平城京は人口10万人で高級役人100人、中級役人600人で特にそれらの貴族や役人の
住居や役所や寺院などは朱色の柱に白壁、瓦屋根で、その当時の小野老は
「青丹(あおに)によし寧楽(なら)(奈良)の都は咲(さ)く花の にほふ(おう)が
ごとく今盛(さか)りなり」とその当時の様子を歌にしました。
http://jp-isan.com/heijokyuato.html


天武天皇は計画達成途上の686年、病のために没するが、皇后であった持統天皇が
夫の遺志を引き継いだ。新都造営は当時、未曽有の大工事であった。琵琶湖の南の
田上山から水運、陸運で木材を運び、初めて瓦葺(ふ)きにした宮殿には200万枚の
瓦を用いたという。
http://www.adnet.jp/nikkei/shiseki/contents/081.html


平城京は天皇が居住する内裏、政治・儀式を行う朝堂院、政務を処理する曹司などが
おかれ四方を幅2.7m、高さ2〜5mの築地大垣(築地塀)で囲み、路地に対して
宮城門が開いていた。

内裏は白木造り、朝堂院は丹塗りで瓦葺の建物である。

東院(東の張り出しにある)では、緑釉の瓦を葺いた宮殿が建てられ、「玉殿」と
呼ばれていた。
https://japan-geographic.tv/nara/nara-heijokyo.html