[ルーツ]日本人の起源は?その3
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前スレ
[ルーツ] 日本人の起源は江南か?半島か?
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1533446967/l50
日本人の起源にまつわる話題なら
稲作起源、DNA、考古学、歴史学、地理学、科学、人類学問わずオッケーです。
*注 過剰なコピペや荒らしにはスルーで対応してください
では、どうぞ
[ルーツ]日本人の起源は?その2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1538961018/ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
古代の日本列島における人口は、紀元前3世紀から大宝律令までの1000年間に、人口15万から500万まで達した
驚くことにこの年成長率は平均して0.35%以上もあり、後半の500年に限るとその数値は0.4%近くにも上る
これは同時代に最も人口増加に成功した地域の実に4倍にもなる
>ローマ帝国の領土となる地域では前12世紀から3世紀にかけて平均して人口の年成長率が0.1%
>既に発展していた地中海の東側ではこの増加ペースがよりゆるやかであり、およそ年率0.07%であった[1]。
>それでもこの値は後の時代に比べると低い値ではなく、200年から1800年にかけて帝国のヨーロッパ部分の
>成長率は年0.06から0.07%であり、帝国のアフリカやアジア部分の人口はこの時期ほとんど増えていない
>
>比較として、1世紀から1800年にかけて現在中国の領土となっている地域の年人口成長率は0.1%であった。
ちなみに最近みつかった古墳人は朝鮮半島出身らしい
金井東裏遺跡(群馬県渋川市) 渡来系リーダーの誇り
骨の形態をみると甲太郎氏は渡来人の特徴が非常に濃厚で、
歯のストロンチウム分析からは、朝鮮半島を含む西日本で育ったと判明した。
地盤の地質に含まれるストロンチウムは地域により異なる成分比を示し
、飲み水を介して人体にも反映する。こうした分析結果から、甲太郎氏自身か、
その両親が朝鮮半島出身者と考えられるという。
甲太郎氏とは何者か。よろいをはじめ、すぐ近くで見つかったかぶとなどの所持品はいずれも豪華で、
「100メートル級古墳の副葬品。『倭人』の首長に次ぐ副将格の人物ではないか」(土生田氏)。
また、骨が示す筋肉の発達具合から、乗馬の習慣が推測される。
馬の足跡が多数見つかった点も考えると、当時、朝鮮半島由来の最先端技術である馬の生産にかかわり、
技術系トップとして開発の先陣を委ねられた人物像が浮かんでくる。だとすれば、支配者に使われる一技能者ではなく、
馬生産に当たる配下の渡来系人や「倭人」を束ねるリーダー的な人。
彼の矜持はそこに由来するのだ。当然、渡来系の人々の中にも階層ができていたのだろう。
古墳時代の地方社会で、渡来系人たちの重みは相当なものだったと知れる。未知の光景が見えてくる。
https://mainichi.jp/articles/20171023/dde/018/040/020000c 馬の発音は中国語の馬(マー)と同じ
つまり持ってきたやつが中国人か、馬を知らずに中国の発音そのまま使ってた民族 記紀によると馬は百済王から進呈されたものだとか。
牛や羊も確かそうだったような。
ただ、金井東裏遺跡の渡来形質人骨は西日本出身の弥生系の人骨とも考えられるけどな。 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 >>18
百済は中国史書には漢語まじり言語使ってると言われてる
わかりやすいのは白村江(はくすきのえ)でパクは中国語でスクは村主すぐりなどと同語源でムラの意味
馬をそのままマーと呼んでたのかもな 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 >甕棺墓
河北省で見つかってるから朝鮮半島経由だろ どうせ >>22
なら、朝鮮土器の甕棺墓じゃないと話がおかしいだろがカス 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ニヴフ/ニブフ(Nivkh、ロシア語での複数形はニヴヒ(Nivkhi))は、樺太北部及び対岸のアムール川下
流域に住む少数民族。古くはギリヤーク(Gilyak)(ロシア語での複数形はギリヤーキ(Gilyaki))と呼ばれた。
古アジア諸語に分類される固有の言語ニヴフ語を持つ。アイヌやウィルタと隣り合って居住していたが、ツン
グース・満州系諸族やモンゴル系民族などと全く別系統の民族である。
沿海州ちゃうやん 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 日本と韓国北朝鮮のO1b1比率の違いも漢民族からの支配の受け方の違いになるのか >>32
箕子朝鮮より1000年以上前の話だ中卒チンコロ
>>33
Oはモンゴル〜満州で完了している
漢民族なんか全然関係ねえ
日本の掲示板からさっさと失せろ
ダサい!クサイ!汚らしい!醜い!
の4拍子揃った劣等人種、劣等民族のチンコロのおまえ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀?[2] - 紀元前194年)は、中国の殷に出自を持つ[3]箕子が建国した
朝鮮の古代国家[注釈 1]。古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『
1000年もないな
3500年前ってのがサバ読みかもしれないし >>36
紀元前12世紀も、殷が出自も、あり得ないね
まず朝鮮半島には中国大陸の中国土器・陶磁器も金属器も一切伝わっていない
朝鮮半島には中国大陸人の生活痕遺構が一切見られないのだ
隣の遼東でさえBC4C末頃までウラルアルタイ語族の民族であった
BC4C末頃に燕に併合され、土着の遼東人が漢化して異民族燕人になり、
以後時代の変遷ごとに異民族秦人、異民族漢人となっただけで、彼らのルーツは
中国大陸ではないのである
ゆえに箕子朝鮮が興ったのはBC4Cより前はあり得ないし、在地産の中国大陸系の
中国陶磁器も中国金属器も朝鮮半島には一切ないから中国大陸人の国でもあり得なく、
漢化した遼東郡燕人か遼東郡秦人の国であっただろう。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>37
それはその時代の統治形態のあり方によるだろう
現地のものを重んじる善政が当時の基本だったのかもしれない
それがだんだん圧政になり、民が反乱を起こすようになった
中国史書に書かれてるのはそういう流れ
史書と考古学どっちを取る? もちろん考古学に決まっている。
文字にはウソや間違いがいっぱい詰まっている。
土器はウソを付かないし、間違いも何にもない。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 証明されてないよ
沿海州から来たんだよ
おそらく沃沮 沿海州の文化はシニ・ガイ文化(BC1000〜)からヤンコフスキー文化(BC1000以降)で鉄器時代に以降する
しかし渡来人は製鉄法を全く伝えていない
これはどう考える?
中国史書にあるように、その地は支配をうけて奴隷となったと考えるのが自然ではないか?
故に渡来人Y遺伝子に中国漢民族由来のものが見られる >>46
沿海州南部はユウロウだっての
ウラジオストクは砕氷艦を配備して人工的に不凍港にしているだけで実際は凍結港
ただユウロウから1300年くらい前だから同じ集団ではないかもしれない
>>47
前池式弥生開始土器が出雲に登場するのがBC11C頃
ゆえにシニ・ガイ文化期にあたる
青銅器を伝えなかったのは、クルーに技術者がいなかったか、いても材料の銅を
産する鉱山がないため作れなかったかのいずれかだろう 漢民族が入植定着してたら、シニ・ガイ文化土器に鬲や鼎や耳の付いた器種器形や
皿や甑や釜や竈があるはずだろがカス
ったく星占いよりも当たらねえゴミ 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 >>47
>中国史書にあるように、その地は支配をうけて奴隷となったと考えるのが自然ではないか?
というか避難民だろうな
航海にでるなど自殺行為に等しい
それをあえてやったとするならばその土地に留まると命を落とす危機に見舞われていたとみるほうが自然 >>49
シニガイ文化期はまだ独立してた時期
次のヤンコフスキー文化に至って鉄器が導入される
その時期でも日本と交流があり、亀ヶ岡遺跡などはその影響を受けた
でも鉄器は入ってきてないだろ
なぜ?
ユーロウはありえない
文化的に小便で顔や手を洗うのはもっと北方の文化
それに言語にも何も痕跡が残ってない
言語的には沃沮語=高句麗語=扶余語で、高句麗語は数詞などが史書に残ってるがほぼ日本語と同じに思える
その他語彙は貧弱だが、これは縄文と混じり合った結果だろう
数字は大陸人のが強かったはず >>52
亀ヶ岡には渡来人の定着はないだろ
数回程度の交流だけでは金属器の製造技術までパクるのは無理だろ
弥生人は頻繁に半島を訪れて滞在していたから半島の金属器の製造技術を
パクる事ができた訳で
沿海州南部は定説通りユウロウだね
ウラジオストク港は凍結する港
今は人工的に不凍港にしているだけ
冬はマイナス40℃まで気温が下がるんだから、尿洗顔なんて当たり前の話だろ >>53
http://to-pa.jp/Kodi/KaigansenKY.jpg
その時期の海岸線
亀ヶ岡は明らかに大陸の影響あるだろ
あれが渡来人第一波だ
地理的に可能性が高いのが沿海州
沃沮は温暖で肥沃、五穀が実る土地と書かれてる
玄菟郡の人口20万を養うのに十分な地
それにふさわしいのはハバロフスク地方 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_of_The_east_barbarian_0.png
ハバロフスク地方をみよう
「西南が広く、東北が狭い」という東夷伝の記述にもばっちりあう
で沃沮は扶余と国境を接していないといけない
高句麗とユーロウは国境を接しない
沃沮とユーロウ、扶余、高句麗、?貊は国境を接する
半島東北部ではそれは不可能 >>54
で、それらの衣食住に関する遺跡とその考古文物や住居からの考古立証は?
できなきゃただのキチガイの願望妄想なだけ
>>55
ハバロフスクには海はない
東夷伝の記述に丸っきし合っていない
妄想乙 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 >>56
だからウラジオストクが海で東沃沮
北沃沮がその東の山を背に大海に向かう地にすんでユーロウに夏期に船で侵攻をうけた
で日本の記述、粛慎(みしはせ)が北海道に船でやってきたのは高句麗が東沃沮を滅ぼした時期
おそらく東沃沮の後ろ盾を失って北沃沮が靺鞨=ユーロウ=粛慎に屈した、その年代とかぶる
北沃沮はマッハールーとも呼ばれていたが、その地名が何故か靺鞨の民族名となっているのも
一致してないか? そして高句麗語=扶余語=沃沮は言語が同語圏
沃沮のみわずかに違うと書かれているが、基本は同語系だろう そして韓国の史書にかかれている高句麗の数詞と日本語数詞の一致
ツングース言語で同様のものがあるか? 土器片は何も語らないし嘘はいわないかもしれないが
それを解釈する考古学者は適当ででまかせも嘘もいうだろう
情報量が少ない限りヒューマンエラーは常に起こりうる
歴史解釈はそのまま受け取るしかない >>58
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東
東沃沮は蓋馬大山(白頭山)の東だから朝鮮北東部だろうが
何で東沃沮がウラジオストク港なんだよパッパラパー
で、ユウロウが冬季に海が凍結する地域=ウラジオストクを含めた沿海州南岸だろうに
定説通りで何の問題もない
>>61
おまえが一番のヒューマンエラーだろがカス! 朝鮮北東部に沃沮があって、ハバロフスク地方がユーロウであった場合
「東沃沮は扶余と国境を接する」がなりたたなくなる
どう解決しよう? 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 青銅器は最初は輸入に頼っていたが、BC2C頃に弥生人自身が製造技術を半島から
パクったんだと思われ
最古の青銅器製造遺構からは搬入した朝鮮土器は出土するものの、在地産の
朝鮮土器というものがない
だから渡来人の手によるものだとは考えにくい
稲作もそうだが、弥生人は頻繁に半島南部に赴いて滞在していたから半島南部のものはほとんど全部パクってるんだよ 朝鮮半島に居たワイ人が渡来してきて弥生人になった
朝鮮半島と交易してたのも文化的(言語)に近かったから
その後劇的な変化の起こる古墳時代だが
朝鮮半島北部のワイ人(=倭人)がある事情(おそらく倭国大乱)で日本列島に落ち延びる
それが古墳人となり列島にいた弥生人を支配し隷属させる
そのころから弥生系と縄文系の交雑がより進んでいくことになる ではなぜ外観に関わるDNA以上に縄文系の男系YDNAが優勢になったんだ? >>71
だったら弥生開始土器は朝鮮土器から始まらなきゃ話がおかしいだろが
古墳時代の朝鮮帰化人が遺した土器は新羅系と百済系の朝鮮南部のもので
朝鮮北部の土器の出土など聞いた事がない
単なるおまえの願望なだけで何も考古学になっていない 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本人の地域差について
核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。
もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。
本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。
日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。
今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。
◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。
◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。 縄文弥生を通して、日本には中国から渡来定着した痕跡遺構はない
ゆえに中国南部の影響なんかあるはずがない
エセ科学はやめろ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 古墳時代になって身長がいきなり伸びてそれまでいなかった馬がこれまたいきなり現れてそしていきなり乗馬できるようになった 笑
>古墳時代の朝鮮帰化人が遺した土器は新羅系と百済系の朝鮮南部のもので
古墳時代初期に百済なんて国は朝鮮半島南部にはないから
いい加減にしてよw 百済が朝鮮半島南部に遷都してくるのは6世紀になって 辰国って今の平壌以北の朝鮮半島北部にあった国だろ 多分 >>80-81
朝鮮半島を南北に2等分するなら、百済は朝鮮半島南部だろ
古墳時代の4C後半から秦氏のものと見られる新羅系の朝鮮陶質土器が、
4C末に日本最古のアナ窯である神戸の出合窯から百済系とも加羅任那系とも
考えられる朝鮮南西部系の朝鮮陶質土器が出土してくる
出合窯は百済王が倭に帰化した百済人のために送り込んだ陶工の窯だと考えられている
古墳期に朝鮮半島北部系の土器の出土例はほとんどない
朝鮮半島北部系の土器は飛鳥時代以降に福岡や関東に高句麗系土器が見られる程度 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 朝鮮半島の南部ってカオスでしょ
百済の遺物は6世紀を境に出土するようになる
すぐ近くの遺構からは伽?系の文物ばかりが出土
墓制もまちまち
どうしてかな?w スキタイ文化はウラジオストク経由
最初の製鉄はたたら製鉄、次が百済が
持ち込んだ漢式高炉製鉄 青銅器がオルドス青銅器が朝鮮に伝わり、朝鮮青銅器が日本に伝わっているから、
タタール製鉄も内モンゴルから遼東・朝鮮経由で日本に伝わったものだろう
その数百年後、今度は中国大陸から遼寧経由で漢式高炉製鉄が楽浪郡・帯方郡の
設置とともに朝鮮半島に伝わり、それを引き継いだ百済から日本に伝えられた 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 馬韓と新羅の全身の辰韓も違うんだが
馬韓が西にあってその東に辰韓があった
で、その両方は楽浪郡(平城付近)を含まない
扶余人が南下してきて全く別民族の馬韓を支配して百済になった 百済の建国と楽浪郡帯方郡の滅亡って、ほとんど同じ時代だよな
高句麗から逃れた楽浪郡帯方郡漢人が建国したんと違うか? 朝鮮半島楽浪郡の怪
1 玄菟郡の遼東移動の怪とは、前107年に衛氏朝鮮の跡地に楽浪郡と共に置かれた玄菟郡が、
設置後まもなくの前75年に朝鮮半島から遼東(遼河東部地域)へと大移動が行われた謎である
2 消えた万里の長城の怪とは、楽浪郡逐城県を起点とする万里の長城が朝鮮半島から跡形もなく姿を消した謎である。
3 夫余の楽浪郡攻撃の怪とは、111年に夫余が玄菟郡、遼東郡、高句麗などを通り越して楽浪郡を攻撃した事件の謎である。
4 馬韓の玄菟郡攻撃の怪とは、122年に馬韓が帯方郡、楽浪郡、遼東郡を通り越して、高句麗主導で?貊と共に遼東の玄菟郡を攻撃したが、夫余によって撃退された事件の謎である。 朝鮮半島の楽浪遺跡なるものが本当に楽浪郡の跡地なのかということ
漢の下級役人クラスの墳墓しかみつからない
それと封泥なんだがあれはA地点からB地点まで書簡を届けるときに途中で封をあけて中身をみられないようにするためのもの
だからB地点で、A地点の官印による封泥が見つかるのは当たり前
極めつけは、「夫租[草冠に歳]君」や「夫租長の印」の銀印(外臣用)が見つかってるということ
「初、右渠未破時、朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用、東之辰國、時民隨出居者二千餘戸、亦與朝鮮貢蕃不相往來」
に合致するとは思わん? たたら製鉄はウラジオストクからだよ
タタール文化は満州〜沿海州→日本だよ >>91
百済は言語が扶余語
しかし日本は百済人と会話するとき通訳(通事)つけてる
扶余語系の渡来人だったとしても言語は全く変わってるんだろうな >>92
混乱期[編集]
王莽による新朝が成立すると楽浪郡は楽鮮郡と改称され、諸県も名称変更された。その後の新末
後漢初の混乱期に、土着漢人の王調が反乱を起こして一時的[5]な独立国家を樹立したこともあ
ったが、後漢光武帝が中国統一事業の過程で30年には楽浪郡を接収している。その年(30年)の
うちに後漢は嶺東7県を廃止して、原住民の穢人を県侯に任命して独立させている。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています