多量の宝貝を購入し、その記録が残っている。
「歴代宝案」によると、1434年の朝貢に際して琉球の使節は、〈海巴〉(タカラガイ)の
規定の量550万個と、追加分として38万8465個を、福建に持ち込んでいる。
明朝は、この朝貢貿易によって入手したタカラガイを雲南に持ち込み、
雲南に封じた皇族や、雲南に赴任させた官僚に対し、給料、俸禄として渡したとしてる。 論語の「九夷」
孔子の論語にも倭ではないかともいわれる「九夷」について記載がある。
[白文]14.子欲居九夷、或曰、陋如之何、子曰、君子居之、何陋之有。
[書き下し文]子、九夷(きゅうい)に居らんことを欲す。或るひと曰く、陋しき(いやしき)こと
これを如何せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋しきことやあらん。
[口語訳]先生が東方の未開蛮族の国である「九夷」に移住なさろうとされた。
ある人が言われた。『文明のない賤しいところであるがどうであろうか?』。先生はおっしゃった。
『君子がそこに居住すれば文明や学問の教化が自然に進みますから、
どうして文明のないことが問題になるでしょうか?いや、ならないでしょう。』
[解説]中国大陸における徳治主義の実現に絶望した晩年の孔子は、
東方海上にあるという九夷の国を目指して移住しようとしたが、最終的に断念した。
九夷の国は未開の蛮族が住むと考えられていた9つの国のことで、
『後漢書』などにその記載が認められる。
656年(顕慶元年)に完成した『隋書』東夷伝には「九夷」「倭奴国」という記載がある。 明王朝の版図も漢と同様にヴェトナム北部に達していたから、
拡大された漢民族の版図であっても、沖縄産の宝貝が最も入手可能な宝貝だったことになる。
明より領域が狭かった夏・殷・周王朝に、宝貝を恒常的に供給する事ができたのは、
九州、沖縄しかなかった事を示している。
沖縄産の宝貝には十分な供給力があり、貨幣として使用するのに十分な品質があったから、
夏王朝の遺跡と考えられる二里頭や、殷や周の都で発掘された宝貝は、
海洋縄文人が運んだ、沖縄産だったと考えて間違いないだろう。
現代に例えると、日銀の通貨供給と同じ作業といえる。 宝貝の発掘状況を検証するため、
「中国文明 農業と礼制の考古学」岡村秀典著(2008年)から、以下にその要約を示す。
殷代に先行する二里頭遺跡の、宮殿跡(BC17世紀〜BC15世紀)のBC17世紀頃の
有力者の墓から、90点程の宝貝が発掘され、末期であるBC15世紀頃の墓2基からも、
同様に宝貝が発掘された。二里頭遺跡は大阪とほぼ同じ緯度の洛陽市にあり、
当時は現在より温暖湿潤で、徐々に乾燥化と寒冷化が進んでいる状況だった。
二里頭文化期の遺跡の土壌から、アワ、キビ、大豆、小麦、稲、大麦の
種子が見つかっている。 稲は陸稲か水稲か分からないが、ジャポニカ米らしい。
二里頭遺跡は、殷に先行した夏王朝の都とする説があるが、
遺跡から甲骨文字が発掘されないので、断定はできない。
江南で栄え、洪水で消滅した良渚文化(BC3500年〜BC2200年)の、
後継者の都市とする説もある。 良渚文化は中国の玉文化の発祥地と看做され、史記や漢書に、
春秋時代の越王は夏王朝の王族の子孫だと書かれているからだ。
二里頭遺跡から華南系の土器が発掘されているから、稲作民の都市だった可能性が高い。
越人と呼ばれる稲作民族が、周〜春秋時代(BC11世紀〜BC5世紀)に、
呉や越と呼ばれた国を作ったと史記に記されてもいる。当時の江南は、青銅器の生産地だった。
二里頭遺跡時代に相当するBC17世紀の、内蒙古の南東端にある赤峰市の、
大甸子(だいでんし)遺跡の43基の墓から、総計659点の宝貝の他に、
宝貝を模倣して加工した貝製品が大量に発掘された。
この遺跡はこの時代の銅の産出地に近く、住居址から二里頭遺跡のものと同系の、
銅器が発掘されている。
二里頭遺跡の支配階級が銅を得るために、
遺跡の有力者に精巧な銅器や宝貝を贈呈したと想定される。
この銅は中国各地に分配され、遠く四川省三星堆まで送られた疑いもある。
三星堆の遺跡は、良渚文化の後継者の文化と目される特徴を有している。 九州、沖縄で無尽蔵に宝貝を採取できた海洋縄文人が、
中央銀行のように宝貝の貨幣化に主体的に関わらなければ、
宝貝が商品貨幣として機能する事は難しかったと考えられる。
貨幣としての価値が生まれた後に、
その利益に目が眩んで多量の宝貝を持ち込んだ縄文人がいれば、
貨幣としての価値を失った事は自明だからだ。
その意志さえあれば一儲けを企み、その様にしてしまう事も可能だった。
その様な事態に至らずに、宝貝が貨幣として千年以上流通し続けたのは、
縄文人や倭人がその様な事をしなかったからであり、その理由は、
縄文人が宝貝を貨幣化した実効主体の、基幹構成員だったからかも知れない。 殷王朝の末期から西周王朝の末期にかけて、王や王族が家臣に
宝貝を下賜した記録が残されています。
西周第5代の天子穆公は、治世13年(紀元前989年)6月6日、
西域の赤烏の王に、墨車4輌、黄金40鎰(800両)、貝帯50、
朱薬300嚢を下賜したとの言い伝えがあります。
金沙江をこえるとひろいカラジャン地方[今の雲南]で子安貝
80個がちょうどヴェニス銀貨1グロートすなわち24ピッコリに相当する。 ・・・ 現代教養文庫版
プリウス河を越えるとカラジャンにはいるが、
このコヤスガイ80個が銀1サジオ(4.7g)、すなわちヴェニスの2グロッシに
換算され、純銀8サッジが純金1サジオに相当している。 ・・・ 東洋文庫版
1グロート(グロッシュ)は純銀2.5g前後の銀貨です。
また、ラオスやベンガル地方でも子安貝を使用していると書いています。
1434年、琉球王朝は明国に550万個の「海巴」を献上したと
『歴代寶案』にあります。この海巴は宝貝のことだと推定されています。
柳田国男さんは、この550万個はこの年のことだけでなく、
このころ毎年のように献上されていたのではないか、
とするとその数は莫大なものだと述べられています。
また、明の朱国禎の『湧幢小品』によると、西南夷において、
貝貨は1索80個で使用されていると書いています。
そして、16〜19世紀アフリカ(ダホメ)では、
金1オンス(28g)=宝貝3万2千個という安定した交換レートがあり、
最低生活賃金は男で120個、女で80個だったそうです。
宝貝の使用は1901年まで続きました。 1、宝貝(子安貝.キイロダカラ)
http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/5index.files/image001.jpg
沖縄産の宝貝 (鳥羽水族館 ショッピングサイトから転載)
1−1 夏王朝の時代的な背景
縄文後期は温暖期だったので、湖北省の稲作民が華北に北上した。
この時期の華北の遺跡から発掘された温帯ジャポニカの痕跡が、その事実を示している。
この時期の中国の著名な遺跡には、山西省の汾河流域の陶寺遺跡(BC2300〜BC2000:)、
夏王朝期の遺跡だった洛陽盆地の二里頭遺跡(BC1800〜1600年頃)がある。
縄文後期後半に温暖期が終了すると、華北から稲作民が南下し、
アワ栽培者の殷王朝(BC16世紀〜BC11世紀)が生まれ、その前期の鄭州時代
(二里岡遺跡)の遺跡と、後期の安陽時代(殷墟)の遺跡が発掘されている。
宝貝は初めは装飾品として用いられたが、<遽伯睘卣>の銘文に
青銅器の価値が宝貝の数量で示されていることから、
殷代から周初にかけて真正な商品貨幣となったとしている。
ただし、この後も装飾品としても用いられたことは否定していない。 >>263
なら日本から中国文物が出まくりのはずだろが中卒
中国の宝貝の供給先は福建省以南の沿岸や台湾からに決まっとるだろ馬鹿 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 2、中国と日本の玉文化
