[ルーツ]日本人の起源は?その3
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前スレ
[ルーツ] 日本人の起源は江南か?半島か?
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1533446967/l50
日本人の起源にまつわる話題なら
稲作起源、DNA、考古学、歴史学、地理学、科学、人類学問わずオッケーです。
*注 過剰なコピペや荒らしにはスルーで対応してください
では、どうぞ
[ルーツ]日本人の起源は?その2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1538961018/ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
古代の日本列島における人口は、紀元前3世紀から大宝律令までの1000年間に、人口15万から500万まで達した
驚くことにこの年成長率は平均して0.35%以上もあり、後半の500年に限るとその数値は0.4%近くにも上る
これは同時代に最も人口増加に成功した地域の実に4倍にもなる
>ローマ帝国の領土となる地域では前12世紀から3世紀にかけて平均して人口の年成長率が0.1%
>既に発展していた地中海の東側ではこの増加ペースがよりゆるやかであり、およそ年率0.07%であった[1]。
>それでもこの値は後の時代に比べると低い値ではなく、200年から1800年にかけて帝国のヨーロッパ部分の
>成長率は年0.06から0.07%であり、帝国のアフリカやアジア部分の人口はこの時期ほとんど増えていない
>
>比較として、1世紀から1800年にかけて現在中国の領土となっている地域の年人口成長率は0.1%であった。
ちなみに最近みつかった古墳人は朝鮮半島出身らしい
金井東裏遺跡(群馬県渋川市) 渡来系リーダーの誇り
骨の形態をみると甲太郎氏は渡来人の特徴が非常に濃厚で、
歯のストロンチウム分析からは、朝鮮半島を含む西日本で育ったと判明した。
地盤の地質に含まれるストロンチウムは地域により異なる成分比を示し
、飲み水を介して人体にも反映する。こうした分析結果から、甲太郎氏自身か、
その両親が朝鮮半島出身者と考えられるという。
甲太郎氏とは何者か。よろいをはじめ、すぐ近くで見つかったかぶとなどの所持品はいずれも豪華で、
「100メートル級古墳の副葬品。『倭人』の首長に次ぐ副将格の人物ではないか」(土生田氏)。
また、骨が示す筋肉の発達具合から、乗馬の習慣が推測される。
馬の足跡が多数見つかった点も考えると、当時、朝鮮半島由来の最先端技術である馬の生産にかかわり、
技術系トップとして開発の先陣を委ねられた人物像が浮かんでくる。だとすれば、支配者に使われる一技能者ではなく、
馬生産に当たる配下の渡来系人や「倭人」を束ねるリーダー的な人。
彼の矜持はそこに由来するのだ。当然、渡来系の人々の中にも階層ができていたのだろう。
古墳時代の地方社会で、渡来系人たちの重みは相当なものだったと知れる。未知の光景が見えてくる。
https://mainichi.jp/articles/20171023/dde/018/040/020000c 馬の発音は中国語の馬(マー)と同じ
つまり持ってきたやつが中国人か、馬を知らずに中国の発音そのまま使ってた民族 記紀によると馬は百済王から進呈されたものだとか。
牛や羊も確かそうだったような。
ただ、金井東裏遺跡の渡来形質人骨は西日本出身の弥生系の人骨とも考えられるけどな。 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 >>18
百済は中国史書には漢語まじり言語使ってると言われてる
わかりやすいのは白村江(はくすきのえ)でパクは中国語でスクは村主すぐりなどと同語源でムラの意味
馬をそのままマーと呼んでたのかもな 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 >甕棺墓
河北省で見つかってるから朝鮮半島経由だろ どうせ >>22
なら、朝鮮土器の甕棺墓じゃないと話がおかしいだろがカス 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ニヴフ/ニブフ(Nivkh、ロシア語での複数形はニヴヒ(Nivkhi))は、樺太北部及び対岸のアムール川下
流域に住む少数民族。古くはギリヤーク(Gilyak)(ロシア語での複数形はギリヤーキ(Gilyaki))と呼ばれた。
古アジア諸語に分類される固有の言語ニヴフ語を持つ。アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ツン
グース・満州系諸族やモンゴル系民族などと全く別系統の民族である。
沿海州ちゃうやん 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 日本と韓国北朝鮮のO1b1比率の違いも漢民族からの支配の受け方の違いになるのか >>32
箕子朝鮮より1000年以上前の話だ中卒チンコロ
>>33
Oはモンゴル〜満州で完了している
漢民族なんか全然関係ねえ
日本の掲示板からさっさと失せろ
ダサい!クサイ!汚らしい!醜い!
の4拍子揃った劣等人種、劣等民族のチンコロのおまえ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[2] - 紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ[3]箕子が建国した
朝鮮の古代国家[注釈 1]。古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『
1000年もないな
3500年前ってのがサバ読みかもしれないし >>36
紀元前12世紀も、殷が出自も、あり得ないね
まず朝鮮半島には中国大陸の中国土器・陶磁器も金属器も一切伝わっていない
朝鮮半島には中国大陸人の生活痕遺構が一切見られないのだ
隣の遼東でさえBC4C末頃までウラルアルタイ語族の民族であった
BC4C末頃に燕に併合され、土着の遼東人が漢化して異民族燕人になり、
以後時代の変遷ごとに異民族秦人、異民族漢人となっただけで、彼らのルーツは
中国大陸ではないのである
ゆえに箕子朝鮮が興ったのはBC4Cより前はあり得ないし、在地産の中国大陸系の
中国陶磁器も中国金属器も朝鮮半島には一切ないから中国大陸人の国でもあり得なく、
漢化した遼東郡燕人か遼東郡秦人の国であっただろう。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>37
それはその時代の統治形態のあり方によるだろう
現地のものを重んじる善政が当時の基本だったのかもしれない
それがだんだん圧政になり、民が反乱を起こすようになった
中国史書に書かれてるのはそういう流れ
史書と考古学どっちを取る? もちろん考古学に決まっている。
文字にはウソや間違いがいっぱい詰まっている。
土器はウソを付かないし、間違いも何にもない。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 証明されてないよ
沿海州から来たんだよ
おそらく沃沮 沿海州の文化はシニ・ガイ文化(BC1000〜)からヤンコフスキー文化(BC1000以降)で鉄器時代に以降する
しかし渡来人は製鉄法を全く伝えていない
これはどう考える?
中国史書にあるように、その地は支配をうけて奴隷となったと考えるのが自然ではないか?
故に渡来人Y遺伝子に中国漢民族由来のものが見られる >>46
沿海州南部はユウロウだっての
ウラジオストクは砕氷艦を配備して人工的に不凍港にしているだけで実際は凍結港
ただユウロウから1300年くらい前だから同じ集団ではないかもしれない
>>47
前池式弥生開始土器が出雲に登場するのがBC11C頃
ゆえにシニ・ガイ文化期にあたる
青銅器を伝えなかったのは、クルーに技術者がいなかったか、いても材料の銅を
産する鉱山がないため作れなかったかのいずれかだろう 漢民族が入植定着してたら、シニ・ガイ文化土器に鬲や鼎や耳の付いた器種器形や
皿や甑や釜や竈があるはずだろがカス
ったく星占いよりも当たらねえゴミ 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 >>47
>中国史書にあるように、その地は支配をうけて奴隷となったと考えるのが自然ではないか?
というか避難民だろうな
航海にでるなど自殺行為に等しい
それをあえてやったとするならばその土地に留まると命を落とす危機に見舞われていたとみるほうが自然 >>49
シニガイ文化期はまだ独立してた時期
次のヤンコフスキー文化に至って鉄器が導入される
その時期でも日本と交流があり、亀ヶ岡遺跡などはその影響を受けた
でも鉄器は入ってきてないだろ
なぜ?
ユーロウはありえない
文化的に小便で顔や手を洗うのはもっと北方の文化
それに言語にも何も痕跡が残ってない
言語的には沃沮語=高句麗語=扶余語で、高句麗語は数詞などが史書に残ってるがほぼ日本語と同じに思える
その他語彙は貧弱だが、これは縄文と混じり合った結果だろう
数字は大陸人のが強かったはず >>52
亀ヶ岡には渡来人の定着はないだろ
数回程度の交流だけでは金属器の製造技術までパクるのは無理だろ
弥生人は頻繁に半島を訪れて滞在していたから半島の金属器の製造技術を
パクる事ができた訳で
沿海州南部は定説通りユウロウだね
ウラジオストク港は凍結する港
今は人工的に不凍港にしているだけ
冬はマイナス40℃まで気温が下がるんだから、尿洗顔なんて当たり前の話だろ >>53
http://to-pa.jp/Kodi/KaigansenKY.jpg
その時期の海岸線
亀ヶ岡は明らかに大陸の影響あるだろ
あれが渡来人第一波だ
地理的に可能性が高いのが沿海州
沃沮は温暖で肥沃、五穀が実る土地と書かれてる
玄菟郡の人口20万を養うのに十分な地
それにふさわしいのはハバロフスク地方 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_of_The_east_barbarian_0.png
ハバロフスク地方をみよう
「西南が広く、東北が狭い」という東夷伝の記述にもばっちりあう
で沃沮は扶余と国境を接していないといけない
高句麗とユーロウは国境を接しない
沃沮とユーロウ、扶余、高句麗、?貊は国境を接する
半島東北部ではそれは不可能 >>54
で、それらの衣食住に関する遺跡とその考古文物や住居からの考古立証は?
できなきゃただのキチガイの願望妄想なだけ
>>55
ハバロフスクには海はない
東夷伝の記述に丸っきし合っていない
妄想乙 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 >>56
だからウラジオストクが海で東沃沮
北沃沮がその東の山を背に大海に向かう地にすんでユーロウに夏期に船で侵攻をうけた
で日本の記述、粛慎(みしはせ)が北海道に船でやってきたのは高句麗が東沃沮を滅ぼした時期
おそらく東沃沮の後ろ盾を失って北沃沮が靺鞨=ユーロウ=粛慎に屈した、その年代とかぶる
北沃沮はマッハールーとも呼ばれていたが、その地名が何故か靺鞨の民族名となっているのも
一致してないか? そして高句麗語=扶余語=沃沮は言語が同語圏
沃沮のみわずかに違うと書かれているが、基本は同語系だろう そして韓国の史書にかかれている高句麗の数詞と日本語数詞の一致
ツングース言語で同様のものがあるか? 土器片は何も語らないし嘘はいわないかもしれないが
それを解釈する考古学者は適当ででまかせも嘘もいうだろう
情報量が少ない限りヒューマンエラーは常に起こりうる
歴史解釈はそのまま受け取るしかない >>58
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東
東沃沮は蓋馬大山(白頭山)の東だから朝鮮北東部だろうが
何で東沃沮がウラジオストク港なんだよパッパラパー
で、ユウロウが冬季に海が凍結する地域=ウラジオストクを含めた沿海州南岸だろうに
定説通りで何の問題もない
>>61
おまえが一番のヒューマンエラーだろがカス! 朝鮮北東部に沃沮があって、ハバロフスク地方がユーロウであった場合
「東沃沮は扶余と国境を接する」がなりたたなくなる
どう解決しよう? 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 青銅器は最初は輸入に頼っていたが、BC2C頃に弥生人自身が製造技術を半島から
パクったんだと思われ
最古の青銅器製造遺構からは搬入した朝鮮土器は出土するものの、在地産の
朝鮮土器というものがない
だから渡来人の手によるものだとは考えにくい
稲作もそうだが、弥生人は頻繁に半島南部に赴いて滞在していたから半島南部のものはほとんど全部パクってるんだよ 朝鮮半島に居たワイ人が渡来してきて弥生人になった
朝鮮半島と交易してたのも文化的(言語)に近かったから
その後劇的な変化の起こる古墳時代だが
朝鮮半島北部のワイ人(=倭人)がある事情(おそらく倭国大乱)で日本列島に落ち延びる
それが古墳人となり列島にいた弥生人を支配し隷属させる
そのころから弥生系と縄文系の交雑がより進んでいくことになる ではなぜ外観に関わるDNA以上に縄文系の男系YDNAが優勢になったんだ? >>71
だったら弥生開始土器は朝鮮土器から始まらなきゃ話がおかしいだろが
古墳時代の朝鮮帰化人が遺した土器は新羅系と百済系の朝鮮南部のもので
朝鮮北部の土器の出土など聞いた事がない
単なるおまえの願望なだけで何も考古学になっていない 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本人の地域差について
核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。
もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。
本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。
日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。
今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。
◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。
◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。 縄文弥生を通して、日本には中国から渡来定着した痕跡遺構はない
ゆえに中国南部の影響なんかあるはずがない
エセ科学はやめろ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 古墳時代になって身長がいきなり伸びてそれまでいなかった馬がこれまたいきなり現れてそしていきなり乗馬できるようになった 笑
>古墳時代の朝鮮帰化人が遺した土器は新羅系と百済系の朝鮮南部のもので
古墳時代初期に百済なんて国は朝鮮半島南部にはないから
いい加減にしてよw 百済が朝鮮半島南部に遷都してくるのは6世紀になって 辰国って今の平壌以北の朝鮮半島北部にあった国だろ 多分 >>80-81
朝鮮半島を南北に2等分するなら、百済は朝鮮半島南部だろ
古墳時代の4C後半から秦氏のものと見られる新羅系の朝鮮陶質土器が、
4C末に日本最古のアナ窯である神戸の出合窯から百済系とも加羅任那系とも
考えられる朝鮮南西部系の朝鮮陶質土器が出土してくる
出合窯は百済王が倭に帰化した百済人のために送り込んだ陶工の窯だと考えられている
古墳期に朝鮮半島北部系の土器の出土例はほとんどない
朝鮮半島北部系の土器は飛鳥時代以降に福岡や関東に高句麗系土器が見られる程度 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 朝鮮半島の南部ってカオスでしょ
百済の遺物は6世紀を境に出土するようになる
すぐ近くの遺構からは伽?系の文物ばかりが出土
墓制もまちまち
どうしてかな?w スキタイ文化はウラジオストク経由
最初の製鉄はたたら製鉄、次が百済が
持ち込んだ漢式高炉製鉄 青銅器がオルドス青銅器が朝鮮に伝わり、朝鮮青銅器が日本に伝わっているから、
タタール製鉄も内モンゴルから遼東・朝鮮経由で日本に伝わったものだろう
その数百年後、今度は中国大陸から遼寧経由で漢式高炉製鉄が楽浪郡・帯方郡の
設置とともに朝鮮半島に伝わり、それを引き継いだ百済から日本に伝えられた 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 馬韓と新羅の全身の辰韓も違うんだが
馬韓が西にあってその東に辰韓があった
で、その両方は楽浪郡(平城付近)を含まない
扶余人が南下してきて全く別民族の馬韓を支配して百済になった 百済の建国と楽浪郡帯方郡の滅亡って、ほとんど同じ時代だよな
高句麗から逃れた楽浪郡帯方郡漢人が建国したんと違うか? 朝鮮半島楽浪郡の怪
1 玄菟郡の遼東移動の怪とは、前107年に衛氏朝鮮の跡地に楽浪郡と共に置かれた玄菟郡が、
設置後まもなくの前75年に朝鮮半島から遼東(遼河東部地域)へと大移動が行われた謎である
2 消えた万里の長城の怪とは、楽浪郡逐城県を起点とする万里の長城が朝鮮半島から跡形もなく姿を消した謎である。
3 夫余の楽浪郡攻撃の怪とは、111年に夫余が玄菟郡、遼東郡、高句麗などを通り越して楽浪郡を攻撃した事件の謎である。
4 馬韓の玄菟郡攻撃の怪とは、122年に馬韓が帯方郡、楽浪郡、遼東郡を通り越して、高句麗主導で?貊と共に遼東の玄菟郡を攻撃したが、夫余によって撃退された事件の謎である。 朝鮮半島の楽浪遺跡なるものが本当に楽浪郡の跡地なのかということ
漢の下級役人クラスの墳墓しかみつからない
それと封泥なんだがあれはA地点からB地点まで書簡を届けるときに途中で封をあけて中身をみられないようにするためのもの
だからB地点で、A地点の官印による封泥が見つかるのは当たり前
極めつけは、「夫租[草冠に歳]君」や「夫租長の印」の銀印(外臣用)が見つかってるということ
「初、右渠未破時、朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用、東之辰國、時民隨出居者二千餘戸、亦與朝鮮貢蕃不相往來」
に合致するとは思わん? たたら製鉄はウラジオストクからだよ
タタール文化は満州〜沿海州→日本だよ >>91
百済は言語が扶余語
しかし日本は百済人と会話するとき通訳(通事)つけてる
扶余語系の渡来人だったとしても言語は全く変わってるんだろうな >>92
混乱期[編集]
王莽による新朝が成立すると楽浪郡は楽鮮郡と改称され、諸県も名称変更された。その後の新末
後漢初の混乱期に、土着漢人の王調が反乱を起こして一時的[5]な独立国家を樹立したこともあ
ったが、後漢光武帝が中国統一事業の過程で30年には楽浪郡を接収している。その年(30年)の
うちに後漢は嶺東7県を廃止して、原住民の穢人を県侯に任命して独立させている。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>100
自説強化のために歪曲したらだめでしょw
浿[さんずいに貝];水
出樂浪鏤方縣,東南過臨浿縣,東入于海。
〈許慎云:浿水出鏤方,東入海。一曰出?水縣。
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8/14#%E6%B5%BF%E6%B0%B4
>東入海
東に向かって海に入るだよ?笑
豆満江ですか?w
もう一つ言っておく
木簡に関するする論文も読んだ
現地人(副葬品や墓制から)の楽浪群属吏と言ってたけど
は楽浪郡の情報を持ってることのみを以て属吏としてるんだよね
甘くない?w ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 北方系ツングースが大半
天下取ったのは百済、したがって南方系文化が
色濃くなった >>105
ぜんぜん違う
考古学的成果(?笑)と史書が全く乖離してる なんだ半島が中国の支配下に入ってると思いたくないだけの人か なんだ全然意見も反論もできなくなると認定してくるだけの馬鹿か ロシア共和国では、極東地域のウラジオストック近郊のハンカ湖畔と黒海東方に位置するコ−カサス地方のグラスノダ−スとロフトスで稲作が行われている。
日本の稲作はウラジオストクから伝わったと
考えるほうが自然ですね。 弥生土器の登場は稲作開始より少なくとも50年以上は早いから、
渡来時に稲作なんか伝えているはずがないし、沿海州以北に3000年以上前の
稲作遺構がないのにどうやって渡来時に稲作を伝えるんだよ中卒
稲作は日本にやって来てから50年以上経ったあとの渡来人の子孫たちの
時代になってから朝鮮南部からパクってきただけの話 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 遺跡がないから栽培されてないって考えが
バカすぎる
弥生時代から田んぼになってる場所に
遺跡があるわけないから >>110
ウリナラ理論は整合性もないから誰も支持しない 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 やっぱり稲作が最大の悪だね。弥生人の支配文化の象徴
しかも米で育つとクソ弱っちい貧相な体になる
英語圏だとひ弱でモテないアジア人はRicecel (ライス+インセル) とかいわれて馬鹿にされてる
>七世紀半ば、日本書紀に「都加留(ツガル)」という言葉が登場します。現在の津軽地方に住む<蝦夷>たちのことです。
>太古より縄文時代を通じて、津軽地方が想像を絶するほど豊かな土地柄であったことは、亀ヶ岡や三内丸山の高度の文化を偲ばせる巨大遺跡をみても明かです。
>稲作に頼らなくても食糧は充分に確保されていました。
>そのような風土に馴染みきった人たちと、お節介にもコメ作りを勧めにきた律令国家・中央政権との間で文化摩擦が生じたことは容易に想像できます。 日本に貧相でちっこいジジババが多いのは
華南の弥生人がもってきた稲作のせいだろうなあ
日本人の平均身長が伸びたのは欧米食を取り入れたから
つまり子供を欧米食100%で育てればもっと伸びる。これ重要
日本人が広めたくない「米vs麦」の比較
http://foodstruct.com/compareimages/rice-vs-wheat.jpg とにかく肉だろ
タンパク質は成長痛が消える=そんだけ伸びる >>121
で、弥生人が華南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が華南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
. 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 稲作をオワコン化させて、日本人全体の米の摂取量を減らす
子供にはおにぎりよりもハンバーガーを食わせる
とにかく肉を食わせる方向に誘導
これで日本人の平均身長がブーストかかる可能性が高い
日本の老人は「日本のコシヒカリは最高なんやで〜」「和食は健康にいいんやで〜」
で思考停止したザコ世代なので反面教師とすべき ヤマト民は肉のネガキャンをして、米・大豆・茶のステマに努めてきた歴史的事実を考慮しないと
潜在的な中国モノマネ勢力だから、大陸から入ってきたものをよしとして神格化する 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 日本人の地域差について
核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。
もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。
本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。
日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。
今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。
◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。
◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。 >>133
で、中国南部から九州に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、中国南部から九州に渡来定着したと提唱している頭のおかしな考古学者の
氏名と所属団体は?
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 日本人の地域差について
核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。
もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。
本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。
日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。
今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。
◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。
◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。 >>141
で、中国南部から九州に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、中国南部から九州に渡来定着したと提唱している頭のおかしな考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよクッサイ汚らしい醜悪極まる華南ブタチックインドシナロピテクス 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 100年前のアイヌと和人の写真を見比べても身長たいして変わんない
弥生人の身長が高いって設定これウソですわ 半島南東部と日本列島は沿海州からです
稲作も同時期から 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>146
沿海州南西部の刻目突帯文土器の人は
どうやって稲作して、どう調理して食べていたの? >>150
一部の日本人を引き合いに日本人に似てるとか
言わないようにね >>148
それオレじゃねえわバカ!
オレは沿海州から稲作が伝わったなんて一度も言った事などない!
沿海州に当時の稲作の痕跡遺構もイネ粒の出土もないのに稲作なんかある訳がない!
キチガイが言ってるだけだ
人を間違えるな低能
稲作は朝鮮南部、一択あるのみ
それ以前に、おまえ時系列が分かってないんじゃないか?
BC11〜12C 沿海州より渡来。島根、広島、岡山に前池式刻目突帯文土器出現
BC10C 菜畑遺跡に稲作遺跡出現
こういう時系列なのに沿海州から渡来時に稲作を伝えたと思うか? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ウラジオストクで稲作やってる
沿海州から来た連中が種籾を持ち込んだのは
間違いない 黄河文明人が揚子江文明人を襲った戦利品にたまたま種籾があって
北方諸民族が黄河文明人を襲った戦利品にたまたま種籾があって
沿海州人が北方諸民族を襲った戦利品にたまたま種籾があって
試行錯誤の結果、水耕稲作したんだろう >>156-157
だから、BC10C以前のウラジオストクの稲作遺跡と出土イネは?
単なる妄想なんかイラネエんだバカ! >>159
じゃあ何でこの板にいるんだよおまえは?
考古学は、遺跡とそこから出土する考古遺物から人間の過去の文化の発展を、
その遺物を通して研究する学問だぞ
遺跡と遺物がイヤなら、さっさと失せろ 地理・人類学版で遺跡と遺物しか語れない奴もここにいるだろ 人類学は考古学も包括する学問なんだから、遺跡と遺物が語られるのは至極当たり前の話だろ
それがおまえにとって何か都合が悪いのか? >>162
せっかくの人類学版で「考古学だけ」が語られているのが残念なんだよ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>167
だから、BC10C以前のウラジオストクの稲作遺跡と出土イネは?
単なる妄想なんか要らねえんだバカ! >>167
おまえ時系列が分かってないんじゃないか?
BC11〜12C 沿海州より渡来。島根、広島、岡山に前池式刻目突帯文土器出現
BC10C 菜畑遺跡に日本最古の稲作遺構出現
こういう時系列なのに沿海州から渡来時に稲作を伝えている訳がないだろ
稲作は渡来から50年以上あとの子孫の時代になってから朝鮮南部からパクった
もう一度言うぞ
稲作は渡来から50年以上あとの子孫の時代になってから朝鮮南部からパクった
二度と忘れるな なんで半島からパクったことになるのか?
稲作の時系列が合ってないから 時系列も合わないし、沿海州に当時の稲作遺構もイネ粒もないからだ それに最古水田菜畑からは日本最古のイネ粒と日本最古の農具とともに朝鮮無文土器の壺が一基出土してるんだよ
つまり最古水田菜畑の稲作は朝鮮南部から取り入れた
分かりやすく言えば、朝鮮南部からパクった 半島南東部と日本海側は同時期だよ
すべて沿海州から >>175
あちらの方が全然早いの
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. >>177
なら、日本の考古学者は全員、通名在日じゃねえかバカチンコロ(嘲笑 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. なぜ華北と韓国人は背が高いのに、弥生日本人はチビなの?
答:上海から来たからですw (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 沿海州でファイナルアンサーだな
亀ヶ岡を説明づけるのにも沿海州 >>182
チビは西日本、韓国も旧百済地域はチビです
東日本は大きい人が多いよ 亀ヶ岡式土器は注口土器が有名だけど、注口土器が現れた土器形式の次の段階の
土器形式になると、もう注口土器は消滅するのな
やっぱ外来系器種だから定着できずに廃れて淘汰されたのかな?
鬲型土器もそうだ
30基ほど出土しているが、次の段階の土器形式にはもうない
日本にせっかく伝わったのに短命で消えていった外来系器種もあるというお話でした それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 亀ヶ岡はそれ以前に1万点以上の土器が盗まれて売られてる
今ので残り滓 ツングースはないって
沃沮だよ
沃沮は扶余語系=高句麗語で、高句麗語の数詞が日本語とほぼ同じってのは前から言われてた
相撲などの文化をみるに元々は北方民族なんだろうけどな
ネネツにも相撲みたいな文化がある
あと支配者の象徴としての鷹という文化
https://www.youtube.com/watch?v=DifKMWB8_VI
モンゴルの鷹狩り >>191
沃沮、 濊が弥生人 朝鮮から来たなら、朝鮮土器から弥生土器が始まるはずだろ
ところが、弥生土器は沿海州南部と一致する土器から始まってるの
どこから来たのか、もう言う必要ないよね? 沃沮は朝鮮半島だろ
朝鮮半島から来たなら、朝鮮土器から弥生土器が始まるはずだろ
ハイ、沃沮は候補から消えた 沿海州から来た縄文末期のやつらは沖縄に流れていったんだろ
多分w 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 新撰姓氏録によると、近畿内の1182氏族のうち、326氏が渡来系
さらに5分類され、「百済」として104氏、「高麗」として41氏、「新羅」として9氏、「加羅」として9氏、「漢」として163氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2
昔から中国人・朝鮮人で溢れかえってたみたいだね日本 漢は百済だから、百済経由で日本へ来た漢人が
ほとんど >>195
沃沮が半島東北部なら「扶余と国境を接する」が通らなくなる 半島東北の山に囲まれた部分が沃沮であれば
高句麗とユーロウとしか国境を接しない
史書にははっきりと扶余と国境を接したと書いてる
アムール下流付近のみがユーロウ
ハバロフスク地方の山の向こうの広々とした盆地が扶余
ハバロフスクから谷をぬけて中国にいたる部分が高句麗 >>202
元楽浪郡・帯方郡漢人だろ
楽浪郡・帯方郡は4C初めに高句麗に滅ぼされ、その多くが百済に亡命した
秦氏や東漢氏は中国大陸の中国陶磁器の技術を持っていなかった
彼らが中国大陸人ではないからである
彼らが伝えたのは中国陶磁器とは全く異なる朝鮮陶質土器=須恵器であった
中国大陸には約3500年前からあった磁器が朝鮮半島で作られるようになるのは1000年前からである
その時代差2500年
朝鮮半島に中国大陸人の植民があったとは考えられないね >>204
またおまえか
ユウロウは凍港で大海に面した地域
沿海州南岸としか考えられないね 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 沿海州のオロチとかギリヤークとか朝鮮人よりブサイクなんだが
起源でほんとにええんか? マシなんてありえない
ツングースは小便で顔を洗ってたんだぞ >>206
だから沃沮は扶余と国境を接するんだって
ユーロウがハバロフスクにいたらつながりようがない 日本人の起源地の一つは中国百越なのは確定事項。これはY-O1a。
もう一つは、百越人が来る前にいたアルタイ系の旧石器人だろう。これはY-D1a2。
基本的には、この二つがドッキングして日本人のベースをつくった。
そのベースの上に乗っかったのが中国東部沿岸にいた稲作民のY-O1b2と渡来系のY-O2。
支配好きなO2がごり押しして、意地の強いO1bがこれに抵抗し、その乱れた状態を柔軟にコントロールしてきたのがD1a。
日本の歴史はこの3者の三つ巴だよ。 >>214
床が真っ平なところでしか三脚鍋は使えん。
1万2000年前の九州に真っ平な床があったと思うな親と金。 じゃあ床を真っ平にすりゃイイだけじゃねえか
あほだろおまえ そんな三脚鍋使うために、わざわざ床を真っ平になどするかよ。
縄文人にとっては、床はデコボコしていてあたりまえ。
三脚鍋のためにわざわざ世界観を変える者などおらん。 >>214
日本家屋は家の中に囲炉裏があるんだよ
その竈の脚の部分だけが五徳として
残った >>218
足の付いた土器は弥生時代後半からみられるそうだ。
中国の鼎を転用したものかどうかは定かでない。
一方、五徳は利休が茶室で使うために考えた茶道具で、鼎とは別物だな。 五徳って言い方が間違っていた、すまん
三脚五徳ってやつだな
囲炉裏は靺鞨かららしい >>220
靺鞨も土覆竪穴住居を使ったのは冬場だけらしいな。
暖かくなると、川べりなどで過ごしたそうだ。
囲炉裏はなにも靺鞨の特許じゃないけどな。 >>217
それは中国大陸だって同じ事だろが詭弁カス
おまえ真剣にバカだろ
>>218-220
縄文弥生を通して日本には鼎の出土が一切ないから、独自開発だろう
五徳型土器、三脚台土器とでも言おうか
日本最古の香炉が法隆寺のものだそうだから、中国系三足器が入ってきたのは飛鳥時代だろう
平安時代になると日本でも三足土器が作られる遺構がわずかに出現する
ただし鼎ではなく、双直耳も蓋もない鉢に三足を付けただけの粗末なもので、
鎌倉時代頃までは作られていた遺構もわずかにあった >>222
一般人は凝った作りの青銅の鼎なんか使うもんか。
青銅の鼎など高価なんだから、使えるのは床をぴたっと平らに造れる金持ちだけ。
一般人は脚の長さに長短あるような粗製の土製鼎。
床が凸凹していても問題ないように作ってある。
それでもガタガタするのなら、脚の下に何か詰めて安定させただろう。
まあ、縄文弥生じゃ、ぴたっと平らな床はないからな。 >>223
だから通常の陶鼎だろ
つか、それが何か?
むしろ基本は陶鼎だよ
8500年前に鉢に三足が付いただけのカ(禾の下に皿)が中原で登場し、
二大河下流域に広がる7000年前までに双直耳と蓋の付いた鼎に進化した
3500年前に青銅器時代に入り、殷の頃に青銅鼎が登場しただけで基本は陶鼎である
鼎は奴隷から王まで使われ、亡くなるとあの世でも食えるよう、奴隷から王まで
墓に副葬された 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 鼎はそもそもが調理用の道具で、この鼎に直接箸やホークを突っ込んで煮物を取り出すわけではなかったというな。
それに周代にもなると、祭祀用としての道具の意味しかなく、日常に用いられるものではなかったそうだよ。
そして、やがて魏晋南北朝の時代に磁器が発明されると、鼎は終焉して造られなくなるそうだ。
つまり、鼎が日常の煮物用の調理具として用いられたのは、殷の時代くらいまでということになるね。
弥生の渡来者たちが鼎を持って来なかったのも道理だよな。 >>227
ウソコキ華南ブタゴリラ乙
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>224
庶民や奴隷は竹製品を使い捨てで遺物としては残らなうい
青銅器は基本的に権力者の祭祀用
日常使いは土器や石器・竹製品 ちなみに、殷の甲骨文字に「冊」が存在する
遺物として残っていないが
竹や木の板を束ねて文字をしたためたのだろう
支那竹は万能な道具なのである >>229-230
中国では商周代の木器、竹器はもちろん、7000年前の木器、竹器が出まくってるし、
木器、竹器を直接火にかけて炊飯なんか出来る訳ないだろ
奴隷であっても鼎、あるいは鬲と甑のセットで炊飯するしかないじゃないかボケ
それに商周代の甲骨文が書かれた木簡、竹簡が出まくってるぞ
おまえホンモノの知恵遅れなんと違うか? 竹筒
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%AD%92
中国大陸や台湾では竹筒飯(中国語版)と呼ばれるおこわや炊き込みご飯に似た料理があり、地域住民が調理するほか、屋台やレストランなどで提供されている >>228
鼎は食事のときの器じゃないよ。
食材を煮炊きするための調理具。
できあがると、その鼎から煮物を取り出して食事の器に盛る。
そんな二重手間は縄・文弥生人はしなかった。
甕に食材を入れて煮て、出来上がればそれを取り出してその場で食べた。
食堂とは別のところで煮炊きするための鼎は、縄文・弥生人には必要なかったの。 >>232
それが当時にあれば、その証拠の竹筒が出土しまくるだろがカス
>>233
縄文人・弥生人も浅鉢という器に盛って食べてた事も知らんのかバカチンク
一度も使った事もないのにどうして鼎が必要がないと最初から分かるんだ詭弁カス!
必要か必要じゃないかはまず実際に使ってみて、必要じゃなければ長い年月の中で
徐々に使われなくって消えていくというのが必要のない文物の流れだろがノータリン! >それに商周代の甲骨文が書かれた木簡、竹簡が出まくってるぞ
出てないし
ちなみに周代は甲骨文字じゃなくて「大篆」と「小篆」な >>237
それ本当に読んだの?
竹筒飯を知らないあなたが 出土総数は数十万にも上るんだとよ
さすが中国、凄すぎる
木簡・竹簡の語る中国古代 増補新版――書記の文化史 (世界歴史選書) (日本語) 単行本 – 2014/11/19
冨谷 至 (著)
内容紹介
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は漢帝国の支配システムに
いかに組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの媒体も視野に入れながら、
竹簡・木簡から紙の時代へ、中国古代の書記文化の多様な展開を提示する。文字の文化史、
書物の文化史を学ぶうえで必読の書。好評の旧著に新稿2篇を増補。
内容(「BOOK」データベースより)
二〇世紀初頭、かつて古代中華帝国の辺境地帯であった敦煌、居延で、官僚や兵士たちが
書き残したおびただしい木簡群が発見された。二〇世紀後半には、中国各地から木簡・
竹簡(簡牘)があいついで出土し、その総数は数十万に上る。幻の兵法書『孫〓(ぴん)兵法』を
はじめとする書籍、字書、法律文書、命令書、契約書、帳簿、暦、札、手紙など、
内容・形式ともに多彩なこれら簡牘資料は、中国古代史研究に飛躍的な知見をもたらした。
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は帝国の支配体制にいかに
組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの記録媒体も視野に入れながら、
簡牘の時代から紙の時代へ、「紙本成立前夜」の多様な書記文化を豊かに提示する。
好評の旧著に新稿二篇を増補。 出土総数は数十万にも上るんだとよ
さすが中国、凄すぎる
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冨谷 至 (著)
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内容(「BOOK」データベースより)
二〇世紀初頭、かつて古代中華帝国の辺境地帯であった敦煌、居延で、官僚や兵士たちが
書き残したおびただしい木簡群が発見された。二〇世紀後半には、中国各地から木簡・
竹簡(簡牘)があいついで出土し、その総数は数十万に上る。幻の兵法書『孫〓(ぴん)兵法』を
はじめとする書籍、字書、法律文書、命令書、契約書、帳簿、暦、札、手紙など、
内容・形式ともに多彩なこれら簡牘資料は、中国古代史研究に飛躍的な知見をもたらした。
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は帝国の支配体制にいかに
組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの記録媒体も視野に入れながら、
簡牘の時代から紙の時代へ、「紙本成立前夜」の多様な書記文化を豊かに提示する。
好評の旧著に新稿二篇を増補。 さて、鼎がなくて炊飯可能なことが証明されました
お疲れ様でした >>242
で、当時の竹筒で炊飯したという証拠の米粒の入った竹筒は?
ハイ、出せないね
ハイ、破たん
詭弁カスチンコロ、ゴクローサン(爆 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>243
>で、当時の竹筒で炊飯したという証拠の米粒の入った竹筒は?
はい、そこが考古学のゲ・ン・カ・イ
出土しないモノは何でも拒否が出来るいい加減なガ・ク・モ・ン
燃えるゴミ(米粒の入った竹筒)を焼却(焚き火)して
原形を止めたままの燃えるゴミ(米粒の入った竹筒)が有りますか?
>ハイ、出せないね
当然です
出土する方が不思議です
焼却して原形を止めたままの燃えるゴミは有りません
それでも見てきたかのように鼎で米を炊くのが当然とのたまう考古学は信用できないのですよ
はっきり言ってエセ・ガクモンです
しかも最後には罵詈雑言とか、考古学は下品です >>244
日本の庶民は室町時代まで竪穴式住居です
小屋が建てられるようになったのは大陸から入ってきた台鉋の普及してから
しかも江戸時代だって大火が発生するくらい庶民の家に土塀なんてないです
だから考古学は嘘つきです >>245
竜信仰は遼河文明が始まりで
しかも黄河文明よりも遼河文明の方が日本列島に近いです
従って竜信仰の一形態として縄文人に伝わり勾玉となったのです
わざわざ黄河や揚子江経由で伝わる必然性がないのに
関係があるかのように騙る考古学は無駄な妄想に拘るのです >>246
詭弁カス乙
そのまま捨てられたり埋められたりした竹筒だって幾らでもあるはずだろが中卒
で、当時の竹筒で炊飯したという証拠の米粒の入った、そのまま捨てられたり
埋められたりした竹筒は?
ハイ、出せないね
ハイ、破たん
詭弁カス中卒チンコロ、ゴクローサン(嘲笑 >>247
何言ってんだおまえw
だから庶民に中国系も朝鮮系もいない事が分かって超イイ事なんじゃねえかカスw
4C後半から始まる朝鮮帰化人から朝鮮系の土壁の住居が伝わり、日本でも中央の
皇族や豪族に広まっていったが、平安時代に寝殿造が登場して土壁は局部的にしか
使われなくなった >>248
んなコト言ってる考古学者いねえし、
その証拠の日本で出土した玉龍は?
. >>247
それはない。田舎の庶民の家でも竪穴式は
ないから
しかも図面なしで、山から切った材木だけで
木造家屋を建てられる能力があったのだから 現存する民家としては日本最古の箱木家住宅
鎌倉時代頃のものだそう
壁は漆喰で塗り固めて柱を見せない大壁になっている
4C後半に朝鮮帰化人が伝えた土壁である大壁の技術がそのまま使われている
http://www.mpl.co.jp/post_157.php >>252
田舎人の建築能力はずば抜けている
いまでもそういう人がいる。
竪穴式なんて土人家屋に住む必要がない
俺の先祖の家も図面なしで、廃材だけで
建てられた日本家屋だわんw 一般的には竪穴式住居は平安時代頃まではあったらしいがな
4C後半に朝鮮帰化人が土壁の住居である大壁住居を伝えて、皇族や豪族に広がるが、
平安時代になると寝殿造が登場して独自路線を走り出した
一方、朝鮮帰化人が伝えた大壁住居は庶民に広がっていき、鎌倉時代頃の
箱木家住宅に至ると
そういう流れみたいだな >>254
おじさんが言ってたが、昔の人は家建てるくら
いは朝飯前だったらしい。
今の人とは能力が違いすぎるわ 大工はいたが、基本的に自宅は自分たちで作るものだったみたいね
現代人には分からない世界だわ >>257
神社仏閣は流石に本職の大工じゃないと
無理だったらしいが、自分の家くらいは
楽勝だった。基礎は打たないから、早く
建てれたみたい。
竪穴式なんて情けない家に住むバカは
いなかった。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. なら、とっくに弥生遺構から麺や饅頭が出土してるだろうにw
中国では4000年前の麺が出土しているし、中国で饅頭の登場は3Cだから、
弥生遺構にあるはずもない
日本に麺が伝わったのは平安時代以降、饅頭が伝わったのは室町時代以降 麺や饅頭は小麦粉から作るだけではない
蕎麦や稗、粟などからも作ることが可能 石臼は縄文時代からあり、団栗を石臼で挽いて
粉にしてたようですね .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 蕎麦を石臼で挽いて蕎麦餅にするのは
田舎では当たり前 .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>277
蕎麦は9000年前から日本で食べられている .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. 古代日本は粉文化、石臼で粉にして饅頭や
麺にして食べてた .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. 75%以上、弥生が入ると致命的にブサイクになる
見た目が中国人・韓国人と変わらないので人種的価値は低い
弥生人は失敗だった .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>298
顔立ちだけみれば、今の日本人にもいるでしょ >>297
ツングース言語の痕跡は?
これに対してはなんの根拠も示さないね
扶余語族はソースだせるけど .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. ツングース言語は桓武のときに消された
京都藤原は百済だからね 渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは形質が合わなすぎるの
ウデへ、ナナイといった沿海州南部のツングースの形質に極めて近いの
DNAもナナイと極めて近いしな
渡来系弥生人の形質が日本全体にすでに広がった後に朝鮮帰化人はやって来てるの
渡来系弥生人の形質が全国に拡散した段階で日本人はすでに完成してるの クソ不細工ダウン症民族・弥生人滅びろ
日本から出ていけ 30になってもヒゲ生えずツルツルの弥生人キモすぎる 斎藤成也によると日本人は大まかにわけて3つの古代人種のミックスらしい
一つは縄文人
もう2つについてはA系統とB系統がいて
B系統はおそらくわい人だろうと思う  濊は日本海側に多い
新羅の時代に日本へ来た 4:46に出てくるアイヌ白人にしか見えんぞ
モンゴロイド一切入ってない
Benjamin Brodsky Beautiful Japan 1918 Short Film Documentary
https://www.youtube.com/watch?v=y9JlfuJB4NU .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. グレタさんの顔はネオテニー入ってて平べったいけど
それでも目が窪んでてぱっちり二重だね
ほぼ高確率で一重のモンゴロイドはあまりにも醜い
https://www.unilad.co.uk/wp-content/uploads/2020/03/PA-51132103.jpg ヤクート人は恐ろしく弥生系日本人に似ている人がいる
弥生系日本人がヤクート人に似ているのかもしれんが
あれだけ似ていると同じ祖先を共有していると考えざるを得ない >>321
Yハプロは違うんだけど、ヤクート人と日本人は
見た目も食生活もほとんど変わらない。 バイカル湖あたりから沿海州南部に南下した北方モンゴロイドが弥生人の祖先で、
シベリア北東部に北上した北方モンゴロイドがヤクート人なのではないか?
バイカル湖あたりではまだNで、南下してモンゴル〜満州北部あたりでNOになり、
さらにOになって沿海州南部まで南下したのが弥生人の祖先で、
Nのまんまシベリア北東部に北上したのがヤクート人なのではないか? 朝鮮人
いつの世も
性欲だけは
一丁前
朝鮮半島はもともと古モンゴロイドの人種しかいなかった 未だに縄文人が生き残ってるとか思ってるキチガイっているの? なるほどね
>応神天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
>在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。
>名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、弓月君は秦氏の祖である。 アイヌ形質が強い子供を「ゴリラ」「ワキガ」と呼んで迫害
「社会人ならヒゲを剃れ」と不合理な同調圧力で縄文要素を封殺
大人になって気づいたけれど、朝鮮人の国だったんだなジャップランド .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. 現代日本人10%程度しか縄文ゲノムを引き継いでない
90%がダウン症北方モンゴロイド
オエッ 弥生人、顔のブサイクさは北方ダウン症モンゴロイド
華北・朝鮮と比べると四肢が異常に短く、ゴブリンみたいな体型
この劣等種が縄文を迫害して、日本の遺伝子プールを修復不可能なレベルで汚染したのは最悪の悪夢
オエッ .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 隠れアイヌ:
木村光佑、木之元亮
エミシの子孫:
三船敏郎、仲代達矢、山本KID、長嶋茂雄、飯沼貞吉、高橋是清
沖縄・奄美系:
朝潮太郎、山田孝之、真田広之、金城武、定岡正二、中孝介、小島よしお、上間綾乃、南沙織
GIレイプベイビー(戦後の米国占領期1945-1952年生まれに集中):
草刈正雄、鮎川誠、青山ミチ、泉アキ、カシアス内藤、西川ヘレン、スティーブ・フォックス、高橋紀子、山本リンダ
GIレイプベイビー疑惑:
谷隼人、松岡きっこ、安室奈美恵の母親、観月ありさの母親、浅野忠信の母親
ナゾ(縄文にしては恵体でコーカソイド的な体格):
平井堅、長瀬智也、谷中敦、阿部寛
太眉の縄文系女性:
オノ・ヨーコ、井上咲楽、シシド・カフカ、小田茜、早見あかり、平祐奈、野川由美子 映画「コタンの口笛(1959)」こっから落とせる
https://scalisto.blogspot.com/2012/09/mikio-naruse-kotan-no-kuchibue-1959.html
アイヌの子供が差別される問題、和人・シャモとの衝突、アイヌ風習を金儲けに利用、鮭漁の禁止、等おもしろトピックてんこ盛り ワレらが自然とともに1万年以上も平和に暮らしていたこの列島に、ある日、朝鮮半島から一重まぶたでのっぺり顔の弥生人がやってきました。
「縄文人のみなさん、どうかお願いします。朝鮮半島が戦乱で逃げてきました。しばらくここにいさせてください」
快く迎え入れ、飢えているのを見かねて、魚や獣を差し入れてやったこともあります。
ところが、朝鮮半島より列島の方が稲作というものに適していることが分かると、やつらは恩を忘れ、ワレらに向かって、
「邪魔だから田に近づかないでくれ」などと言うようになり、遂には、「この土地は昔から俺たちのものだ」と言い出しました。
それからというもの、やつらは「福は内」と言って朝鮮半島から仲間を呼び寄せ、「鬼は外」と言ってワレらに石を投げつけました。
特にひどくなったのは、飾り付けられた馬に乗った人たちが来てからです。
そして、やつらは「今日からこの列島を日本ということにした。土蜘蛛、蝦夷は鬼は外」などと言いながら、ワレらを追い払おうとし、抵抗する仲間を殺しました。
本土で生き残った者は、前方後円墳造りを強いられ、耕作に適さない湿地や山地に追いやられました。
すぐに攻撃は東北や南九州にまで及びました。
東北では、ワレらの英雄がやつらに一泡吹かせましたが、騙されて京都に連れていかれ、殺されました。
ワレらの楽園は蝦夷地と琉球だけになってしまったのです。
それからしばらく、蝦夷地と琉球だけは平和でした。
ところが、千年ほど経つと、やつらは蝦夷地や琉球にまでやってきました。
蝦夷地の仲間は騙し討ちにあい、土人と呼ばれ、琉球は王朝を築いて発展していましたが、これも征服されました。
その後、奥二重まぶたで出っ歯の弥生人は戦争に負けました。
その時、琉球のワレらの仲間は、「同じ日本人だから」というやつらの言葉を信じて協力しましたが、敵の弾除けにされたくさん死にましました。
スパイの濡れ衣で殺された仲間もいますし、泣き声で敵に見つかると言われ殺された赤子もいます。
蝦夷地では、ワレらの仲間を土人と呼ぶのをやめよう、先住民族と認めようということになりました。
ところが、鮭を獲ることさえ妨害するのです。
最近は、アイヌはいない、アイヌは成りすましなどと言い、琉球のワレらの仲間も土人と呼んで侮辱しました。
蒙古襞があってのっぺり顔の朝鮮半島からやってきたやつらは、ワレらとは違う人種です。
ワレらには、本土日本人と韓国人は同じに見えるし、遺伝子的にも同じだそうです。
それなのに、本土日本人は、先住民のワレらと同じ人種だと嘘をつく一方でワレらを土人と呼ぶのです。
韓国人と同じクラスターの本土人は、「同じ日本人」と「土人」を都合よく使い分けるのです。
これが、日本列島全体の先住民であるワレらから見た日本の歴史です。 弥生系は稲作を伝えてくれたからまだいい
問題は「朝鮮系」
目一重で酒飲んでも顔赤くならない奴は決定的な侵略移民 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. >>359
ツングース言語の痕跡は?
これに反論できないね .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. 脱毛エステは在日経営か?
グーグルで「ヒゲ」でググると脱毛エステや「ヒゲ男は女子にモテない!男は身だしなみが大事!」みたいなステマ記事多数
こいつら山田孝之みたいなぶっといヒゲ生やせる縄文男児が目立つと困るから
この手のステマしつこくやってるんだろ ◇◆◇ 日蓮と法然 ◇◆◇
両者ともに鎌倉時代の僧侶だが、その教えは大きく違う。法然が来世での救済を説いた
のに対し、日蓮は現世利益を説いた。病と信仰の関係についての主張もまったく異なる。
日蓮「此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかな
る病さはりをなすべきや」(『経王殿御返事』)
法然「宿業かぎりありて、うくべからん病は、いかなるもろもろのほとけかみに祈ると
も、それによるまじき事也。祈るによりて病もやみ、命ものぶる事あらば、たれか
は一人として病み死ぬる人あらん」(『浄土宗略抄』)
今般のコロナウィルス禍にあたって、創価学会の本部は、唱題会などの会合を中止した。
日蓮の教えに従い南無妙法蓮華経を唱えても、病魔に勝つことはできないと認めたのだ。
※ 現在の創価学会本部は、病気に関する限り日蓮よりも法然に近い考えを取っている。 .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 韓国の南部から2-3%の割合で縄文Dが検出
韓国の北部とチェジュ島では0-1%
>Kim et al. (2011) found Haplogroup D-M55 in
1.6% (8/506) of a pool of samples from South Korea,
including
3.3% (3/90) from the Jeolla region,
2.4% (2/84) from the Gyeongsang region,
1.4% (1/72) from the Chungcheong region,
1.1% (1/87) from the Jeju region,
0.9% (1/110) from the Seoul-Gyeonggi region, and
0% (0/63) from the Gangwon region.[16] 沃沮は漢民族の支配を受けていたと史書には書かれている
実際渡来人のハプロからは中国系Oが結構な率で出てくる
渡来人の時代、沿海州のヤンコフスキー文化は鉄器時代である
しかし渡来人は鉄器を全く伝えていない
支配層の漢民族だけが鉄器の製法を知っていた、もしくは輸入していた
で漢民族に恒常的にレイプされ続け、その遺伝子を持った底辺層が逃げた先が日本
しかもそこでも優位に立つどころか、縄文人に女を差し出して、Y遺伝子の3割が縄文系になるまで陵辱されて
そこまでしてやっと縄文人に受け入れられたのが渡来人
ただの負け犬やんけ 馬鹿馬鹿しい
そもそも沃沮が日本に渡来定着した事が証明できる在地産の朝鮮土器遺構がない
脳内妄想サギーチンク乙 >>379
朝鮮耳とか糖質のキチガイネトウヨの造語だけど
これはワロタw
>韓国の南部から2-3%の割合で縄文Dが検出
縄文Dとかこの言い方がクセモンだよな
Dのサブグレードでも縄文人から見つかってるのは限られてる
日本でも確実に縄文人から見つかってるタイプは少数派(すなわち縄文人直系は少数派)
多くのDのサブグレードは縄文人から未だに発見されていない >>378
沃沮じゃなくてもさ
渡来人が沿海州から来たなら同じ状態ってことだよ
漢民族のYDNAを含んだ負け犬がさらに縄文のDを3割にするまで女を陵辱され
完全な負け犬だろが Oの起源はモンゴルから満州北部だから、負け犬は中国大陸の方w .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. 沿海州と半島南部と両方だろうな
北方系が沿海州から日本へ南下して
そのあと南方系が半島南部から日本へ来た。 >>384
ツングース、モンゴルのCなんか漢民族はないわけだが なんでも縄文人にするキチガイ
縄文人が現代にいるわけねーだろ馬鹿 >>391
こんな顔韓国で見つけるのは1万人に一人くらいだぞ
なんつたってアイドルでさえみんな一重でせいけーするんだからな
たぶんそいつは日本の縄文系との混血か近い先祖に外国の血が入ってる 韓国人は10人に1人は日本人にかなり近い顔をしている
韓国人は全体的にあんまり薄い顔をしておらず、ヒゲも思ったほど薄くない
全体的に日本人と比べるとやや薄い顔でやや体毛が薄いというだけで、
個別に見るとかなり濃い顔や体毛が濃い人やヒゲ面も多い >>399
華南サギーブタニグロゴリラのおまえがな 旧高句麗エリア、旧新羅エリアは
日本人と見分けつかんよ さすがに一万に一人は言い過ぎだけど百人に一人いればいいほうかな ネトウヨってキチガイ老人だよな
まじでとんでもないセルフイメージ持ってそう
まとめて精神病院に措置入院させてからコロナで死なねーかな 【告知】大阪で1番恥さらしな男!!これまで誰一人として語れなかった覚醒剤中毒者の泥沼の世界!!そして警察官、刑務官、裁判官のええ加減さを真実のみを赤裸々に語り最低中の最低の究極のゴキブリ男が恥を承知の上で書いた渾身の力作!!
ノンフィクション自叙伝!!
【ゴミと呼ばれて刑務所の中の落ちこぼれ】
中学2年の時に覚醒剤を覚え17歳から45歳まで【少年院1回、刑務所8回、合計20年】獄中生活を体験したが、ある女性との出逢いで生き方を180度変えて鉄の信念で覚醒剤を断ちきり見事に更生を果たした感動の奇跡の一冊!!
全国の書店&ネット通販でどうぞ!! 長頭マップ
Doliocephalic
http://humanphenotypes.net/metrics/ci-doliocephaly.html
長頭はクロマニヨンやネアンデルタールなどの初期の人類の間で広がった。
今日では、アフリカ、インド、オーストラリア、ニューギニアなどのトロピカル地域でよく見られる。
欧州では、スペイン、南イタリア、北欧、英国などの地域で稀に見られる。
アメリカ大陸ではイヌイットによく見られる。東アジアではアイヌによく見られる。 薄い体毛マップ
Weak body hair:
http://humanphenotypes.net/metrics/weakbodyhair.html
薄い体毛は全大陸のさまざまな気候帯でみられる。
とくに薄いのが東アジアのモンゴロイド。ヒゲがかなり薄い。
理由は不明だが、おそらく北中央アジアの厳しい冬と関係しているのだろう。
北アフリカ地域の人々も体毛が薄い。
アメリカ大陸のグループも体毛が薄い。東南アジアとポリネシアも同様。 >>410
ひげが全く生えないのが北米インディアン
脇毛もはえない
しかもハゲない
シミもつかない(日焼けしやすい)
ルーツは北極圏生活者や(ネネツみたいな) https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&fr=sfp_as&aq=-1&oq=&ts=5509&p=long+hair+native+american&meta=vc%3D
こういうイメージ
めちゃかっくいい .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. ツングースなわけはない
ツングース語の痕跡が全くないんだから 渡来人、亀ヶ岡の時代は沿海州はヤンコフスキー文化という「鉄器文化」なのである
しかし渡来人は鉄器を全くもたらさなかった
支配層だけが鉄器を使い、被支配層はそうではなかったのだ
YDNAに漢民族由来のDNAが交じる渡来人は漢民族に支配され、レイプされ、逃げてきた民族 坂上田村麻呂は漢系渡来人の子孫だから、Y-DNAは確実にO系だった
東北に住んでいたエミシさん達は確実にD系
つまり蝦夷討伐とは大陸からきた侵略者に原日本人が大虐殺された話
そんな酷い歴史を英雄譚として教えてるのがジャップ史。死ね朝鮮ジャップO系ヤマト弥生稲作渡来人 >>419
弥生人が渡来したのはBC11C頃のシニ・ガイ文化期だから青銅器時代だろ
クルーに技術者がいなかったか、いても材料がないから作れなかったか
青銅器には銅と錫が必要だが、それを産する鉱山さえ渡来一世には分かるはずもなく、
この世を去ったはずである
それにOの起源地は中国ではなく、モンゴルから満州北部あたり
YDNAに漢民族由来のDNAなんてものはなく、むしろ南下したOに漢民族がレイプされ、
凌辱されて今に至るのである >>420
漢系渡来人と言っても中国大陸人ではない
いるのは縄文晩期に沿海州南部から渡来した弥生人と4C後半以降から始まった朝鮮帰化人だけである
東漢氏は高句麗に滅ぼされた元帯方郡漢人の百済人と高句麗人であり、帯方郡漢人は遼東郡漢人が
祖先である
遼東郡漢人は戦国時代中頃に燕に併合され、否応なしに漢化させられた元はウラルアルタイ語族の
遼東人である
遼東郡漢人は異民族漢人であり、漢の武帝の命で朝鮮侵攻し、楽浪郡や帯方郡を築いた
楽浪郡と帯方郡は高句麗に滅ぼされた後は百済と高句麗に吸収され、一部は倭に帰化した 脱毛エステはやっぱり在日経営っぽいな
メディア・ウェブ記事を駆使して「社会人ならヒゲを剃れ!」
「男は身だしなみが大事!」「ヒゲ男は女子にモテない!」などと執拗ステマ
日本の遺伝子プールに、かすかに残った毛深い縄文要素を容赦なく潰しにかかる
そんなO系つるつる弥生チョンの同調圧力にまんまと引っかかる馬鹿な日本人
朝鮮人に見事に乗っ取られた国がヤマト・ジャップランドです >>421
>それにOの起源地は中国ではなく、モンゴルから満州北部あたり
そんな古いわかりもしない時代じゃなくてさ
半島系のOとは別の漢民族のOがあるのは確定だろ >>420
虐殺されたのならYDNAで3割ってのがおかしい
形質面では渡来系が強いし遺伝子研究でもそういわれる
しかし縄文の男系遺伝子が3割超えてるんだよ
渡来人のが下で、縄文人に女を差し出したんだよ 混血初期の段階では縄文が優勢だった
弥生女が多産で、縄文女よりも多くの子を生んだ
次第に混血児と弥生が数で優勢になり、以後今日まで日本を支配
弥生と混血しなかった硬派な縄文男・女は北の僻地へと追いやられ、それらがアイヌとなった
ふつうに考えるとこうなるな >>424
だから、それらの起源地がモンゴルから満州北部あたりなんだよ
中国大陸や満州南部、沿海州南部、朝鮮半島に南下してから取捨選択されて
中国大陸とそれ以外とに大きく二つに分かれた
>>425-426
九州北部から山陰にかけての弥生遺構から渡来系弥生人骨が数千体出土しているが、
もちろんこの人骨全てが渡来してきた訳ではない
列島に来てから増えていっただけだ
最初に渡来定着した渡来人一世は多くても数十人規模だろう
徐々に人口を増やしながら山陰から九州北部にかけて広がっていったが、
半島から稲作が伝わり、狩猟採集経済から生産経済に移行したため、
安定した食料確保が可能になって人口爆発を引き起こし、その子孫たちが
西日本中に広がり、最終的には日本全国まで広がっていったのだろう
渡来系が増えたのは農耕による生産経済での食糧事情と大きな関係がありそうだ >>427
ないな
タイとか東南アジアでOの変種が多いんだから、漢民族が南部から上がってきたと考えるのが自然
時制のない言語も東南アジアに多いし
東南アジア少数民族もO ツングース、北方人種とつながりが多いのなら、漢民族にもっとC2やNがいてもいいはず ハプログループO1b2 が沿海州、半島の民族
ハプログループO1a が台湾先住民など
O2が漢民族で後発グループ
まずO1系統が北上して、遼河文明などのハプロNの影響を受けた
その後、シュメールから始まる農耕革命が中央アジアから広がり、
チベット語の影響とともに漢民族O2が広がった >>428-430
中卒乙
OはNから生じたんだから起源地は北方しか考えられんの
モンゴルから満州北部あたりで生じて東南アジアやポリネシアまで広がった >>431
それはウスチイシム人とか、はるか以前の話だろ?
NからじゃなくNOからだし Nは北方生肉食尿洗浄集団だが
彼らの生活形態は北方だけじゃなく、山岳地帯にも応用できる
平野部にクロマニョンに近い民族がいようとも、山を移動すれば南下できるのだろう Oは南部にたどり着いて膨大なサブグレードを生み出し、そして広がった
一部はマダガスカルに到達した 日本人の起源
世界の色んな場所の人達が集まって日本民族となった >>435
出雲族はアーリア族のインド侵攻、略奪を忌避した先住民のドラビタ族の地方王国、クナ国が日本に移住した。
日本の信仰、習俗、更には言語迄あらゆるもののルーツ。
出雲(ドラビタ族)は人口の少なかった古代に我が国で初の統一王国、出雲王国(元々、イズメの国)を建て(BC-660年頃)約700年弱にわたり全国を統治、影響下においた。
このインパクトは現代に至るまで連綿と継承され日本人の生活のベース、規範となっていますよ? >>437
で、出雲族がドラヴィダ人である事を証明する衣食住に関する生活における
ドラヴィダ系生活文物とドラヴィダ系住居である丸い壺が特徴的な
ドラヴィダ系生活土器と煉瓦を使ったドラヴィダ系住居と麦食文化は? >>437
日本でもアーリア族に滅ぼされたわけですな 若いので縄文入ってそうなのいる?
山田孝之と山本KIDを最後に縄文感ある有名人を見てないんだが 青谷上寺地遺跡の父系ハプロについて、こんなブログが…
https://tottoriponta.hatenablog.com/entry/43895651
先週末の3/2(土)、鳥取市のとりぎん文化会館で開催された弥生時代の遺跡に関するシンポジウム「倭人の真実」に参加しました。
会場となった小ホールの座席数は全500席、開演前にはそのほとんどが埋まっており、県民の関心の高さを感じました。
今回のテーマとして取り上げられた上寺地遺跡の詳細については、wikipediaの「青谷上寺地遺跡」などを見てもらえばよいのですが、
発掘物の保存状態が極めて良いことから「弥生の宝庫」とも呼ばれているそうです。今回の講演の目玉は、
何と言っても、青谷上寺地遺跡で発掘された殺傷痕のある大量の弥生時代の人骨のDNA分析の結果の公開でしょう。
弥生人のDNA分析については、今までは九州出土の人骨のみでの分析が行われてきており、九州以外での弥生人集団の骨の分析は青谷上寺地遺跡が初めてとのことです。
このシンポジウムでは、「この上寺地遺跡の分析によって今年が弥生時代の『DNA元年』となった」というような表現が目を引きました。
国立科学博物館の篠田謙一副館長による講演「DNAが語る青谷の弥生人」の概要を以下に紹介します。
最近盛んにおこなわれるようになった古代人骨のDNA分析ですが、その分析対象には、母系を示すミトコンドリア、
父系を示すY染色体、全遺伝子の交配度合いを示す核ゲノムの三種類があります。分析の難しさもこの順に高くなります。
(1)ミトコンドリア
昨年11月の時点で既に公表されていますが、この遺跡の人骨から確認された29の母系系統のうち、
縄文人固有の母系を示すハプロタイプはM7aの1系統のみであり、残りはすべて弥生時代になってから大陸から渡来した渡来人に固有の母系系統系統であったとのこと。
このことから昨年の時点では、「殺傷痕のあるグループの大半は渡来人で構成され、しかもその構成は多様であり、
外部から青谷に来て短期的に滞在していた可能性が高い人々」と解釈されていました。
(縄文人のミトコンドリアハプロタイプの中で縄文人固有なタイプとしては、N9bが58%、M7aが25%、D4h2が9%、合計で92%。
現代日本人では、縄文人固有のそれはM7aが8%、N9bが2%であり、合計10%。
対して、上寺地遺跡での縄文人固有のミトコンドリアハプロタイプはM7aのみの3%。確かに、上寺地遺跡では、
現代日本人での比率よりもさらに渡来系の比率が多くなっています。 参考:wikipedia「縄文人」)
(2)Y染色体
父系を表すY染色体のハプロタイプについては、現在4体の分析が終わっているとのこと。
そのハプロタイプは、Oが一体、C1a1が2体、Dが1体。このうちC1a1とDタイプは縄文系かつ日本列島に固有なタイプ。
Oタイプはその大半が大陸の漢民族に含まれており渡来系とのことです。つまり、少なくとも4体中3体が縄文系ということになり、
ミトコンドリアの分析結果とは相反する結果となりました。まだ分析数が少ないので断定的なことは言えませんが、弥生末期になっても縄文的要素が多く残っていた可能性が高くなってきました。 C1a1が2って親族関係かな
C1a1は謎な遺伝子
クロマニョン系だし .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
しかも同じく中国には7000年前からある竈(=火へんに土)も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. A study published in the “Journal for archeological science” by Boulygina et al. 2020 analyzed ancient Koban burials
and found a high number of paternal lineage D1a2a1 which is commonly found among the Ainu people in northern Japan and southeastern Russia.
Another lineage was J2.[7]
https://en.wikipedia.org/wiki/Koban_culture >>464
コバン文明の遺跡からアイヌと同じD1a2a1が大量に出たって書いてある コバン文明、古代の北・中央コーカサス地方に栄えた文明
縄文人はコーカシアンだった >>465
D1a2a1って記号は変わるから
SNP名が知りたい オセチア人が追加
D1a2 (M64.1/Page44.1, M55) Japan(Yamato people、Ryukyuan people、Ainu people), Russia, Ossetia >オセット人(オセットじん、Осетин; Osetin)は、カフカース地方の山岳地帯に住むイラン系民族。
>主な居住地域はカフカース山脈をまたいで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国と(2015年4月まで日本国政府が「グルジア」の外名で呼称していた)ジョージア国の南オセチア自治州に分かれている。
>総人口はおよそ60万人。オセチア人とも呼ばれる。 >>470
サンクス
サンプル8番の人骨からBTのSNPとD-M533系SNPとR!bのSNPを検出したという表かな?
.[7]の論文は有料(US$31.5)だから買って読んでないけど、少なくとも縄文は関係なさそう Zayukovoの埋葬地から発見されたなかで、レアなミトコンドリアHVをもつ男性の個体があった。
このミトコンドリアは最終氷河期と新石器時代にコーカサス地方からヨーロッパに浸透した。
さらにこの男は、父系の遺伝子も通常とは異なり、Y染色体は東アジアで広くみられるD1a2a1だった。
>Among the burials, the male individual from the burial Zayukovo-3 stands out with a rare HV mitochondrial haplogroup
>that penetrated Europe through the territory of Caucasus after the last Ice Age Maximum (26.5 - 19 thousand years ago)
>and in the Neolithic period (10 - 3 thousand years ago).
>Moreover, this man was different with an unusual genetic origin and the paternal line,
>the haplogroup of the Y-chromosome of this sample D1a2a1, has been widely described in Eastern Asia. >>472
470のhttps://d.radikal.ru/d11/2004/b2/4eef6ec9a952.pngにあるSNP「Y14883」はユーラシア・チベット系のD
>the haplogroup of the Y-chromosome of this sample D1a2a1, has been widely described in Eastern Asia.
>東アジアで広くみられるD1a2a1
とは、ISOGG Y-DNA Haplogroup Tree 2018 Version: 13.307 Date: 24 December 2018 による表記で
ユーラシア・チベット系のDを表します
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1y8RwZAbBlJPAnZHC9WenR6gjcH9BjSG7QprLgbgxnoA/edit#gid=437997455
の60行目、1198行目を参照。D1a2a1は最新の2020年版とは異なります
ちなみにYfullのツリーではhttps://www.yfull.com/tree/D-P99/
ISOGGは2019年版を確定しませんでした。そのまま2020年版に引き継がれています
更に、「東アジアで広くみられる」と言っており、日本限定とはしていません
また、470のロシアのフォーラムhttp://forum.molgen.org/index.php/topic,12663.0.htmlでは
普通にチベット(のD)の話題をしていて日本は一言もでてきません
最新のISOGG 2020年版を見ていれば、日本を語るときはアンダマンにも触れるはずです。しかもアンダマンは東アジアではありません
このことから、464の記載はは読み間違えか捏造ではないかと思われます .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. >>475
Mitochondrial and Y-chromosome diversity of the prehistoric Koban culture of the North Caucasus
Received 21 November 2019, Revised 2 April 2020, Accepted 2 April 2020, Available online 18 April 2020.
この論文が投稿されたのは去年(2019)の11月21日
>ISOGGは2019年版を確定しません
つまり既に確定されているISOGG 2018年版の「D1a2a1」を見るべき
その証拠に、縄文人は全く関係ないので、
この論文が日本では全く話題にならないのです Wikipedia の「縄文人」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA は
論文を読まない奴が書いてる
>船泊5号のY染色体ハプログループがD1a2a2a(D-CTS220)であることが判明した[16]。
この[16]は講演用のレジュメで論文では無い
正式な論文は「Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari
site in Hokkaido, Japan」(Received 18 April 2018; accepted 15 April 2019)であり、
ここに船泊5号(Funadomari Jomon male (F5))のY-DNAハプログループの決定過程が書かれている
The Y chromosome of F5 belonged to haplogroup D1b2
(Supplementary Table 5). F5 had not only two of the eight
D1b2a-specific mutations but also one D1b2b-specific mutation. Mutations characterizing D1b2a subhaplogroups
(D1b2a1 and D1b2a2) were not observed. To clarify the
phylogenetic position of F5 within the D1b2 lineage, we
constructed a maximum likelihood tree using the Y chromosomes of F5 and 1233 modern human males. F5 was located
in haplogroup D1b2 and clustered with NA19004 (a modern
Japanese individual), who belonged to D1b2b (Figure 5).
NA19004 shared some D1b2a-specific mutations with F5,
indicating that some of the SNPs characterizing D1b2a may
be shared between D1b2a and D1b2b. Therefore, we concluded that F5 belonged to D1b2b (Table 2).
>したがって、F5はD1b2bに属していると結論付けました(表2)。
これは
船泊5号のY染色体ハプログループがD-CTS68であることが判明した
ことを意味する
正式な論文を引用していないWikipediaの「縄文人」は間違った記載をしているので注意が必要だ 縄文式土器はロシアにも見られる
どんくらい広く生息していたのか >>1
西アジアや東欧的な遺伝的要素を持っていそうな日本人
・毛髪が天パ
・顔が面長
・デコが広い
・唇が厚い
・耳たぶがある
・顎がある
・Eラインが出来ている(ごぼ口ではない)
・髭が濃い
・胸毛がある
・後頭部が出ている
・筋肉質(筋力が強い)
・瞳の色素が薄い
・鼻筋が通っていて鼻が高い(鉤鼻など)
・色が白い(日焼けすれば黒くなる)
典型的な東アジア人(中国・朝鮮)や東南アジア人の遺伝的要素が強い日本人
・毛髪が直毛
・顔が丸顔
・デコが狭い
・唇が薄い
・耳たぶが無い
・顎がない
・ごぼ口(猿口)
・髭が薄いorない
・胸毛が無い
・後頭部が絶壁
・筋肉少ない(筋力が弱い)
・瞳の色素が黒い
・鼻筋が無く鼻が低い(ぺちゃんこ鼻、団子っ鼻など)
・地黒 .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>493
夏の勢力範囲や影響範囲なんて中国内で点であるだけだぞ
長江下流域が中華と同化して面になったのは戦国時代以降。
この当たり前の歴史的事実が抜け落ちてるからお前は頓珍漢なんだよ 夏・商・周まで都市国家で王や候が住む邑の四方数十キロ圏内に
無数に服属してない所謂四夷が蟠踞していた
黄河と長江の間の地域にほんの少し統一的文化が広まったのは
せいぜい2500年前だな。これだって大目にみての話で
中国の文化統一の始まりは楚が滅びた2200年前が妥当だろう。 Paleolithic to Bronze Age Siberians Reveal Connections with First Americans and across Eurasia
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S009286742030502X
ハイライト
上部旧石器時代のシベリア人はアメリカ大陸の最初の民族との深いつながりを示しています
バイカル湖地域の古代北ユーラシア人の祖先の1万年の連続
新石器時代から青銅器時代への人口形成は、長期にわたる局所的な混合によって発生しました
青銅器時代初期のユーラシア地域におけるヒトとペスト菌の長期移動
https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S009286742030502X-fx1_lrg.jpg
論文を読んでないけど、
北方縄文人はバイカル湖を行ったり来たりしてたのかな? .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. Oはモンゴル〜満州までで完了してる
中国に入ってから、出戻って朝鮮と日本に拡散したというのは大間違い その説は誰の?
Oといっても漢民族のOとO1b2は違うぞ
遼河文明が北方のNのみだったが次に発達してきたのがO1b2(付与、沃沮系) >>513
この図↓のO-M134とO1b2のルートな
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Migration_map_of_Y-DNA_haplogroups_in_East_Asia.png
これらのルートは大間違い
まず縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国系の
衣食住に関わる生活痕遺構がない
全く考古立証できないし、全く考古整合していない
2億%間違いである 沿海州が沃沮で中国の史書どおりなら
O1b2は奴隷にされてただけだし、鉄器を持った漢民族に支配受けてた
で渡来人に漢民族のOが交じる
鉄器も持ってきてないし、ましてや中国文化なんて持ってなかった >>515
クルクルパー?
沿海州はユウロウだし、ユウロウはポリツェ文化で鉄器時代だぞ
>で渡来人に漢民族のOが交じる
おまえ池沼だろ
渡来人が渡来した縄文晩期はユウロウが出てくる三国志が書かれた時代から
1300年くらい前のBC11Cだぞ
漢民族なんかいる訳ないだろ
O-M134とO1b2のルートは2億%間違ってるし、デタラメです! 億様・株レシピが噂通りによく当たる。
自分も見事に株式で億万長者になれたし。 >>516
箕子朝鮮の時代だろ
東夷諸国はモロ中国の支配下だぞ
で、ポリツェ文化(鉄器時代)
支配層が漢民族ってことだ
そしてその名残からか東夷って民族はまとめられてる感がある
つまり沃沮、扶余、高句麗系の民族に近いのが原住民としてあって、それらを漢民族が支配していた
で、日本語=高句麗語の類似(これを調べろ) ユウロウは文化面でみても農耕民族とは程遠い
人類は農耕で増え広がったんだから、農耕を受け入れた民族と土地でなければいけない
三国志東夷伝で農耕を主体としてやってる民族を見ろ >>518
で、ユウロウことポリツェ文化の支配層が漢民族という証拠は?
華南マライフルブタチーノのおまえ >>520
ポリツェ文化の支配層が日本に来て紀元前3世紀ごろまで交流してたなら鉄器伝えてるだろう
伝わってないってことは奴隷とかが来たんだろう
漢語が伝わらずに高句麗=扶余=沃沮語系が入ってる
そしてツングースのC2が本土人はアイヌ程度にも入ってない、朝鮮半島(李氏朝鮮、満州系に支配うけた)より少ない
O1b2の扶余系と漢民族のOしか入ってきてない(被支配層でもレイプされればYDNAには入る)
漢民族に支配うけたってのは中国史書に書かれてることだ
その時期(箕子朝鮮の時代)に鉄器持ってたのは東方では漢民族だけ 日本が金だして考古学調査させたらいいのに
人骨のYDNA調べれば即座にわかるだろ
アイヌ以外の日本に来てないツングースのC2が大量に出てくるだろうか? >>521
バーカ
ポリツェ文化はBC2〜3C頃に始まるのに、どうしてBC3Cまで交流できるんだよカス
縄文末に出雲地方に刻目突帯文土器人が渡来したのはその7〜800年前の
シニ・ガイ文化時代末からヤンコフスキー文化時代初め頃だぞ
青銅器時代や鉄器時代だと言っても、どこの国でも金属器は奢侈品なんだから、
鍛冶職人なんか百人に一人もいないだろ
渡来人のクルーに鍛冶職人がいる確率なんて数%もないはずだ
それに遺伝子の頻度なんて関係ない
移動した場所に適せば増え、適さねば減って、姉妹にゃ消滅するだけ
それに漢民族のOなんてものもない
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる生活痕遺構が
全くない
O-M134とO1b2のルートは完全に間違い ポリツェ文化= 挹婁
立派な鉄器文化 >>523
間違えた
ポリツェ文化というのは前1000年記か
でもヤンコフスキー文化というのも鉄器時代で沿海州はかなり古い鉄器文化を持つ
>どこの国でも金属器は奢侈品なんだから、鍛冶職人なんか
職人というより、製法の知識自体をもれないようにしてたんじゃね
「どこにでもある赤い土で作れる」なんてことも漏らさないようにしてた
それが知られるようになったのが弥生時代の倭国が半島南部に遠征に行ってた時期なのか https://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループO2_(Y染色体)
これは明らかに漢民族、シナチベット語族のOだろ
下位系統がチベットにあるし
チベットあたりにルーツがあって、中央アジアからの農耕の広がりによって爆発的に広がった .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
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◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
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それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
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弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. ツングースではないからな
ツングース語が入ってきてない ところでこれはいつもゆうとることだが
自称愛国者ネトウヨちんたちといった自称ナチュラルビューティーの
髭も鼻毛の(あるならばw)髪も常時のばし放題の
ホームレスみたよなおっさんども、いるよな?
なぜか風呂とかやたら嫌ってる一団なw
あいつら、なんか2ちょんのそこらのスレ見ると
装身具とかアクセサリーの類を極端に嫌っていて
そういうのをつけない女こそが大和撫子の清純派とか、
実に外見通りのキモいことをいっては()日がなホルホルしているがw
あの、日本列島に1万年暮らしていた日本列島原住民、
縄文人ってこれ、ガチで「デコる文化」だったからねw
アクセサリーとかタトゥーとか大好きなんだよ。
飯が手に入らなければ明日の命もあやうい時代だったのにね。
そういうまさに原始人同然の文字文明以前のただなかにいながら
高い審美眼と装飾性をもっていた縄文人たちの文化(食器に縄模様付けるくらいだぜ)、
これは自称日本文化の体現者たるネトウヨくんたちには継承されてないねえwww
そりゃそうかw ネトウヨくんは全員、偉大なる大韓半島からやってきた
渡来弥生人の子孫だからねw 真の日本人たる縄文人のパトスは、息づいてないかwww >>537
言語とかコロコロ変わるし形質が満州人そのものやん
女真族の皇族とか長州藩士みたいなのばっか 満州人といっても、渤海あたりからまじりあってるからな
中国北東部の遺伝子に日本人との類似、重なりがあったとされるが、O1b2系(扶余、高句麗系)のことだろう とりあえずロシアにほらせんといかん
沃沮なら結構大きい城、城壁がでてくるはず
玄菟郡の最初の居城があったからな 当時の沿海州の支配者層が日本にやってきてたなら、鉄も持ってるし縄文人に負けるなんてまずありえない
しかし現実は日本人の3割から半数が縄文系のYDNA
渡来人が女を差し出して住まわせてもらっていたということだよ
亡命者にすぎんだろ >>542
>>渡来人が女を差し出して
毎度お馴染みのレスで同一人物だとわかるが
D1,O1,O2で3:3:2になるのは世界と比べたら偏りが少ない
大した支配者がいなかったことの証明にしかならんでしょ >>542
沿海州から来たのは、女だけの部族
縄文男だけ拝借して、縄文女は切って捨てた。
だからDハプロが残ったんだよ >>544
あとクロマニョン亜型のC1a2もいるよ >>544
形質的遺伝子的にも渡来人が9割だと言われる
そんな中で縄文人のYDNAが半数近い
どう考える? 弥生集落に入った縄文男は生き残り
それ以外は絶滅したというだけの話 モンゴロイドの起源ってC2とOどっちだ
このブサイクなダウン症民族どうやって発生した >「えびす」とはいうまでもなく古史に見ゆる蝦夷、すなわち今日北海道になお約二万の遺?を存するアイヌ族のことなり。
>その住所東方にあるがゆえに、あるいはこれを東夷という。
>解すのものは曰く、東国はもと夷の地なり。ゆえにその地に起れる武家政府を賤みて、東夷と称するなりと。
>この津軽外が浜に近い頃まで残っていた蝦夷と、今の北海道のアイヌとが、同一系統の民族であったことには、いろいろの証拠があります。
>そしてこの外が浜の蝦夷と、歴史時代に奥羽地方に活躍していた蝦夷とが、また同一民族の引続きであったことも、十分これを連絡すべき事実があるのであります。
>これまで歴史の上に蝦夷という名称を以てはあらわされず、普通に日本人の如く思われていたほどの英雄豪傑の中にでも、
>その素性を調査してみたならば、立派に蝦夷の系統であることの明らかなものが甚だ多く、
>その関係は田村麻呂、綿麻呂の蝦夷征伐の時代から、極めてなだらかに後の時代にまで継続しているのであります。
>しかしそれが普通には、蝦夷として認められておらないが為に、ついそれに気がつかないでいるのでありますが、それ程にまで蝦夷と日本民族との間には、
>極めてなだらかな連絡が保たれて、いつとはなしに、気のつかぬ程の自然の移り変りを以て、彼らは日本人になってしまったのであります。
>国家の懐柔政策は、なるべく蝦夷を内地諸国に移して、日本民族に同化融合せしめるにありました。
>したがって日本国中到る所、蝦夷の血の行き渡っておらぬ地方はありません。
>日本各地の住民は、石器時代以来の先住土人の血を保存しているばかりでなく、
>歴史時代において奥羽から移住した蝦夷の血を、多量に交えているのであります。したがって日本人には毛深いものが多い。
>東洋のあらゆる諸民族、また南洋のマライ族にしましても、頬鬚の生えているものは殆どありません。
>ただ蝦夷やアイヌのみは、毛人と言われた程に毛深いのを以て特徴としておりますが、
>日本人に相当鬚の濃いものの多いのは、この蝦夷の血を交えている一つの証拠となりましょう。
>私の如き四国に生れましたものでも、相当頬鬚が生えております。私のこの放送を聞いておって下さる方々の中にも、
>定めてお鬚の多いお方が少からぬ事と存じます。そして私は、これを以て、私ども日本民族の誇りと致したいのであります。 夏目雅子、井川遥、安田成美、小雪、小西真奈美
この辺もしかして全員在日だったのか?
朝鮮貴族系な感じの人達
ずっと騙されてたんだろうか? .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
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◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至ってはそこからさらに数百年も待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. 【韓国】 韓半島南部から1000年もの間、鉄器と種もみを丸木船にのせて日本に渡った先祖の勇気と知恵[06/22] [蚯蚓φ★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1592808604/ 【韓国】 韓半島南部から1000年もの間、鉄器と種もみを丸木船にのせて日本に渡った先祖の勇気と知恵★2[06/22] [蚯蚓φ★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1592828138/ >>568-569
だったら弥生遺構は在地産の朝鮮系土器がメインの朝鮮系土器遺構だらけの
はずだろうが
ところが弥生遺構には在地産の朝鮮系土器がメインの朝鮮系土器遺構が
数ヶ所しかないんだよ
しかも、その在地産の朝鮮系土器がメインの朝鮮系土器遺構の朝鮮系土器も
オリジナルの朝鮮土器とはかなり違っていて、明らかに作り手が弥生人自身だと
分かるコピー土器で、弥生時代を通して日本には朝鮮半島人が渡来定着した
生活痕遺構だと断言できる遺構はない
渡来人が渡来定着した生活痕遺構だと断言できる弥生遺構は縄文末から弥生早期に
かけて西日本中を席巻した刻目突帯文土器遺構で、その土器の故郷は
朝鮮半島ではなく、沿海州南部である
渡来人は沿海州南部の人々であって朝鮮半島の人々ではないのだ
その土器の顔も沿海州南部から渡来した渡来人の子孫の顔であって、
朝鮮半島とは何も関係がない人の顔なのである >>570
温帯ジャポニカ種籾と水稲技術の伝播が問題だな >>571
菜畑で稲作が始まるのは日本に刻目突帯文土器が登場してから50年以上も後の事だぞ
つまり渡来人の子孫の時代になってから朝鮮半島から稲作を取り入れただけの話
朝鮮半島からもわずかに熱帯ジャポニカが出土してくるから、当時は熱帯ジャポニカの
割合が高かった事が予想されるがな >>572
その沿海州南部出身の稲作朝鮮半島人が問題なのだよ
そいつは何民族なのか?
どこから種籾と水稲技術を習得したのか?
で結局、
【韓国】 韓半島南部から1000年もの間、鉄器と種もみを丸木船にのせて日本に渡った先祖の勇気と知恵★2[06/22] [蚯蚓φ★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1592828138/
となるしかなくなる 鉄器は渡来人初期には入ってこなかった
渡来人は製法も知識もなかった
稲作は別ルートだろう
陸稲がまずあったんだ >>573
おまえ頭に蛆が湧いてねえか?
沿海州南部から出雲地方に渡来した渡来1世も、菜畑遺跡の朝鮮南部から稲作を
取り入れたその渡来人の子孫も、一つたりとも在地産の朝鮮系土器を作ってないぞ
彼らが作っていたのは首尾一貫して沿海州南部にルーツがある刻目突帯文土器だけだ
ビビンバ人の脳内願望、脳内マスターベーションには笑いが止まらねえなwwww https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C
>2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯
>ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に
>存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a?hの8種類があり、
>RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、
>RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、
>RM1-bが最も多いことを確認。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本
>が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝
>播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し[44]、日本育種学会の追試で再現が確認された[45][46]。
稲作もYDNAやコロナみたいに遺伝子で追跡するのが主流
半島の米は日本から植民地時代に持ち込まれたもの エセ科学で馬鹿を詐欺るのが主流なwwww
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本の調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島の調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. イザベラ・バードの記録にもあるが併合以前の朝鮮はまともに稲作もされてなかった
主食はコーリャン
寒冷地すぎて育たないらしい
で、日本の寒冷地で育つ米を持っていって南部で育てさせた
そんな土地 >>575
その沿海州南部出身の稲作朝鮮半島人が問題なのだよ
現代朝鮮人の先祖ではないなら、
沿海州南部出身の稲作朝鮮半島人=渡来人は何者なのか?
どこから種籾と水稲技術を習得したのか?
これに答えられないから人格攻撃しか出来ないんだろ ニブヒ、オロチョン、なとと先祖を同じくするひとたちが、沿海州からきたんだろうね。 >>580
日本語が意味不明
なに北京語を話しとるんだおまえは?
もっと分かりやすく頼むわ >>582
地理的にウデへやナナイ(ホジェン、コリドー)の方が近いんじゃないかな? >>586
で、そいつらが完全な水稲技術をどうやっててにいれたんだ? >>586
>地理的にウデへやナナイ(ホジェン、コリドー)の方
から来た人間がどうやって以下のような生活様式になるんだ?
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 >>583
へぇ〜
この程度の日本語が理解できないんだ〜
北京語w
声調まで感じちゃったんだね〜
凄すぎ〜 >>590
結局、人格攻撃しか出来ないんだね
人柄が滲み出てるよ
いつも知性も感じないコピペだもんね
とてもじゃないが、>>581さんの言葉が信じられないよ
というか、評価高すぎじゃない? チンコロにチンコロと言って何か悪いの?
もうウンザリするほどさんざん話してきた事ばかりじゃないの BC11〜12C頃 沿海州南部より刻目突帯文土器人が出雲地方に渡来(前池式土器人)
↓
前池式土器人が西日本中に拡散していき、九州に入るときには山ノ寺式土器に、近畿に入るときには船橋式土器に
↓
BC10C 九州北部の山ノ寺式土器人が朝鮮南部から稲作を取り入れる(菜畑遺跡) 考古学もそうだが、学問での推論は、証拠が大事でしょう。
それを無視したアンチテーゼなんて、あんちてーぜでないよね。www 沿海州ハンカ湖畔が日本人の故郷
蕎麦はハンカ湖原産、山岳地帯では
貴重な炭水化物です 4000年くらい前の沿海州南部のザイサノフカ文化遺構から隠岐産の黒曜石が
出土している
黒曜石交易を通じて古代沿海州人が出雲地方に滞在し、その一部が渡来系弥生人に
なっていったのではないか? 普通に縄文石器もでてくるからな
縄文と交流があった >>595
朝鮮・日本の水田稲作遺跡という事実があるんだがwww >>597
先に人が移動して、そのあとに水田がつたわったんですね。 黒曜石の交易目的ならば、半島に移住する理由もないか! 一回沿海州から帆船で日本目指したらどこ行くか確認してほしい
多分出雲あたりにならないか >>601
60年前の金関丈夫の「稲作を持った弥生人が朝鮮南部から渡来した」が事実なら、
日本最古の稲作遺構の菜畑遺跡は朝鮮土器遺構のはずでしょ
ところが菜畑遺跡からは搬入した朝鮮無文土器の壺が一点出土しただけで、
菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を一切作らず、全く違う土器をもっぱら作っていた
山ノ寺式の刻目突帯文土器だね
日本最古の刻目突帯文土器は出雲地方から始まる前池式
ところが前池式よりも前の刻目突帯文土器が海の向こうに存在した
どこ?
もう言う必要はないだろ https://www.xhimiko.com/%E8%AB%B8%E8%AA%AC%E6%A4%9C%E8%A8%BC/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E8%AA%AC/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E5%A4%A7%E9%99%B8%E3%81%B8-%E9%9A%A0%E5%B2%90%E3%81%AE%E9%BB%92%E6%9B%9C%E7%9F%B3/
中国東北部の沿海州の紀元前1500年〜2000年頃の遺跡から、
隠岐の島産の黒曜石が出土しています。
現在のロシア・ウラジオストク周辺の三十数カ所の遺跡からの出土です。
出土した七十数個の黒曜石を解析した結果、その50%が隠岐の島産、
40%が男鹿半島産だった事が分かりました。
これは日本が、まだ縄文時代だった頃の話です。
縄文時代は、原始的な丸木舟しかありませんでした。そんな時代に、沿岸部を航行する地乗り航法ではなく、陸地から離れた沖乗り航法で日本海を横断していたという事です。その距離約1000キロ。現代の常識では考えられない日本海の海洋交通があったという事です。 .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本の調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島の調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>605
紀元前1000年あたりだと亀ヶ岡に一致するんだが
でもこれだと縄文人の海洋技術ってわけじゃなく、沿海州人の技術だな 山海経はとりあえず毛民(モウミン)=アイヌを書いておいて、その他は適当にしてる感じなのかな 東北北部は紀元前後〜BC4C頃??に沿海州と一時期交流している
その証拠に東北北部だけ皿型土器と鬲型土器が出土している
鬲型土器は足が後付けで、粘土の段階から袋足を内側から叩き出して作る中国鬲とは
製法の段階から違っている
しかも甑が伝わっていないので、鬲本来の利用である蒸し器としての利用を
されていないので宝器との見方が強い
コピー土器がほとんどであろうが、30数点の鬲型土器の出土があった
しかし皿型土器も鬲型土器も一世紀ほど後の次の土器段階には幻のように消滅してしまう
ちなみに皿型土器は東北北部以外では日本最古の窯跡である4C末の神戸の出合窯から
出土した百済系の須恵器が最古であり、ここから日本の皿が始まる
東北北部の皿型土器は定着できず、短命で消滅してしまうので、基本的に日本最古の
皿と言えばこちらになる 沿海州からは巨大な筏で来たんだよ
丸木船で貿易なんかできるわけないから 丸木舟って、結構デカイぞ
平均的なものでも幅1m×全長7mもある
数十sくらいの運搬なら余裕 丸木船は、一本木だから、壊れにくいよ。
筏は、ばらけるような気がする。 筏であるという遺跡は見つかっていないから、無いことの証明はできませんね。^^
ただ、丸木船は転覆してもつかまってさえいれば、復元を待つこともできるので、
生存しやすいのかな?
対馬海流が日本海を北東に、リマン海流が沿海州を南西に、環状の流れがあるので、
島嶼伝いに船を動かせば、大陸と列島を行き来することが、可能です。 ツングース族のハプログループ一覧
https://en.wikipedia.org/wiki/Tungusic_peoples#Population_genetics
ナナイ、満州族が、朝鮮民族のハプログループ構成に酷似
Cが25-30% Oが50-60% Nが15-20%とやや多め
エヴェンキ、ウリチ、オロチョンは
Cが50-70% Oが15-35% >>621
バラバラになった筏の丸木のほうが
はるかに掴まりやすい C1はクロマニョン
C2はツングース
C3はアボリジニ 渡来した弥生人は単一民族ではなく複数の系統が存在するという説も主流である
^ 岡正雄『異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成』 言叢社 1979
^ 徳永勝士 (2008)「HLA遺伝子:弥生人には別ルートをたどってやってきた四つのグループがあった!」『日本人のルーツがわかる本』逆転の日本史編集部,東京:宝島社,p264-p280
^ 徳永勝士 (2003)「HLA と人類の移動」『Science of humanity Bensei 』(42), 4-9, 東京:勉誠出版 渡来前から、さまざまなy遺伝子を持つひとたちが、集団をつくっていたのかも?
ナナイも朝鮮半島人も、さまざまだし、日本人もおなじだよね。(D以外は) >>626
衣食住に関する生活痕からの考古立証が全くできないね >>625
日本にはクロマニヨンがおるってことだな >>629
四国の一部地域で特に多い
縄文とは混じり合ってなかったんだろうな 日本列島への三段階渡来モデル「核DNA解析でたどる日本人の源流 斎藤成也」
第一段階(縄文人) 約4万年前〜約3000年前
日本列島全土に広がる。
第二段階(長江下流民) 約3000年前〜紀元後3世紀
本土中心軸に沿って東に拡大していく。
第三段階(高句麗・新羅・百済・中国) 紀元後3世紀〜
政治の中心は近畿地方に移り、現在の上海周辺にあたる地域からも少数ながら渡来民が来るようになった。
それまで東北地方に居住していた縄文人の子孫は、古墳時代に大部分が北海道に移っていった。
その空白を埋めるようにして、第二派渡来民の子孫を中心とする人々が北上して東北地方に居住した。
南西諸島では、グスク時代の前後に、おもに九州南部から、第二派渡来民のゲノムをおもに受け継いだ集団が多数移住し、
さらに江戸時代以降には第三波の渡来民系の人々もくわわって、現在のオキナワ人が形成された。
北海道では、古墳時代から平安時代にかけて、
北海道の北部に渡来したオホーツク文化人と縄文人の子孫のあいだの遺伝的交流があり、アイヌ人が形成された。
アイヌ人 縄文5〜7割、オホーツク文化人3割
オキナワ人 縄文3割、第二派渡来6割、第三派渡来1割
本土周辺部(東北、北陸、山陰、南九州) 縄文2割、第二派渡来6割、第三派渡来2割
本土中央部(関東、東海、近畿、北九州) 縄文1割、第二派渡来5割、第三派渡来4割 >>633
その約3000年前〜紀元後3世紀の長江下流民が定着した証拠遺構が
一体どこにあるのか、教えてもらいたいもんだわ
核DNA解析は渡来人においては星占い未満の精度しか出せないゴミクズ材料だと
自ら暴露しているようなもの >>635
超一流の考古学者にそんな星占い未満の中卒ダマシなんか使っている先生などいない >>621
シベリアのバイカル湖周辺を本拠地とするブリアート人たちが日本列島に定期的、恒常的に交易に来訪していました。
このブリアート人は、どうやらアジアを広く交易活動を展開していたようで、南はインド、西は西アジア〜東ヨーロッパ?
極東は日本列島に展開していたらしい。
ところで、バイカル湖から日本列島、北海道や東北地方のルートは
バイカル湖周辺の本拠地から東に陸路で移動して大河のアムール川に至ると森林から用材を切出して筏を拵えたら、荷物や食糧他を川ベリに浮かべた筏に積替えて、
春〜夏で増水したアムール川の流れにまかせれば一気に数千キロを川下りして、やがてオホーツク海にでてサハリン/樺太島〜渡り島(北海道の太古の呼び名)、更に本州に容易く通行出来たらしい。
彼らブリアート人の一部は北海道や東北地方等に定住化したらしい。
その事からか、トルコやキルギス、ウズベキスタン等中央〜西アジアの諸族には日本人とは同祖の親戚?だと言う伝承があります。
その伝承でのキーポイントがやはりバイカル湖周辺だと言います。
彼らの言語と日本語のとの、酷似、類似、語は数千以上あるとか?
ユダヤが云々より更にディープな話に成りそうです? >>637
アムール川にもともと住んでたのはニヴフとウリチ
毛深いアイヌ系は後から来た ブリヤート人は日本人そっくりですね
あとブーザと呼ばれる肉まんによく似た
蒸しギョーザを食べてるようです。 NOの段階ですでに北方モンゴロイドの容貌だったんだろうな
モンゴル中部あたりでNOからNとOが分かれて、モンゴルより北はNになり、
モンゴル以南はOになった
OはやがてO1になり、モンゴル東部あたりでO1からO1b1とO1b2が生じて、
南下して中国大陸や満州・沿海州に広がるが、中国大陸ではO1b1が選択されて
O1b2が少数派になり、華南や東南アジアまで広がるが、満州・沿海州ではO1b2が
選択されてO1b1が少数派になり、日本へは最初に沿海州から入って、
後に朝鮮半島からも入ったと
モンゴロイドはタフすぎる >>636
そら日本のレベルが低いからだろ
最近やっと縄文のDNAがとられたレベルだぞ?
どんだけ低能やねん >>642
O1b1O1b2は言語が違う
扶余高句麗系のO1b2は北方言語だが、漢民族のO1b1は時制のない東南アジアに近い語族
ngの発音なども東南アジアにつうじるし、そこらの少数民族(黒人アフロ)に至るまでO率が高かったりする
おそらくO1b2は早い時期、遼河文明最盛期あたりに北方にいった漢民族に関連し、言語はそのときに置き換えられた
シナチベット語族O1b1とは単純に時間経過で分化したのだろう O1b1とO1b2は同じO1から発生してるんだから元は同じ言語に決まってるじゃないの
南下して中国大陸や満州・沿海州に広がっていく最中で先住集団の言語に
同化していっただけの話だろ
ただ、アフリカや中近東を考えればシナチベット語の方がウラルアルタイ語よりも
古い言葉だから、アルタイ地方に人類が入ってきて東アジア中に拡散した当初は
シナチベット語が広がったのだろう
そして北方のどこかでウラルアルタイ語が生まれて、古い言語のシナチベット語や
インドヨーロッパ語を浸食していったに違いない
ひょっとしたら、日本語や朝鮮語も旧石器時代はシナチベット語の時代があって、
後にウラルアルタイ語に浸食されたのかもしれない
その中で中国大陸は奇跡的にウラルアルタイ語の浸食を受けなかった幸運な
地域だっただけなのではないか? >>645
南下して広がったのがいつだと考える?
農耕以前? 南部や台湾などでサブグレードが広がるOが北方由来だろうか? .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. .
縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
. .
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. .
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. .
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本の調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島の調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. >>ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
>>木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
弥生人の故郷では、黄河や揚子江と別系統の、農業があったんですか?
(蕎麦やひえに代表される穀物の畑作があった?) 朝鮮系の弥生人を皆殺しにして、日本人をアイヌ系の容姿に戻すのが私達の使命 >>659
沿海州には4000年くらい前から農耕があったようだが、縄文末の渡来人たちは
渡来時に農耕を伝えなかった
前池式土器遺構に田畑の痕跡や農具の類の出土が一切ないからだ
彼らが漁撈民か狩猟民だったからではないか?
日本に農耕が登場するのはそれから50年以上先の彼らの子孫の時代の
菜畑遺跡まで待たなければならない
>>660
弥生人は朝鮮系ではなく、沿海州系
朝鮮系よりも、もっともっと北方モンゴロイドな形質の人々 >>662
縄文末の渡来はまず亀ヶ岡だろう
農耕がなかったなら、何なのあの土器は
なんにつかうの 定着まではないね
渡来系人骨の出土がない
単なる宝器だよ
鬲型土器は甑が伝わってないため、鬲本来の利用がされていない
鬲型土器も皿型土器も単なる宝器
一世紀後の次の段階の土器様式になると夢、幻のごとく消え去る >>647
江蘇省では6000年くらい前までは古モンゴロイド形質の人骨であったのが、わずか1000年後の
5000年くらい前には北方モンゴロイド形質を帯びた人骨に変わってしまう
ポリネシア人には蒙古ひだがあり、明らかに過去に北方モンゴロイドの影響を受けている
俺の中でモヤ〜と見えているものは、Oのルートは全くの間違いで、モンゴル東部あたりで
O1からO1a、O1b1、O1b2が分かれた段階で、そのO1a、O1b1、O1b2の3種類のハプロタイプが
混在した北方モンゴロイドが、おそらく8000年くらい前に南下し始めて中国大陸と満州に
入るが、想像以上に足が速く、中国大陸には7000年前には華北入りして6000年前には江蘇省を通過、
5000年前には広東省あたりまで達して、途中その一部が海の民になって5000年くらい前に
台湾に入り、4500年くらい前にはフィリピンに入り、4000年前にはニューギニア島に入って、
3500年くらい前からポリネシアに拡散していったというもの
そして満州から沿海州に広がったものはO1b2が選択されて、O1a、O1b1が少数派になり、
中国大陸に広がったものはO1b1が選択されて、O1a、O1b2が少数派になり、
ポリネシアに広がったものはO1aが選択されて、O1b1、O1b2が少数派になった
大陸ではそれ以降も拡散は続き、4000年くらい前にはインドシナ半島に入り、
1000年くらい前までにはインドネシア全体に達した
もちろんここでも選択が起こり、中国大陸と比較するとベトナムやジャワ島では比較的高頻度に
O1b2が選択された
元はすべてモンゴル東部あたりから8000年くらい前に南下した同一の北方モンゴロイド集団が
引き起こしたものだろう
モンゴロイドの旅は我々の想像をはるかに超えている >>666
それは考古学的な確証あるの?
例えばニコバル人(0100%)の特殊な家の作りとかで >>667
ぜーんぶぜんぶ考古事実から組み立てているから問題なし
考古立証できないものは一切語らない主義だしな
>>668
ムガール帝国のムガールって、何の事だか分かるか?
モンゴルが訛って発音されてるだけだぞ >>669
だったら西側にOが広がるはずじゃね?
東ばっかだし カスピ海あたりまで広がってるよ
ただ広がっても選択されなきゃ消えていく運命だしな
Oが100%のニコバル人もOが入る前は違ったハプロタイプ構成だった訳で、
新たにOが入ってきて、Oが選択されて、古いハプロタイプは選択されなくなって
消えていった訳だ
たとえOが入ってきても選択されなければOは消えていくしかない あと頻度も全く使えないな
頻度が高いところが起源地なら、Oの起源地はニコバル諸島のはずじゃないか
これは下戸遺伝子も同じ事が言える
むしろ起源地はいま頻度が高い場所ではない事の方が多い
コロナウイルスも同じだね
起源地は中国のはずなのに感染率が最も高いのはイタリアとアメリカ
起源地の中国なんて日本よりも感染率が低いんだよ 多様性をもたせた頻度ならあたる
Aの多様性と頻度が最も高いのはアフリカにしかないだろ >>673
Y染色体と形質遺伝子はともに全然違った力で選択されているな
形質遺伝子の場合は一人入ってきて混ざったとしても、すぐ消えていってしまうが、
Y染色体の場合は一人入ってきて混ざったとしても、そのハプロタイプが既存のものより
適していれば、全体のハプロタイプをそのハプロタイプに変えてしまうケースも出てくる 縄文時代は、ゴビ砂漠が砂漠じゃなかったんじゃないかな? .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
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最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
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縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社
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弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
. わずか8000年でインド人にこれだけOが広がるだろうか? >>685
おまえぜんぜん世界史勉強してないだろ
インドはロディー朝を除いて奴隷王朝からムガール帝国までトルコ系支配王朝だぞ
トルコ人というのはバイカル湖南部あたりからモンゴル高原西部やアルタイ地方に
かけて広がっていた北方モンゴロイドだぞ 「トルコ人はモンゴロイド」って一昔前のネットでよく聞いた言葉だな
顔みてわからんか >>687-688
ガチ中卒発見wwww
世界史でトルコ系と言ったら、小アジアにあるあのトルコ共和国の事じゃないんだよ
おまえが世界史の時間寝てた事はよく分かったw でそのトルコ支配がどうやったらインド東部のO率の高さに行き着くんだ?
でそのトルコがもたらしたと思われるOと同一サブグループであると証明できる? https://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M122
ウィキでみてもハプロOのルーツは東南アジアとみなされてるようだが
それに対抗できる根拠はあるのか?
「北方モンゴロイドが来た」というのであればインドのOは当時の北方由来のものでないといけない >>690
インド東部のOはブータン、ネパール経由で入ってるんだろうな
トルコ系から入ったOよりもかなり古いだろう
>>691
Oが東南アジア?w
なわきゃねえじゃんw
OはNから分かれてきてるんだし NOからな
その前はウスチイシム人のK2
形質的にもアジア人はこっからわかれたんだろう
中国平原あたりの平野部はDやC2の原型の狩猟民族がいたはず
でその縄張りを通らないように山岳部を通って北方民族の生活スタイル、つまり生肉を食う民族が南下していった
モンゴル高原からチベット雲南省あたりを南下して東南アジアに到達
で雑多なOのサブグループが東南アジアインドに広がる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
ハプログループO1 (Y染色体)(ハプログループO1 (Yせんしょくたい))はハプログループO (Y染色体)のサブグループであり、
「F265/M1354, CTS2866, F75/M1297, F429/M1415, F465/M1422」の変異で定義されるタイプである。2015年
11月にISOGG系統樹が改訂されたことで、ハプログループO1a(旧O1)とハプログループO1b(旧O2)が姉妹群となり、
両者をまとめる上位タイプとして新たに設けられた。
ハプログループO2-M122との分岐からわずか千年ほど(YFull YTree v5.06によれば1,400年、Karmin et al. 2015によ
れば939年、Poznik et al. 2016によれば900年もしくは800年)経って下位系統のO1a-M119とO1b-M268に分かれ
たと推定されている。
ハプログループ O1 (Y染色体)
推定発生時期 今より約34,042 [95% CI 32,387 <-> 35,708]年前[1]
推定発生地 東アジア南部
現存下位系統の
分岐開始年代 今より約33,103 [95% CI 31,401 <-> 34,781]年前[1]
親系統 O
子系統 O1a、O1b ハプログループO1b (Y染色体)
O1b系統は、東南アジアやインドの一部(特にオーストロアジア語族)で多く見られるO1b1系統、および日本や満州、
朝鮮で多く見られるO1b2系統にそれぞれ分類される。O1b1、O1b2がいずれも中国国内で多少確認されているほか
、東南アジアおよびインド東部に多いO1b1と日本列島や満州、朝鮮半島に多いO1b2の分布の中間に中国が位置
していることから、O1b系統がもともと中国で発生し、そのサブグループたちが中国から拡散したという仮説を中国の学
者が2011年に発表された論文の中で唱えている[3]。
O1b1a1a-M95
下位系統のO1b1a1a-M95(かつてはハプログループO2aと呼ばれていた)は特に繁栄しており、中国南部、東南アジア
、インド東部など、特にオーストロアジア語族に属す言語を話す民族に多い。ニコバル人に100%[4]、ションペン人に
100%[5]、ラオス南部及びカンボジア北東部のクイ族に87.2%[6]乃至91.9%[7]、海南島のリー族に61.8% (21/34)[8]
乃至64.8%(212/327)[9]、バリ人58.6%[10]、プイ族に54.3% (19/35)[8]、ムンダ系民族に53.1%[11]、ハニ族に50%
(17/34)[8]、カシ族に41.3%[12]、広東省の漢民族に30% (12/40)[13]、四川省成都市漢族に14.7% (5/34)[8]、
チャン族に12.1% (4/33)[8]、シェ族に8.8% (3/34)[8]、広東省清遠市連南瑤族自治県のヤオ族に8.6% (3/35)[8]
、南部漢民族に4.6% (3/65)[2]、広西省河池市巴馬瑶族自治県のヤオ族に2.9% (1/35)[8]などである。現在は
オーストロネシア語族や中国語が分布する東南アジアの半島・島嶼部や中国南部にも、かつてはオーストロアジア
語族が分布していたことが遺伝子から示された格好となる。 頻度なんか意味がない事が分からない中卒がいるようで 頻度もあるが、そのサブグレードの広がりの広さ
なんで沃沮系のO1b2の近隣種がインド東部の主流なのか O1b系統について、崎谷満は長江文明の担い手だとしている。O1b2系統が移動を開始したのは約2800年前で、
長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡
り、日本列島、山東省、朝鮮半島へ渡ったと崎谷満は主張している[4]。このO1b2系統は倭人、弥生人に関連す
ると考えられる。
倭人(O1b2)はオーストロアジア語族(O1b1)と姉妹関係であり、日本語とオーストロアジア系カンボジア語の語彙
類似性が高いとするデータ[5][6]とも符合する。また大野晋が唱える日本語タミル語起源説についても、タミル語の
基層言語にオーストロアジア語族ムンダ語派が存在しており、O1b系統の集団が持っていた同源語彙が日本語や
朝鮮語(O1b2)とタミル語(O1b1)に引き継がれたと考えられる。 2800年で一気に沿海州まで北方言語に変化しながら広がった?
で紀元前1000年前の渡来人まで高速で行われた?
ありえなくないかこの分析 >>698
インド東部に隣接しているブータンの人たちの顔をよく見ろよ
>>700
正解
とにかくO関係は全部モンゴル北部あたりだよ
8000年くらい前に南下し始め、中国大陸から満州沿海州からインドシナ、台湾、
フィリピン、インドネシア、ポリネシアまで拡散して、それぞれで適したOの
ハプロタイプが選択されて頻度に差が出てるだけ >>702-703
だから各地域で選択されてるだけだっつーの
ブータンよりもインド東部の方がO1b2が多く選択されて頻度が高くなってるだけ 例えば日本人を100人、華南の無人地に住まわせたとして、1000年後の
その子孫たちのO1b2の頻度は果たして初代と同じだろうか?
ただし、その間の他民族との混血は一切ないとする
おそらく子孫たちのO1b2の頻度はぜんぜん変わっているだろう >>706
農耕以前ならまだ考えようがあるが、農耕以降って言ってるんだろう?
明らかに無理がある
モンゴル高原あたりも無理だろうな
アメリカ大陸にたどり着いた波がそのまま当時の北方民族を冷凍保存してるようなもんだから
つまり第一波(2万7000年前)の南米ネイティブアメリカン、アメリンド、ケチュア人タイプ
これは東南アジア人に近い形質
絶壁だがモンゴリアンな見にくい顔立ちをしていない
第二波は1万年前〜1万5000年前あたり
ケット人と同じ語族、デネ・エニセイ語族、ハプロQに一部C2が交じる
顔立ちはかなり濃い
https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&fr=sfp_as&aq=-1&oq=&ts=568&p=navajo+boy&meta=vc%3D
有名なナバホ族の少年
混血てわけじゃなく、ナバホ族みんなこういう顔立ち
モンゴロイドに近いのはイヌイットなどの3波以降 >>707
はぁ??
無理はおまえだよおまえ
Oは全く考古整合してねえんだぜ
しかも何らの考古立証もできねえ
中国で発生し、弥生人としてやって来といて、中国の衣食住に関する生活文物も住居も
漢字も龍信仰も中国系の単語も、何一つ伝えてねえんだぜ
考古文物は絶対的存在だぞ
Y染色体の解釈がおかしいだけだ だから昔は北方民族のが優勢で、インドあたりで発生したO1b2O1b1の片割れがまず北上し、
長い間隔絶していたNと混じり合いながら、言語も置き換えられながら沿海州あたりに定着
漢民族ではなく遼河文明文化圏で、農耕の発展とともに広がったO1aの長江文明その後の漢民族Oにおされて極東へ
これが扶余語族(高句麗、沃沮、扶余、ワイ) >>709
北上した痕跡がどこにあるんだよバカヤロウ!
一方的に南下した痕跡しかねえんだぜ
読んでて吐き気がするわクズ野郎 そもそも北方にいた痕跡もないじゃない
ロシアで発掘されたモンゴルの先住民も濃い顔だぞ
アメリカ大陸の人間みればわかるだろう
大多数が濃い顔の絶壁だったんだよ 北米南米ともに弓矢が存在しなく、弓矢の前の武器であったアトラトルが広く普及していた
北方民族がおされはじめたのに弓矢の広がりが関係あるかな 江蘇省では6000年くらい前までは古モンゴロイド形質の人骨であったのが、わずか1000年後の
5000年くらい前には北方モンゴロイド形質を帯びた人骨に変わってしまう
この原因を作ったのは一体何?
北方にいた人々が南下したとしか考えられないよな? 南部の柳江人は新モンゴロイドっぽい
1万年前にギョデクリテペで農耕があり、牧畜も同時期かそれ以前にあったとされる
中央アジアを伝って農耕以前にまず牧畜が広まったなんてことはないかな
で遼河文明、ハプロN、ネネツの生活スタイル
https://www.youtube.com/watch?v=Qkkr0cpikvA
生肉を食えば極北だろうが山地だろうが生きていける やっぱ新モンゴロイド系がヒャッハーしながら南下したのかな
だとしたら北方へ行くほど気質がどきつくなるっていうのも
なんとなく分かるような気がするけど 遺伝子とか難しいこと考えなくても、おしりの蒙古斑で、
北から渡ってきたのが我々のご先祖様と、わかるよな。^^ モンゴル辺りから南下しながら拡散して、純血ではないにしろ、最終的にポリネシアまで広がっている
なぜそれが分かるのかと言うと、ポリネシア人には蒙古襞があるからです 基本的な流れは下の表の通りなんだが、NOとNとOがもう一段北にあって、
O1とO2がモンゴルを割り込まない位置にあると全て考古整合する
表が出ない場合は手動で貼り付けて飛んでください
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AHaplogroup_N_%26_O_(Y-DNA)_migration.png >>716
蒙古斑はメラニン色素が局所的に集まってる状態で次第に体全体に広がると聞いた
黄色人種に共通してるんだとか 蒙古襞がある=北方モンゴロイドの祖先を持っているという事
ポリネシア人には蒙古襞がある
つまり、ポリネシア人は北方モンゴロイドの祖先を持っている D1a1(Z27276) 日本人の0.1% 45100年前 ★黄帝
D1a2a1(M116) 日本人の0.4% 21100年前 ★天忍穂耳命
D1a2a1a(M125)日本人の18.3% 17000年前 ★邇邇芸命
D1a2a1c (CTS6609) 日本人の6.7% 17000年前 ★饒速日命
D1a2a2 (CTS131) 日本人の7.4% 21100年前 ★天穂日命
C1a1(M8) 日本人の5.7% 45900年前 ★猿田彦命
C2a(L1373) 日本人の1% 34000年前 ★月読命
C2b1 (Z1338) 日本人の5.2% 34000年前 ★建速須佐之男命
N(M231) 日本人の1.4% 36800年前 ★周武王
O1a(M119) 日本人の1.5% 29800年前 ★禹
O1b1(F2320) 日本人の1.3% 28300年前 ★舜
O1b2a1a1(旧47z) 日本人の22.6% 7200年前 ★天児屋命
O1b2a1a2(K4) 日本人の7.6% 7200年前 ★高皇産霊神
O2a1b(IMS_JST002611) 日本人の6.5% 16700年前 ★劉邦
O2a2a(M188) 日本人の4.3% 23600年前 ★項羽
O2a2b1a1 (M117) 日本人の4.8% 17600年前 ★秦始皇帝
O2a2b1a2a(F444)日本人の3.7% 17600年前 ★朱蒙
O2b(CTS1754) 日本人の0.1% 29700年前 ★神農
Q(M242) 日本人の0.1% 28700年前 ★冒頓単于 >>723
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国系の
衣食住に関する生活痕遺構はない
繰り返す
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国系の
衣食住に関する生活痕遺構はない
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日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
. .
気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
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◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本の調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島の調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
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アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
. ネネツに蒙古斑はあるのだろうか?
フィンランドとかにはほとんどないらしい(ハプロN) ネネツのルーツとなった民族が、ブロンド碧眼のルーツ
フィンランド人もちょいモンゴロイドで、サーミ人、ウドムルト族などもモンゴロイドっぽい
どれもハプロN、だが蒙古斑率は低いらしい
アジア人とブロンドの間の子がネネツだと思いこんでいたが
もしかしたら、ネネツ(ハプロN、遼河文明の担い手?)が北方形質を持ち込んだのではないだろうか えぶりという農具は、日本でしか出土しないのなら、
弥生人の発明品になりますね?
そんなはずがないとなれば、どこから伝えられたのかなあ? >>737
開発過程なく、いきなり完成形で菜畑に登場してくるの
木クワも木エブリも
ともに同期する中国にはない耕作用農具だから、朝鮮南部のどこかから
取り入れたものだとしか考えられんの 日本に渡来した弥生人は、狩猟漁労を生業として定着して、東西に広がった。
九州方面に到達した弥生人は、朝鮮南部の稲作を取り入れて、自分たちの物にした。
こうかな? >>739
正解
弥生人の土器の方が稲作よりも50年以上早く先に出雲あたりから中国地方に
広がっている(前池式)
九州北部に入るときには山ノ寺式に、近畿地方に入るときには船橋式になって
広がっていく
山ノ寺式土器を作っていた菜畑遺跡の弥生人が朝鮮南部から稲作を取り入れて弥生開始と
時系列的にはこういう流れ
前池式は弥生人の土器なんだけど、まだ稲作が始まっていないから
縄文土器として扱われている 箕子朝鮮の時代だから
漢民族が奴隷を率いて入植しようとしてたんじゃね
出雲と九州のとは同じ集団? 土器から見れば同じ集団と見るしかないわな
漢民族の衣食住に関する生活必需文物や住居が前池式や山ノ寺式の生活痕遺構の
どこにあるんだよ?
鬲や鼎や竈や釜や皿がどこにある?
土壁の住居がどこにある?
漢服と木沓は?
龍信仰は? >>743
箕子朝鮮の遺跡にそういうものはあるのだろうか >>743
楽浪郡の跡地、平壌あたりを調べないとわからなそうだが
https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&fr=x&fr2=sfp&aq=-1&oq=&ts=713&p=archaeology%20korea%20pottery&meta=vc%3D
そういうものは半島にもなさそう >>745
楽浪郡からは鬲と漢服を除いてぜんぶ出てるよ
靴は革靴が出てる
鼎は青銅器の鼎
下の画像は楽浪郡の皿(盤)
陶質土器でできている
日本で陶質土器が作られるのは4C後半から
中国大陸には7000年前から皿(盤)という器種があるが日本で作られるのは4C末から
皿一枚の存在があるかないかだけでも中国系が関係してるか、してないかが分かるの
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0034957 小野寺まさる完全論破されちゃいました
もう恥ずかしくて外歩けないね小野寺さん
アイヌの地である北海道から出ていってくださいね
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_30.html
>YHgおよびmtHgの分析と考古学的記録を併せて考えると、アイヌ集団が「本土」の鎌倉時代に南下してきた集団に征服され、本質的には「外来」集団であるというような見解は的外れで、むしろ逆に、縄文時代からの北海道在来集団が、オホーツク文化集団など外部集団に対して優位に立つ傾向にあり、そうした外部集団からの遺伝的・文化的影響を受けつつ、アイヌ集団が形成されていった、と考える方が妥当だと思われます。
>「北海道縄文人の単純な子孫ではない」から「関係ない」と小野寺氏は述べていますが、あまりにも的外れで呆れてしまいます。山田氏は現代アイヌ集団が北海道「縄文人」の「単純な子孫」ではない、と述べているだけで、「関係ない」とは言っていません。さらに言えば、山田氏の答弁からは、現代アイヌ集団は北海道「縄文人」と関係がある、と解釈するのが妥当でしょう。
>小野寺氏はTwitterでも以前、アイヌの縄文のDNAは後天的なDNAと北海道が議会答弁で明らかにしていますよ?と発言していますが、山田氏の答弁からは、むしろ北海道「縄文人」が外部集団と交雑していったと解釈するのが妥当で、現代アイヌ集団の「縄文のDNA」は、逆に「先天的」にあった、と言うべきでしょう。 大型「石刃」次々 人類渡航の足跡? 佐久の香坂山遺跡で発掘
8月21日
https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20200821/KT200820FTI090024000.php
佐久市香坂にある後期旧石器時代の香坂山(こうさかやま)遺跡で
独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所(奈良市)主任研究員の国武貞克さん(45)が進めている発掘調査で、
ユーラシア大陸から日本列島に人類の祖先が渡ってきた年代を示すと考えられる多数の大型の「石刃(せきじん)」が見つかった。 4千年前の中国・石?遺跡、謎のヒスイと要塞
初期の中国文明はどのように変遷したか、新たな見方を提示
2020.08.23
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/081700471/
>考古学の道しるべとなってきた古文書のいずれにも、この古代都市に関する記述はない。
考古学者ならそれくらい予想した歴史観を構築しとけよ
考古学者は馬鹿ばっかだな 核DNAで縄文人の子孫が渡来したってわかってるんだよね。 なんでこんなガバガバ?
>かつてはハプログループD2と系統名称で呼ばれていたが、2014年5月にISOGGの系統樹が更新されたことによりハプログループD1bと改訂され、さらに2019年6月には系統名称はハプログループD1a2と改訂され、さらに2020年4月にハプログループD1a2aに改訂された。 全ゲノム解析によってアイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると確認されました
2020/08/25
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
先行研究(Jinam et al. 2012)で発表された北海道アイヌの人々のデータなど日本列島周辺の人類集団との関係を分析したところ、本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。
この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析(Kanzawa-Kiriyama et al. 2019)と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高いことを示している。
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/ 最も?
C1a集団、クロマニョン亜型集団より古いの? ゲノム解析によって証明
・日本列島はアイヌの地だった
・あとから来た弥生人が乗っ取った
・人種が入れ替わった 則ったらYDNAが遺伝子全体の割に縄文優位になるわけないべ 中国の研究
「漢族、日本人、韓国人の集団には明確な遺伝子構成があり、
ゲノム全体のデータまたは祖先情報マーカー(AIM)のパネルに基づいて十分に区別できることが明らかになりました。」
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/29636655/ 韓国人の遺伝子研究
古代および現代のゲノムシーケンスによって分析された韓国の民族性の起源と構成
韓国人は、北部と南部の混合サブグループの民族グループであると考えられています。
韓国人の現在の遺伝的基盤は、鉄器時代のカンボジア人に関連する古代中国南部の人口との急速な混合によって確立された可能性があります。
この混合傾向は、最初は主に朝鮮半島の外で発生し、その後、東アジアの一般的な混合傾向に対応して、
韓国での継続的な拡散とローカリゼーションが続いたと推測しています。
現存する韓国の遺伝的多様性の70%以上は、南部からのそのような最近の人口拡大と混合に由来すると説明されています。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32219389/ >>756
この東京大学の報告の中の系統図にある「オンゲ族」に関するウィキペディアでも述べられているが、
オンゲ族の女性のゲノムは南ルートであることが分かっていて、一方オンゲ族の男性ゲノムは北ルートであるとされており、
東京大学のこの報告にある伊川津貝塚の女性が南ルートであるとするゲノム解析結果は、オンゲ族の女性と系統が同じであることを示していて、
その移動ルート上にはラオスの女性も位置しているということになるのではないか。
なので、縄文人の男性については、オンゲ族の男性同様に、北ルートのゲノム結果が出るように思うけどね。 >>752
この4000年前頃といえば遼河文明の夏家店下層文化の始まりの時期だよ。
地理的にもオルドスは遼河地方に近いし。
中国の文化に影響を与えたとの見方もある。
遼河文明とも関連あるのかもな〜。 >>762
伊川津貝塚の女性人骨の列島における歴史的由来については、1万2000年前まで遡る。
1万2000年前頃に南方から南九州に渡来した種族がそのルーツで、彼らは貝殻文の土器を造った。
この貝殻文土器は東へも拡散し、紀伊半島の紀の川上流の宮滝遺跡でも出土する。
この宮滝遺跡出土の貝殻文土器とよく似た貝殻文土器がこの伊川津貝塚でも出土しているそうだ。
つまり、伊川津貝塚の女性人骨の文化的ルーツは1万2000年前の南九州に遡ることになるわけ。
そして、その1万2000年前の南九州にやってきた種族は中国越地方にいたY-O1aの種族だとみられ、
彼らはオーストロネシア語族の祖種族と考えられる。 日本人は縄文系のD1a、百越系のO1a、稲作系のO1b2の混合が縄文・弥生までの主流で、その後、これに中華系のO2、ツングース系C2などが混じった。
相当に多様性を持った民族だといえる。
しかも、その日本は大陸と陸続きではないために流入種族の固定化が強固で、民族形成力は世界屈指といえる。
そして、この民族形成力の核心に位置するのは、縄文以来のシャーマン系祭祀者の天皇。
これが日本民族の「正体」といえる。 中国による研究(2018)
「韓国人は漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています。」
「漢族、日本人、韓国人の集団には明確な遺伝子構成があり、
ゲノム全体のデータまたは祖先情報マーカー(AIM)のパネルに基づいて十分に区別できることが明らかになりました。」
https://hereditasjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s41065-018-0057-5
PC2はCHSとJPTからCHBとKORを分離しました。日本人と韓国人にはそれぞれ独自のクラスターがあり、どちらも漢民族から離れています
https://i.imgur.com/hD6gHDk.jpg
漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人の個人はすべて完全にクラスター化します。
中国人と韓国人には、北のクラスター(NC、オレンジ色)と南のクラスター(SC、緑)の2つのクラスターがあります。
https://i.imgur.com/BQJbqHS.jpg
日本人と韓国人はそれぞれ独立したクラスターを持っていますが、漢民族の2つの人口とモンゴル人の2人はどちらも重複しており、一部のモンゴル人はCHBに向かっています。
https://i.imgur.com/muzh2rR.jpg
日本の左翼遺伝子研究者よりはるかに優秀だな >>765
日本民族とかエベンキ関東人が唱えそうな概念やなw なんかこういうネガティブキャンペーンで挙げられるのも北方顔だし
北方=醜いって固定観念できてるね >>769
文化共同体を民族と呼称するのはごく普通の概念。
江戸時代に隅から隅までチョンマゲ結ったのが日本民族。
遺伝子上の相違は、この際、問題にならない。 >>772
あんだけ朝鮮人と遺伝子が違うと喧伝しておいて
ダブスタ極まりないのなw 民族の概念については、ウィキの「民族」に詳しい。
日本民族はチョンマゲ共同民族でOK。 チョンマゲほどユニークな髪型はない。
唯一、満州族の辮髪が類似するものだが、
満州族のそれは長く伸ばしていて、ぶらぶらと揺れる。
その点、チョンマゲは固定されているので、活動に不便はない。
江戸時代にはおおむね普遍的な髪型となった。 この月代チョンマゲスタイルを発明した日本民族と、丸剃り辮髪スタイルを発明した満州民族は似たところがあるが、
その間に位置する朝鮮民族は、頭を剃って髷を残すスタイルを生み出したことがない。
また、満州人が支配したとき以外の漢民族も頭髪を剃ったことがない。
頭を剃ったことのある民族は、日本民族と満州民族と、そしてモンゴル民族だけである。
まあ、東アジア頭剃り三羽烏といえよう。 在日は遺伝子が朝鮮人と最も近い満州族を愛せれば苦しむこともないんじゃないかな
日本人と同じだと勘違いしてるから在日のアイデンティティが崩壊してるわけでね 日本に来たY染色体O系統、ミトコンドリアD系統などは朝鮮人由来と言っていいよ そうじゃないと日本にこれだけ朝鮮形質がいるのが説明つかない 朝鮮人の形質が北中国人そのものだから朝鮮人気質なんてないんだよ
在日がアイデンティティを日本に縋りたいのは可哀そうだと思うけどさ 【クサビ形】【舟形】も中国南部から直接九州へ
クサビ形は中国東北部から当時は地続きの北海道を通じて東日本を中心に広がり、
角錐状や船形は中国南部から直接九州に伝わってきたらしいことが明らかになった
(2010年7月27日 奈文研飛鳥 資料館で企画展 出土品語る、旧石器時代 - MSN産経ニュース)
縄文末期の【細石刃】もシベリアと中国から直接日本に伝来
旧石器時代最終末期に、細石刃と呼ばれるカミソリの刃のように薄く剥がされた石器が出現します。
南方系とは中国大陸北部以南から九州を経て本州へ伝播したもので、
それに対し、北方系とは主にシベリア地方から北海道を経て本州に渡り、
南下してきた幌下型、湧別技法などの製作技法によってつくられた石器群です。
「旧石器時代人の文化」松藤和人 『日本の古代4』森浩一編
江南と日本の稲DNAが一致、朝鮮半島とは一致せず
http://yamatai.cside.com/katudou/image/266-4.gif
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
弥生人と古代江南人の、DNA、抜歯形式が一致―江蘇省
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin2.html
篠田謙一「弥生人のルーツはどこかいうと、中国の南から中央」
http://www.thinktheearth.net/jp/earthrium/15migration/text05.html
渡来系弥生人の故郷を中国に求めて -(国立科学博物館)
https://i.imgur.com/ot6kVwv.jpg
朝鮮人学者「朝鮮人は大陸の北と南から移民してきた民族の混合」
在日「O系は朝鮮人起源」笑 くりぃむ上田がO1b
ああいうヒラメ顔が弥生人だよ
目が左右に離れ口がムッと広い
矢沢永吉とかも似たような系統 韓国にあるD2
韓国平均 1.6
ソウル 0.9
全羅道 3.3
全羅道は倭人進出してた地域(笑)前方後円墳(笑) >>785
「弥生人と古代江南人のDNA…」のサイトがいいね。
梁王城遺跡かぁ。 >>788
梁王城遺跡の5000年前の男性人骨からの推定では、身長が180cmもあったとしているな。
山東省あたりは中国全土で第一位の長身地帯とされており、統計でもそうした結果が出ているという。
魯生まれの孔子も長身だったそうだから、この梁王城遺跡の人骨の長身は特異例ではないということになるな。
で、2500年前になると、そうした形質が一変しているというのだから、面白い。 >>780
ミトコンドリアの多くが渡来系
YDNAの多くが縄文系
つまり? >>789
沿海州なら何で残念なんだ?
その辺が朝鮮人のルーツだろ? 初期の渡来はやはり直接華中か。
弥生初期の養蚕は朝鮮には存在しない華中・華南の四眠蚕。
弥生石器は半島や大陸東北部にはない江南式。 韓国には吉野ヶ里墳丘墓より古い墳丘墓は発見されていない。
甕棺から57枚の以上の中国鏡が出土している。
甕棺はもともと長江中流域だけにあった風習で、縄文後期に九州に出現する。
その後100年ほど経って朝鮮南部にも大きな甕棺が出現する。
中国の江南の支石墓が下部に甕棺が埋められているのも九州北部の支石墓とそっくり。 6000年前に稲のプラントオパールが岡山で大量に出土してる。
稲はもともと日本に自生してないので、
中国の江南から渡来人が来てたことになる。
4000年前にハツカネズミが中国の江南から日本に入ってきてる。
これも渡来人の稲の中に紛れて一緒に渡ってきたもの。
どちらも弥生時代より前で朝鮮には同時代になかったものなので
江南のが先に渡来人が来ていることがわかる。 12000から7000年前は朝鮮半島には人の痕跡がなく
旧石器時代から新石器時代に移り変わるこの時期を
韓国の考古学会は空白の5000年間としている。
ちょうど7000年前に九州で大規模な鬼界カルデラの大噴火があり
縄文人が朝鮮半島に移住している。
日本で形成された遺伝子のD1a2a(縄文人)が
現在の韓国でも4%ほど確認されるのはこのため。 縄文人と弥生人の混血は古墳時代から始まった。
https://image.prntscr.com/image/e4aB7BeaSnils_Xjb4Ivpg.png
1世代=25年と仮定すると、およそ紀元6〜7世紀
1世代=30年と仮定すると、およそ紀元3〜4世紀 >>792
半島民族は雑多だったんじゃないだろうか
言語も違う馬韓辰韓などがあって、その元の言語は周辺の言語とも全く違ってた
今の韓国は高句麗と同じ民族としてるが、高麗も言語は新羅語のまま
扶余=高句麗=ワイ、沃沮などが言語が同一で、新羅語とは全く違う言語 >>791
D1a2aが増えたのは中世以降だから
天皇が途中ですり替えられたということ >>798
新羅は中国移民だから中国語と似た言語だったと史書に書いてる
・魏書 辰韓傳
>「辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役来適韓國」
(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役(万里の長城の建設)を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者)
・北史 新羅伝
>「新羅者、其先本辰韓種也」「其言語名物、有似中国人。」
(新羅の人々の、先祖は辰韓の苗裔である)(その言語も名称も中国人に似ていた。) 百済も多民族
・隋書 百済伝
>「其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。」
(そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。) >>801
随所の時代は高句麗が半島中部あたりにまで進行していて楽浪もなかった時代なので漢民族も当然百済にいる
百済と言っても、王族は扶余系で、民衆と支配層は言語が違う
新羅語は語彙の一部が中国語だが、それ以外は土着語だったのでは?ということ
つまり半島南部の当時の言語に一番近いのが、現在の朝鮮語か 「日本よりも早く起っていた、中国における先住民と北東アジア人の南下による混血」
http://web.sapmed.ac.jp/anthropology/research/p899u400000000vo.html
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-25304020/
ユーラシア東部の現生人類の起源については、7万年前ほどにアフリカからアジア南縁ルートを経て拡散したグループと、
シベリアのステップ地帯を横断し3万年ほど前に北東アジアに達したグループを想定することが可能である。
後者は北東アジアにおいて寒冷地適応を受け、その形態的特徴を得て長江流域まで南下し、水稲農耕の技術を獲得した。
その後、稲作農耕民として新石器時代に急激に居住域を拡散させ、
各地に先住していた南方の特徴をもった狩猟民と置換ないし混血したことは、
日本列島(縄文人と弥生人の関係)を含む大陸辺縁部で明らかになりつつある。
7000-9000年前の完新世初頭ユニークな採集狩猟民が、
日本の縄文人とともに中国南部の農耕拡散以前の人々がアフリカから東アジアへ移住した初期のホモ・サピエンスのグループに属することが強く示唆された。
↑
中国大陸では日本より早く先住民と弥生系の先祖である北東アジア人との混血がおきていた。
中国の先住民は東南アジアの先住民であるネグリト系かもしれない。
DのアンダマンもネグリトなのでDNAも合致する。 >>803
研究代表者
松村 博文 札幌医科大学, 保健医療学部, 教授
研究分担者 篠田 謙一 独立行政法人国立科学博物館, 人類研究部, 研究調整役
山形 眞理子 岡山理科大学, 経営学部, 教授
久保田 慎二 金沢大学, 国際文化資源学研究センター, 特任助教
澤田 純明 新潟医療福祉大学, 医療技術学部, 准教授
海部 陽介 独立行政法人国立科学博物館, 人類研究部, グループ長
中国や東南アジアもネグリトとの二重構造で日本と似てる
東南アジアのネグリトやパプア集団は古くに分岐した古層集団であり、
新石器以降の農耕民は北東アジア由来の拡散集団である
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23247040/
東南アジア人が2つの系譜の異なる人類集団の混血によって形成されたとする「二層構造」モデルを再構築した。
この遺跡の時期である新石器時代後半(約3700年前)は、現代のオーストラリアの人々と共通祖先をもつユーラシア南回りで移住したサピエンスに由来する先住狩猟民と、
北回り起源のサピエンスが中国南部を経て南下拡散してきた稲作農耕民とが入れ替わる転換期にあたることが明確に証明された。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20370096/
ベトナムMan Bac遺跡の集団は計測値からも頭骨形態小変異からも揚子江流域の前漢集団や日本の弥生人との類似性も示された。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-15405018/ >>804
ベトナムMan Bac遺跡についてのサイトは、素晴らしい。
こうした北方系の種族の南下に関しては、北方のほうが気候変動の影響が顕著だったということを表しているな。 >>803
ネグリト+北東アジアがマレー系ではないのかな
混じるとマレー系になるような感じもするけど
弥生系の北東アジア人の先祖であるのがシベリアからアメリカへ渡ったのかカナダのイヌイット
すごくプロト北東アジア人の顔してる 華南人に多い顔じゃねえか
ブタとボルネオ原人を足して二で割ったような醜悪な顔面 National Geographic最高研究者
スペンサー・ウエルズ博士はゆっくりとした口調で語り始めた。
「細川さんの祖先はアフリカで生まれました。
そして6万年前に移動を始めたんです。そして沿岸地域を通り、
インドから東南アジアを通って3万〜4万年前に日本にたどり着きました。」
https://web.archive.org/web/20190620050158/http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20090821/1028377/?P=4
細川茂樹はyapDだ。
まぁ見た目ではわからないもんだね D2は日本起源。涙老けよ在日
斎藤成也 @Saitou_Sayer
@c5qlMygHNwggCnW Y染色体のハプロタイプがAlu挿入タイプのものでしょうか。
日本列島だけに高い頻度で存在するハプロタイプは、日本列島に来てから突然変異が生じたのかもしれません。
周辺地域に存在しないのは、日本からの遺伝子流入がなかったためでしょう。
https://twitter.com/Saitou_Sayer/status/699204259573727232
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ほんとか?
日本人のDNAの中には、ネアンデルタール人のDNAが約2パーセント含まれている。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71473
ペーボ教授は、日本人はネアンデルタール人とデニソワ人両方に由来するDNAを持っているので、日本で研究できるのはうれしいですねと語ります。
https://www.oist.jp/ja/news-center/news/2020/6/24/35247 >>803
ロシアで発見された1万年前の頭骨は濃い顔
北方形質は、ネネツなどのハプロNが東征してきて広まったものではないだろうか
遼河文明がそれに関連する? >>816
それ系の研究も進められてるようです
「古代ゲノムで解明するバイカル地域人類集団の変遷」
本研究課題では、新モンゴロイド的形質の起源地と考えられる北アジア地域に注目し、
バイカル湖周辺における先史時代から現代にかけての人類集団の変遷を復元することを目的とする。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-18KK0201/ >>808
これが最新の縄文人の顔。
長江流域の古代人のほうがパッチリ二重で顔濃いな。
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180312001275.html
>肌は色が濃く、シミがあり、目は茶色、髪の毛は細く縮れていたなどと判明したという。
>また、血液型はA型で、身長は140センチ程度だったという。 中国 華南人の形質一覧
・頭型は短頭。また顔が非常に大きい。
・身長は低い。骨格は華奢だが肥満体質が多い。
・手足は非常に短い。
・彫りは非常に浅い。
・目は大きく二重瞼。
・鼻は低い。鼻示数は中鼻〜広鼻。
・歯が大きく鋏状咬合。
・唇は厚い。口は大きい。
・体毛は非常に薄い。髭が全く生えない。
・酒に弱い体質(ALDH2不活性型)。
こいつを一重にするとO1b2顔になるな しかし毛沢東とか取り柄がパッチリ二重くらいしかないのに
それが無くなるんじゃなぁ…
広島のO1aおじさんだが目だけがっつり一重で残念感が漂う
https://i.imgur.com/eYB3ykV.png 韓国人に最多なのはO3という現実から目をそらすなよ在日 >>822
カナン人絶壁いない
やっぱネネツが近い 中国にまんべんなくNが広がってるのをみても
かつてNが主流だったと考えるしかない
Nは遊牧民
それが農耕の広がりによって散らされた >>821
N9bはシベリア→北海道
M7aが沖縄→九州
だから北の縄文人はそんなに濃くないね | |_|,,,,,|.....,;;;;;;;;;;;、‐''''''''""~~ ̄|:::|
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i! ヽ | | | ,.:'" 、ヽ、 !,ノ
ゝ `-! :| i! .:;: '~~ー~~'" ゙ヾ : : ::|
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!、 `ヽ、ー、 ヽ‐''"`ヾ、.....,,,,_,,,,.-‐'",..-'"
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∧_(,∧つ(´・ω・`) ))(( (´・ω・`)と∧_),∧
(( (´・ω・`) ( つ ) (つ )(´・ω・`) ))
( つ ヽ とノ ♪ 〉と/ つ )
〉 とノ )^(_) (_)( とノ
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| | ( ´∀`) | 人l ァ'`・ω・)〉/_ュヘ〈|7 | * (゚∀゚ `ァ ノ + | | ( 个 ) | |
+ | { | .| { .(__)、 ○〈_}ノ : | + O /:-一;:、 / /. | | ./ /*
ヽ ヽ | .|.ヽ ヽ (___) 、 〈 く/ ヽ__,」 + ) ミ;;★:;:;:;ミ/ / | |/ /
ヽ ヽ,, ´∀`) ヽ ヽ ´∀`)__ノ ヽ__) / ,ヘ | __,, '´ ̄`ヽ__ (・ω・´/ / (・∀・ / /
,.へ ■ヽ ヽ ー、 ヽ ー、 / / |. | ★((ハヾヽ,.べ, ミ三彡 f ,- f+
l ァ'^▽^) i ,rュ ', i rュ ', ||| ( 〈 .| .| ハ^ω^*`ァノュヘ | / ュヘ |
ヽ ○.| /{_〉,.へ∧ ∧{_〉 << \ ヽ .| .| O☆゙ _ノ_,} ) | 〈_} ) |
| 、 〈 | 〈 l ァ';・∀・) \ノ |_,,| ノ´ ̄ゞ⌒'ーァ ! ||| / ! |||
||| l__ノ ヽ__)| ,ヘ. ヽ ヽ ○ヽ + |__ノ| ) `7゙(´〈`ー''´ | / ,ヘ | ガタタタン!!!! __ rr‐-、
l´ li |l、_i
. lー‐' ! i l
l | l |
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l L_. _/ ̄ヽ !r´ i´ 〉
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r‐'i | | | |. / (0)(0)ヽ | | ! `´ l |
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i 人_,、__ノ ヽ、_,,_ノ.|
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/ - - ヽ
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(( (" ),〜.。" ) )) バリッ
`> ゜ < ボリッ
/ `ヽ
(  ̄ ̄ ̄ヽ ヽ
`ーT ̄|'`'`'`'`'`'`7|
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| | チップス( ̄ )
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,.==ミ,=-'二.--‐''" キキキキキキキキキメメノノノノメメメメメ_>ァ_y‐ぇメメメメメノノノノノ ムキメメメメメト<ヘ、メメメメメ
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ミミヒヒッイ广厂广>メメメメノノノノノノノメ./ トメメ┤ ト|メメメメメメメメメメメ
メメメメメメメメメメメ´メメメノノノノノノノノノトメ| , イ }メメ┤ー、 ,ノ∧メメメメメメメメメ
キキキキシキ/メメメノノノノノノノノノッ∧メー--イキ,イイメキメ.\ `ー=' ,イキヾメメメメメメメ
メメキキキキソメメメメノノノノノノノノノ /キキ`ト┬‐ キキメメメメキキメメメ`下孑´キィキ∨メメメメメメ
メメキキキリメメメメノノノノノノノノノ.ソキキキキ匕>─---===-‐─<ヘメキキキ∧メメメメメメ
メメキキキキ!メメメメメメメメメメメメキキキキ〉´ `ヽ、キキ八メメメメメ
メ.キキキキ.トメメメメメメメメメメ/キキキ,ン′ , -─-----──‐<⌒ヽ ヽキキキハメメメメメ
メメ.キキキキメメメメメメメメ.メキキキ∨ ./ , ─vー─‐y' ̄ ̄∨⌒i ヽ |キメキメハメメメメメ
.キメキキキハメメメメ.トメメメトキキトキ| | _ム-‐ ー′ `! | |.|メメメメメメソメメメメメ
fキメ.キキキキl メメメトメメメトキ トキ| i‐´ `ー┴ ´ ̄ ̄`ヽ`^´ iメメメメメ/メメメメメメ
ffキメキキキキキ ,メメ乂メキメ キメ.|U | .|メメメ.ハメメメメメ
f.fキメキキキキ.=i メメメメメメメ.ハキキキ∧ヽ _, ィー┬ーv、_ ノ |メメト |メメメメメメメ
fffキメキキキキキ ,メメメメメメキ キキキハ. `<フ⌒i⌒! │ | │ ├、_iニ/メメト,イメメメメメメ
fftキ,メキキキキヨ ,メメメメメメメキ キキキキ>、 `ー┴┴‐┴ー^ーヘイ__,Lノ‐'メメ ソメ.トメメメメメメ
fff.キメキキキキ.八 ,メメメメメメメキ キキキキキ>‐、_____ __,ノ,メ∧メノメメメメメメ
ffffハメキキキキキ∨メメメメメ八 キキキキキキキキキキキキ`ー─<キキキノメリメメメメメメ / :ヽ
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ノノ `'ミ
/ y ,,,,, ,,, ミ
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〃 彡 "二二つ
| 彡 ~~~~ミ
,-‐― |ll 川| ll || ll|ミ―-、
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/ ,ノ:::;';';';';';';';';'/ /ヽ、二ニ-イ ヾT ¨´ ,/;';';::`、. \';';';';';';';';';';〈::...
. / i::;';';';';';';';';';'/ ,イ.:::::::::::::::::: ! ヽ`ー‐'";';';' ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||/自 ユ 半 こ 実 で....|
|||||:-'"~ ̄ ̄ヽ|||||||||||||||||/ .演 ウ. 数 の .は も . |
/ \|||||||||||( . な ち 以 ス .ね |
,:;⌒V⌒ヾヽ|||||||||/.. ん ゃ 上 .レ ・ ..|
.ノ .`ヾ、|||||.( よ . ん は の ・ |
ノ'‐-‐" "7-‐".i)|||||) ・ の ・ |
. / シ⌒四、 /"四、.ノ||||ノ ・ ..|
/|  ̄ ̄ \ ̄./|||||||||||( .・ .ノ
....l| |i . .ノ ノ||||||||||||||||| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄. |
ヾノ U rニニ=ゝ/||||||||||||||| . _____ . |
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_/|.! \ヽ \ { Y | |/ l \二| || Τ|| Υ | | / / / / | , | !| /| / V /v' \/_l/ Y | | / /
, .| >< \ヽ \ Y | | .| , ニ.| Υ| ̄|¨!! Υ/\{/\/ ∨ゝ! ィ ! !|, |'∨,  ̄ ヽ' 、/__」ヽ /| /イ / 7 ァ
| ,! /\ \ヽ \.! ! /\ i | || ̄|¨!!./,_ / ヽ/| | ! ,  ̄\. | / ̄ '< ./ 、__/ ∨ .! ! / V/7ィ
| .| /\ ∧ヽ '! !./ ' ! .| Υ| ̄|/ / \ 入 // / .! / \/_/|' / ヽ イ \|, イ .!, / !
| イ ∧ / , | |′Υ '。! .| ||/ 〈\_| Υ ' イ | ! / 7 | / ∨ } /ヽ | ,| ! ./ ! /7 , -‐-'´ー- 、._
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_---___-__--___-_-__--__-_-_____----___-___--_---_---__-___-_-_------__--
--------___-__-__-_-___-___--------_-___-____-_-_-____--_-_-___-_----_-__ C1a1は完全に北方系だったようだね
https://twitter.com/C1a1_M8/status/1306583158561804290
大凌河
@C1a1_M8
モンゴル、ウズベキスタン、カザフスタンでもハプログループC1a1(C-M8)が発見されました。familytreednaはよく分かりませんが、SNPをよく調べてみまして間違いがないはずです。
全部C-M8のSNPである。特に注目すべきは、日本でよく見られる子分枝ではなく、C-M8*である。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 遺伝学「日本の先住民はアイヌ」
>本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統である可能性が高いことを示している
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6987/
考古学「日本の先住民はアイヌ」
>縄文人骨の特徴は、弥生時代に入り本州で失われていった。その一方で、北海道ではオホーツク文化の進入にもかかわらず近代まで維持された
https://www.sapmed.ac.jp/medm/7-30.html
言語学「日本の先住民はアイヌ」
>東北北部にアイヌ語地名が多くのこっており、また北海道と同じ遺物が出る以上、東北地方にアイヌ語を話す人聞が居住していたことは否定出来ず、「蝦夷もある時代まではアイヌ語を使用していた」という考えを表明する
http://id.nii.ac.jp/1204/00000541/
和人「アイヌは樺太からきた侵略者!蝦夷とアイヌは別物!日本はけっして蝦夷地を侵略しなかった!アイヌへの差別などなかった!アイヌはもういない!アイヌは絶滅した!アイヌなんていなかった!エベンキ!ザイヌ!エベンキ!ザイヌ!うああああああ!!やめろおおおおおお!!」
(精神崩壊) >>379
えらはってないし、ホリも朝鮮顔より深い >>859
本来、半島人はエラ顔ではないから
顔目センターで卵顔がデフォ 朝鮮人の顔は日本人より彫りが5oくらい浅くて、やや面長で頬骨が角張って
飛び出ていてゴツゴツした感じ
エラよりも頬骨が目立つ顔
日本人よりも顔の立体感に乏しく具も小さいから、味気ない感じがするツマラナイ顔の
ブサイクが多い https
://youtu.be/RA60gW_aCEg >渡来人は2世紀から、縄文人にはない鉄製の器具、ガラスの装飾品を持って来て、徐々に同化したと思われてきた。
>しかし、青谷上寺地遺跡では、2世紀後半に渡来人がまとまって来て、縄文人と入れ替わった形跡がある。
>そこで発掘された人骨には、矢じりによる殺傷傷があり、戦闘があった。
>倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。
>倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある ・倭国大乱 → 畿内の縄文勢力を抹殺
・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力を抹殺
・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力を抹殺
・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力を民族浄化
が、大まかな流れか >>866
出雲が沿海州貿易の港
松浦が半島交易の港だった
で出雲で抗争が起きて、結局出雲は封鎖され反逆者は処刑された
銅剣200本はその時の敗者の異物
勝ったほうが鉄器を持っていた
つまり大和 日本人のゲノム・ルーツ
https://europepmc.org/articles/PMC4701090/bin/261fig2.jpg
沿海州アムール川 = ニヴフ/ガナサンに近い
長江の稲作民 = 台湾原住民/華南の少数民族/ベトナム人に近い
カリ・ガンダキ川(ネパール) = シェルパ人/チベット人に近い
縄文人 = アイヌに近い
このうち日本人はネパール・チベット方面の知識がないから
赤色ゲノムを正確に認識できていないのでは チベットのDとは全く違うDがどっからやってきたのか
縄文しかないわけだが 食べ物の好みで、じぶんの出自は解る
牛やイワナが好きな人はアムール川が
出自 >>12
DNA的にはロシアのブリヤート人が近く、外観も日本人そっくり
出雲王家の伝承だと、約6000年前にインドから戦禍を避けてバイカル湖経由で当時陸続きだった日本列島にたどり着いたらしい
ワンピースみたいな話だけど、DNAはプロタイプDは、縄文人に多く、北海道と、沖縄以外では唯一、今でも出雲に多い。
北九州の宇佐八幡のウサ族は、出雲より先に定住してて、出雲の人が来たときの伝承がある。
このDの一族が朝鮮半島と日本人の違いの根拠になっている >>866
今じゃ、古代製鉄は中国大陸より早い時期の遺跡が日本で出てますよ 日本列島の古代製鉄は、インド経由で出雲に定住する前の縄文人が持ち込んだらしい
鉄を求めて南下して出雲に定住したらしい 中国最古の鉄器が沿海州なんだっけ
ポリツェ文化期がBC1000年だから
中国も発見されてないだけで、疑いなくその時期から鉄があった
日本にはないな ?婁の考古学
?yu婁は魏志東夷伝 Weizhi Dongyizhuan の中では夫餘の東北,沃沮の北にあり,
魏からもっとも遠い地に住む集団である。漢代では,夫餘の残した考古学文化は第2松
花江 Songhua Jiang 流域に広がる老河深2期文化 Laoheshen 2nd Culture とされ,
北沃沮は沿海州 Primorskii 南部から豆満江 Tuman-gang 流域にかけての沿日本海
地域に広がっていた団結文化 Tuanjie Culture に当てることで大方の一致を見ている。
漢代の?婁はその外側にいたことになる。漢代から魏晋時代 Wei-Jin Period に竪穴住
居に住み,高坏を伴わないという?婁の考古学的条件に符合する考古学文化はロシア
側のアムール川(黒龍江 Heilong Jiang)中・下流域および一部中国側の三江平原 Sa
njiang Plain 側に広がるポリツェ文化がよく知られている。北は極まるところを知らず,東は
大海に浜するという点では,今知られる考古学文化の中ではアムール川河口域まで広が
り,沿海州の日本海沿岸部まで広がるポリツェ文化が地理的にもっともそれに相応しいこ
とは現在でも変わらない。そのポリツェ文化はその新段階に沿海州南部に分布を広げる。
層位的にも団結文化より新しい。魏志東夷伝沃沮条に記された,?婁がしばしば沃沮
を襲うという記事はこの間の事情を反映したものであろう。ただし,ロシア考古学で一般的
な年代観を一部修正する必要がある。最近,第2松花江流域以東,豆満江流域以北
に位置する,牡丹江流域や七星河 Qixing He 流域において漢魏時代の調査が進み,
ポリツェ文化とは異なる諸文化が展開したことが分かってきた。これらの魏志東夷伝の中
での位置づけが問題となっている。すなわち,東夷伝に記された?婁としての条件を考え
るかぎり,やはり既知の考古学文化の中ではポリツェ文化がもっともそれに相応しく,七星
河流域の諸文化がそれに次ぎ,牡丹江流域の諸文化,遺存がもっともそれらから遠い。
しかし,だからといって,これらを即沃沮か夫餘の一部とするわけにはいかない。魏志東夷
伝の記載から復元される単純な布置関係ではなく,実際はより複雑だったらしい。
なんでやねん
ポリツェ文化が漢民族の支配(鉄器)を受けた沃沮人だろ
中国の記録とも符号する
西北から東南にかけての幅が狭く、北東に行くほどせばまる地形(東沃沮)
淡路島のような形はまんまハバロフスク平野だろ 温暖なハバロフスクでユーロウの生活スタイル
「小便で顔を洗う」の必要性が全くない
それは北極圏の民族の習慣だ
ユーロウはアムール川河口付近 >>880
ユウロウが中国以上と認めたく
なかったから、オシッコ民族に
されただけ 五毛チンコロが詐欺に抗する反駁学力のない脳弱低能のおまえらをあの手この手で
詐欺仕込んでいるから気を付けろよ中卒パッパラパーども
五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:
. >>883
どこに鉄鉱石があるのよ
半島南部だろ
そこまで領土持ってるのは?漢民族だろ当時の 「権力者による暴力の歴史」という
「不都合な真実」が暴かれるので
Yハプロは嫌われるんだろうな
誰でも大量殺戮者の父を持つという事実があぶり出される
それが人々をヒステリックにさせるんだろう このPCAプロットを見れば東アジアの遺伝子流動が誰でもわかる
オリジナルの中国人はCDX、もしくは更にその下に位置するであろう台湾先住民
これがチベット人やモンゴル人と交わっていくとCHB(華北)になる
CHBがアイヌと交わるとJPTになる
したがって我々が弥生人と呼んでいるのはCHB・KOR 縄文人はAinu
https://media.springernature.com/lw685/springer-static/image/art%3A10.1186%2Fs41065-018-0057-5/MediaObjects/41065_2018_57_Fig1_HTML.gif >>888
民族的にいえば3つのみ
沿海州の被支配者層、扶余系民族
沿海州の支配者層、当時の漢民族(シナチベット語系)
縄文 ┌┴┐┌┴┐ ┌┴┐ -┼-  ̄Tフ ̄Tフ __ / /
_ノ _ノ _ノ ヽ/| ノ ノ 。。
/\___/ヽ
/ノヽ ヽ、
/ ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' :::ヘ
| ン(○),ン <、(○)《::| |`ヽ、
| `⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒´ ::l |::::ヽl
. ヽ ヽ il´トェェェイ`li r ;/ .|:::::i |
/ヽ !l |,r-r-| l! /ヽ |:::::l |
/ |^|ヽ、 `ニニ´一/|^|`,r-|:「 ̄
/ | .| | .| ,U(ニ 、)ヽ
/ | .| | .|人(_(ニ、ノノ >>886
違うわ馬鹿!
ぜんぜん考古整合してない解釈ばっかり言ってるから信用されないんだよ
明らかに考古学の方が正しいのにY染色体は科学だから絶対的な存在だ的な暴論を
振り回すだろ
◆遺伝子←経年とともにガンガン変化していくナマモノ
◆考古文物←地球が無くなるまで半永久的に変わらないゴチゴチのコンクリート
実際はまるで逆で考古文物の方が絶対的な存在なんだぞ >>890
妄想願望チンコロ乙
で、沿海州の支配者層が当時の漢民族である事を証明する中国系の痕跡遺構は?
. >>893
>沿海州の支配者層が当時の漢民族である事を証明する中国系の痕跡遺構は?
鉄器が出てるだろ
文化習俗その他はその地域ごとに変化するだろうが(中華系アメリカ人の家が埋まっても中国人と同じ考古学結果にはならない)
兵器は統一されるはず 沿海州人の支配者層が日本に来ていたなら
製鉄とともに渡ってきてるはずだが、
青銅器しか来てないということは、二分された社会構造があったはず
支配者と奴隷だ
で渡来人由来のYDNAには漢民族由来のものが交じる
全部つじつまがあってる だとすると、それは漢民族が支配する価値なしとみなしたユーロウなんかではない
沃沮だろう 結局行き着く真実はひとつだ
その真実に向かってすべては収斂されていく
それを事前に予測するように考えろ 沿海州・悪魔の門のゲノム(RUS_Boisman_MN_7000BP)でソートすると
ニヴフがいちばん上にくる。次いでナナイ、ウリチなど
日本人の沿海州ゲノムは、朝鮮人とほぼ同等
https://pbs.twimg.com/media/EU-dM-7X0AE8-8e.jpg >>890
これらのYハプロは?
沿海州の被支配者層、扶余系民族
沿海州の支配者層、当時の漢民族 >>894
中国から移動定着して中国系の鉄器や青銅器を作ったなら漢字の銘文の入った
在地産の中国系金属器を作っているはずだろ
で、漢字の銘文の入った在地産の中国系金属器は?
. >>901
それは中国でどんくらいまで遡れるの?
沃沮は紀元前後では独立してるからな
楽浪郡あたりでは文字記録が残ってもその他地域はどうだろう >>902
BC1300にはもう金文は見られるな
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
で、中国から沿海州に定着した事を証明する漢字の銘文の入った沿海州産の
中国系金属器は?
. >>903
なるほど
沿海州=沃沮なら出てきてもおかしくないな
ロシアが金かけてやるとも思えないが
沃沮城=玄兎城をさがさないといけない >>905
O2って鮮卑・匈奴とかも含むからな
内モンゴル人や女真族にもめちゃくちゃ多い
というか妄想じゃなく細かいサブクレードで教えてくれよ >>900
あと中国一帯にはまんべんなくNが見られる
これは遼河文明あたりの時期の多数派だった民族の名残
当然日本にも渡来人由来(アイヌにはない)で入ってきてるし台湾あたりにも見られる
農耕で広がった民族がそのまま広がったと考えればNの広がりは比較的新しい時期と重なる >>906
女真族=渤海人、漢民族が主流
ツングースの遺伝子とは違って当然だがC2が比較的多い >>908
漢語を使ってないくせに漢民族とかw
O2a2b1a2aが扶余でしょ
鮮卑もこれだし東胡の末裔だよ あと孔子がC2b1a2な理由は?
お前の理屈だとツングースらしいけど
どうやって宋王室になったの? >>904
で、中国から沿海州に定着した事を証明する漢字の銘文の入った沿海州産の
中国系金属器は?
早く言えよおまえ 朝鮮半島から弥生人がやってきて、いきなり大規模な戦乱(倭国大乱)になります
防御姓の高い集落が九州から近畿・中部へと目立つようになり
それまで人が住まなかった山地にも高地性集落が形成されるんです
高地性集落と入れ替わるようにして古墳が築造され、その地から縄文人がいなくなる・・・不思議ですよね 日本人の4つのゲノムのルーツ
https://media.springernature.com/lw685/springer-static/image/art%3A10.1186%2Fs41065-018-0057-5/MediaObjects/41065_2018_57_Fig1_HTML.gif
https://europepmc.org/articles/PMC4701090/bin/261fig2.jpg
オレンジ色(ツングース系) 緑色(オーストロ系) 赤色(ヒマラヤ系) 灰色(アイヌ系)
ツングース系・悪魔の門のゲノム(RUS_Boisman_MN_7000BP)でソートした結果
ニヴフがいちばん上にくる。次いでナナイ、ウリチなど
https://pbs.twimg.com/media/EU-dM-7X0AE8-8e.jpg
オーストロ系のゲノム(TWN_Hanben_3400BP)でソートした結果
台湾先住民がいちばん上にくる。次いでベトナム人、中国少数民族など
https://pbs.twimg.com/media/EU-dNscXkAE8hlU.jpg
ヒマラヤ系(NPL_Chokhopani_2700BP)のゲノムでソートした結果
シェルパ・チベット人がいちばん上にくる
https://pbs.twimg.com/media/EU-dL_2XgAAbK8T.jpg
アイヌ系・縄文人のゲノム(JPN_Jomon_3800BP)でソートした結果
日本人がいちばん上にくる。次いでマレイ、タイ人など
https://pbs.twimg.com/media/EU-jYwCXYAA_jG2.jpg
結論:
日本人は単一民族どころか、四種混交からなる雑種だった
弥生人はCHB・KOR 縄文人はAinu 馬鹿まるだし
____
/_ノ ヽ、_\. ━━┓┃┃
,. -- 、, o゚((●)) ((●))゚o ┃ ━━━━━━━━
,―<,__ ヽ::::⌒(__人__)⌒::::: \ ┃ ┃┃┃
/ ヽ ゝ'゚ ≦ 三 ゚。 ゚ ┛
__| }。≧ 三 ==-
/ ヽ, / { -ァ, ≧=- 。
{ Y----‐┬´ 、レ,、 >三 。゚ ・ ゚
/'、 ヽ |ー´ ヽ`Vヾ ヾ ≧
.{ ヽ ヽ lヽ_!´ ヽ。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・
', ヽ ヽ ,/ }
ヽ ヽ 、,__./ __/
\ ヽ__/,' _ /
\__.'! 〈 _, '
 ̄ >>904
で、中国から沿海州に定着した事を証明する漢字の銘文の入った沿海州産の
中国系金属器は?
早く言えよおまえ しかし極東のシホテ・アリニ山脈の海岸側にYapDが少数見つかるのを見ても
ここらが亀ヶ岡のアイヌと交易を行ってたとしか思えんのよな むしろそっちの方が本来はDの本家だろがw
アイヌや縄文人の祖先の旧石器人がどこから来たと思ってるの? >>904
で、中国から沿海州に定着した事を証明する漢字の銘文の入った沿海州産の
中国系金属器は?
早く言えおまえ >>921
そのうちでるだろ
ツングースの言語の痕跡が日本にないんだからユーロウが来てるはずないわ
むしろ三国志きの高句麗語の類似の証拠のが多いんだから
同語圏の沃沮の可能性のが大きい >>920
悪魔の門あたりにいたのはC2だからなあ
2万年以上前に縄文人が来て、大陸と隔絶されたあとでDが船で旅立ったと考えないといけない >>922
そんな中国からの人の移動定着を示す目立つものがあれば、ロシア考古学者が
さんざん掘ってるんだから、とっくに出てるはずだろがカス
3000年前の沿海州語が分からないのに痕跡もクソもないだろがカス
半島の沃沮が弥生人なら孔列文土器から弥生土器が始まっているはずだろうが
ところが沿海州南部と一致する刻目突帯文土器から弥生土器は始まっている
朝鮮半島なんて何の関係もないね >>924
沿海州語はわからんくてもユーロウは言語違うのは史書にあるだろ
ツングースが日本に来て優勢になってると思いながら、ツングース語の痕跡ないのに違和感感じないの?
ロシアが極東の遺物なんて真剣にほってるわけないやん
掘ってないから日本のルーツ論が進んでないんだよ 扶余並の人口あったのが沃沮
扶余は国土はでかいが山の中
高句麗は人口少ない
史書には山間部や谷に住んでいて、農作物がとれず自活できなかったとか
当時の農業で半島東北部で十分な人口を養えるだろうか?
ハバロフスクなら余裕だけど >>925
もうすんげえパッパラパー
真剣に掘ってるし、弥生人がアムール沿海州からだと最初に唱えだしたのは
ロシア人考古学者だよ
ロシア人考古学者の指摘によって、ようやく日本人も気付き始めたんだよ
>注目に値するのは,アムールの早期鉄器時代の土器>>が,日本の弥生文化の土器と
>類似していることである。学者たちは,大陸と日本列>島の間に交流が存在したと
>見なしている。
(リンク拒否されたので文章から検索して飛べ) >>925
もうすんげえパッパラパー
真剣に掘ってるし、弥生人がアムール沿海州からだと最初に唱えだしたのは
ロシア人考古学者だよ
ロシア人考古学者の指摘によって、ようやく日本人も気付き始めたんだよ
>注目に値するのは,アムールの早期鉄器時代の土器>>が,日本の弥生文化の土器と
>類似していることである。学者たちは,大陸と日本列>島の間に交流が存在したと
>見なしている。
(リンク拒否されたので文章から検索して勝手に飛べ) >>927
真剣度とかどうでもいいわ
どんだけ金かけてんのよ
それにつきる https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20140829/413347/001.jpg
縄文時代と弥生時代で人種が入れ替わったのがよくわかる
縄文人骨の特徴を受け継いだのはアイヌ
和人は朝鮮人の亜種
沖縄はオーストラロイドが先住していたが縄文人によって滅ぼされた >>929
鍛冶工なんて1%もいないだろ
数十人規模の渡来人に一人いるかいないか、しかも鉄鉱石鉱山もないから
材料の調達もできないだろ
日常生活で自分たちで作っていた土器や石器や住居や衣類と違って金属器は
渡来したらほとんど無理 >>935
どこに?
弥生期は青銅も鉄も輸入マテリアルだぞ >>940
その青銅自体は日本産じゃないの
ぜんぶ朝鮮からの輸入材料なの
縄文晩期に沿海州から鍛冶工が渡来定着しても青銅も鉄も、
その材料自体がないの
だから渡来人に鍛冶工がいたって作れないの
材料がないから
おまえってかなり知能が低いよな 朝鮮半島から弥生人が渡来し、いきなり大規模な戦乱(倭国大乱)になります
防御姓の高い集落が九州から近畿・中部へと目立つようになり
それまで人が住まなかった山地にも高地性集落が形成されるんです
高地性集落と入れ替わるようにして古墳が築造され、その地から縄文人がいなくなる・・・不思議ですよね
余談ですが、東北エミシも山間僻地に蝦夷館といわれる高地性集落を形成
シャクシャインもまた和人との戦いの最中、シャチといわれる施設を山地に築いたそうです
https://i0.wp.com/phity.net/wp-content/uploads/2019/10/jap6.png
>南九州は、山間部では縄文人・西北九州弥生人型、平野部には土井ヶ浜弥生人型、沿岸部や離島では南九州弥生人型が多く見られる。
>山間部の西北九州弥生人型や、沿岸部の南九州弥生人の一部のグループでは、古墳時代に入ってもより低顔性を増す傾向にあったりする。 >>941
縄文晩期の銅剣は完全な渡来系なのか
じゃあなんで同時期に沿海州にあった鉄器が渡来してない? >>3
龍が伝わらなかったんじゃないの
蛇に代替されて理解したとか >>9
サカ族は船に乗ったの?
クナドは船の玄関的な神だけど >>16
百済の人かな
最初の馬輸入は百済人からだったかと >>52
>北の文化
船の操縦が巧みと言われているから、川づたいに南下するのも苦じゃなかったとは思うけど >>121
鮭食の東日本人には馴染まなかったんだろうが、
どんぐり食の西日本人には有り難かったのでは?
そんな大袈裟に悪者あつかいする理由が分からん >>882
又吉さんは大阪で
その奥さんが奄美だったような
これ間違ってない? ワイ貊、ユウ婁、沃沮、扶餘って全て不潔感が伝わってくるな >>954
ユウロウが不潔で小便で顔を洗う
同じ言語、YDNAC2主流のエヴェンキなどの元の習俗も同じ
つまりネネツなど北極圏民族も同じ
小便で顔を洗う
沃沮とか扶余は平和的民族で同族だが高句麗は野蛮 ローマでもアルコールが汚れ分解するのを利用してクリーニング屋か何かが尿を使ってなかったっけ >>954
ゆうろう の流れとされる まつかつ(何故か変換されない)は弁髪だったらしいね、農耕と漁労で生活
その一派が高句麗に帰化したのちに渤海人(姓は大)を名乗ってる
渤海は日本が好きでかなり交流してたから、今の日本人にも流れてると思うよその血
弁髪がテュルク系の風習から来てるとしたら、この話もおもしろい
243 不要不急の名無しさん sage 2020/10/06(火) 11:57:02.00
この方言の語尾はテュルク語から来てるんでは?
っていう面白い研究論文があった
「雨がyagmur 降りyagi よるyor」
「彼はo 行きgidi よるyor」
「何ne をyi しyapi よんyon」
「どこnere へye 行きgidi よんyon」
うまい、たね、あわれ、とか一部の語彙も一致すると >>956
アンモニアな
>>956
アンモニアは油汚れを落とす
寒い地方だと毛皮を着るくらいじゃ凍えるんで
豚の脂を皮膚に分厚く塗ったりする
それを落とす時に使ってたんだろ
生活の知恵じゃねえの シュクシン、ユウロウ、ムクリ、マッカツあたりの似たような民族って、自称不明だから高句麗とかが勝手に名付けてそう呼んでたんじゃなかった?
言葉が通じなくて文字も無かったんだと思う >>960
靺鞨は北沃沮の地域名、「買溝瘻(マイガオルー)」からだろう このスレの人、間違ったこと書きっぱなしだったり嘘だったりするから何を信じて良いやら その中でも一番信じちゃいけないのが五毛チンコロの遺伝子出して、
長江やら江南やら中国から直接、
来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た だったら弥生土器は中国土器や朝鮮土器から始まってるはずだろ
弥生土器は中国土器からも朝鮮土器からも始まってませんよ >>965
YDNAは受け入れない?
ツングース、エヴェンキのYDNAなんて来てないが O1b2もエヴェンキ成分持ってるから
実質y染色体でも55%が北方系になるな >>932
斉の首都で人口の何割かは工商だったらしいし
結局、色々な物を作るから割合はともかく1%とかそんなに少なくはないでしょ >>968
O2はエヴェン族とかその他ツングースには定率だろ >>965
この二つ目の画像めっちゃ分かりやすいから
元記事を読もうと画像検索したら
バカみたいに転載されまくってて出所が分からない…
どこが制作した図で根拠のデータはどこに? 「アイヌは鎌倉時代に樺太からきた侵略者!」
「アイヌが日本列島の先住民族なわけがない!」
「アイヌへの差別などなかった!」
「アイヌはもういない!」
「アイヌは成りすまし!」
「アイヌなんてそもそもいなかった!」
「蝦夷とアイヌは別物!」
「蝦夷の居住域が東北北端なのはたまたま!」
「和人の勢力拡大によって僻地に追い込まれたわけじゃない!」
「日本は決して蝦夷地を侵略しなかった!」
「北海道にもともと住んでたのは和人!」
「日本人が侵略するわけない!」
「隼人・熊襲の居住域が九州南端なのはたまたま!」
「弥生人の勢力拡大によって僻地に追い込まれたわけじゃない!」
「土蜘蛛は架空のキャラクター!すべてフィクション!」
「日本人が土蜘蛛を虐殺したわけではない!」
「人種間の争いはなかった!縄文人と弥生人は仲良く混血!」
「歴史の争いはすべて同じ日本人同士の揉め事!」
「弥生人が朝鮮人なわけがない!」
「昔の朝鮮人と今の朝鮮人はそもそも別物!」
「朝鮮南部は実は和人が支配!」
「弥生人は朝鮮南部を支配してた和人の出戻り!」
「稲作は日本が朝鮮に伝えたジャポニカ米!」
「エベンキ!ザイヌ!エベンキ!ザイヌ!」
「うああああああ!!やめろおおおおおお!!うあああああああ!!」
(精神崩壊) >「弥生人が朝鮮人なわけがない!」
>「昔の朝鮮人と今の朝鮮人はそもそも別物!」
>「弥生人は朝鮮南部を支配してた和人の出戻り!」
これはないわ
弥生人が朝鮮半島から渡来したなら弥生土器が始まった当時の朝鮮土器である
孔列文土器から弥生土器が始まっているはずだろうが
ところが弥生土器は当時の沿海州南部と特徴が一致する刻目突帯文土器から
始まっている
弥生人が朝鮮半島から渡来したと言ってるやつぁ中卒です
>「稲作は日本が朝鮮に伝えたジャポニカ米!」
これもないね
朝鮮半島からは4000年前の稲籾が出土してるんだから
それに日本から朝鮮半島に稲作が伝わったのなら、朝鮮半島のイネの遺伝子も
a、b、cの3種類しかないはずだろうが
今すぐ速攻で死んでいいレヴェルの中卒です スレチな朝鮮の話を長文で連投したがる奴キモイ
何故そんなに朝鮮が大好きなんだよ .
そいつの正体
五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:
. 日本人からアイヌ成分(JPN_Jomon_3800BP)12%を除くと、朝鮮人とほぼ同じ
朝鮮人のほうがシェルパ・チベット成分(NPL_Chokhopani_2700BP)が15%多いのは、Han_NChinaに引っ張られた影響
ネトウヨが指摘してたエベンキ成分(RUS_Boisman_MN_7000BP)は日本人のほうが4%多いという笑える解析結果
https://pbs.twimg.com/media/EU-dNscXkAE8hlU.png >>980-981
形質から見ても全くその通りなんだわ
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨よりもはるかに沿海州ツングースの人骨に近く、
朝鮮人骨よりもはるかに北方モンゴロイド的な人骨なんだわ
渡来系弥生人骨の人々が朝鮮半島から来たなら本家の朝鮮半島よりも
北方モンゴロイド的人骨になってしまうなんて事がありえるだろうか?
渡来系弥生人骨の人々は朝鮮半島なんか経由せず、沿海州から直接山陰に
渡来して周囲に拡散していったとしか考えられんの そのアイヌ成分以上にYDNAで縄文系が顕著に多い
渡来人が在来系に女を差し出したとしかみれんだろう 【悲報】
日本人の共通先祖である土井ヶ浜弥生人、
日本に来てたった2100年程度の歴史しかもたないことが判明
>約2,100年前頃から土井ヶ浜付近に住居していた弥生人は、丘陵地を基地として使い始め、身体の軸がほぼ東西になるように埋葬し、しかも頭をやや高くして、顔が西側に向くように、即ち中国大陸・朝鮮半島を望む海岸の方向に向けて葬られていた。
>渡来人は2世紀から、縄文人にはない鉄製の器具、ガラスの装飾品を持って来て、徐々に同化したと思われてきた。
>しかし、青谷上寺地遺跡では、2世紀後半に渡来人がまとまって来て、縄文人と入れ替わった形跡がある。
>そこで発掘された人骨には、矢じりによる殺傷傷があり、戦闘があった
土井ヶ浜弥生人(山口県)
http://www.iokikai.or.jp/doigahama161.jpg
長州藩(山口県)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Keiheitai.jpg/880px-Keiheitai.jpg
ロンブー田村淳(山口県)
https://dot.asahi.com/S2000/upload/2019091300039_1.jpg 日本の農耕の始まりの議論では、しばしば、縄文人が水田稲作という新しい生活の術を受容したと書かれている。
それは外来の文化を受容し、消化して発展させたのは、日本列島の在来の人間であり、「日本人が主体であった」と考えたい気持ちが背景にあるからだろう。
人類学的形質から見ると、人間の形質が入れ替わるほどの変化がある期間に起こったのである。
縄文人と弥生人の接触の問題は、実は非常に一般的な「農耕民と非農耕民の接触」の問題の一部であり、それは世界の一部では現在の問題でもある。
世界の歴史から見ると、農耕民と非農耕民の接触では、大体後者が駆逐されるという運命になっている。 いつまでウリナラ縄文マンセー史観語ってるの
ここの奴らは? お前らを構成する物質はほとんど弥生人なんだが 和人よ、いいかげん目を覚ませ
君たちの王は偽物だ 君たちの言語も歴史も遺伝子もすべて偽物だ
記紀が神話で始まるのはなぜか 弥生人には縄文時代など存在しないからだ
朝鮮半島から悪い人たちが南下してきて、日本列島に先住していたアイヌは北海道に追いやられた
神武天皇、ヤマトタケル、坂上田村麻呂、そいつらは英雄でもなんでもない
君たちが住む地を蹂躙した侵略者だ
君たちは2000年もの間、ずっと騙されていたんだ あの半島からやってきた集団に
天コロ
https://rapt-neo.com/wp-content/uploads/2015/10/135693548197813109885_20121231153121.png
アイヌのエカシ
https://krocchi.com/blog/wp-content/uploads/2018/02/JOMON_01.jpg >>987
それも全然違ってるんだよな
渡来系弥生人が水田稲作という新しい生活の術を半島から受容した、
半島から取り入れたんだよ
稲作が始まる前にはもう渡来系弥生人は沿海州から来てしまっているんだよね
それは土器を見れば分かる事で、縄文晩期に弥生開始土器が出雲あたりから
始まりだす訳だ
弥生開始土器が九州北部に進出して拡がり始めるのと同時に菜畑で稲作が登場してくる
つまり九州北部に進出したのと同時に朝鮮半島南部とも接触した事を意味している
そのときに半島南部から稲作を取り入れた訳だ
だから稲作を始めた人々は朝鮮土器を一切作らず、弥生開始土器だけを
もっぱら作っているという訳だ
半島南部から稲作を取り入れたり、壺や高坏という器種を盗み取って弥生開始土器の
器種構成に付け加えたり、こちら側が積極的に朝鮮半島南部に往訪して
朝鮮半島南部から盗み取って吸収しただけなのだ
でも、その人たちはすでに縄文人ではなく、外来土器である刻目突帯文土器を
もたらした渡来人の子孫たちなのであって、山陰や九州北部で生まれた彼ら自身は
自分たちの事を渡来人だとは全く思っていない
そういった意味では、「日本人が主体であった」と言えるだろうね 要するに、渡来系弥生人が沿海州から渡来した時代と稲作が朝鮮南部から
取り入れられた時代が近いから、稲作を持った渡来系弥生人が朝鮮南部から
渡来したように錯覚してしまった60年前の人類学者の金関丈夫のカン違いが
教科書には載っている訳です >>986
地域は忘れたが、中国の僻地だったと思うけど、女は右向きに寝かせて男は左向きに寝かせる(逆かも?)みたいな習俗の人たちいたはず
向いてる方角ではなく寝かせ方に意味がある可能性も考えないと、ただのトンデモこじつけだぞ >>991
草
そもそも女系社会から男社会になってるってことは外来者が現地妻を作ったと考えるほうが自然なのに ■銅資源の恩恵に恵まれた民が、土地と専門職グループを取り上げられたのかな?って話
503 不要不急の名無しさん 2020/10/07(水) 15:14:32.68 ID:f3SO6DVf0
突然700年代ごろから文書が残りだす日本
しかし弥生時代の硯が出土している謎
700年代ごろまでにも何らかの文字はあったのでは
出雲圏で弥生時代製作とされる銅剣が膨大な本数出土
バツ印が刻まれていたり整然と並んでいたり謎
連想される国譲りの出雲神話
そして700年代に始まる和銅という元号
これ以上は控えておく
504 不要不急の名無しさん 2020/10/07(水) 15:18:56.13 ID:9qkA/3dj0
出雲の国譲り神話は明らかに銅資源を欲しがった話だね
出雲大社が逆しめ縄で封じられているのも祟りを恐れてのこと
出雲にはヤマト側から神楽禁止令が出てるのも謎
(しかし神事としては出来ないものの民間の祭りとして継承)
505 不要不急の名無しさん 2020/10/07(水) 15:20:26.28 ID:9qkA/3dj0
一連のイザナミや黄泉の国の話なんかは銅産や銅加工の比喩表現だと思ってる
576 不要不急の名無しさん 2020/10/07(水) 17:12:51.29 ID:Seycp5oe0
出雲も熊野も鉱物資源の産出地
九州は火山灰で稲作に適した土壌
対馬では彼らが鉄の交易場を設ける
蝦夷のいた東日本に関しては玉の産出地で黒曜石の交易あり
水運の良き大和地方に拠点を置いて魅力的な土地を征服するのは理にかなってる
↑
あと丹(水銀)資源は中央構造線に沿っていて、そこを舐めるように神社が建ってますね… >>994
女系社会から男社会になったのって平安時代くらいじゃない? 遼河文明から来た説
513 不要不急の名無しさん 2020/10/07(水) 15:44:19.16 ID:MQOEjyKY0
こういうこと言うと怒る人がいるけど
そもそもの龍信仰は遼河文明から発生したんじゃないかという説もあって
そこから寒冷化で大陸や列島に移住した可能性が考えられてる
中国に今でも残る龍信仰
出雲の大蛇神楽
出土した倭の金印の紐口が龍(蛇)デザイン
521 不要不急の名無しさん 2020/10/07(水) 16:04:50.43 ID:ixeTNOuq0
りょうが文明圏でも銅剣が出てる
568 不要不急の名無しさん 2020/10/07(水) 16:48:43.91 ID:vKJWOXJV0
勾玉も遼河文明発祥っぽい
でも日本ではその人たちは滅ぼされたかも
>ハプログループNは日本人全体では平均して2%ほどと低頻度であるが、青森県ではN1が7.7%(26人中2人)観察された例がある。
>遼河文明の遺跡人骨からもN1が60%以上の高頻度で見つかっており、かつ三内丸山遺跡と遼河文明の関連性が指摘されていることから、遼河人の一部は日本列島にまで進出していた可能性も考えられる。
あと↓似てると言われる人たちこれかもね
>日本には古代中国の周王朝と同系である可能性があるN-F710に属す者、中国(東北部のオロチェン族、ダウール族、黒竜江省から河北省、安徽省、湖南省、西南部のシガツェのチベット族まで広く分布)や
>韓国に見られるN-Y125664と近縁のN-Y23749に属す者、中国の山東省や河北省にも見られるN-Y24191に属す者などがいる。
韓国に見られるのは日本統治の影響かな >>997
ないな
遼河文明人は7000年くらい前から農耕をしているから、
縄文時代に遼寧から来てれば稲作より前に農耕が伝わるだろ
日本海の対岸である沿海州とは縄文時代にたびたび交流していたようだが ゴッドハンドもあるし
考古学的発掘なんかどこまで本当だか分からない
そもそも全員がそんなことしないなんて有り得ない
名誉や地位に繋がるんだから
警察が証拠捏造する理由ないとかな
出世してるんだからもろ理由あるじゃん このスレッドは1000を超えました。
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