日本の古代史 Part39
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前スレ
日本の古代史 Part38
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1529143679/ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>668 >土井ヶ浜遺跡の渡来系弥生人は白人のDNAを持っていた?
旧来、金関丈夫は、
これらの集団が朝鮮半島からの渡来者と、土着の縄文人との混血であろうと考えた。
また、土井ヶ浜人の故郷が朝鮮半島北部と思われることを示唆したとしたが、
最近の研究では、
東京大学の植田信太郎さんと中国科学院遺伝研究所の王瀝さんらが調べたのは
春秋戦国時代、斉の都「臨シ(りんし)」があった山東半島の付け根あたりの
遺跡の人骨から得た細胞内小器官ミトコンドリアのDNA。私も研究にかかわた。
研究グループは約二千五百年前の春秋戦国時代中期と、それより約五百年新しい
前漢末期、現在、同地に住んでいる人々のDNAを比較した。
現在、臨シ跡に住む人々は日本や韓国など現代東アジアの集団と近かった。
ユーラシア大陸の人類集団は欧州と中央アジア、東アジアに大きく分かれ、
DNAで類似性を見ると、中央アジアの集団が東アジアと欧州の集団との中間に
位置する。こうした全体状況を考えれば、この結果は、
各集団がいる地理的な位置と合っており、予想通りだった。
ところが古代人の方は意外な結果を示した。約二千年前、前漢末期に臨シにいた
人々は、中央アジアの人類集団との間で高い類似性を示した。
約二千五百年前の春秋戦国時代の同地の人々と一番近かったのは、
なんと欧州の人類集団だった。
この結果は中国古代、現在とは遺伝的にかなり異なる人々があちこちに
移り住んでいた可能性を示している。
特に欧州など西ユーラシアからの影響を考える必要がある。 シベリアはもともと白人がいたからね
地球は丸い、北極海渡ってシベリアへ
来た白人は当然いた。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. > 縄文農耕。エゴマ,ダイズ,アズキなど全国の縄文遺跡出土土器から発見される。
> 一部には数1000粒と骨材として多量に混入させたのではと思われる土器も。
山鳥場遺跡出土の種実圧痕が残る縄文中期土器 - 長野県埋蔵文化財 ...
http://naganomaibun.or.jp/uploads/2017.pdf
縄文中期後葉、唐草文土器(中期後半、約4,500年前)については、
種実圧痕レプリカ同定の鑑定を行い、エゴマ、ダイズ属、アズキ亜属を数100点、同定した。
エゴマは、推定も含め881点の圧痕が残る土器が出土した。
第7号竪穴建物跡からは3,653 点の土器片が出土し、このうち種実を含むと思われる
圧痕のあるものは66 点であったが、多量の圧痕がある土器は本例のみである。 アズキ亜属種子が多量に混入する縄文中期土器と種実が多量に混入する意味
https://www.meiji.ac.jp/cols/about/publications/6t5h7p00000oncs1-att/2_Aida_et_al_2017_NREH_No7.pdf
長野県下伊那郡豊丘村伴野原(とものはら)遺跡33 号住居址出土の縄文中期土器埋甕は、
一個体の土器胎土に多量の種実圧痕160 点を残す特異な例の一つである、
レプリカ法による圧痕の調査の結果、大半がアズキ亜属種子であることが明らかとなった。
また、X線透過写真撮影を行い、胎土中に隠れて見えない種実の痕跡87 点を推計でき、
完形に復元された土器に種実が混入する最多の例であることがわかった。
本遺跡の調査は古く、パン状炭化物が33 号住居址炉穴から発見され注目を集めた。
その住居址埋甕に185 点の種実圧痕があることも指摘され、
マメらしき圧痕がなんであるか、その解明は後日に委ねられた経緯がある。 勝坂遺跡の縄文中期土器種実圧痕にみる植物利用 相模原市立博物館研究報告
http://sagamiharacitymuseum.jp/wp-content/uploads/2019/05/SCMBulletin2019_P07_16.pdf
2.勝坂遺跡第1 次調査出土土器の圧痕調査
圧痕調査の対象とした勝坂遺跡第1 次調査の出土土器は、1 m幅のトレンチ42 本から
出土したものである(大川・大島1975)。この内、既に中山・佐野(2015)により、
ツルマメ種子が多量に混入した連弧文土器(第2 図)のほか、
長さ9.5o×幅5.3o×厚さ3.4oのダイズ種子の圧痕が確認されている。
今回の全点調査では、土器総数10,302 点、総重量で約400kg が集計され、
まずは肉眼による圧痕の選別を行った(表1)。一次選別した圧痕土器は135 点となり、
そこからシリコンで作製した圧痕レプリカは143 点である。
その後、顕微鏡観察により土器46 点から種実圧痕が54 点、骨?圧痕が1 点であった
(詳細は後述)。 時期別では、中期中葉〜後期前葉にかけて確認され、
集落の形成期を反映して中期後葉が最も多かった。 どこまで行っても狩猟採集の延長線上のものだよ
菜畑より前に農耕などない 農地遺構自体がないじゃないの
それに九州北部には菜畑の稲作より前の農耕遺構があるはずだろ 水田稲作は、6000年前の長江下(揚子江)流域が起源という説が有力とされます。
長江下流域の草鞋山(そうあいさん)遺跡では、紀元前4000年の水田遺構が発掘され、
検出されたプラントオパールの形状は温帯ジャポニカです。
また、紀元前7000年の稲籾が発見された彭頭山遺跡の西方に位置する環濠集落を伴う
城頭山(じょうとうざん)古城遺跡からも、紀元前4,500年の水田遺構が発見されています。
https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
熊本県本渡市の大矢遺跡5000年前〜4000年前の土器にある稲籾圧痕が最古のようです。
炭化米は、岡山県の朝寝鼻貝塚の、約6000年前の熱帯ジャポニカと分析されています。
島根県板屋V遺跡において、10,950年年前の層からイネのプラント・オパールが検出される
「鹿児島県上野原遺跡では11,000年前の薩摩. 火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出」
以上、九州南部の縄文時代草創期(約13000年前〜10000年前)の遺跡から
稲作の遺構が発見されるのは時間の問題であるように思います。 その前に菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも出さないとなw
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16019
「発掘された日本列島2014」(文化庁編)
P21
縄文時代に稲作はあったのか
縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。
縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、
土器についた籾(もみ)の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼると
みなされていたのです。しかし、籾圧痕にシリコンを注入して顕微鏡で観察した結果、
籾にあるはずの針状の突起、「禾(のぎ)」を確認できませんでした。
また米を食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調べられましたが、じつはコクゾウムシは
コメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲作は弥生時代早期からと
いうのが最近の研究者の大方の見解です
http://imgur.com/a/JL0VPTK 佐賀県小城市三日月町の石木中高遺跡には水田稲作の遺構があり、
ここからは、縄文晩期の黒川式新段階の土器が出土しており
炭素14年代測定法(AMS法)で紀元前11世紀から前9世紀始めとされます。
また、福岡の菜畑遺跡にも水田稲作の遺構があり、ここからは、弥生時代早期とされる
山ノ寺式土器が出土しておりAMS法で前10世紀後半から前9世紀末とされます。
なお、夜臼T式土器が出土した板付遺跡は前8世紀中頃から前4世紀初めで
バラツキがあり年代測定の幅があるようですので測定数を増やして
より確実なものにしていく必要があります。 熊本県、縄文中期の稲作の「印」、土器にもみ圧痕 熊本大矢遺跡
稲もみの圧痕が、阿高式と呼ばれる縄文中期後半の土器に1点
続く南福寺式と呼ばれる後期初頭の縄文土器に1点
また、後・晩期の10遺跡の土器から雑穀や豆類の圧痕も約30点見つかった。
縄文時代中期(約5000〜4000年前)の土器に、当時の稲作の存在を示す
稲もみの圧痕(あっこん)(スタンプ)が付いていたことが、
福岡市教委文化財部長で考古学者の山崎純男さんらの調べでわかった。
熊本県本渡市の大矢遺跡から出土していたもので、全国最古の圧痕資料となる。
これまでは岡山県の南溝手(みなみみぞて)遺跡などの
縄文後期(約4000〜3000年前)の資料が最も古かった。
考古学界で論争になっている「縄文農耕論」に大きな影響を与えそうだ。 ぜんぜん読む価値がない
だから菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも出してみろよ中卒
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16019
「発掘された日本列島2014」(文化庁編)
P21
縄文時代に稲作はあったのか
縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。
縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、
土器についた籾(もみ)の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼると
みなされていたのです。しかし、籾圧痕にシリコンを注入して顕微鏡で観察した結果、
籾にあるはずの針状の突起、「禾(のぎ)」を確認できませんでした。
また米を食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調べられましたが、じつはコクゾウムシは
コメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲作は弥生時代早期からと
いうのが最近の研究者の大方の見解です
http://imgur.com/a/JL0VPTK (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 > 縄文農耕。エゴマ,ダイズ,アズキなど全国の縄文遺跡出土土器から発見される。
> 一部には数1000粒と骨材として多量に混入させたのではと思われる土器も。
山鳥場遺跡出土の種実圧痕が残る縄文中期土器 - 長野県埋蔵文化財 ...
http://naganomaibun.or.jp/uploads/2017.pdf
縄文中期後葉、唐草文土器(中期後半、約4,500年前)については、
種実圧痕レプリカ同定の鑑定を行い、エゴマ、ダイズ属、アズキ亜属を数100点、同定した。
エゴマは、推定も含め881点の圧痕が残る土器が出土した。
第7号竪穴建物跡からは3,653 点の土器片が出土し、このうち種実を含むと思われる
圧痕のあるものは66 点であったが、多量の圧痕がある土器は本例のみである。 アズキ亜属種子が多量に混入する縄文中期土器と種実が多量に混入する意味
https://www.meiji.ac.jp/cols/about/publications/6t5h7p00000oncs1-att/2_Aida_et_al_2017_NREH_No7.pdf
長野県下伊那郡豊丘村伴野原(とものはら)遺跡33 号住居址出土の縄文中期土器埋甕は、
一個体の土器胎土に多量の種実圧痕160 点を残す特異な例の一つである、
レプリカ法による圧痕の調査の結果、大半がアズキ亜属種子であることが明らかとなった。
また、X線透過写真撮影を行い、胎土中に隠れて見えない種実の痕跡87 点を推計でき、
完形に復元された土器に種実が混入する最多の例であることがわかった。
本遺跡の調査は古く、パン状炭化物が33 号住居址炉穴から発見され注目を集めた。
その住居址埋甕に185 点の種実圧痕があることも指摘され、
マメらしき圧痕がなんであるか、その解明は後日に委ねられた経緯がある。 勝坂遺跡の縄文中期土器種実圧痕にみる植物利用 相模原市立博物館研究報告
http://sagamiharacitymuseum.jp/wp-content/uploads/2019/05/SCMBulletin2019_P07_16.pdf
2.勝坂遺跡第1 次調査出土土器の圧痕調査
圧痕調査の対象とした勝坂遺跡第1 次調査の出土土器は、1 m幅のトレンチ42 本から
出土したものである(大川・大島1975)。この内、既に中山・佐野(2015)により、
ツルマメ種子が多量に混入した連弧文土器(第2 図)のほか、
長さ9.5o×幅5.3o×厚さ3.4oのダイズ種子の圧痕が確認されている。
今回の全点調査では、土器総数10,302 点、総重量で約400kg が集計され、
まずは肉眼による圧痕の選別を行った(表1)。一次選別した圧痕土器は135 点となり、
そこからシリコンで作製した圧痕レプリカは143 点である。
その後、顕微鏡観察により土器46 点から種実圧痕が54 点、骨?圧痕が1 点であった
(詳細は後述)。 時期別では、中期中葉〜後期前葉にかけて確認され、
集落の形成期を反映して中期後葉が最も多かった。 水田稲作は、6000年前の長江下(揚子江)流域が起源という説が有力とされます。
長江下流域の草鞋山(そうあいさん)遺跡では、紀元前4000年の水田遺構が発掘され、
検出されたプラントオパールの形状は温帯ジャポニカです。
また、紀元前7000年の稲籾が発見された彭頭山遺跡の西方に位置する環濠集落を伴う
城頭山(じょうとうざん)古城遺跡からも、紀元前4,500年の水田遺構が発見されています。
https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
熊本県本渡市の大矢遺跡5000年前〜4000年前の土器にある稲籾圧痕が最古のようです。
炭化米は、岡山県の朝寝鼻貝塚の、約6000年前の熱帯ジャポニカと分析されています。
島根県板屋V遺跡において、10,950年年前の層からイネのプラント・オパールが検出される
「鹿児島県上野原遺跡では11,000年前の薩摩. 火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出」
以上、九州南部の縄文時代草創期(約13000年前〜10000年前)の遺跡から
稲作の遺構が発見されるのは時間の問題であるように思います。 熊本県、縄文中期の稲作の「印」、土器にもみ圧痕 熊本大矢遺跡
稲もみの圧痕が、阿高式と呼ばれる縄文中期後半の土器に1点
続く南福寺式と呼ばれる後期初頭の縄文土器に1点
また、後・晩期の10遺跡の土器から雑穀や豆類の圧痕も約30点見つかった。
縄文時代中期(約5000〜4000年前)の土器に、当時の稲作の存在を示す
稲もみの圧痕(あっこん)(スタンプ)が付いていたことが、
福岡市教委文化財部長で考古学者の山崎純男さんらの調べでわかった。
熊本県本渡市の大矢遺跡から出土していたもので、全国最古の圧痕資料となる。
これまでは岡山県の南溝手(みなみみぞて)遺跡などの
縄文後期(約4000〜3000年前)の資料が最も古かった。
考古学界で論争になっている「縄文農耕論」に大きな影響を与えそうだ。 佐賀県小城市三日月町の石木中高遺跡には水田稲作の遺構があり、
ここからは、縄文晩期の黒川式新段階の土器が出土しており
炭素14年代測定法(AMS法)で紀元前11世紀から前9世紀始めとされます。
また、福岡の菜畑遺跡にも水田稲作の遺構があり、ここからは、弥生時代早期とされる
山ノ寺式土器が出土しておりAMS法で前10世紀後半から前9世紀末とされます。
なお、夜臼T式土器が出土した板付遺跡は前8世紀中頃から前4世紀初めで
バラツキがあり年代測定の幅があるようですので測定数を増やして
より確実なものにしていく必要があります。 しつこいぞ中卒
菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも出してみろ
話はそれからだ
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16019
「発掘された日本列島2014」(文化庁編)
P21
縄文時代に稲作はあったのか
縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。
縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、
土器についた籾(もみ)の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼると
みなされていたのです。しかし、籾圧痕にシリコンを注入して顕微鏡で観察した結果、
籾にあるはずの針状の突起、「禾(のぎ)」を確認できませんでした。
また米を食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調べられましたが、じつはコクゾウムシは
コメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲作は弥生時代早期からと
いうのが最近の研究者の大方の見解です
http://imgur.com/a/JL0VPTK >レプリカ法イネ圧痕は稲禾(とうか)のない玄米だと言及してるが。
第U章 植物圧痕分析(日本編) - 山梨県立博物館
縄文時代前期末葉〜中期のレプリカ法イネ圧痕で形状や大きさなどから
玄米(brown rice)の状態のイネ(Oryza sativa L.)と判断される。
朝日遺跡における植物圧痕分析 - 愛知県埋蔵 ...
縄文時代に形成された土器圧痕であるが、先端部に玄米特有の凹凸が見られる。
熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System
縄文時代晩期末もしくは弥生時代早期に編年される刻目突帯文土器を対象に
土器圧痕調. 査を実施した。 ... 行い、 縄文時代中期末の. イネ (玄米) 圧痕を
初めとして、 後期中葉∼後葉のイネ圧痕資料 (籾・有果) を多数検出した。
籾ー玄米ー白米
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/shirotofarm/20150518/20150518014707.jpg
玄米だと虫(コクゾウムシ等)が発生するが、籾だと発生しない!
玄米とコクゾウムシ
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/81/1675f6b279df24f9334c08ed3f7a773b.jpg どうも縄文、弥生、時代は今のように白米の食べ方じゃなく玄米を食べてたようで、
土器を作る時にムシロのような上で制作してたが、
そのムシロに穀物、玄米がくっ付いていて、
縄文土器に穀物、玄米の圧痕が付いたようだ。 なら菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも出してみろよ
話はそれからだ
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16019
「発掘された日本列島2014」(文化庁編)
P21
縄文時代に稲作はあったのか
縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。
縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、
土器についた籾(もみ)の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼると
みなされていたのです。しかし、籾圧痕にシリコンを注入して顕微鏡で観察した結果、
籾にあるはずの針状の突起、「禾(のぎ)」を確認できませんでした。
また米を食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調べられましたが、じつはコクゾウムシは
コメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲作は弥生時代早期からと
いうのが最近の研究者の大方の見解です
http://imgur.com/a/JL0VPTK 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 >>710
精米って概念がなく、玄米のまま食べてたんだろうな >>710
なら、菜畑よりも前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)なんか出まくりじゃないの
一 粒 も な い ! 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. > 縄文農耕。エゴマ,ダイズ,アズキなど全国の縄文遺跡出土土器から発見される。
> 一部には数1000粒と骨材として多量に混入させたのではと思われる土器も。
山鳥場遺跡出土の種実圧痕が残る縄文中期土器 - 長野県埋蔵文化財 ...
http://naganomaibun.or.jp/uploads/2017.pdf
縄文中期後葉、唐草文土器(中期後半、約4,500年前)については、
種実圧痕レプリカ同定の鑑定を行い、エゴマ、ダイズ属、アズキ亜属を数100点、同定した。
エゴマは、推定も含め881点の圧痕が残る土器が出土した。
第7号竪穴建物跡からは3,653 点の土器片が出土し、このうち種実を含むと思われる
圧痕のあるものは66 点であったが、多量の圧痕がある土器は本例のみである。 アズキ亜属種子が多量に混入する縄文中期土器と種実が多量に混入する意味
https://www.meiji.ac.jp/cols/about/publications/6t5h7p00000oncs1-att/2_Aida_et_al_2017_NREH_No7.pdf
長野県下伊那郡豊丘村伴野原(とものはら)遺跡33 号住居址出土の縄文中期土器埋甕は、
一個体の土器胎土に多量の種実圧痕160 点を残す特異な例の一つである、
レプリカ法による圧痕の調査の結果、大半がアズキ亜属種子であることが明らかとなった。
また、X線透過写真撮影を行い、胎土中に隠れて見えない種実の痕跡87 点を推計でき、
完形に復元された土器に種実が混入する最多の例であることがわかった。
本遺跡の調査は古く、パン状炭化物が33 号住居址炉穴から発見され注目を集めた。
その住居址埋甕に185 点の種実圧痕があることも指摘され、
マメらしき圧痕がなんであるか、その解明は後日に委ねられた経緯がある。 勝坂遺跡の縄文中期土器種実圧痕にみる植物利用 相模原市立博物館研究報告
http://sagamiharacitymuseum.jp/wp-content/uploads/2019/05/SCMBulletin2019_P07_16.pdf
2.勝坂遺跡第1 次調査出土土器の圧痕調査
圧痕調査の対象とした勝坂遺跡第1 次調査の出土土器は、1 m幅のトレンチ42 本から
出土したものである(大川・大島1975)。この内、既に中山・佐野(2015)により、
ツルマメ種子が多量に混入した連弧文土器(第2 図)のほか、
長さ9.5o×幅5.3o×厚さ3.4oのダイズ種子の圧痕が確認されている。
今回の全点調査では、土器総数10,302 点、総重量で約400kg が集計され、
まずは肉眼による圧痕の選別を行った(表1)。一次選別した圧痕土器は135 点となり、
そこからシリコンで作製した圧痕レプリカは143 点である。
その後、顕微鏡観察により土器46 点から種実圧痕が54 点、骨?圧痕が1 点であった
(詳細は後述)。 時期別では、中期中葉〜後期前葉にかけて確認され、
集落の形成期を反映して中期後葉が最も多かった。 水田稲作は、6000年前の長江下(揚子江)流域が起源という説が有力とされます。
長江下流域の草鞋山(そうあいさん)遺跡では、紀元前4000年の水田遺構が発掘され、
検出されたプラントオパールの形状は温帯ジャポニカです。
また、紀元前7000年の稲籾が発見された彭頭山遺跡の西方に位置する環濠集落を伴う
城頭山(じょうとうざん)古城遺跡からも、紀元前4,500年の水田遺構が発見されています。
https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
熊本県本渡市の大矢遺跡5000年前〜4000年前の土器にある稲籾圧痕が最古のようです。
炭化米は、岡山県の朝寝鼻貝塚の、約6000年前の熱帯ジャポニカと分析されています。
島根県板屋V遺跡において、10,950年年前の層からイネのプラント・オパールが検出される
「鹿児島県上野原遺跡では11,000年前の薩摩. 火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出」
以上、九州南部の縄文時代草創期(約13000年前〜10000年前)の遺跡から
稲作の遺構が発見されるのは時間の問題であるように思います。 熊本県、縄文中期の稲作の「印」、土器にもみ圧痕 熊本大矢遺跡
稲もみの圧痕が、阿高式と呼ばれる縄文中期後半の土器に1点
続く南福寺式と呼ばれる後期初頭の縄文土器に1点
また、後・晩期の10遺跡の土器から雑穀や豆類の圧痕も約30点見つかった。
縄文時代中期(約5000〜4000年前)の土器に、当時の稲作の存在を示す
稲もみの圧痕(あっこん)(スタンプ)が付いていたことが、
福岡市教委文化財部長で考古学者の山崎純男さんらの調べでわかった。
熊本県本渡市の大矢遺跡から出土していたもので、全国最古の圧痕資料となる。
これまでは岡山県の南溝手(みなみみぞて)遺跡などの
縄文後期(約4000〜3000年前)の資料が最も古かった。
考古学界で論争になっている「縄文農耕論」に大きな影響を与えそうだ。 佐賀県小城市三日月町の石木中高遺跡には水田稲作の遺構があり、
ここからは、縄文晩期の黒川式新段階の土器が出土しており
炭素14年代測定法(AMS法)で紀元前11世紀から前9世紀始めとされます。
また、福岡の菜畑遺跡にも水田稲作の遺構があり、ここからは、弥生時代早期とされる
山ノ寺式土器が出土しておりAMS法で前10世紀後半から前9世紀末とされます。
なお、夜臼T式土器が出土した板付遺跡は前8世紀中頃から前4世紀初めで
バラツキがあり年代測定の幅があるようですので測定数を増やして
より確実なものにしていく必要があります。 >レプリカ法イネ圧痕は稲禾(とうか)のない玄米だと言及してるが。
第U章 植物圧痕分析(日本編) - 山梨県立博物館
縄文時代前期末葉〜中期のレプリカ法イネ圧痕で形状や大きさなどから
玄米(brown rice)の状態のイネ(Oryza sativa L.)と判断される。
朝日遺跡における植物圧痕分析 - 愛知県埋蔵 ...
縄文時代に形成された土器圧痕であるが、先端部に玄米特有の凹凸が見られる。
熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System
縄文時代晩期末もしくは弥生時代早期に編年される刻目突帯文土器を対象に
土器圧痕調. 査を実施した。 ... 行い、 縄文時代中期末の. イネ (玄米) 圧痕を
初めとして、 後期中葉∼後葉のイネ圧痕資料 (籾・有果) を多数検出した。
籾ー玄米ー白米
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/shirotofarm/20150518/20150518014707.jpg
玄米だと虫(コクゾウムシ等)が発生するが、籾だと発生しない!
玄米とコクゾウムシ
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/81/1675f6b279df24f9334c08ed3f7a773b.jpg 安満遺跡の発見と調査成果 - 高槻市
www.city.takatsuki.osaka.jp › ikkrwebBrowse › material › files › group PDF
縄文時代. 約1万年前に始まり、狩猟・採集が中心と考えられてきた。
→縄文時代前期から中期(6000 年∼4000 年前)にはヒョウタン・アワ・クリの
栽培. 後期後半には、炭化米や土器に残るモミ痕から稲作がおこなわれていたと
考えられる。 ただし、水田は未だ ... プラント・オパール中の炭素抽出による生産遺構の年代測定法の確立
kaken.nii.ac.jp › grant › KAKENHI-PROJECT-21300330
2019/07/29 - その結果、年代の測定精度には検討の余地があるが、
国内の生産遺構土壌については、土壌採取からプラント・オパール抽出、夾雑炭素除去、
プラント・オパール中の炭素抽出、年代測定(AMS)までの各工程について、
実用性や普及性を備え ... プラント・オパールは、植物の細胞組織に充填する非結晶含水珪酸体(SiO2.nH2O) 。
Phytolith、Opal phytolith、Grass opalなどとも。
「シリカ#生物学上 ... 年代推定の精度を上げるため、
プラントオパール中の炭素Cを利用した放射年代測定も試みられている。
プラント・オパール中の炭素抽出とその14C 年代測定の試み
名古屋大学加速器質量分析計業績報告書 ... >>732
日本の稲作は弥生からってことにしないと
万世一系が嘘になるからね
縄文時代はひた隠しにするしかないのよ あーあ、読む価値ねえ読む価値ねえ読む価値ねえ読む価値ねえ
菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも出してみろよゴミカス >>738
サギーチンクのおまえにとって、在日とか朝鮮人というのは、我々が意図する
あの在日とか朝鮮人じゃなくて、「中国から来た来た詐欺に都合の悪い人物」の事だからな(嘲笑
違うなら菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも出してみろよサギーチンク
話はそれからだ >文句が有るなら高槻市に言えよ!!
安満遺跡の発見と調査成果 - 高槻市
www.city.takatsuki.osaka.jp › ikkrwebBrowse › material › files › group PDF
縄文時代. 約1万年前に始まり、狩猟・採集が中心と考えられてきた。
→縄文時代前期から中期(6000 年∼4000 年前)には
ヒョウタン・アワ・クリの 栽培. 後期後半には、炭化米や土器に残るモミ痕から
稲作がおこなわれていたと 考えられる。 ただし、水田は未だ ... だから、菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも出してみろよサギーチンク
話はそれからだ
あー読む価値ねえ読む価値ねえ読む価値ねえ読む価値ねえ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 沿海州で稲作が始まったのは19Cだぞ
露領中米作をなしつつある地方は東部シベリアで、南部ウスリー地方の形勢に
依って判断すれば、同地方における水稲栽培は西暦紀元一千八百六七十年代に
鮮人初め露領に移住した頃より始まったもののようである
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00738109&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. ツングースなどと考えてはいけない
小便で顔を洗う民族だぞ >>755
中国が勝手に決めつけたのを真に受けては
ならない .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
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◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
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◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
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それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
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最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
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弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
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日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
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気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
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◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
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◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
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それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
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最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
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最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
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縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
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