宝貝の章で示した様に、縄文人は日本列島でヒスイなどを定型に加工し、
他地域に多量に拡散していた。それが最も多く発掘されているのは、
八ヶ岳山麓と那珂川流域であり、共に鏃の産地だったと想定される地域だから、
日本列島では縄文中期から、ヒスイや鏃を使った貨幣経済が発達していたと想定される。
従ってこの章では、日本で発達した玉の加工技術について検証する。 2−1 概況
華南のミトコンドリア遺伝子の日本列島流入は、縄文早期には始まっていたから、
大陸人と海洋縄文人の密接な関係は、宝貝交易によって始まったのではなく、
更に古い時代に始まった事を示している。
稲作民女性の流入は縄文前期に始まり、
華南からmt-M7bを伴ったmt-Bが渡来し、
日本列島に熱帯ジャポニカの栽培をもたらしたと考えられる。
大陸からその様な技能を持った女性に渡来して貰うためには、
日本列島にも魅力的な文化が必要だった筈であり、
それは漁労技術と石材加工技術だったと考えられる。
その石材加工技術は、当初は磨製石斧だったと考えられるが、
ヒスイの加工技術が完成すると、稲作民に玉器の製作技術として伝搬し、
それが夏王朝期に玉器を用いた儀礼文化として華北に展開し、
中華的な玉器文化になったと推測される。 中国では現在も玉器の生産が盛んで、
原石の四大産地は遼東の「岫玉(しゅうぎょく)(硬度4.8-5.5)」、
新疆の「和田玉(ほーたんぎょく)(硬度5.5-6.0)」、
陝西の「蘭田玉(硬度4前後)」、河南省南陽市獨山の「南陽玉(硬度6.0-6.5)」で、
これらは軟玉(硬度6.5未満)だから、硬玉であるヒスイ(硬度6.5-7.5)より
柔らかく宝石とは言えないが、
硬玉が産出しない中国では長い間翡翠と呼ばれてきた。
このHPでは軟玉を翡翠、硬玉をヒスイと記すが、和田玉は漢代の発見なので、
縄文時代の議論には関係がない。
文化論を展開する前に、鉱物としてのヒスイと翡翠について説明する。 ヒスイも翡翠も殆どが蛇紋岩系鉱物で、蛇紋岩系鉱物には色々な種類がある。
軟らかい順に、滑石(硬度1)、蛇紋岩(硬度3)、透閃石岩、緑閃石岩(硬度5〜6)、
ヒスイ(硬度6.5〜7.5)があり、ヒスイはヒスイ輝石を主成分とする蛇紋岩系鉱物とも言える。
蛇紋岩は繊維質の鉱物を主成分として粘性が高く、研いだり削ったりする事が容易で
加工後も割れ難いから、複雑な器形を造形できる。又打撃を受けても割れにくいから、
磨製石斧の素材として優れ、特に透閃石岩や緑閃石岩の石斧は青銅より硬く切れ味が良い。
蛇紋岩の繊維成分だけで出来ている鉱物が石綿だから、粘性が高い理由が分かるだろう。
日本には各地に蛇紋岩帯があり、そこで透閃石岩や緑閃石岩も採取できるが、
ヒスイは新潟県と富山県の県境を中心とする地域で産出し、姫川流域、糸魚川市の海岸、
朝日町の海岸などが著名な採取地として知られている。 ヒスイではない翡翠は、透閃石岩や緑閃石岩と同系の岩石で、
日本ではこれらの岩石は磨製石斧の素材として使用された。
現在知られている滑石には二種あり、蛇紋岩が変成を受けてできた滑石の他に、
石灰岩が変成を受けたものもある。
日本列島では各地に蛇紋岩帯が存在するが、中国大陸にはほとんど存在しない。
その理由は、蛇紋岩の成因が地球規模のプレート移動に起因するからだ。
太平洋プレートやフィリッピンプレートが日本列島に向かって移動し、
プレートの岩盤が岩石塊の下に潜り込む際、巻き込んだ海水と共に
地中の圧力と熱で変成されると、水酸基を祖成分とする蛇紋岩が生成される。
この蛇紋岩がプレートの移動や圧力によって地表に押し出されると、露頭を形成する。
その様な水酸基を含む蛇紋岩は、繊維状の鉱物になり、
粘性があるから打撃を受けても割れない岩石になる。 この粘性は磨製石斧に最も適し、優れた磨製石斧の素材として
旧石器時代から原日本人や縄文人が、海洋船を製作する道具として使ったと推測される。
縄文時代の東アジアの本格的な海洋民族が、蛇紋岩が豊富な火山性の島嶼として、
日本列島、台湾、フィリッピン、インドネシアを拠点としたのも、その事に起因すると考えられる。
青銅は硬度3だが、研ぎ出した透閃石岩や緑閃石岩の刃部の硬度は5〜6だから、
石斧を比較すれば青銅器時代になっても、斧の性能は逆転しなかった。
鉄器の出現によって石斧が過去の物になり、大陸でも海洋船が作られる様になると、
それらの島の海洋民族は新たな淘汰の時代を迎え、勢力分布は激変したが、
石器時代には火山列島のみが、本格的な海洋民族の根拠地になり得る地域だった。 その証拠として、オーストロネシア語族の言語分析が役に立つ。
かれらは好んで平和な孤島に拡散したから、鉄器時代以降に孤立し、
各島嶼にその言語を遺したからだ。金属器時代になると、
大陸では武力闘争を伴った民族移動が激しくなり、民族の言語は混ざり合ったが、
海洋の孤島に遺された人々の言語はその影響を受けなかったから、
彼らの言語から彼らが孤立した時期まで推測できる。
その結果と考古遺物や遺伝子分布を参照すると、
縄文草創期に台湾の海洋民族だったオーストロネシア語族の海洋民族は、
縄文前期以降にフィリッピンやインドネシアに拡散し、
その後南太平洋の島々を経て南米大陸に達し、
西はインド洋に拡散してマダガスカル島に達していた事が分かる。 ローマの共和政期のギリシャ人の航海記に、海洋民族の交易路がマダガスカルに
達していたとする記述があるが、ギリシャの商船はマダガスカル島に至らず、
東はインド西部までしか達していなかったらしいから、
東南アジアの海洋民族の優位性は、鉄器時代になっても容易に崩れなかった事も分かる。
但しこれは西欧人にとって都合が悪い事実だから、
歴史学者は言語学者のこの成果を冷淡に扱っている。
プレート境界がない大陸では、蛇紋岩系の鉱物は極めて稀なので、
中国では上記の四つの地域が、翡翠の産地として知られているが、
産出量は極めて少なく、それ故に翡翠と呼ばれて宝石扱いされている。 文人は堅果類の生産性を高めるために、森を開いたり古い里山を更新したりしたから、
蛇紋岩を樹木伐採に最適な素材として重宝した。
しかしその目的だけでは、北陸の海岸に多数の磨製石斧の工房があった事は説明できないが、
遼寧から渡って来たミトコンドリア遺伝子mt-D女性が、
焼畑農耕によってアワを栽培した痕跡だったと想定すれば、
磨製石斧が多用された理由が明らかになる。
堅果類の樹木が群生する里山を作るのであれば、
1年に1アール程度の森林を伐採すれば十分だが、焼畑農耕を行う為には、
3年に一回森林を切り拓いて畠を形成し直す必要があり、
十分な広さの農地を確保するためには、
新規の焼畑を毎年10アール以上形成する必要があっただろう。 その様な農民が北陸に多数集積したから、磨製石斧の工房も集積したと考えなければ、
数の釣り合いが取れない程に多数の工房が北陸にはあった。
その磨製石斧を使った焼畑農耕者は、富山県や新潟県だけに集中していたのではなく、
温暖な西日本に入植したが、蛇紋岩系岩石が容易に採取できる地域として、
新潟・富山に磨製石斧の工房が営まれ、交易品として生産したと推測される。
間接的な証拠ではあるが、その時期は縄文早期だったと推測され、
稲作民の女性より早い時期だったと考えられ、
先に説明した様にその女性達は関東には渡来せず、
日本海沿岸に拡散したと考えられる。 全く考古立証できない、ただの我田引水チンコロの妄想創作 全く考古立証できない、ただの我田引水チンコロの妄想創作 全く考古立証できない、ただの我田引水チンコロの妄想創作 全く考古立証できない、ただの我田引水チンコロの妄想創作 全く考古立証できない、ただの我田引水チンコロの妄想創作 全く考古立証できない、ただの我田引水チンコロの妄想創作 全く考古立証できない、ただの我田引水チンコロの妄想創作 全く考古立証できない、ただの我田引水チンコロの妄想創作 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています