日本の古代史 Part39
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前スレ
日本の古代史 Part38
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1529143679/ (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>330
今の半島の米は日本植民地時代に導入されたジャポニカ米 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 タタール人が東進して最後に来たのが日本
カザフスタン→モンゴル→満州→沿海州
→日本および半島南東部 >>343
で、その考古立証は?
で、それの衣食住に関する生活痕遺構からの考古立証は?
できなきゃ考古板住民失格 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >344
たたら製鉄のたたらとはタタールを意味する >>346
メリケン粉のメリケンとはアメリカンを意味する
で、衣食住に関する生活痕遺構からの考古立証は?
できなきゃ考古板住民失格 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 縄文狼というコテハンを、縄文娘と脳内変換してしまうクソハロヲタw
縄文時代に東北でイノシシを食べられていたかという事実を
弥生時代のほうが食ってたとか意味不明なことを言い出すキチ/ガイ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 縄文狼というコテハンを、縄文娘と脳内変換してしまうクソハロヲタw
縄文時代に東北でイノシシを食べられていたかという事実を
弥生時代のほうが食ってたとか意味不明なことを言い出すキチ/ガイ 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 カザフスタン→モンゴル→沿海州→日本海側
その後半島百済が日本を乗っ取った 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 >>359
でそれでどうやって男系のY遺伝子が縄文になるんだってば
DとC1で3割超える方法は? 遺伝子で見ると学術研究や知見がだいぶ左に偏ってるのが分かるけど大丈夫なの? 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 最初に渡来してきた人種が沖縄に流れたんだろ
第一段階(狩猟採集民)(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)
第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)
第三段階前期(農耕民)(約3000年前-1700年前)
第三段階後期(約1700年前-現在)
仮に東アジアの六集団(本土日本人、アイヌ人、沖縄人、韓国人、北方中国人[注 19]、南方中国人[注 20])がすべて三つの集団の混血からなると仮定してゲノムを分析すると、
第一段階の集団の遺伝子はアイヌの一部が100%を受け継いでおり、沖縄人は20%弱、本土日本人もそれより低い確率で受け継いでいるが、その他の三集団ではほとんど見られない。
第二段階の集団の遺伝子は、沖縄人が80%以上、本土日本人が60%以上、韓国人は30%前後、北方中国人が10%前後受け継いでいるが、南方中国人はほとんど持っていない。
第三段階の集団の遺伝子は南方中国人のほぼ100%を占め、北方中国人の90%前後、韓国人の70%前後もこの系統である。本土日本人においては第一段階の集団よりも多いが、第二段階の集団よりは少ない。 >>364
で、中国大陸から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、中国大陸から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 縄文狼というコテハンを、縄文娘と脳内変換してしまうクソハロヲタw
縄文時代に東北でイノシシを食べられていたかという事実を
弥生時代のほうが食ってたとか意味不明なことを言い出すキチ/ガイ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 百済は北京付近で誕生し、その後は彷徨う国と
なって半島へ移動し、最終的に奈良に落ち着いた。
仏教、稲作、冶金は百済が持ち込んだもの >>369
そろそろオカルト板住民になった方がイイぞ 日本書紀が戦勝国百済の勝利宣言書である以上
本当の歴史を知ることは不可能なのです 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 縄文狼というコテハンを、縄文娘と脳内変換してしまうクソハロヲタw
縄文時代に東北でイノシシを食べられていたかという事実を
弥生時代のほうが食ってたとか意味不明なことを言い出すキチ/ガイ 中国から来た来た詐欺のインドシナ華南半ブタ半ニグロ顔オヤジの事か? おれは絶対シベリア・ヤクート人が稲作の技術伝えたと思う
ヤクート人が米作りにいい場所さがしてたら、九州まで来てしまったとさ。 >>375
今調べたが、ヤクート人って米食べてるからね
日本人とヤクート人ってそっくりだしな
日本にはトナカイはいないけど、田舎人は鹿を
食べるから、よく似てる ロシア共和国では、極東地域のウラジオストック近郊のハンカ湖畔と黒海東方に位置するコ−カサス地方のグラスノダ−スとロフトスで稲作が行われている。
日本の稲作はウラジオストクから伝わったと
考えるほうが自然ですね。半島由来ではない
ことがわかり安心しました。日本人の大部分
は北方系ツングースで間違いないです。 稲作はウラジオストク→東北、山陰、北陸
こう考えるほうが自然
半島にはもともと米を食べる習慣はないから 黒龍江省 慶安県でも米は栽培されている。
しかも現在の日本の品種ではない 弥生土器の登場は稲作開始より少なくとも50年以上は早いから、
渡来時に稲作なんか伝えているはずがないし、沿海州以北に3000年以上前の
稲作遺構がないのにどうやって渡来時に稲作を伝えるんだよ中卒
稲作は日本にやって来てから50年以上経ったあとの渡来人の子孫たちの
時代になってから朝鮮南部からパクってきただけの話 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 縄文狼というコテハンを、縄文娘と脳内変換してしまうクソハロヲタw
縄文時代に東北でイノシシを食べられていたかという事実を
弥生時代のほうが食ってたとか意味不明なことを言い出すキチ/ガイ ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 下関市の綾羅木遺跡のある丘は、海岸を望み珪砂が豊富にあります。
そこで昭和44年採砂業者がブルドーザを入れ採砂しようとして遺跡を壊し始めます。
これに対抗し、関係者が遺跡の保存について努力し、
県や市、業者との間で大変なやりとりがあった場所として有名です。
土井ヶ浜遺跡の約20km南側にあります。
弥生時代の前期後半から古墳時代にかけての総合的な遺跡で、
5基の古墳と2つの石棺墓に、一つの墳丘墓さらに竪穴式住居があり
今は史跡歴史公園<古墳の森>となっています。
ここから昭和41年高さ7cmほどで、前面4孔後面2孔(この音階孔が重要)
の陶(土ヘンに員とうけん)と呼ばれる弥生土笛が発見されました。
土笛は音を出すための指孔がある土で作られた中空の笛です。
こぶし大から卵の大きさなど様々ですが、
上部にある穴をビール瓶の穴を吹く要領で音を出します。 (1)土笛の歴史
中国長江の河姆渡(かぼと)遺跡から約6千年前の(土員けん)と呼ばれる土笛が発見され、
これが最も古い土笛と言われています。 その後各種の楽器が作られ、
殷から周の時代に五音音階が確立しました。
この時代の五音は、宮(ド)、商(レ)、角(ミ)、徴(ソ)、羽(ラ)です。
漢代にそれまでの音楽理論を集大成した『楽記』には「宮を君となし、商を臣となし、
角を民となし、徴を事となし、羽を物となす」とあり、君主の政治が乱れた場合には、
これらの音が全て乱れることとなり亡国につながっていくと書かれています。
そのため「唯だ君子のみ楽を知る」とされ、楽は君主の必須になっていました。
そうは言っても、同じ『楽記』に「それ楽(がく)とは楽(らく)なり」とあり、
音楽の楽しさも述べられています。 この『楽記』は、『礼記(らいき)』49篇の中の1篇として伝わっているもので、
武帝(BC140〜87年)頃成立したといわれています。
この書に楽器の分類法が載せられています。
材料の種類によって、金、石、絲、竹、匏(ふくべ)、土、革、水の8種類で「八音」と呼ばれます。
金は青銅、絲は絹の糸、匏はヒョウタン、土は土を焼いて作ったもので土笛もこれに当たります。
孔子廟の祭祀楽は、八音全てを含む楽器構成となっていますし、土笛も使われています。
土笛は、殷周の時代は前面3孔後面2孔ですが、
戦国時代の孔子の時代に前面4孔後面2孔の形式が完成しています。
綾羅木遺跡のものはこの後者の形式を踏まえています。
孔子の『詩経』には「伯氏は土員ケンを吹き、仲氏は;(竹冠に虎こ:竹製の横笛)を吹く」とあり、
貴族は音楽をたしなんでいることが伺えます。
私も音楽の素養ではちょっと反省するところですが、
この中国スタイルの楽器が日本の弥生時代前期に出現するわけです。 (2)日本における土笛の分布
土笛は、日本では弥生時代前期後半から中期前葉にかけて作られました。
福岡県の北東部(宗像の光岡長尾遺跡)から京都府の丹後半島(函石浜や竹野遺跡)、
南は広島県にかけて約100点が出土しています。
その他の地域としては、静岡県の弥生時代を代表する集落群の伊場遺跡から
出土しているのみで、きわめて限定した地域だけにみられるものです。
そのうち約半分が出雲のある島根県で発見されています。
松江市西川津町の西川津遺跡とタテチョウ遺跡からは、合わせて38点が出土しています。
前面4孔後面2孔の綾羅木遺跡と同じスタイルです。
また出雲市矢野遺跡からも出土し、出雲全域でみられるとともに、彩色されているものや、
大中小の3サイズがそろった所もあります。
この範囲はまさに出雲の王朝の支配範囲である葦原中津之国と重なりまし、
その中心が出雲です。 (3)土笛の役割
陶土へん員(とうけん)である土笛は、中国の朝廷の儀式で使われたものですし、
貴族がたしなむ楽器の一部でした。
従ってこの楽器を演奏していた人々は、当初は中国から渡って来た人々であることは
確かでしょう。 出現の時期も徐福伝説の船出の時期と重なります。
このことは渡来人が土井ヶ浜になされた後、その子孫が各地に散らばっていった際に
南方面には集団長となる人が携行し、 出雲方面には多数の人々が携行し築いた
出雲の王朝で演奏されていた可能性が大きいと思われます。
土笛には、本国を離れた寂しさを紛らわせる役割もあったでしょう。
音楽は韻律を踏むには、前面4孔 後面2孔 のスタイルが必要です。
中国の詩はこの音楽としての韻律に合わせて詩を歌います。
この韻律を踏むためには楽器が必要で、土笛や琴、青銅の鐘などを使って演奏するうちに
日本語の詩のリズムが出来上がっていったと思われます。
日本の和歌の始まりは、出雲が発祥地です。 出雲、スサノウの尊の歌です。
八雲たつ 出雲八重垣(やえがき) 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を
いずれにしても中国の陶土へん員(土笛)は出雲(葦原中津之国)の範囲でしか出土しないことは、
中国からの渡来人やその子孫が活躍した場所もその範囲でしかなかったでしょう。
日本の中国地方の「中国」の名は、延喜式での「近国、中国、遠国」の中国に属したことから
来ているといわれていますが、この葦原中津之国から来ているかも知れません。
前面三孔後面二孔の形式は
中国では早く商代(紀元前十三世紀から十一世紀中ごろ)に登場している。
前面四孔後面二孔の形式は孔子の時代には完成している。
前面三孔の形式も前面四孔の形式も、ともに孔子廟の楽器として今日迄伝えられている。 「ドンソン文化と越と銅鐸」
ドンソン文化は銅鼓に線刻された羽人が有名だが、 線刻された銅鐘が作られ。
越では磁器鐸も作られていた。 日本列島に移住した越倭はドンソン銅鐘と磁器鐸と同じく
初期の段階から線刻や模様入りの銅鐸を作り祭器とした様だ、
しかし北方遊牧民の鐸は小型で丸く模様がなくカウベルのような使い方をしていた様だ。
羽人が来て神社に入ると木に吊り下げた銅鐸を鳴らし祭りが始まる。
(銅鐘 ドンソン文化 前4〜前3世紀 ベトナム・タインホア省出土)
https://livedoor.blogimg.jp/himika250-wakoku/imgs/4/0/40e89dc0-s.jpg
中国江蘇省、越王墓出土・陶器鐸
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg >>384-389
土笛、陶塤は土器
日本には中国土器はない
つまり弥生の土笛は朝鮮か沿海州から入っている
朝鮮に土笛の出土はないらしいが、あれほど朝鮮にないない言われていた高床式倉庫も
痕跡がドンドン見つかり、今では弥生の高床式倉庫は朝鮮南部から伝わった事が定説となった >>390
それは銅鐸ではなくて『銅鐘』だろ詐欺師
銅鐘は弥生文化にはない
青磁鐸の前に青磁を伝えろバカ!
日本で磁器が作られるようになったのは17Cの事だカス!
>>391
それも銅鐸ではなくて銅鐘
詐欺はやめろ! >>393-394
弥生青銅器のどこに、そんな饕餮文や雷文や龍文があるんだ??
ア ホ だ ろ お ま え !
. 遺跡がないから栽培されてないって考えが
おかしい
弥生からずっと田んぼになってる場所が
遺跡になるわけがないから 稲作はウラジオストクからだよ
東北地方は短粒種早稲米
これが南から伝播ではつじつまが合わない
韓国人はなんでも半島由来にしたがるが
半島由来は糞百済の仏教くらいなものだ >>399
で、ウラジオストクで出土した3000年以上前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 弥生時代から田んぼになってる場所が遺跡に
なるわけない わぉ〜わぉ〜わぉ〜
皆さんお久しぶりです〜
>>384-389
「土笛」の分布と、「綾羅木遺跡」
いい所に着目しましたね〜
本当に >>372
>複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、
>渡来後に朝鮮南部から稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
>>358,360,368,383
もう彼これ、5年以上も同じ文献内容を根拠にコピペし続けて
結局「複合的」にしか考えられないとは ww
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>372
>弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
>その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
↑
しかし、見事に、盛大に、大間違いww
本当に大笑い 措置入院解除か?
もっと拘置できないもんかな やれやれ >>403
おっ、まだ生きていたのかマンガチックでむぱ頭脳のポンコツ男w
土笛はモロ土器だぞ
綾羅木遺跡の生活土器に中国土器があるか?
沿海州南部から伝わった刻目突帯文土器の弥生土器と搬入した朝鮮土器しかないだろ
つまり土笛の故郷は沿海州南部と朝鮮半島のいずれかしか考えられないね
中国とか、アホです
>>404
それまで中国、長江、江南から来た来た詐欺を働いていたA級戦犯のおまえが言うな!
徐福なんか信じてる考古学不適合者のおまえが言うな!
>>405
どこが間違っているのか具体的に言えよカス
最古の刻目突帯文土器であり弥生土器は中国地方の島根広島岡山あたりに
広がる前池式だぞ
下のブログの中ほどにある歴博年表で菜畑の山ノ寺式と中国地方の前池式の
どちらが先なのか、その目でしっかり確認しろよ
http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/02/528.html
マンガチックでむぱ頭脳のポンコツ男w ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 中国の土笛と弥生の土笛は器形が違っていて、中国の土笛は底が平らなんだと
で、弥生の土笛は底が卵形なんだと
だから弥生の土笛は中国から入ったものじゃないね
朝鮮か沿海州で間違いない わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>407
>中国、長江、江南から来た来た詐欺を働いていたA級戦犯のおまえが言うな!
同じコピペを何度も貼っているうちに、記憶障害にでもなったのか? 笑
俺は「縄文狼」であって、「長江狼」ではないのだが
Part37に俺の古代史観のはっきり述べて、今まで何度もお前とやり合ったが
お前から「長江A級戦犯」のレッテル貼られたことはこれまで一度もないぞ ww
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>372
>>404
さて、5年以上も同じコピペでスレ荒らしを延々と続けても
結局「複合的」にしか考えられないという悲喜劇がなぜ繰り返されるのか?ww
それは「複合的」ではない「直接的な」証拠
すなわち沿海州から渡来した強い北方形質のモンゴロイドの人骨が
肝心の「縄文晩期〜弥生早期」の突帯文土器式期の遺跡から
ほとんど発見されないからであるww
それでは弥生人の原型といえる「縄文晩期〜弥生早期」の突帯文土器式期の
本当の担い手は一体誰だったのか?
本当に大笑い 文化文物の伝播の流れがわからない精神を侵された人間が考古学板にいる不思議
日本語ネット環境はキチガイで溢れるよのぉw >>410
何度でも言ったるわこの永遠に許されねえスットボケ
中国、長江、江南から来た来た詐欺を働いていたA級戦犯のおまえが言うな!
おまえや月光などのバカ勢、そしてチンコロな
>>411
北方形質のモンゴロイドの人骨じゃなくて、北方モンゴロイド形質の人骨な
日本に北方モンゴロイド形質の人骨が出土し始めるのは弥生早期の遺構からだぞ
だから必然的に渡来人の渡来は弥生早期以前という事になる
甕棺墓の登場する弥生前期中頃より前の渡来人骨が少ないのは土壌に
溶けてなくなったからだ
新町遺跡のように支石墓で保護されたり、たまたま酸性度の低い土壌だったり、
鍾乳洞のカルシウム水に保護されて溶ける事を奇跡的に免れたものしかないのは当然
菜畑を見ても、それまでの黒川式が中国地方から入ってきた山ノ寺式に一掃されて
稲作が始まる事実を考えても、縄文晩期〜弥生早期の突帯文土器式期の文化の
担い手は渡来系だね
おまえにとっては面白くない事実だろうがな
>>412
底が平らじゃなくて卵形だね
つまり中国から伝わったものではないという事 わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>414
お前はコピペ荒らし、板汚しのA級戦犯だろww
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>414
>日本に北方モンゴロイド形質の人骨が出土し始めるのは弥生早期の遺構からだぞ
なんでそれで縄文晩期〜弥生早期の担い手が、北方形質wのモンゴロイドの渡来系になるんだよ
わが列島の稲作創生期である山ノ寺式期の菜畑遺跡の担い手が、大陸沿海州由来の北方形質wのモンゴロイドだった直接的な証拠はあるのかね??
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>414
なんだ自分のレスが引用したページにちゃんと答えが書いてあるではないかww
>>407
>その目でしっかり確認しろよ 笑
http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/02/528.html
>弥生早期には高顔・高身長を特徴とする渡来系の人骨の発見がなく
>低顔・低身長を特徴とする縄文系である。抜歯の型式もまた、
>上顎犬歯と下顎全切歯を抜く縄文系である。
本当に本当に大笑い >>416
チンコロの情報工作の手に落ちて、集団洗脳にかかった何十人ものバカ連中が
合唱していた、中国から来た来た詐欺は何で無くなったと思う?
すべて俺のおかげだが何か?
おまえはただチンコロの詐欺プログラムにまんまと落ちて、一緒になって中国から、
長江から、江南から来た来た詐欺を働いていたウルトラパッパラパー級のA級戦犯なだけ >>417
じゃあ、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷を証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と生活住居から考古立証してみろよ
さあ今すぐ、このパッパラパーのバカに筋の通った考古立証でもって真実を教えてくれ >>418
前池式が載っている歴博年表がそれしかなかったので、そのブログを引用したが、
そのブロガーは弥生早期に北方モンゴロイド形質を帯びた渡来系人骨の出土がある事を
単に知らないだけだろ
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