[ルーツ]日本人の起源は?その3
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前スレ
[ルーツ] 日本人の起源は江南か?半島か?
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1533446967/l50
日本人の起源にまつわる話題なら
稲作起源、DNA、考古学、歴史学、地理学、科学、人類学問わずオッケーです。
*注 過剰なコピペや荒らしにはスルーで対応してください
では、どうぞ
[ルーツ]日本人の起源は?その2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1538961018/ ウラジオストクで稲作やってる
沿海州から来た連中が種籾を持ち込んだのは
間違いない 黄河文明人が揚子江文明人を襲った戦利品にたまたま種籾があって
北方諸民族が黄河文明人を襲った戦利品にたまたま種籾があって
沿海州人が北方諸民族を襲った戦利品にたまたま種籾があって
試行錯誤の結果、水耕稲作したんだろう >>156-157
だから、BC10C以前のウラジオストクの稲作遺跡と出土イネは?
単なる妄想なんかイラネエんだバカ! >>159
じゃあ何でこの板にいるんだよおまえは?
考古学は、遺跡とそこから出土する考古遺物から人間の過去の文化の発展を、
その遺物を通して研究する学問だぞ
遺跡と遺物がイヤなら、さっさと失せろ 地理・人類学版で遺跡と遺物しか語れない奴もここにいるだろ 人類学は考古学も包括する学問なんだから、遺跡と遺物が語られるのは至極当たり前の話だろ
それがおまえにとって何か都合が悪いのか? >>162
せっかくの人類学版で「考古学だけ」が語られているのが残念なんだよ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>167
だから、BC10C以前のウラジオストクの稲作遺跡と出土イネは?
単なる妄想なんか要らねえんだバカ! >>167
おまえ時系列が分かってないんじゃないか?
BC11〜12C 沿海州より渡来。島根、広島、岡山に前池式刻目突帯文土器出現
BC10C 菜畑遺跡に日本最古の稲作遺構出現
こういう時系列なのに沿海州から渡来時に稲作を伝えている訳がないだろ
稲作は渡来から50年以上あとの子孫の時代になってから朝鮮南部からパクった
もう一度言うぞ
稲作は渡来から50年以上あとの子孫の時代になってから朝鮮南部からパクった
二度と忘れるな なんで半島からパクったことになるのか?
稲作の時系列が合ってないから 時系列も合わないし、沿海州に当時の稲作遺構もイネ粒もないからだ それに最古水田菜畑からは日本最古のイネ粒と日本最古の農具とともに朝鮮無文土器の壺が一基出土してるんだよ
つまり最古水田菜畑の稲作は朝鮮南部から取り入れた
分かりやすく言えば、朝鮮南部からパクった 半島南東部と日本海側は同時期だよ
すべて沿海州から >>175
あちらの方が全然早いの
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. >>177
なら、日本の考古学者は全員、通名在日じゃねえかバカチンコロ(嘲笑 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. なぜ華北と韓国人は背が高いのに、弥生日本人はチビなの?
答:上海から来たからですw (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 沿海州でファイナルアンサーだな
亀ヶ岡を説明づけるのにも沿海州 >>182
チビは西日本、韓国も旧百済地域はチビです
東日本は大きい人が多いよ 亀ヶ岡式土器は注口土器が有名だけど、注口土器が現れた土器形式の次の段階の
土器形式になると、もう注口土器は消滅するのな
やっぱ外来系器種だから定着できずに廃れて淘汰されたのかな?
鬲型土器もそうだ
30基ほど出土しているが、次の段階の土器形式にはもうない
日本にせっかく伝わったのに短命で消えていった外来系器種もあるというお話でした それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の
ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波
大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学
の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、
一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について
報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。
異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。
日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系
ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。
ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す
わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方
アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。
「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人
と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 亀ヶ岡はそれ以前に1万点以上の土器が盗まれて売られてる
今ので残り滓 ツングースはないって
沃沮だよ
沃沮は扶余語系=高句麗語で、高句麗語の数詞が日本語とほぼ同じってのは前から言われてた
相撲などの文化をみるに元々は北方民族なんだろうけどな
ネネツにも相撲みたいな文化がある
あと支配者の象徴としての鷹という文化
https://www.youtube.com/watch?v=DifKMWB8_VI
モンゴルの鷹狩り >>191
沃沮、 濊が弥生人 朝鮮から来たなら、朝鮮土器から弥生土器が始まるはずだろ
ところが、弥生土器は沿海州南部と一致する土器から始まってるの
どこから来たのか、もう言う必要ないよね? 沃沮は朝鮮半島だろ
朝鮮半島から来たなら、朝鮮土器から弥生土器が始まるはずだろ
ハイ、沃沮は候補から消えた 沿海州から来た縄文末期のやつらは沖縄に流れていったんだろ
多分w 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる
情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業
システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、
高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間
の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人
が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土
する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の
影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、
ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較
すると、不思議なことである。
歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。
ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。
甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。
その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。
そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。
ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。
この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。
これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。
彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。
刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。
しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。
さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。
この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 新撰姓氏録によると、近畿内の1182氏族のうち、326氏が渡来系
さらに5分類され、「百済」として104氏、「高麗」として41氏、「新羅」として9氏、「加羅」として9氏、「漢」として163氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2
昔から中国人・朝鮮人で溢れかえってたみたいだね日本 漢は百済だから、百済経由で日本へ来た漢人が
ほとんど >>195
沃沮が半島東北部なら「扶余と国境を接する」が通らなくなる 半島東北の山に囲まれた部分が沃沮であれば
高句麗とユーロウとしか国境を接しない
史書にははっきりと扶余と国境を接したと書いてる
アムール下流付近のみがユーロウ
ハバロフスク地方の山の向こうの広々とした盆地が扶余
ハバロフスクから谷をぬけて中国にいたる部分が高句麗 >>202
元楽浪郡・帯方郡漢人だろ
楽浪郡・帯方郡は4C初めに高句麗に滅ぼされ、その多くが百済に亡命した
秦氏や東漢氏は中国大陸の中国陶磁器の技術を持っていなかった
彼らが中国大陸人ではないからである
彼らが伝えたのは中国陶磁器とは全く異なる朝鮮陶質土器=須恵器であった
中国大陸には約3500年前からあった磁器が朝鮮半島で作られるようになるのは1000年前からである
その時代差2500年
朝鮮半島に中国大陸人の植民があったとは考えられないね >>204
またおまえか
ユウロウは凍港で大海に面した地域
沿海州南岸としか考えられないね 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 沿海州のオロチとかギリヤークとか朝鮮人よりブサイクなんだが
起源でほんとにええんか? マシなんてありえない
ツングースは小便で顔を洗ってたんだぞ >>206
だから沃沮は扶余と国境を接するんだって
ユーロウがハバロフスクにいたらつながりようがない 日本人の起源地の一つは中国百越なのは確定事項。これはY-O1a。
もう一つは、百越人が来る前にいたアルタイ系の旧石器人だろう。これはY-D1a2。
基本的には、この二つがドッキングして日本人のベースをつくった。
そのベースの上に乗っかったのが中国東部沿岸にいた稲作民のY-O1b2と渡来系のY-O2。
支配好きなO2がごり押しして、意地の強いO1bがこれに抵抗し、その乱れた状態を柔軟にコントロールしてきたのがD1a。
日本の歴史はこの3者の三つ巴だよ。 >>214
床が真っ平なところでしか三脚鍋は使えん。
1万2000年前の九州に真っ平な床があったと思うな親と金。 じゃあ床を真っ平にすりゃイイだけじゃねえか
あほだろおまえ そんな三脚鍋使うために、わざわざ床を真っ平になどするかよ。
縄文人にとっては、床はデコボコしていてあたりまえ。
三脚鍋のためにわざわざ世界観を変える者などおらん。 >>214
日本家屋は家の中に囲炉裏があるんだよ
その竈の脚の部分だけが五徳として
残った >>218
足の付いた土器は弥生時代後半からみられるそうだ。
中国の鼎を転用したものかどうかは定かでない。
一方、五徳は利休が茶室で使うために考えた茶道具で、鼎とは別物だな。 五徳って言い方が間違っていた、すまん
三脚五徳ってやつだな
囲炉裏は靺鞨かららしい >>220
靺鞨も土覆竪穴住居を使ったのは冬場だけらしいな。
暖かくなると、川べりなどで過ごしたそうだ。
囲炉裏はなにも靺鞨の特許じゃないけどな。 >>217
それは中国大陸だって同じ事だろが詭弁カス
おまえ真剣にバカだろ
>>218-220
縄文弥生を通して日本には鼎の出土が一切ないから、独自開発だろう
五徳型土器、三脚台土器とでも言おうか
日本最古の香炉が法隆寺のものだそうだから、中国系三足器が入ってきたのは飛鳥時代だろう
平安時代になると日本でも三足土器が作られる遺構がわずかに出現する
ただし鼎ではなく、双直耳も蓋もない鉢に三足を付けただけの粗末なもので、
鎌倉時代頃までは作られていた遺構もわずかにあった >>222
一般人は凝った作りの青銅の鼎なんか使うもんか。
青銅の鼎など高価なんだから、使えるのは床をぴたっと平らに造れる金持ちだけ。
一般人は脚の長さに長短あるような粗製の土製鼎。
床が凸凹していても問題ないように作ってある。
それでもガタガタするのなら、脚の下に何か詰めて安定させただろう。
まあ、縄文弥生じゃ、ぴたっと平らな床はないからな。 >>223
だから通常の陶鼎だろ
つか、それが何か?
むしろ基本は陶鼎だよ
8500年前に鉢に三足が付いただけのカ(禾の下に皿)が中原で登場し、
二大河下流域に広がる7000年前までに双直耳と蓋の付いた鼎に進化した
3500年前に青銅器時代に入り、殷の頃に青銅鼎が登場しただけで基本は陶鼎である
鼎は奴隷から王まで使われ、亡くなるとあの世でも食えるよう、奴隷から王まで
墓に副葬された 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 鼎はそもそもが調理用の道具で、この鼎に直接箸やホークを突っ込んで煮物を取り出すわけではなかったというな。
それに周代にもなると、祭祀用としての道具の意味しかなく、日常に用いられるものではなかったそうだよ。
そして、やがて魏晋南北朝の時代に磁器が発明されると、鼎は終焉して造られなくなるそうだ。
つまり、鼎が日常の煮物用の調理具として用いられたのは、殷の時代くらいまでということになるね。
弥生の渡来者たちが鼎を持って来なかったのも道理だよな。 >>227
ウソコキ華南ブタゴリラ乙
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>224
庶民や奴隷は竹製品を使い捨てで遺物としては残らなうい
青銅器は基本的に権力者の祭祀用
日常使いは土器や石器・竹製品 ちなみに、殷の甲骨文字に「冊」が存在する
遺物として残っていないが
竹や木の板を束ねて文字をしたためたのだろう
支那竹は万能な道具なのである >>229-230
中国では商周代の木器、竹器はもちろん、7000年前の木器、竹器が出まくってるし、
木器、竹器を直接火にかけて炊飯なんか出来る訳ないだろ
奴隷であっても鼎、あるいは鬲と甑のセットで炊飯するしかないじゃないかボケ
それに商周代の甲骨文が書かれた木簡、竹簡が出まくってるぞ
おまえホンモノの知恵遅れなんと違うか? 竹筒
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%AD%92
中国大陸や台湾では竹筒飯(中国語版)と呼ばれるおこわや炊き込みご飯に似た料理があり、地域住民が調理するほか、屋台やレストランなどで提供されている >>228
鼎は食事のときの器じゃないよ。
食材を煮炊きするための調理具。
できあがると、その鼎から煮物を取り出して食事の器に盛る。
そんな二重手間は縄・文弥生人はしなかった。
甕に食材を入れて煮て、出来上がればそれを取り出してその場で食べた。
食堂とは別のところで煮炊きするための鼎は、縄文・弥生人には必要なかったの。 >>232
それが当時にあれば、その証拠の竹筒が出土しまくるだろがカス
>>233
縄文人・弥生人も浅鉢という器に盛って食べてた事も知らんのかバカチンク
一度も使った事もないのにどうして鼎が必要がないと最初から分かるんだ詭弁カス!
必要か必要じゃないかはまず実際に使ってみて、必要じゃなければ長い年月の中で
徐々に使われなくって消えていくというのが必要のない文物の流れだろがノータリン! >それに商周代の甲骨文が書かれた木簡、竹簡が出まくってるぞ
出てないし
ちなみに周代は甲骨文字じゃなくて「大篆」と「小篆」な >>237
それ本当に読んだの?
竹筒飯を知らないあなたが 出土総数は数十万にも上るんだとよ
さすが中国、凄すぎる
木簡・竹簡の語る中国古代 増補新版――書記の文化史 (世界歴史選書) (日本語) 単行本 – 2014/11/19
冨谷 至 (著)
内容紹介
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は漢帝国の支配システムに
いかに組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの媒体も視野に入れながら、
竹簡・木簡から紙の時代へ、中国古代の書記文化の多様な展開を提示する。文字の文化史、
書物の文化史を学ぶうえで必読の書。好評の旧著に新稿2篇を増補。
内容(「BOOK」データベースより)
二〇世紀初頭、かつて古代中華帝国の辺境地帯であった敦煌、居延で、官僚や兵士たちが
書き残したおびただしい木簡群が発見された。二〇世紀後半には、中国各地から木簡・
竹簡(簡牘)があいついで出土し、その総数は数十万に上る。幻の兵法書『孫〓(ぴん)兵法』を
はじめとする書籍、字書、法律文書、命令書、契約書、帳簿、暦、札、手紙など、
内容・形式ともに多彩なこれら簡牘資料は、中国古代史研究に飛躍的な知見をもたらした。
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は帝国の支配体制にいかに
組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの記録媒体も視野に入れながら、
簡牘の時代から紙の時代へ、「紙本成立前夜」の多様な書記文化を豊かに提示する。
好評の旧著に新稿二篇を増補。 出土総数は数十万にも上るんだとよ
さすが中国、凄すぎる
木簡・竹簡の語る中国古代 増補新版――書記の文化史 (世界歴史選書) (日本語) 単行本 – 2014/11/19
冨谷 至 (著)
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竹簡(簡牘)があいついで出土し、その総数は数十万に上る。幻の兵法書『孫〓(ぴん)兵法』を
はじめとする書籍、字書、法律文書、命令書、契約書、帳簿、暦、札、手紙など、
内容・形式ともに多彩なこれら簡牘資料は、中国古代史研究に飛躍的な知見をもたらした。
古代の人びとは文字をどのように使いこなしたのか。文書行政は帝国の支配体制にいかに
組み込まれていたのか。甲骨文・金文・石刻などの記録媒体も視野に入れながら、
簡牘の時代から紙の時代へ、「紙本成立前夜」の多様な書記文化を豊かに提示する。
好評の旧著に新稿二篇を増補。 さて、鼎がなくて炊飯可能なことが証明されました
お疲れ様でした >>242
で、当時の竹筒で炊飯したという証拠の米粒の入った竹筒は?
ハイ、出せないね
ハイ、破たん
詭弁カスチンコロ、ゴクローサン(爆 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>243
>で、当時の竹筒で炊飯したという証拠の米粒の入った竹筒は?
はい、そこが考古学のゲ・ン・カ・イ
出土しないモノは何でも拒否が出来るいい加減なガ・ク・モ・ン
燃えるゴミ(米粒の入った竹筒)を焼却(焚き火)して
原形を止めたままの燃えるゴミ(米粒の入った竹筒)が有りますか?
>ハイ、出せないね
当然です
出土する方が不思議です
焼却して原形を止めたままの燃えるゴミは有りません
それでも見てきたかのように鼎で米を炊くのが当然とのたまう考古学は信用できないのですよ
はっきり言ってエセ・ガクモンです
しかも最後には罵詈雑言とか、考古学は下品です >>244
日本の庶民は室町時代まで竪穴式住居です
小屋が建てられるようになったのは大陸から入ってきた台鉋の普及してから
しかも江戸時代だって大火が発生するくらい庶民の家に土塀なんてないです
だから考古学は嘘つきです >>245
竜信仰は遼河文明が始まりで
しかも黄河文明よりも遼河文明の方が日本列島に近いです
従って竜信仰の一形態として縄文人に伝わり勾玉となったのです
わざわざ黄河や揚子江経由で伝わる必然性がないのに
関係があるかのように騙る考古学は無駄な妄想に拘るのです >>246
詭弁カス乙
そのまま捨てられたり埋められたりした竹筒だって幾らでもあるはずだろが中卒
で、当時の竹筒で炊飯したという証拠の米粒の入った、そのまま捨てられたり
埋められたりした竹筒は?
ハイ、出せないね
ハイ、破たん
詭弁カス中卒チンコロ、ゴクローサン(嘲笑 >>247
何言ってんだおまえw
だから庶民に中国系も朝鮮系もいない事が分かって超イイ事なんじゃねえかカスw
4C後半から始まる朝鮮帰化人から朝鮮系の土壁の住居が伝わり、日本でも中央の
皇族や豪族に広まっていったが、平安時代に寝殿造が登場して土壁は局部的にしか
使われなくなった >>248
んなコト言ってる考古学者いねえし、
その証拠の日本で出土した玉龍は?
. >>247
それはない。田舎の庶民の家でも竪穴式は
ないから
しかも図面なしで、山から切った材木だけで
木造家屋を建てられる能力があったのだから 現存する民家としては日本最古の箱木家住宅
鎌倉時代頃のものだそう
壁は漆喰で塗り固めて柱を見せない大壁になっている
4C後半に朝鮮帰化人が伝えた土壁である大壁の技術がそのまま使われている
http://www.mpl.co.jp/post_157.php >>252
田舎人の建築能力はずば抜けている
いまでもそういう人がいる。
竪穴式なんて土人家屋に住む必要がない
俺の先祖の家も図面なしで、廃材だけで
建てられた日本家屋だわんw 一般的には竪穴式住居は平安時代頃まではあったらしいがな
4C後半に朝鮮帰化人が土壁の住居である大壁住居を伝えて、皇族や豪族に広がるが、
平安時代になると寝殿造が登場して独自路線を走り出した
一方、朝鮮帰化人が伝えた大壁住居は庶民に広がっていき、鎌倉時代頃の
箱木家住宅に至ると
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