劉少奇の最期って怖すぎない?
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日本が中国から撤退した後に、政権をとった共産党。
政策ミスりすぎで死者出しすぎ。
それリカバリーしようとした劉少奇の死に様が酷すぎ。
文革イカれすぎ。
これを映画化したら、並のホラーも真っ青。
日本が、オールウェイズ3丁目の夕日の時代に、
世界の中心である中国様は地獄だった!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%B0%91%E5%A5%87 【中国BBS】日本はアジアでもっとも教育が優れた国だよな…「確かに、魯迅や孫文、周恩来なども日本留学の経験がある」
中国大手検索サイト百度の掲示板に「日本はアジアでもっとも教育が優れた国だよな」というスレ
ッドが立てられ、さまざまな意見が寄せられた。
スレ主は、大学教育を見ると日本の教育が優れているのが分かると述べ、「かつて日本の植民地に
あった帝国大学は今ではみな一流大学になっており、日本にも多くの優秀な国立大学や私立大学が
ある」と主張した。
これに対して、スレ主に同意する意見が多く寄せられた。
・「義務教育は無料だし、職業教育も優秀。大学は世界トップレベル」
・「教育だけではない。日本人の民族的性格と学習意欲は自己管理モデルを生み出した。
これは近代アジアに大きな影響を及ぼしたよ」
・「これは日本が古来より教育を重視するという習慣と関係がある。
幕末の成人識字率が70〜80%だったが、同じ時期のパリは10〜20%、ロンドンでも30〜40%にすぎな
かったんだ」
ほかにも、多くの中国の偉人たちが日本に留学したという点を指摘するコメントもあり、
「確かに、魯迅や孫文、周恩来なども日本留学の経験がある」、
「日本の国民生活と社会福祉制度は確かにアジア一であり、争う余地がない」
と述べるユーザーもいた。
しかし、反論も寄せられ、教師の質はともかく、学生の学習態度は日本も中国も変わらず、あまり
よくないと指摘するユーザーもいたが、比較的少数の意見であった。
むしろ、中国の大学と比較すると、ため息しか出ないというコメントや、中国の大学生活は気楽す
ぎで、学術を極めるというところではない、という意見もあった。(編集担当:及川源十郎)
ソース:サーチナ
http://n.m.livedoor.com/f/c/6688876
「侵略戦争ではないその理由
日本軍がいたのはシナが外国人を誘致するために設けた共同租界という地区です。租界とは「中国の開港都市で、外国人がその居留地区の行政・警察を管理する組織、およびその地域。
1845年イギリスが上海に創設、一時は八カ国27箇所に及んだ。第二次大戦中に消滅(広辞苑・第4版)」。つまり侵略でも占領でもなく日本企業と日本人を警護するために8カ国のうちの一国として、
シナの了承の下で小規模の軍隊を駐屯させていたのである。そもそも租界地に日本が軍隊を置かなければならなかったのは、シナがその当時は国家としては体をなしておらず、まさに荒蕪の地と言ってもいいくらいで、
香港の例でもわかるように沿岸の主要な港はイギリス、フランスなどの列強各国に完全に抑えられていたという時代背景があった。
日本にとっても上海貿易は欠かせないものでした。長く大阪港が日本で有数の貿易高を上げていて、そのピークは大正14年ですが、大阪港が栄えていたのはすべて上海貿易のおかげです。
日本にとって上海は死活にかかわるマーケットであった。
しかし日本は随分我慢をして、武力でマーケットを保持しょうとしたことは一遍もなかった。しかし列強がことあるごとに貿易の邪魔をするに及んで、『シナと協定を結んで自衛のために出て行かざるをえなかった』ということです。
むろん貿易ですからシナ側の利益にもなったのは当然です。
日華事変は北京の南に流れる蘆溝河に架かる蘆溝橋で日本とシナの軍隊が衝突し、やがてシナ全土に戦線が拡大していくのですが、最初に闇討ちを仕掛けてきたのはシナのほうです。蘆溝橋の近くで日本軍が夜間演習をしていると暗闇から銃撃され、
さては国民党軍が撃ってきたのだと判断し、やがて戦闘が始まってしまった。
ところが撃ってきたのは国民党ではなく、もちろん日本軍でもなく、じつはシナ共産党のスパイであったことが今では定説となっている。
共産党員の兵士向けのパンフレットに『蘆溝橋事変はわが優秀なる劉少奇同士の指示によって行われたものである』と自慢した記述があった。 左翼の中にはどちらが最初に弾を撃とうが日本軍が中国にいたのが悪いと発想する人がいるが、
これは北清事変の後、国際条約に基づいて駐屯していた。もちろん駐屯地の中では軍事教練してもいい。沖縄にアメリカ軍がいるようなものです。
それをけしからんと言って沖縄の人がアメリカ軍を攻撃したらどうなるか。シナはそういうことを日本軍に対してしたのです。by watanabe
日本軍が攻撃などする理由はありえない。当時北京議定書に基づき北京、天津などに居留民保護のために駐屯していた日本軍は五千六百名であった。
これに対して、北支に展開する国民政府29軍は約十万である。当時日本軍の総兵力は内地海外合わせて(含関東軍)25万であった。これに対して蒋介石中国軍は225万人である。
さらにソ連軍は130万人を数え、うち40万人が極東に配置されていた。このような状況下で、日本軍が紛争を起こすなど考えられないことである。
こうしてついに8月13日、蒋介石が上海で居留民を守っていた海軍陸戦隊四千に対して航空機を含む正規軍数万で攻撃を仕掛けるに至り、
本格戦争となったのである(ライシャワー元駐日大使も日中戦争は8月13日に始まったと書いている)。
つまりこの本格戦争においても、仕掛けたのは中国側であり、日本側ではない。
○日本軍は日清戦争(1904〜1905)以来大東亜戦争(1941〜1945)に至るまで、変わることなく軍紀厳正であった。中国民衆にとって、いつ襲って来るかわからない自国の暴徒の如き武装集団に比べ、
軍紀厳正な日本軍を信じ熱烈歓迎するのは当然のことで、決して日本軍におもねたり恐れてのことではなかったのである。台湾の評論家黄文雄
○日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、
生きながらに火あぶりにされたり、磔(はりつけ)にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、
胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である。
フランスの国際法学者フォーシーユ
○日本軍隊は世界に対して誇るに足る名誉を有する。吾らは日本軍の如き慈愛心の富める軍隊を、この地球上広大なりといえども他に発見し得るか怪しむものなり。
ひるがえって中国軍を見よ。日本兵のひとたび彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるなり。その残虐非情なる行為は、正に野蛮人にあらざれば為し得ざるものなり。
然るに日本軍は、これあるにもかかわらず、暴に報ゆるに徳をもってす。さすがに東洋の君主国に愧じずというべし。フランスのフィガロ紙の従軍記者カレスコート・イリュスト、ラシオン紙の記者ラロ、両氏の『日本軍戦闘観戦記』
■中国共産党は恩知らず…
周恩来も、孫文も、蒋介石も、日本に留学してた 中国の偉い人は、みんな日本に留学してる
孫文=孫中山=日本留学時代に中山家が気に入ったから
孫文が作った中国同盟会は東京で結成
また、孫文が導入し、以後長らく中国国民の制服となった中山服は、
日本の学生服のデザインを模倣したもの
蒋介石 日本陸軍士官学校を卒業し、旧帝国陸軍に2年間、勤務。
国民党軍の兵服、歩兵装備は、旧陸軍兵士のそれと酷似
国民党軍は、日本陸軍を模倣して作られたから
日清戦争で負けてから大正時代にかけて中国人留学生が1万人以上、日本に留学してた
連中は日本語でマルクス主義、共産主義を学び、中国に帰ってから、中国共産党を創立した
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
日本共産党と中国共産党の結党は、ほぼ同時。(1年の差)
中国共産党創立メンバー13人のうち、初代主席の陳独秀以下
9人が日本留学組。 毛沢東を除く、中共トップは、ほとんどが日本留学組。
極めつけは、中共の祖で、国民党軍を創設した孫文、蒋介石、周恩来。
中華 人民 共和国
↑ ↑
日本語 日本語
日 本 な く し て、中 国 な し。
【国際】 "気品にあふれた真の日本兵の姿を伝えたい" インド人監督が日本軍のインパール作戦題材にメガホン★3
、「日本兵の記憶が徐々に人々から失われている」といい、「まだ知られていない話を集めて映画で伝えたかった」と撮影にかける思いを吐露した。
また、「欧米では日本兵の残虐行為や犯罪に関する話が書き立てられているが、日本兵はもっとも気品があり親切な心を持った人々だった」としている。
ナオレム氏は同州での公開後、日本での上映に向けて協力者を探している。アジア各地での発表も模索しているという。(>>2-3へ続く)
産経新聞 2012.6.24 20:03
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/120624/ent12062420040013-n1.htm
大東亜戦争は植民地解放戦争だった
欧米のアジア植民地支配の歴史 白人による過酷な植民地政策によって、植民地の住民は動物のように扱われ、莫大な富の収奪によって、インドや東南アジアの国々は痩せ細る一方であった。
インドネシア独立戦争 日本軍の軍政下で結成された組織や日本軍の指導の下で行なわれた様々な訓練が、その後のインドネシア独立戦争で大きく開花する。
インドネシアの侍 日本の敗戦後、再び植民地経営をしようと再上陸してきたオランダ軍を相手に、インドネシア人達と一緒に独立戦争を戦い抜いた日本兵達の物語。
ミャンマーでは大東亜戦争はどのように教えられているのか ミャンマーで大東亜戦争がどのように教えられているのか、当時、日本軍はどういう軍隊だったのか、ミャンマー現地取材の映像で語られる歴史の真実。
ビルマ(現ミャンマー)独立の父 ビルマの独立に係わったビルマ人の多くが、日本で訓練を受けており、当時の日本軍の南機関がビルマ独立に多大な貢献をしている。
親日国インド 莫大な富の収奪、愚民化政策、分割統治等、200年以上にも及ぶ英国の過酷なインド支配の実態と、インドの独立運動と日本との関わり。
インドネシア独立記念パレード インドネシアの独立記念パレードで、日本刀や竹やりを持ち、誇らしげに日本の軍歌を歌う現地の人々。日本軍は植民地独立の象徴的存在である。
今もインドで歌われている日本兵を讃える歌 インドのマパオの村で、今も歌われ続けている日本兵を讃える美しい歌。その歌詞は日本兵への思いやりに満ちている。
大東亜戦争は植民地解放戦争だった
欧米のアジア植民地支配の歴史 白人による過酷な植民地政策によって、植民地の住民は動物のように扱われ、莫大な富の収奪によって、インドや東南アジアの国々は痩せ細る一方であった。
インドネシア独立戦争 日本軍の軍政下で結成された組織や日本軍の指導の下で行なわれた様々な訓練が、その後のインドネシア独立戦争で大きく開花する。
インドネシアの侍 日本の敗戦後、再び植民地経営をしようと再上陸してきたオランダ軍を相手に、インドネシア人達と一緒に独立戦争を戦い抜いた日本兵達の物語。
ミャンマーでは大東亜戦争はどのように教えられているのか ミャンマーで大東亜戦争がどのように教えられているのか、当時、日本軍はどういう軍隊だったのか、ミャンマー現地取材の映像で語られる歴史の真実。
ビルマ(現ミャンマー)独立の父 ビルマの独立に係わったビルマ人の多くが、日本で訓練を受けており、当時の日本軍の南機関がビルマ独立に多大な貢献をしている。
親日国インド 莫大な富の収奪、愚民化政策、分割統治等、200年以上にも及ぶ英国の過酷なインド支配の実態と、インドの独立運動と日本との関わり。
インドネシア独立記念パレード インドネシアの独立記念パレードで、日本刀や竹やりを持ち、誇らしげに日本の軍歌を歌う現地の人々。日本軍は植民地独立の象徴的存在である。
今もインドで歌われている日本兵を讃える歌 インドのマパオの村で、今も歌われ続けている日本兵を讃える美しい歌。その歌詞は日本兵への思いやりに満ちている。
ククリックド・プラモード (タイ国元首相 )
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」
( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )
バ・モウ (ビルマ元首相 独立宣言より)
約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。
英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。
・・・ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・
愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、
これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。・・ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。
・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」
>
昭和天皇が崩御された時に日本は三日間喪に服したが、世界でただ一国だけ日本よりも長く喪に服した国がある。それがインドなのである。
インドは「インド独立を導いてくれた日本の国家元首」の死を悼み、実に一週間も喪に服している。かってインド独立に際してインド司法界の長老
パラディ・デサイ博士は「日本への感謝をインド国民は永久に忘れない」と述べたが、その半世紀前の約束は守られたのだ。
しかしこのインドの喪服について外務省は感謝も伝えず、産経新聞以外のマスコミもこれを報道しなかった。そしてこの日本に親愛の情を抱いてくれている大切な友人たるインドは
日本が供出してきたODAは、実に対中ODAの五十分の一以下なのである。しかもインドが核実験をしたという理由でその対印ODAも長く停止されていた。
ならば再三核実験を繰返している中共へのODAは何故停止されないのか。まさにこういうことをダブルスタンダードと言う。
インドやミャンマーのような親日国に冷淡な姿勢を取る一方で、世界一の反日国にして世界六位の経済大国に莫大な援助を与えつづける日本。 ⇒2位
その日本からの援助がそのまま中共の対外援助に化けて親中国を量産しているのであるから、
もしギネスブックに「世界一愚かな国」という項目が有ったとしたら間違いなく一位は日本である。 親日国「インド」
インド・ラダ・クリシュナン 大統領
「インドが今日独立できたのは日本のお陰であり、
それはひとりインドだけではなく、ベトナムであれ、カンボジアであれ、
インドネシアであれ、旧植民地であったアジア諸国は、
日本人が払った大きな犠牲によって、独立できたのである」
インド・ハビブル ・ラーマン 元インド国民軍大佐
「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、
次々と独立し得たのは日本が育んだ自由への炎によるものであることを
特に記さなければならない。」
全インドINA協会事務局長、S・S・ヤダフ氏
「私が最も日本人を好きになったのは、シンガポールが陥落した頃、
捕虜となった我々を兄弟のように扱ってくれた事でした。イギリス人は我々を差別して一緒に食事をしないし、
同じ車にも載りませんでした。ところが日本人は、喜んで我々と一緒に食事をしてくれました。
このように人種や身分といった差別を抜きにして同じ釜の飯を食べ、
平等な取り扱いを受けた事が我々インド国民軍に精神的な影響を及ぼしたのです」
チャンドラ・ボースの甥シシル・ボース氏
「日本が、アメリカとイギリスに宣戦を布告した時、チャンドラ・ボースは
飛び上がって喜びました。彼は、アジアに帰るべきだと直ちに決意しました。
チャンドラ・ボースは、我々インドの独立の為、インドが武力闘争を行う為に
その協力を日本に求めるべきだと決心したのです」と語っています。
wインドに対する馬鹿チョンは?> ★イギリスの圧政と搾取に苦しんだインドにとって、日本は光明であり、師であった、およそアジア諸国で日本を貶しているのはバ韓国と北チョンとシナの特亜だけだ、
その他の真正アジア諸国はすべて日本をアジアの救世主、アジアの光、アジアの母と尊敬している、欧米植民地として搾取されたアジア諸国にとって、
日本に保護されてぬくぬくと暮らしている屁垂れ朝鮮人は軽蔑の対象であり無視の対象であった
朝鮮の土を踏んだことはなかった。← タゴールが脚光を浴びていた時、朝鮮っちゅう国は地図になかったんだよ。常識で考えろ。
半島へ行ったところで朝鮮人には彼の詩とか文学はチンプンカンプンだろうが。 お前ら朝鮮人の劣等感・妬み・嫉妬にはうんざりだ。そんなに日本が嫌いならば国交断絶を社説で問え!
日本が朝鮮半島を統治していた35年間で朝鮮人の人口は2倍になった。
農業の生産性をあげて食糧を増産し、衛生環境改善し乳児の死亡率を下げ平均寿命を上げた。
本当にとんでもない事をしてしまったものだ。何の感謝もされずに今だに非難されている。
戦後も技術提供や資金援助したので韓国は今の韓国になった。ほっておけば北朝鮮のように
マンモハン・シン・インド首相演説
2006年12月14日
安倍晋三内閣総理大臣閣下
衆議院議員ならびに参議院議員の皆様著名な指導者の皆様ならびにご列席の皆様
この威厳のある議会において演説の機会を得ましたことは栄誉なことと認識しております。我々二カ国の国民が互いに寄せる善意と友情の表れです。 ご列席の皆様
日本とインドは文明的にも近い国であります。我々の最も古い絆を形成するのが、共通する遺産でもある仏教です。二つの文化は歴史を通して交流し、豊かさを増してきました。
1000年余り前、インドの僧侶ボディセナ(菩提僊那)は、東大寺の大仏開眼供養に参列するため奈良を訪れました。近代においては、タゴールと岡倉天心が、アジアの偉大なる両国の間に理解の新しい架け橋を築きました。
科学技術の発展に基づく明治維新以降の日本の近代化と、戦後に日本再建の基となった活力と気概は、インドの初代首相であるジャワハルラル・ネールに深い影響を与えました。ネール首相は、インドが日本と緊密な絆を結び、
その経験から学ぶことを望みました。
インドが日本からのODA(政府開発援助)の最初の受益国になるよう尽力されたのは、当時の岸信介総理大臣でした。今日、インドは日本のODAの最大の受益国であり、こうした援助に我々は深く感謝しております。
日本の工業は、自動車や石油化学などインド産業の発展のために貴重な役割を果してきました。90年代の初頭、インドが深刻な経済危機に陥った時期、日本は迷うことなく支援し続けてくださいました。
1952年、インドは日本との間で二国間の平和条約を調印し、日本に対するすべての戦争賠償要求を放棄しました。戦後、ラダ・ビノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています
wインドに対する馬鹿チョンは?> ★【日韓】 「日本の統治をありがたいとは思わないのか」〜インドの詩聖タゴールと朝鮮青年の対話[05/24]
聯合ニュース(韓国語)
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2011/05/24/0901000000AKR20110524201000005.HTML
> ★w朝鮮人はタゴールにとって眼中になかったのだ。当時朝鮮人がインドのことを気にしてたか?金儲けの経済協定を今になって結んで、次の経済危機はインドに助けて貰え。文学なんぞまるで似合わない韓国人は、インド人もビックリのカレーキムチの開発を急げばいい。
日露戦争の時、朝鮮は何もやっていなかったし何もできなかっただろう。日本の勝利が、朝鮮を救ったと最近の研究で分かってきた。植民地の悪行と言うのなら、欧米の方と比べてみろと言いたい。だから韓国人は、他の植民地だった国から卑怯者とか犯罪者とか言われる。
朝鮮は糞だが、日本はアジア諸国の太陽だった。これがアジア諸国の正しい歴史認識だ。
朝鮮人にひとつ言いたい事がある。世界の植民地の実情をちゃんと調べて勉強しなさい。自分たちがどれだけ運が良かったか、それが分かるだろう。
中国大陸での共産革命を狙うソ連と毛沢東によって、日本は 蒋介石との戦いに引きずりこまれた そして、それが原因となって、中国市場を狙う米国とも対立することとなった。
日本が中国大陸に進出していなければ、毛沢東と戦う蒋介石を英米と共に支援していただろう。
歴史上のIFは繰り言にしかならないが、「日本は文化と海洋による国家を造らなくちゃいけないんだ」という李登輝氏の言葉は、今後の日本の進路を考える上で重要な示唆を含んでい る。
日本文化は自然と共生する。そしてわが国は世界第6位、 451万平方キロに及ぶ200海里排他的経済水域(EEZ)
を持つ海洋大国である。美しく、豊かな、かつ自由な太平洋を、台湾を含めた海洋アジア、オーストリア・ニュージーランド、
そしてアメリカと力を合わせて守っていくことが、わが国の国家戦略であろう
台湾の李登輝前台湾総統が以下のように言われたと、産経新
聞論説委員長・千野境子氏が紹介している
後藤新平が満鉄などに行かないで、台湾にいて南進政策
をやっていたら、満州に手を出さないで日本は海洋国家と
して違う日本になったと思う。大陸へ行ったがゆえに大変
なことが起きた。日本は文化と海洋による国家を造らなく
ちゃいけないんだ・・・
確かに、満洲へ向かう方向は、日本にとって鬼門だった。日
本はこの地に膨大な投資を行い、多くの優れた人材を投じた。
わずか10数年で、終戦時の中国大陸の重工業の約90%を占
める高度産業国家を忽然と出現させたのである[a]。後藤新平
[b]を含む我が先人の偉業を我々は大いに誇ってよいのである
が、「大陸へ行ったがゆえに大変なことが起きた」という李登
輝前総統の言葉も歴史的な事実である。
>>1アメリカ映画『北京の55日」というのがあって、そこに出
てくる柴中佐は、チャールトン・へストン演ずるアメリカ海兵
隊将校の忠実な補佐役として描かれており、日本人として面白
くなかった。誰かお金持ちがスポンサーになって、史実に忠実
な『北京の55日』を製作できる日が来ないものでしょうか。
このことが共に篭城していたマクドナルドイギリス公使が推薦し日英同盟を結ぶに至った。柴中佐の率いる日本軍の規律正しく勇敢な姿と中佐の統率力に感銘したからである。
激戦となった王府には連日連夜、数百倍の清国軍が猛攻を繰り返すのに対して、日本軍は義勇兵を入れて50数名しか居なかった。(他に清国難民の義勇兵30名)。柴中佐は、多国籍軍の指揮官として55日間を勇猛に戦い抜き規律正しく行動した。
柴中佐の武士道精神に篭城した欧米人がいかに感嘆し絶賛し、中佐に限りない畏敬と信頼の念を抱いたことは、間違いない。英国公使館で婦女子が囚われたときも100名の敵兵に10名で斬りこみ救出した。
婦女子が尊敬するのだからホンモノのサムライである。また、日本兵13000名を含む多国籍軍(英・米・日・ロ・独・仏・伊・墺)33.000名が駆けつけ攻撃し撃退したが海外列強軍の略奪暴行がひどく多くの人々が柴中佐の指揮下に保護を求めた。
本「北京篭城」イギリス人書者はこう記す。
「戦略上の最重要地である王府で日本兵が守備の背骨であり頭脳だった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵だった。日本軍を指揮した柴中佐は
、篭城中どの仕官よりも優秀で経験も豊かであったばかりでなく誰からも好かれ尊敬された。当時日本人と付き合う欧米人はほとんど居なかったがこの篭城を通じてそれが変わった。
日本人の姿が模範としてみんなの目に映るようになった。日本人の勇気と信頼性そして明朗さは篭城者一同の賞賛の的になった」
もしもこの王府の防御が敗れたなら公使館区域は死命を制され各国守備隊は全滅し婦女は陵辱を受け居留民は残らず惨殺される。
柴中佐と日本軍の奮戦なかりせば、この悲惨な運命に会うことが不可避だったからこそ篭城中の欧米人は事実上の主将柴中佐をかくも賞賛してやまなかったのだ。
清滅亡後の大動乱を経て、中国大陸は再び、共産党政権によっ
て統一された。しかし、この政権も民意の支持があるわけでも
なく、武力と経済発展で多種多様な民族や階級を押さえつけて
いるだけである。いずれ、各地の不平不満が噴出して抑えきれ
なくなれば、「久しく合すれば必ず分す」という時代がまたやっ
てくるであろう。その時には、またすさまじい内戦や飢饉、疫
病などが起こる恐れがある。 こうして中国の歴史を巨視的に振り返って見れば、我々日本
人が反省すべきは、かくも混沌たる大陸の内戦に直接介入した
ということだろう。アメリカ、台湾、東南アジア、オーストラ
リアなどの環太平洋の自由民主主義諸国との連帯による「保境
安民」こそ、対中関係の原則とすべきだと思われる。
王府防衛の有様を柴中佐の指揮下に留まっていたイギリス人
義勇兵の一人B・シンプソンは次のように日記に記した。
数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍
は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこま
でも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵
を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵ま
れていた。公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シ
バ(柴中佐)である。・・・
みなさん!
日中友好は中華マンコを舐めることです。
ボクはついこの前まで女に無縁の糞野郎だったけど、ついに新橋のガード下で夜10時ごろ、
夢の中華マンコをゲットしましたよ。
煙が出るほど舐めてます。中華料理を与えれば無問題、コスパ最高ですよ。
中国のオマンコは日中関係を論じるとき言及の欠かせない重要テーマですよ。
日本と中国の男女がほんとにオマンコとオチンコを舐めあうことができるか。
これは日中関係では最重要の課題なのです。
中華マンコが日本マンコと異なるのは、強烈なウンコとオシッコとオリモノの熟成された芳醇な香りと味です。
マンコと彼女のあらゆる匂いが渾然一体となっているのです。
ボクは生まれて初めて中華マンコを舐めたときは、昇天するほど昂奮しました。
舐めながら、うれしくて、うれしくて、まだ挿入してないのに射精してしまいました。
1週間ほども洗わずに蒸れた中華マンコが匂い立って、得も言われぬ香味だったのです。
中華マンコの本体を舐めるときは豚姐の上半身から逆転回で滑り降りて、上からがぶりと舐めてくださいね。
下半身からすりあがって舌を上方に突き出して中華マンコ舐めると、ときに中華豚姐がよがってオモラシします。ジューシーですよ。下から舐め攻めているときの、中華尿扣からの聖水は。
みなさん、中華マンコの入浴頻度は3日に一回以下、だいたい週1なのって知ってます?ボクはもちろん知ってますよ。
騎上位でオマンコやってると、よく中華豚姐が感極まって放尿するんです。
もうびしょびしょ。可愛さと愛おしさのあまり、いつもすぐオシッコ飲んであげてますよ。
ボクって、日中友好の精神なんですよ。えらいでしょ。
ボクの中華マンコの探求と賞味はご先祖様もよろこんでます。
爺さんは満州で梅毒で死んだのです。
ボクは病気にならないで中華マンコを征服したいのです。
ペロペロペロペロですよ。 『一挙手一投足に愛と深切』
Demonstrate love and kindness through every thought and every action.
人生の価値は大きな事柄ばかりにあるのではない。
それは、日常生活の瑣細(ささい)な行為の中に─小さないたわりや、
思いやりのある微笑や、深切なそこはかとなき行為にもある。
大きなことを考えている時には忘れられているような瑣細なことの中に、
その人の真の姿があらわれる。
世界人類が平和でありますように 20 言っていい事 悪い事の 区別が つかない様で 頭が そうとう いかれているようなので
即 入院求める 手前みたいな 変体 露出狂を野放しにして来た 手前の両親は かなりの重罪は
免れまい 手前みたいな変体は 人とのつながりとか 立場とか 人間らしい
思考ができず チャンスがあれば 女であれば 手前の親の親友であれ だれだれの親であれ
絶対一戦越えてはならない存在であれ 全く関係なく 穴なら何でも食らう
下劣きわまる 下半身は 家畜その物だろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています