日本の古代史 Part39
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前スレ
日本の古代史 Part38
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1529143679/ >>586
ふーん、まだそこに要るのかおまえ
さすがは生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな底辺高卒
遼東郡にも楽浪郡帯方郡にも同期する中国陶磁器など全く伝わっていないぞ
オレの言ってる意味が分かるか?
これに関しては答えを教えないから、分からないなら自分で考えな
自分の考古立証を提示できないゴミカスに人の考古立証をディスる資格はない
ディスるなら自分の考古立証をみんなの前でしっかり提示しろ
で、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷がどこかについての、証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と
住居からの考古立証は?
早く提示しろよマンガチックでむぱ頭脳の幼稚なオジサンw それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>588
>ふーん、まだそこに要るのかおまえ
さすがは生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな底辺高卒
↑
追いつめられると、ネットの闘声モードに逃げこむとは、さすが考古学板一のゴミクズサギ師だなww
> 遼東郡にも楽浪郡帯方郡にも同期する中国陶磁器など全く伝わっていないぞ
↑
すでに自問自答した>>563と回答がループしているが、おまえこそそこに居て大丈夫か??ww
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>589
>>590
>日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編
↑
結局、沿海州ツングースサギ師が最後に頼るのが、考古立証していないその文献コピペかよww
自分の考古立証を提示できないゴミカスに人の考古立証をディスる資格はない ww
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>591
その文献コピペも考古学板一のゴミクズサギ師がいろんなスレに貼りまくってるけど
縄文晩期〜弥生早期の沿海州人渡来サギ説に対して、全くもって真逆な裏づけになってるんじゃね??ww
>これは後で述べる弥生前期末〜中期の現象と比較すると、不思議なことである
↓
これって「文化文物の伝播だけでなく民族の移動を伴った北方渡来の期間は
縄文晩期から弥生早期ではなくて、弥生前期末からである」
と解説しているわけだろ
自分の説とは真逆のコピペ、貼り続けていて楽しいか??ww
本当に大笑い >>592-594
バカヤロウ!
オレ様のお陰でまともな板になったんだろうがゴミクズ野郎が!
それまでこの板はただの中国から来た来た詐欺板なだけだった
その中国から来た来た詐欺を働いていた悪党の一人が何を隠そうおまえじゃねえか
じゃあ、さっさと言ってみろよこのゴミクズ野郎
で、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷がどこかについての、証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と
住居からの考古立証は?
ほら、さっさと言ってみろよ、生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな
底辺高卒のゴミクズ野郎が! 人のアラ探ししてディス→自分は何も考古立証しない→人のアラ探ししてディス→
自分は何も考古立証しない→人のアラ探ししてディス→自分は何も考古立証しない→
人のアラ探ししてディス→自分は何も考古立証しない→人のアラ探ししてディス→
自分は何も考古立証しない→人のアラ探ししてディス→自分は何も考古立証しない→
人のアラ探ししてディス→自分は何も考古立証しない→人のアラ探ししてディス→
自分は何も考古立証しない→人のアラ探ししてディス→自分は何も考古立証しない→
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自分は何も考古立証しない→人のアラ探ししてディス→自分は何も考古立証しない→
人のアラ探ししてディス→自分は何も考古立証しない→人のアラ探ししてディス→
自分は何も考古立証しない→∞
どこまでゴミクズ底辺人間なんだおまえは! そうだよ、
沿海州ツングースサギ師は自分で考古学的立証を何もしてない
沿海州の稲作遺跡は何処に有るんだ、ネットで分かるように証明しろ。 >>597
だから、それオレじゃねえわバカ!
オレは沿海州から稲作が伝わったなんて一度も言った事などない!
キチガイが言っているだけだ
沿海州に当時の稲作の痕跡遺構もイネ粒の出土もないのに稲作なんかある訳がない!
人を間違えるな低能!
稲作は朝鮮南部、一択あるのみ
それ以前に、おまえ時系列が分かってないんじゃないか?
BC11〜12C 沿海州より渡来。島根、広島、岡山に前池式刻目突帯文土器出現
BC10C 菜畑遺跡に日本最古の稲作遺構出現
こういう時系列なのに沿海州から渡来時に稲作を伝えたと思うか?
むしろ、オレをはめようとおまえが言ってるんじゃねえか? 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>599
>ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、「半島」の「無文土器文化人」が
集団で渡来入植した痕跡、すなわち「セットをなす無文土器」が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
>この時期の列島では、「無文土器」の影響を受けて出現した「器種・技法・要素」は
あるものの、「無文土器そのもの」は、ほとんど出土していない。
>これらの渡来形質の人骨の人々が「朝鮮半島から入植した」とは考えにくいのである。
キリッw
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>600
>ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、「大陸」の「刻目突帯文土器文化人」が
集団で渡来入植した痕跡、すなわち「セットをなす刻目突帯文土器」が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
>この時期の列島では、「刻目突帯文土器」の影響を受けて出現した「器種・技法・要素」ではなく「文様」は
あるものの、「大陸」の「刻目突帯文土器そのもの」は、ほとんど出土していない。
>これらの渡来形質の人骨の人々が「大陸沿海州から入植した」とは考えにくいのである。
キリッww
自分の考古立証を提示できないゴミカスに人の考古立証をディスる資格はない ww
本当に大笑い >>600
で、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷がどこかについての、証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と
住居からの考古立証は?
ほら、さっさと言ってみろよ、生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな
底辺高卒のゴミクズ底辺野郎が! >>601
で、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷がどこかについての、証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と
住居からの考古立証は?
ほら、さっさと言ってみろよ、生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな
底辺高卒のゴミクズ底辺野郎が! > 縄文農耕。エゴマ,ダイズ,アズキなど全国の縄文遺跡出土土器から発見される。
> 一部には数1000粒と骨材として多量に混入させたのではと思われる土器も。
山鳥場遺跡出土の種実圧痕が残る縄文中期土器 - 長野県埋蔵文化財 ...
http://naganomaibun.or.jp/uploads/2017.pdf
縄文中期後葉、唐草文土器(中期後半、約4,500年前)については、
種実圧痕レプリカ同定の鑑定を行い、エゴマ、ダイズ属、アズキ亜属を数100点、同定した。
エゴマは、推定も含め881点の圧痕が残る土器が出土した。
第7号竪穴建物跡からは3,653 点の土器片が出土し、このうち種実を含むと思われる
圧痕のあるものは66 点であったが、多量の圧痕がある土器は本例のみである。 アズキ亜属種子が多量に混入する縄文中期土器と種実が多量に混入する意味
https://www.meiji.ac.jp/cols/about/publications/6t5h7p00000oncs1-att/2_Aida_et_al_2017_NREH_No7.pdf
長野県下伊那郡豊丘村伴野原(とものはら)遺跡33 号住居址出土の縄文中期土器埋甕は、
一個体の土器胎土に多量の種実圧痕160 点を残す特異な例の一つである、
レプリカ法による圧痕の調査の結果、大半がアズキ亜属種子であることが明らかとなった。
また、X線透過写真撮影を行い、胎土中に隠れて見えない種実の痕跡87 点を推計でき、
完形に復元された土器に種実が混入する最多の例であることがわかった。
本遺跡の調査は古く、パン状炭化物が33 号住居址炉穴から発見され注目を集めた。
その住居址埋甕に185 点の種実圧痕があることも指摘され、
マメらしき圧痕がなんであるか、その解明は後日に委ねられた経緯がある。 勝坂遺跡の縄文中期土器種実圧痕にみる植物利用 相模原市立博物館研究報告
http://sagamiharacitymuseum.jp/wp-content/uploads/2019/05/SCMBulletin2019_P07_16.pdf
2.勝坂遺跡第1 次調査出土土器の圧痕調査
圧痕調査の対象とした勝坂遺跡第1 次調査の出土土器は、1 m幅のトレンチ42 本から
出土したものである(大川・大島1975)。この内、既に中山・佐野(2015)により、
ツルマメ種子が多量に混入した連弧文土器(第2 図)のほか、
長さ9.5o×幅5.3o×厚さ3.4oのダイズ種子の圧痕が確認されている。
今回の全点調査では、土器総数10,302 点、総重量で約400kg が集計され、
まずは肉眼による圧痕の選別を行った(表1)。一次選別した圧痕土器は135 点となり、
そこからシリコンで作製した圧痕レプリカは143 点である。
その後、顕微鏡観察により土器46 点から種実圧痕が54 点、骨?圧痕が1 点であった
(詳細は後述)。 時期別では、中期中葉〜後期前葉にかけて確認され、
集落の形成期を反映して中期後葉が最も多かった。 畑遺構がないから菜畑より前の縄文農耕はないね
狩猟採集の延長線上にあるだけ
歴博も
「マメを育てていたのではないか」
という疑問形のままで、
「マメを育てていた」
と断言していない 古代の原っぱを焼くだけの、焼き畑農耕に畑遺構なんてある分けないだろ!
同じ種実が数千粒と多いのは農耕以外考えられない。 焼き畑すれば栽培植物の種実はもちろん、雑草の種実の炭化物が遺るはずだ
菜畑より前の焼き畑農業の確証はあるのか? >有る分けないだろ何千年前の話だよ、
>それに日本のように雨量が多い地域は、数千年の間に流れてしまう
>雑草の種実の炭化物が遺るはずだ >>614
じゃあ何で最古水田菜畑の炭化米は遺ってるんだカス
不自然な詭弁をするんじゃねえよ 水田としてアゼ道や水路などの土木構造物と
原っぱを焼いて灰だけの平地とは全然ちがうだろ。 詭弁カス乙
焼き畑すれば栽培マメの炭化マメはもちろん、雑草の種実の炭化物が遺るはずだ そんな少量物なんて豪雨・雷雨の時に簡単に流されるだろ
豪雨・雷雨が100年で何回来ると思うんだよ 遺跡はあるとは限らないからね
廃墟になった地域からしか遺跡は出ないから 縄文狼というコテハンを"縄文娘”などとキモオタハロヲタ脳変換してしまい
指摘されるまで気が付かない
縄文時代にイノシシが食べられていたかどうかの話題に
横レスで、弥生時代のほうが食っていたと、わけのわからない事を言い出す 縄文遺跡は大体2〜3mの深さの所にある
じゃその土はどこから来たのか?
それは集落よりも高い所の土が流れ込んで埋まってしまった
集落を埋め尽くす膨大な量の土が流れ込んで来たのよ数千年かけて。
焼き畑農地は大体集落より上の丘じゃないと住居に火が回って大変な事になる、
その住居上焼き畑から流れて来た土が数千年かけて集落を埋めていく。 遣隋使、遣唐使の頃もそうだったように更に古代も浙江省付近から行き来してたのはまず間違いない 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>625
>しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
>日本の最古水田には一切伝わっていない。
↑
>>563
>だから遼東秦人が朝鮮半島に入植しても、三足土器がないって訳
>楽浪郡・帯方郡を築いたのも遼東漢人
自分でちゃんと自問自答しているではないかww
入植者が中華縁辺起源の泰人や楽浪漢人ならば
鼎や鬲が見つからないのも当たり前だということを
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>626
>渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
>ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
↑
どうせまた500年も下った弥生前期末以降の人骨の計測結果を持ち出しているんだろww
同世代の人骨で考古立証できないのであれば、せめて時代を遡って検証できる
核DNAの解析結果でも示してみろよ
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/d/digx/20161208/20161208190813.gif
おまえにとっては面白くない事実だろうがなww
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>626
>弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
>その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
>>他スレより
>BC11〜12C 沿海州より渡来。島根、広島、岡山に前池式刻目突帯文土器出現
>BC10C 菜畑遺跡に日本最古の稲作遺構出現
↑
しかし、見事に、盛大に、大間違いww
特に中国地方の前池式は、弥生前期になってもなお、大陸系磨製石器を拒絶してきた縄文文化の極めて強い地域だぞ
自分の考古立証を提示できないゴミカスに人の考古立証をディスる資格はない ww
本当に大笑い >>629
遼東に鬲は伝わってるんだぞ
ところがほとんど定着できず、消えていった
鬲は遼東人に受け入れられなかったのである
一方で竈や甑や皿は受け入れられ、朝鮮半島に伝えられて日本にまで届いている
ところで泰人って何?
底辺高卒用語?(爆 わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>632
>ところで泰人って何?
>底辺高卒用語?(爆
泰人→秦人の変換間違えぐらいすぐ分かるだろw
秦人は>>552でおまえが使っている用語だがww
↓
>三国志に馬韓に秦人が来たので馬韓の東を割いて与えた事は知っているが、
>これが事実だとしても、半島東部にBC3C頃の中国陶磁器の遺構や
>土壁の中国系住居の遺構などの考古学的証拠が何もないから、
>最寄りの遼東郡秦人の下層民がわずかばかり逃げてきて入植しただけの 話だと見てるがな
本当に大笑い >>631
朝鮮南部の大陸系磨製石器を拒絶すると縄文文化が極めて強いという根拠は?
中国地方の前池式も九州北部の山ノ寺式と一緒
突如、出雲辺りに出現し、それまでの黒川式縄文土器を一気に押し退けて、
支配的に中国地方に拡散していった
そして九州北部に山ノ寺式として登場し、黒川式縄文土器を一気に押し退けて九州全土に
拡散していったのである
で、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷がどこかについての、証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と
住居からの考古立証は?
ほら、さっさと言ってみろよ、生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな
底辺高卒のゴミクズ底辺野郎が! わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>634
>朝鮮南部の大陸系磨製石器を拒絶すると縄文文化が極めて強いという根拠は?
↑
なぜ自分で黒川式縄文土器と言っておいて、前池式縄文土器とは言わないのかね??ww
前池式期は縄文晩期のはずだが
本当に大笑い 環南シナ海・ベトナム中部鉄器時代(サーフィン文化)、甕棺墓や土坑墓への副葬品。
https://core.ac.uk/download/pdf/144431111.pdf
タイ、カンボジア、マレーシア、フィリピン、台湾など南シナ海周辺の地域
(以下、環南シナ海地域)で、主に甕棺墓や土坑墓への副葬品として出土する遺物である。
なかでも、有角玦状耳飾がベトナム中部鉄器時代サーフィン文化の遺跡において
多数出土する状況は、サーフィン文化の遺物が環南シナ海地域へ拡散する現象として理解され、
鉄器時代に環南シナ海地域各地で交易がおこなわれていたことを示す根拠とされてきた。 サーフィンSa Huỳnh 文化は、紀元前500年もしくは300年頃から紀元後100年頃、
ベトナム中部を中心に分布した鉄器時代の文化であり、数百基の甕棺墓が見られる。
https://core.ac.uk/download/pdf/144431128.pdf
山形眞理子氏は、「長胴もしくは卵形の甕と、それと組み合わされた帽子形の蓋を
棺体とする甕棺墓が、副葬品を伴って縦置きで埋置されるという葬制が認められる
時期と地域」としてサーフィン文化を定義している。
副葬品として前漢の五銖銭6点と王莽銭が2点出土しており、
インド系の遺物(カーネリアンビーズ)や漢系の遺物(青銅鏡、銅銭)も出土し、
両地域と交流があったと考えられている。 Kalamba と甕棺 -インドネシア先史時代墓制研究に関する最近の調査例-
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sea1971/1985/14/1985_14_82/_pdf/-char/ja
ギリマヌッ遺跡の調査例をもって, 甕棺墓と土墳墓の同時性が言える, としている。
即ち, ギリマヌッでは200個体以上の過去最大の調査量二次埋葬骨の入った
合せ口甕棺 (プラワンガン以前では, ここでしか発見されていない) を
両手・両足で抱いた状態で検出された一次埋葬例がある。
スヨノ氏は, 次のようにイソドネシア先史時代の墓制を分類している。
I. 一次埋葬
A. 土墳墓
B. 棺を用いる一次埋葬
a. 舟形石棺墓
b. 箱式石棺墓
c. 円筒形石棺墓 (カラムバ Kalamba)
d. 石室墓
e. ドルメン状構造墓(パンドウサPandhusa)
f. 甕棺墓 インドのタミル地方の甕棺墓の遺跡です。すごい数の甕棺墓があります。
Tamil Nadu
http://megalithicburialsitesintamilnadu.blogspot.jp/2009_08_16_archive.html
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/96/ca8325aa481fceb001e7145b1fc869c9.png
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/92/7496536dddd379630798b4c54495263a.png
ホアンジェム遺跡の土器は、南シナ海を越えたフィリピン中部のマスバテ島
カラナイ洞穴出土土器と酷似している。カラナイは1950年代にハワイ大学の
ソルハイム教授により調査された。両遺跡は直線距離で1500キロ以上離れている。
ソルハイムによれば、タイ南部のサムイ島でもカラナイに酷似した土器がが発見されている。
今から2000年以上前にボートを操って大海を横切り行き来した人々の存在を暗示する。
どうやらタイ、ベトナム、フィリピンあたりから南シナ海を北上し
中国長江河口から更に北上し朝鮮半島の南部から九州にかけて
甕棺墓を墓制とする海洋航海民族が紀元前から存在していたのは事実かもしれない。
>アジア各地の甕棺墓
>南シナ海から日本までの海洋航海民の習俗だったとする見方がある。
ないないw
もともとは乳幼児が死んだときにその遺骨を持ち運ぶために甕に入れてた
そして両親が死んだら一緒に埋葬
つまり遺骨運搬するためという目的があってやったこと
日本で大人の甕棺墓が始まったのはいずれ故地に戻してもらうという願いからだろう
韓国の羅州の甕棺墓はこうして日本から持ち込まれた遺骸をもとに始まったのかも知れない >>635
それを言うと山ノ寺式も夜臼式も縄文土器になっちまうだろ
山ノ寺式は前池式から分かれてるし、夜臼式は山ノ寺式から分かれてるんだから
弥生の刻目突帯文土器は韓国人考古学者でさえ外来系土器と見なしていて、
朝鮮半島の刻目突帯文土器から伝播した土器文化であるとの文献を出している事は
承知のはずだが
ただし、朝鮮半島の刻目突帯文土器は前池式よりも古い時代のものもあるが、
出土例が10例もなく、朝鮮半島の土器文化だとは考えにくいため、弥生の
刻目突帯文土器の朝鮮半島起源説をオレは支持していないがな
で、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷がどこかについての、証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と
住居からの考古立証は?
ほら、さっさと言ってみろよ、生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな
底辺高卒のゴミクズ底辺野郎が! >>643
弥生の甕棺墓は朝鮮南部の子ども用の壺棺墓が弥生前期中頃に伝わり、
独自に発展したものだというのが定説
弥生前期中頃は歴博年表でBC7C頃だから、上に貼られているアジア各地の
甕棺墓よりも古い 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 BC10C以前の稲作遺構とそのイネの証拠現物と、そう言ってる考古学者を出してみ わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>644
> 山ノ寺式は前池式から分かれてるし、
>夜臼式は山ノ寺式から分かれてるんだから
↑
しかし、見事に、盛大に、大間違いww
もうこの文章だけで、日本の土器を語る資格がない〜笑笑
本当に大笑い >>652
間違いなら、ちゃんと正解を解説しろよゴミカス
ディスばかりで具体性がねえんだおまえは
ホンモノの知恵遅れなんと違うか? 縄文狼というコテハンを"縄文娘”などとキモオタハロヲタ脳変換してしまい
指摘されるまで気が付かない
縄文時代にイノシシが食べられていたかどうかの話題に
横レスで、弥生時代のほうが食っていたと、わけのわからない事を言い出す わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>653
>間違いなら、ちゃんと正解を解説しろよゴミカス
しょうがないから、ご希望の考古立証してやんよww
でまずは前提として
>>634
>突如、出雲辺りに出現し、それまでの黒川式縄文土器を一気に押し退けて、 支配的に中国地方に拡散していった
>そして九州北部に山ノ寺式として登場し、黒川式縄文土器を一気に押し退けて九州全土に 拡散していったのである
↑
ということは、おまえの沿海州渡来人サギ説では
『突如、出雲辺りに「沿海州人が」出現し、それまでの「前池式期前までいた縄文人」を一気に押し退けて、 支配的に中国地方に拡散していった
そしてその「中国地方に渡来入植した沿海州人」が九州北部の山ノ寺期に登場し、「黒川式期までいた縄文人」を一気に押し退けて九州全土に 拡散していったのである 』
キリッw
ということで本当にいいんだなww
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
でその前に
>>635
>>634
>朝鮮南部の大陸系磨製石器を拒絶すると縄文文化が極めて強いという根拠は?
↑
なぜ自分で黒川式縄文土器と言っておいて、前池式縄文土器とは言わないのかね??ww
前池式期は縄文晩期のはずだが
↓
なぜ前池式が弥生早期でなく、縄文晩期に位置づけられるのかといえば、>>601(>>599)でおまえが言うところの「セットをなす縄文土器が集中的に出土する」からだろ
この「セットをなす縄文土器」とは、わが列島の生粋の縄文人が創生した「粗製深鉢」と「浅鉢」の組合せ(器種構成)であり
弥生早期の山ノ寺式のセットのような稲作祭祀に用いたとされる「壺」や「高坏」を含まないセットである
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>656すなわち
>>634
>朝鮮南部の大陸系磨製石器を拒絶すると縄文文化が極めて強いという根拠は?
↑
1) 特に中国地方の前池式は、土器組成率でみると他の地域に比べて、煮沸用土器では縄文期に継続されてきた「粗製深鉢」の比率が
「突帯文土器(甕)」よりも格段に多い
2) 特に中国地方の前池式地域は、中国地方の稲作受容期の弥生前期になってもなお、大陸系磨製石器を拒絶してきた
3) 特に中国地方の前池式地域は、中国地方の稲作受容期の弥生前期になって、ようやく「壺」と「高坏」のセットを受け入れたが
その2つは山ノ寺式と異なり、わが列島の生粋の縄文土器である「浅鉢」を加工して作り合わせた縄文変容土器であった
自分の考古立証を提示できないゴミカスに人の考古立証をディスる資格はない ww
本当に大笑い >>655-657
相変わらず読む価値がねえなあ(嘲笑
深鉢と言ってるけど、前池式は大半が甕だよ
深鉢と呼んでいるだけで最大径が口縁部になってないものが大半だろ
ここで重要な事は渡来人は甕だけは伝えた事が分かる訳だ
つまり渡来人の故郷は渡来時に甕はあったが壺や高坏はまだなかった場所だ
という事が分かる訳だ
中国大陸には9000年前から壺がある
朝鮮半島には3500年前から壺がある
ハイ、候補から消えたw
オレのようにもっと読む価値がある文章を書かないとな(嘲笑
で、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷がどこかについての、証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と
住居からの考古立証は?
ほら、さっさと言ってみろよ、生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな
底辺高卒のゴミクズ底辺野郎が! わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>659
ずい分、返答に時間かかったなww
おまけに、またまた考古立証できない自己中ネタで遠吠え発言かよ
>深鉢と言ってるけど、前池式は大半が甕だ
↑
前池式の煮沸用土器で、大半が甕だというのなら、考古立証できる
組成率のデータ出してみろよww
>ここで重要な事は渡来人は甕だけは伝えた事が分かる訳だ
↑
沿海州渡来人サギ師の妄想語ってもまったく意味ないだろww
本当に大笑い わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>653
>間違いなら、ちゃんと正解を解説しろよゴミカス
さて
しょうがないから、ご希望の考古立証してやんよww
でまずは前提として
>>634
>突如、出雲辺りに出現し、それまでの黒川式縄文土器を一気に押し退けて、 支配的に中国地方に拡散していった
>そして九州北部に山ノ寺式として登場し、黒川式縄文土器を一気に押し退けて九州全土に 拡散していったのである
↑
ということは、おまえの沿海州渡来人サギ説では
『突如、出雲辺りに「沿海州人が」出現し、それまでの「前池式期前までいた縄文人」を一気に押し退けて、 支配的に中国地方に拡散していった
そしてその「中国地方に渡来入植した沿海州人」が九州北部の山ノ寺期に登場し、「黒川式期までいた縄文人」を一気に押し退けて九州全土に 拡散していったのである 』
キリッw
ということで本当にいいんだなww
本当に大笑い >>660
土器から見ても、骨から見ても、DNAから見ても、沿海州南部を指し示してるじゃないの
どこが詐欺なのやら?
じゃあ、おまえ今すぐ考古立証してみろよ
で、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷がどこかについての、証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と
住居からの考古立証は?
ほら、さっさと言ってみろよ、生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな
底辺高卒のゴミクズ底辺野郎が! わぉ〜わぉ〜わぉ〜
>>662
>土器から見ても、骨から見ても、DNAから見ても、沿海州南部を指し示してるじゃないの
>土器からみても
→渡来元の土器様式との比較データまったく示さずw
> 骨から見ても
→500年も下ったまったく別の地区の発掘人骨が根拠w
>DNAから見ても
→最新解析結果>>504では、まったく真逆の結果w
↑これがサギでなくて一体何なのかね??ww
自分の考古立証を提示できないゴミカスに人の考古立証をディスる資格はない ww
本当に大笑い >>663
だったら、今すぐ考古立証してみろよ
で、弥生前期末の甕棺墓から出土する夥しい数の北方モンゴロイド形質の渡来人骨の
故郷がどこかについての、証拠遺跡とその生活痕たる衣食住に関する生活文物と
住居からの考古立証は?
生きてる価値のない、さっさと死んだ方がマシな底辺高卒のゴミクズ底辺野郎だからできないねwwwwwwww >>662
そもそも骨は環境や食物で色々変化するので指標としてはやや弱い。
そして骨から抽出できるDNAは最新の技術ではY-DNAも抽出できるらしいが、
今まではミトコンドリアDNAしか抽出できない、この指標は母系集団。
母系集団DNA指標をこれ見ろと出されても説得力にかける、
文明、文化、民族では父系集団 Y-DNAの影響の方が強く出てくる。
南米など都市部初期では母系インディオよりも
支配者ヨーロッパの父系DNAの影響が強く出てるのは明らか。 https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFPQFjpelQoAKye
U3uV7;_ylu=X3oDMTBiZGdzYWtnBHZ0aWQDanBjMDAzp=%E5%BC%A5%E7%94%9F%
E4%BA%BA++%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%AF++%E6%AF%
94%E8%BC%83&aq=-1&oq=&ei=UTF-8#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0 >>668 >土井ヶ浜遺跡の渡来系弥生人は白人のDNAを持っていた?
旧来、金関丈夫は、
これらの集団が朝鮮半島からの渡来者と、土着の縄文人との混血であろうと考えた。
また、土井ヶ浜人の故郷が朝鮮半島北部と思われることを示唆したとしたが、
最近の研究では、
東京大学の植田信太郎さんと中国科学院遺伝研究所の王瀝さんらが調べたのは
春秋戦国時代、斉の都「臨シ(りんし)」があった山東半島の付け根あたりの
遺跡の人骨から得た細胞内小器官ミトコンドリアのDNA。私も研究にかかわた。
研究グループは約二千五百年前の春秋戦国時代中期と、それより約五百年新しい
前漢末期、現在、同地に住んでいる人々のDNAを比較した。
現在、臨シ跡に住む人々は日本や韓国など現代東アジアの集団と近かった。
ユーラシア大陸の人類集団は欧州と中央アジア、東アジアに大きく分かれ、
DNAで類似性を見ると、中央アジアの集団が東アジアと欧州の集団との中間に
位置する。こうした全体状況を考えれば、この結果は、
各集団がいる地理的な位置と合っており、予想通りだった。
ところが古代人の方は意外な結果を示した。約二千年前、前漢末期に臨シにいた
人々は、中央アジアの人類集団との間で高い類似性を示した。
約二千五百年前の春秋戦国時代の同地の人々と一番近かったのは、
なんと欧州の人類集団だった。
この結果は中国古代、現在とは遺伝的にかなり異なる人々があちこちに
移り住んでいた可能性を示している。
特に欧州など西ユーラシアからの影響を考える必要がある。 稲作は沿海州?
ありえません
地理的にも気候的にも
そもそも人口が少ない
中国長江付近が正解です >>674
それは今の話だろ
当時の稲作遺構もイネの証拠現物もねえんだっつーの
同じ沿海州説の迷惑だからやめてくれないか 縄文狼というコテハンを"縄文娘”などとキモオタハロヲタ脳変換してしまい
指摘されるまで気が付かない
縄文時代にイノシシが食べられていたかどうかの話題に
横レスで、弥生時代のほうが食っていたと、わけのわからない事を言い出す ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>668 >土井ヶ浜遺跡の渡来系弥生人は白人のDNAを持っていた?
旧来、金関丈夫は、
これらの集団が朝鮮半島からの渡来者と、土着の縄文人との混血であろうと考えた。
また、土井ヶ浜人の故郷が朝鮮半島北部と思われることを示唆したとしたが、
最近の研究では、
東京大学の植田信太郎さんと中国科学院遺伝研究所の王瀝さんらが調べたのは
春秋戦国時代、斉の都「臨シ(りんし)」があった山東半島の付け根あたりの
遺跡の人骨から得た細胞内小器官ミトコンドリアのDNA。私も研究にかかわた。
研究グループは約二千五百年前の春秋戦国時代中期と、それより約五百年新しい
前漢末期、現在、同地に住んでいる人々のDNAを比較した。
現在、臨シ跡に住む人々は日本や韓国など現代東アジアの集団と近かった。
ユーラシア大陸の人類集団は欧州と中央アジア、東アジアに大きく分かれ、
DNAで類似性を見ると、中央アジアの集団が東アジアと欧州の集団との中間に
位置する。こうした全体状況を考えれば、この結果は、
各集団がいる地理的な位置と合っており、予想通りだった。
ところが古代人の方は意外な結果を示した。約二千年前、前漢末期に臨シにいた
人々は、中央アジアの人類集団との間で高い類似性を示した。
約二千五百年前の春秋戦国時代の同地の人々と一番近かったのは、
なんと欧州の人類集団だった。
この結果は中国古代、現在とは遺伝的にかなり異なる人々があちこちに
移り住んでいた可能性を示している。
特に欧州など西ユーラシアからの影響を考える必要がある。 シベリアはもともと白人がいたからね
地球は丸い、北極海渡ってシベリアへ
来た白人は当然いた。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. > 縄文農耕。エゴマ,ダイズ,アズキなど全国の縄文遺跡出土土器から発見される。
> 一部には数1000粒と骨材として多量に混入させたのではと思われる土器も。
山鳥場遺跡出土の種実圧痕が残る縄文中期土器 - 長野県埋蔵文化財 ...
http://naganomaibun.or.jp/uploads/2017.pdf
縄文中期後葉、唐草文土器(中期後半、約4,500年前)については、
種実圧痕レプリカ同定の鑑定を行い、エゴマ、ダイズ属、アズキ亜属を数100点、同定した。
エゴマは、推定も含め881点の圧痕が残る土器が出土した。
第7号竪穴建物跡からは3,653 点の土器片が出土し、このうち種実を含むと思われる
圧痕のあるものは66 点であったが、多量の圧痕がある土器は本例のみである。 アズキ亜属種子が多量に混入する縄文中期土器と種実が多量に混入する意味
https://www.meiji.ac.jp/cols/about/publications/6t5h7p00000oncs1-att/2_Aida_et_al_2017_NREH_No7.pdf
長野県下伊那郡豊丘村伴野原(とものはら)遺跡33 号住居址出土の縄文中期土器埋甕は、
一個体の土器胎土に多量の種実圧痕160 点を残す特異な例の一つである、
レプリカ法による圧痕の調査の結果、大半がアズキ亜属種子であることが明らかとなった。
また、X線透過写真撮影を行い、胎土中に隠れて見えない種実の痕跡87 点を推計でき、
完形に復元された土器に種実が混入する最多の例であることがわかった。
本遺跡の調査は古く、パン状炭化物が33 号住居址炉穴から発見され注目を集めた。
その住居址埋甕に185 点の種実圧痕があることも指摘され、
マメらしき圧痕がなんであるか、その解明は後日に委ねられた経緯がある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています