[ルーツ]日本人の起源は?その3
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前スレ [ルーツ] 日本人の起源は江南か?半島か? http://itest.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1533446967/l50 日本人の起源にまつわる話題なら 稲作起源、DNA、考古学、歴史学、地理学、科学、人類学問わずオッケーです。 *注 過剰なコピペや荒らしにはスルーで対応してください では、どうぞ [ルーツ]日本人の起源は?その2 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1538961018/ ツングース、北方人種とつながりが多いのなら、漢民族にもっとC2やNがいてもいいはず ハプログループO1b2 が沿海州、半島の民族 ハプログループO1a が台湾先住民など O2が漢民族で後発グループ まずO1系統が北上して、遼河文明などのハプロNの影響を受けた その後、シュメールから始まる農耕革命が中央アジアから広がり、 チベット語の影響とともに漢民族O2が広がった >>428-430 中卒乙 OはNから生じたんだから起源地は北方しか考えられんの モンゴルから満州北部あたりで生じて東南アジアやポリネシアまで広がった >>431 それはウスチイシム人とか、はるか以前の話だろ? NからじゃなくNOからだし Nは北方生肉食尿洗浄集団だが 彼らの生活形態は北方だけじゃなく、山岳地帯にも応用できる 平野部にクロマニョンに近い民族がいようとも、山を移動すれば南下できるのだろう Oは南部にたどり着いて膨大なサブグレードを生み出し、そして広がった 一部はマダガスカルに到達した 日本人の起源 世界の色んな場所の人達が集まって日本民族となった >>435 出雲族はアーリア族のインド侵攻、略奪を忌避した先住民のドラビタ族の地方王国、クナ国が日本に移住した。 日本の信仰、習俗、更には言語迄あらゆるもののルーツ。 出雲(ドラビタ族)は人口の少なかった古代に我が国で初の統一王国、出雲王国(元々、イズメの国)を建て(BC-660年頃)約700年弱にわたり全国を統治、影響下においた。 このインパクトは現代に至るまで連綿と継承され日本人の生活のベース、規範となっていますよ? >>437 で、出雲族がドラヴィダ人である事を証明する衣食住に関する生活における ドラヴィダ系生活文物とドラヴィダ系住居である丸い壺が特徴的な ドラヴィダ系生活土器と煉瓦を使ったドラヴィダ系住居と麦食文化は? >>437 日本でもアーリア族に滅ぼされたわけですな 若いので縄文入ってそうなのいる? 山田孝之と山本KIDを最後に縄文感ある有名人を見てないんだが 青谷上寺地遺跡の父系ハプロについて、こんなブログが… https://tottoriponta.hatenablog.com/entry/43895651 先週末の3/2(土)、鳥取市のとりぎん文化会館で開催された弥生時代の遺跡に関するシンポジウム「倭人の真実」に参加しました。 会場となった小ホールの座席数は全500席、開演前にはそのほとんどが埋まっており、県民の関心の高さを感じました。 今回のテーマとして取り上げられた上寺地遺跡の詳細については、wikipediaの「青谷上寺地遺跡」などを見てもらえばよいのですが、 発掘物の保存状態が極めて良いことから「弥生の宝庫」とも呼ばれているそうです。今回の講演の目玉は、 何と言っても、青谷上寺地遺跡で発掘された殺傷痕のある大量の弥生時代の人骨のDNA分析の結果の公開でしょう。 弥生人のDNA分析については、今までは九州出土の人骨のみでの分析が行われてきており、九州以外での弥生人集団の骨の分析は青谷上寺地遺跡が初めてとのことです。 このシンポジウムでは、「この上寺地遺跡の分析によって今年が弥生時代の『DNA元年』となった」というような表現が目を引きました。 国立科学博物館の篠田謙一副館長による講演「DNAが語る青谷の弥生人」の概要を以下に紹介します。 最近盛んにおこなわれるようになった古代人骨のDNA分析ですが、その分析対象には、母系を示すミトコンドリア、 父系を示すY染色体、全遺伝子の交配度合いを示す核ゲノムの三種類があります。分析の難しさもこの順に高くなります。 (1)ミトコンドリア 昨年11月の時点で既に公表されていますが、この遺跡の人骨から確認された29の母系系統のうち、 縄文人固有の母系を示すハプロタイプはM7aの1系統のみであり、残りはすべて弥生時代になってから大陸から渡来した渡来人に固有の母系系統系統であったとのこと。 このことから昨年の時点では、「殺傷痕のあるグループの大半は渡来人で構成され、しかもその構成は多様であり、 外部から青谷に来て短期的に滞在していた可能性が高い人々」と解釈されていました。 (縄文人のミトコンドリアハプロタイプの中で縄文人固有なタイプとしては、N9bが58%、M7aが25%、D4h2が9%、合計で92%。 現代日本人では、縄文人固有のそれはM7aが8%、N9bが2%であり、合計10%。 対して、上寺地遺跡での縄文人固有のミトコンドリアハプロタイプはM7aのみの3%。確かに、上寺地遺跡では、 現代日本人での比率よりもさらに渡来系の比率が多くなっています。 参考:wikipedia「縄文人」) (2)Y染色体 父系を表すY染色体のハプロタイプについては、現在4体の分析が終わっているとのこと。 そのハプロタイプは、Oが一体、C1a1が2体、Dが1体。このうちC1a1とDタイプは縄文系かつ日本列島に固有なタイプ。 Oタイプはその大半が大陸の漢民族に含まれており渡来系とのことです。つまり、少なくとも4体中3体が縄文系ということになり、 ミトコンドリアの分析結果とは相反する結果となりました。まだ分析数が少ないので断定的なことは言えませんが、弥生末期になっても縄文的要素が多く残っていた可能性が高くなってきました。 C1a1が2って親族関係かな C1a1は謎な遺伝子 クロマニョン系だし . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! . . ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、 さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 しかも同じく中国には7000年前からある竈(=火へんに土)も釜もそれまで知らなかった。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 . . それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。 朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を 含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの 集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。 この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる 寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮 から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、 北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系 民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。 日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 . . 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波 大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学 の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、 一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について 報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。 異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。 日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系 ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。 ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方 アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。 「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人 と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。 日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 . . 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる 情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業 システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、 高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間 の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人 が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土 する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の 影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、 ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較 すると、不思議なことである。 歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 . . 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の 渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。 ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。 甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。 その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。 そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。 ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が 集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する 集落遺跡などがないのである。 この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。 これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。 日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ 朝鮮無文土器の遺構ではない。 彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。 刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに 登場してくる土器である。 しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。 さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。 この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、 それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 . . 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 . . 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . A study published in the “Journal for archeological science” by Boulygina et al. 2020 analyzed ancient Koban burials and found a high number of paternal lineage D1a2a1 which is commonly found among the Ainu people in northern Japan and southeastern Russia. Another lineage was J2.[7] https://en.wikipedia.org/wiki/Koban_culture >>464 コバン文明の遺跡からアイヌと同じD1a2a1が大量に出たって書いてある コバン文明、古代の北・中央コーカサス地方に栄えた文明 縄文人はコーカシアンだった >>465 D1a2a1って記号は変わるから SNP名が知りたい オセチア人が追加 D1a2 (M64.1/Page44.1, M55) Japan(Yamato people、Ryukyuan people、Ainu people), Russia, Ossetia >オセット人(オセットじん、Осетин; Osetin)は、カフカース地方の山岳地帯に住むイラン系民族。 >主な居住地域はカフカース山脈をまたいで南北に広がり、ロシア連邦の北オセチア共和国と(2015年4月まで日本国政府が「グルジア」の外名で呼称していた)ジョージア国の南オセチア自治州に分かれている。 >総人口はおよそ60万人。オセチア人とも呼ばれる。 >>470 サンクス サンプル8番の人骨からBTのSNPとD-M533系SNPとR!bのSNPを検出したという表かな? .[7]の論文は有料(US$31.5)だから買って読んでないけど、少なくとも縄文は関係なさそう Zayukovoの埋葬地から発見されたなかで、レアなミトコンドリアHVをもつ男性の個体があった。 このミトコンドリアは最終氷河期と新石器時代にコーカサス地方からヨーロッパに浸透した。 さらにこの男は、父系の遺伝子も通常とは異なり、Y染色体は東アジアで広くみられるD1a2a1だった。 >Among the burials, the male individual from the burial Zayukovo-3 stands out with a rare HV mitochondrial haplogroup >that penetrated Europe through the territory of Caucasus after the last Ice Age Maximum (26.5 - 19 thousand years ago) >and in the Neolithic period (10 - 3 thousand years ago). >Moreover, this man was different with an unusual genetic origin and the paternal line, >the haplogroup of the Y-chromosome of this sample D1a2a1, has been widely described in Eastern Asia. >>472 470のhttps://d.radikal.ru/d11/2004/b2/4eef6ec9a952.png にあるSNP「Y14883」はユーラシア・チベット系のD >the haplogroup of the Y-chromosome of this sample D1a2a1, has been widely described in Eastern Asia. >東アジアで広くみられるD1a2a1 とは、ISOGG Y-DNA Haplogroup Tree 2018 Version: 13.307 Date: 24 December 2018 による表記で ユーラシア・チベット系のDを表します https://docs.google.com/spreadsheets/d/1y8RwZAbBlJPAnZHC9WenR6gjcH9BjSG7QprLgbgxnoA/edit#gid=437997455 の60行目、1198行目を参照。D1a2a1は最新の2020年版とは異なります ちなみにYfullのツリーではhttps://www.yfull.com/tree/D-P99/ ISOGGは2019年版を確定しませんでした。そのまま2020年版に引き継がれています 更に、「東アジアで広くみられる」と言っており、日本限定とはしていません また、470のロシアのフォーラムhttp://forum.molgen.org/index.php/topic,12663.0.html では 普通にチベット(のD)の話題をしていて日本は一言もでてきません 最新のISOGG 2020年版を見ていれば、日本を語るときはアンダマンにも触れるはずです。しかもアンダマンは東アジアではありません このことから、464の記載はは読み間違えか捏造ではないかと思われます . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! . . ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 . . それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。 朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を 含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの 集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。 この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる 寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮 から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、 北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系 民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。 日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 . >>475 Mitochondrial and Y-chromosome diversity of the prehistoric Koban culture of the North Caucasus Received 21 November 2019, Revised 2 April 2020, Accepted 2 April 2020, Available online 18 April 2020. この論文が投稿されたのは去年(2019)の11月21日 >ISOGGは2019年版を確定しません つまり既に確定されているISOGG 2018年版の「D1a2a1」を見るべき その証拠に、縄文人は全く関係ないので、 この論文が日本では全く話題にならないのです Wikipedia の「縄文人」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA は 論文を読まない奴が書いてる >船泊5号のY染色体ハプログループがD1a2a2a(D-CTS220)であることが判明した[16]。 この[16]は講演用のレジュメで論文では無い 正式な論文は「Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan」(Received 18 April 2018; accepted 15 April 2019)であり、 ここに船泊5号(Funadomari Jomon male (F5))のY-DNAハプログループの決定過程が書かれている The Y chromosome of F5 belonged to haplogroup D1b2 (Supplementary Table 5). F5 had not only two of the eight D1b2a-specific mutations but also one D1b2b-specific mutation. Mutations characterizing D1b2a subhaplogroups (D1b2a1 and D1b2a2) were not observed. To clarify the phylogenetic position of F5 within the D1b2 lineage, we constructed a maximum likelihood tree using the Y chromosomes of F5 and 1233 modern human males. F5 was located in haplogroup D1b2 and clustered with NA19004 (a modern Japanese individual), who belonged to D1b2b (Figure 5). NA19004 shared some D1b2a-specific mutations with F5, indicating that some of the SNPs characterizing D1b2a may be shared between D1b2a and D1b2b. Therefore, we concluded that F5 belonged to D1b2b (Table 2). >したがって、F5はD1b2bに属していると結論付けました(表2)。 これは 船泊5号のY染色体ハプログループがD-CTS68であることが判明した ことを意味する 正式な論文を引用していないWikipediaの「縄文人」は間違った記載をしているので注意が必要だ 縄文式土器はロシアにも見られる どんくらい広く生息していたのか >>1 西アジアや東欧的な遺伝的要素を持っていそうな日本人 ・毛髪が天パ ・顔が面長 ・デコが広い ・唇が厚い ・耳たぶがある ・顎がある ・Eラインが出来ている(ごぼ口ではない) ・髭が濃い ・胸毛がある ・後頭部が出ている ・筋肉質(筋力が強い) ・瞳の色素が薄い ・鼻筋が通っていて鼻が高い(鉤鼻など) ・色が白い(日焼けすれば黒くなる) 典型的な東アジア人(中国・朝鮮)や東南アジア人の遺伝的要素が強い日本人 ・毛髪が直毛 ・顔が丸顔 ・デコが狭い ・唇が薄い ・耳たぶが無い ・顎がない ・ごぼ口(猿口) ・髭が薄いorない ・胸毛が無い ・後頭部が絶壁 ・筋肉少ない(筋力が弱い) ・瞳の色素が黒い ・鼻筋が無く鼻が低い(ぺちゃんこ鼻、団子っ鼻など) ・地黒 . 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波 大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学 の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、 一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について 報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。 異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。 日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系 ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。 ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方 アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。 「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人 と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。 日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 . . 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる 情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業 システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、 高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間 の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人 が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土 する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の 影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、 ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較 すると、不思議なことである。 歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 . . 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の 渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。 ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。 甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。 その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。 そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。 ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が 集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する 集落遺跡などがないのである。 この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。 これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。 日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ 朝鮮無文土器の遺構ではない。 彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。 刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに 登場してくる土器である。 しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。 さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。 この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、 それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 . . 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 . . 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! . >>493 夏の勢力範囲や影響範囲なんて中国内で点であるだけだぞ 長江下流域が中華と同化して面になったのは戦国時代以降。 この当たり前の歴史的事実が抜け落ちてるからお前は頓珍漢なんだよ 夏・商・周まで都市国家で王や候が住む邑の四方数十キロ圏内に 無数に服属してない所謂四夷が蟠踞していた 黄河と長江の間の地域にほんの少し統一的文化が広まったのは せいぜい2500年前だな。これだって大目にみての話で 中国の文化統一の始まりは楚が滅びた2200年前が妥当だろう。 Paleolithic to Bronze Age Siberians Reveal Connections with First Americans and across Eurasia https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S009286742030502X ハイライト 上部旧石器時代のシベリア人はアメリカ大陸の最初の民族との深いつながりを示しています バイカル湖地域の古代北ユーラシア人の祖先の1万年の連続 新石器時代から青銅器時代への人口形成は、長期にわたる局所的な混合によって発生しました 青銅器時代初期のユーラシア地域におけるヒトとペスト菌の長期移動 https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S009286742030502X-fx1_lrg.jpg 論文を読んでないけど、 北方縄文人はバイカル湖を行ったり来たりしてたのかな? . ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 . . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 . . 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。 あちらで皿は盤と呼びます。 ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも 伝えませんでした。 日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。 中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで 知らなかったのだ。 その時代差、約5400年。 弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! . . (8)蒸して食べる 7000年前 中国に起源 最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。 モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を 作る際にも欠かせない調理法です。 この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。 蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、 粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が 基本だったと考えられています。 日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは 3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、 ようやく日本にまで到達したことになります。 しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。 今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、 数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html ◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑 http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、 鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。 ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。 弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。 中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。 同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。 弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 . . それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。 朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を 含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの 集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。 この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる 寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮 から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、 北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系 民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。 日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 . . 最近、考古学会の話題になっていることは、日本の弥生時代にほぼ相当する沿海州の ポリツェ文化についてだ。この文化は、弥生文化に酷似する特徴をもっており、筑波 大学の加藤晋平教授がまず注目し、東京大学名誉教授の江上波夫博士や、同志社大学 の森浩一教授も重要視している文化である。さらに、大阪医科大学の松本秀夫教授は、 一九八三年の日本人類遺伝学会で、日本人と北方アジア人との遺伝的類似性について 報告し、注目を集めた。その詳細なデータが、近く発表されることを期待している。 異色ではあるが、見のがせないのは国立遺伝学研究所の森脇和郎教授の発見である。 日本産ノネズミの一部に、北アジア系のものがいたのだ。しかも、北日本には南方系 ノネズミがいて、西南に北方系ノネズミが分布するという逆転現象さえ見つかっている。 ネズミは人間とともに移動する可能性が強い。だから、単にネズミの話として聞き流す わけにはいかないのである。以上のように、期せずして多くの分野で、日本人と北方 アジア人との濃厚な関係が指摘されるようになってきたが、これは偶然ではないだろう。 「日本人のルーツはツングース」などといっては行き過ぎだが、今後、さらに北方アジア人 と日本人との関係を重視する必要がありそうだ。 日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 . . 縄文晩期から弥生T期にかけて、半島から列島へ、稲作や道具類にかかわる 情報が、つぎつぎともたらされ、ついに弥生T期には、西日本社会の生業 システム全体が変化するに至った(田中良之)。稲作農耕のような複雑で、 高度な技術が伝来定着するについては、ふつう、技術を習得した多数の人間 の渡来が前提となるように思える。しかし、この間、半島の無文土器文化人 が集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土 する集落遺跡は、まだ発見されていない。この時期の列島では、無文土器の 影響を受けて出現した器種・技法・要素はあるものの、無文土器そのものは、 ほとんど出土していない。これは後で述べる弥生T期末〜U期の現象と比較 すると、不思議なことである。 歴史発掘F金属器登場 岩永省三 講談社 . . 弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の 渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。 ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。 甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。 その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。 そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。 ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が 集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する 集落遺跡などがないのである。 この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。 これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。 日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ 朝鮮無文土器の遺構ではない。 彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。 刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに 登場してくる土器である。 しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。 さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。 この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、 それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。 . . 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 . . 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 . . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . Oはモンゴル〜満州までで完了してる 中国に入ってから、出戻って朝鮮と日本に拡散したというのは大間違い その説は誰の? Oといっても漢民族のOとO1b2は違うぞ 遼河文明が北方のNのみだったが次に発達してきたのがO1b2(付与、沃沮系) >>513 この図↓のO-M134とO1b2のルートな https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Migration_map_of_Y-DNA_haplogroups_in_East_Asia.png これらのルートは大間違い まず縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国系の 衣食住に関わる生活痕遺構がない 全く考古立証できないし、全く考古整合していない 2億%間違いである 沿海州が沃沮で中国の史書どおりなら O1b2は奴隷にされてただけだし、鉄器を持った漢民族に支配受けてた で渡来人に漢民族のOが交じる 鉄器も持ってきてないし、ましてや中国文化なんて持ってなかった >>515 クルクルパー? 沿海州はユウロウだし、ユウロウはポリツェ文化で鉄器時代だぞ >で渡来人に漢民族のOが交じる おまえ池沼だろ 渡来人が渡来した縄文晩期はユウロウが出てくる三国志が書かれた時代から 1300年くらい前のBC11Cだぞ 漢民族なんかいる訳ないだろ O-M134とO1b2のルートは2億%間違ってるし、デタラメです! 億様・株レシピが噂通りによく当たる。 自分も見事に株式で億万長者になれたし。 >>516 箕子朝鮮の時代だろ 東夷諸国はモロ中国の支配下だぞ で、ポリツェ文化(鉄器時代) 支配層が漢民族ってことだ そしてその名残からか東夷って民族はまとめられてる感がある つまり沃沮、扶余、高句麗系の民族に近いのが原住民としてあって、それらを漢民族が支配していた で、日本語=高句麗語の類似(これを調べろ) ユウロウは文化面でみても農耕民族とは程遠い 人類は農耕で増え広がったんだから、農耕を受け入れた民族と土地でなければいけない 三国志東夷伝で農耕を主体としてやってる民族を見ろ >>518 で、ユウロウことポリツェ文化の支配層が漢民族という証拠は? 華南マライフルブタチーノのおまえ >>520 ポリツェ文化の支配層が日本に来て紀元前3世紀ごろまで交流してたなら鉄器伝えてるだろう 伝わってないってことは奴隷とかが来たんだろう 漢語が伝わらずに高句麗=扶余=沃沮語系が入ってる そしてツングースのC2が本土人はアイヌ程度にも入ってない、朝鮮半島(李氏朝鮮、満州系に支配うけた)より少ない O1b2の扶余系と漢民族のOしか入ってきてない(被支配層でもレイプされればYDNAには入る) 漢民族に支配うけたってのは中国史書に書かれてることだ その時期(箕子朝鮮の時代)に鉄器持ってたのは東方では漢民族だけ 日本が金だして考古学調査させたらいいのに 人骨のYDNA調べれば即座にわかるだろ アイヌ以外の日本に来てないツングースのC2が大量に出てくるだろうか? >>521 バーカ ポリツェ文化はBC2〜3C頃に始まるのに、どうしてBC3Cまで交流できるんだよカス 縄文末に出雲地方に刻目突帯文土器人が渡来したのはその7〜800年前の シニ・ガイ文化時代末からヤンコフスキー文化時代初め頃だぞ 青銅器時代や鉄器時代だと言っても、どこの国でも金属器は奢侈品なんだから、 鍛冶職人なんか百人に一人もいないだろ 渡来人のクルーに鍛冶職人がいる確率なんて数%もないはずだ それに遺伝子の頻度なんて関係ない 移動した場所に適せば増え、適さねば減って、姉妹にゃ消滅するだけ それに漢民族のOなんてものもない 縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる生活痕遺構が 全くない O-M134とO1b2のルートは完全に間違い ポリツェ文化= 挹婁 立派な鉄器文化 >>523 間違えた ポリツェ文化というのは前1000年記か でもヤンコフスキー文化というのも鉄器時代で沿海州はかなり古い鉄器文化を持つ >どこの国でも金属器は奢侈品なんだから、鍛冶職人なんか 職人というより、製法の知識自体をもれないようにしてたんじゃね 「どこにでもある赤い土で作れる」なんてことも漏らさないようにしてた それが知られるようになったのが弥生時代の倭国が半島南部に遠征に行ってた時期なのか https://ja.wikipedia.org/wiki/ ハプログループO2_(Y染色体) これは明らかに漢民族、シナチベット語族のOだろ 下位系統がチベットにあるし チベットあたりにルーツがあって、中央アジアからの農耕の広がりによって爆発的に広がった . ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! . ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる