夏美のホタル有村架純その2
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http://jump.5ch.net/?http://natsumi-hotaru.com/ この小説を映画にするのはむつかしいとちょっと読んで思った 私小説ではないが私小説ぽいというか私小説くさいといおうか限りなく私小説に近い 有村には罪はないんだがこのことが最大のネックになってただろう だから小説では相羽慎吾が主役で河合夏美は相手役なのに映画では逆になっていた 大工さんでも知り合いの家を建てるときは緊張もあるが気楽さもある
どちらに比重がかかるかだ 夏美のホタルのスタッフは気楽さに寄りかかってしまった だから安易に主役を逆にし安易に性格設定をしてしまった 相羽慎吾はカメラマン志望の学生で河合夏美はひとつ年上の幼稚園教諭 夏美の性格を常にイライラしギスギスしている女性に設定した意図がわからない
なにか思惑が働いたのかなと勘ぐりたくなる が何にも考えずただインパクトがあるくらいな気持ちだったかもしれないがこの安易さが全てをダメにしてしまった 仏師がカメラマン志望の慎吾に言った
「神は細部に宿る。だから、爪の先ほどでも妥協はするなーー」 日常生活でこんなことを信条にしていたら生きていけない しかし創作活動では重要なんだろう
それを聞いた慎吾は踵を返して歩きだしたがなんとなく いつもより大股で歩いていた 夏美のバイクは400cc
スピ-ド狂の夏美の運転は凶暴かつ天才的だと
タンデムシ-トで小柄な夏美に必死にしがみついている慎吾は死ぬ思いだった 小説の夏美は魅力的だが映画の夏美は……
なんでこうなったの なんでこんなふうにしちゃったの 誰がしたの 映画夏美のホタルは原作のタイトルだけを借りたオリジナル脚本による
としたら納得する 人生訓が散りばめられたような苦手な作品なので一気に読めず
2週間ほどあるので少しずつ読むことにした 仏像にもカメラにもバイクにも興味がない いささかやっかいだ 脚本のことは置いてとりあえず感じた問題は演出なのだ 冒頭 足りないのは塩気と言うセリフ 問題は言い方なんだ ほんわかした優しさが溢れる映画のはずだから
夏美が笑いながら冗談めかしてあのセリフをいったら映画全体の印象が随分違ったと思う 主演を変えてもいい しょくぎょうの設定を変えてもいい 主人公を相羽慎吾から河合夏美に
夏美の職業を幼稚園教諭からカメラマンを目指す写真の専門学校生徒に 人格を変えては河合夏美ではなくなる
小説の夏美のホタルとはまったくちがう映画夏美のホタルにしてしまったのだ 原作と映画は別物だが
登場人物の人格を変えたら別物という範囲を超え全く関係ないものになってしまう この映画を駄作にしたのは脚本のことはおいて演出なんだ
何度でも言うが演出がダメなんだ 夏美の小説にある人なつっこい好ましい人格を無視して
ギスギスしてイライラした偉そうな人格に演出で変えてしまったんだ たぶん仕事に合わせて人格も安易に変えたんだろう 何も考えてないんだ ひょっとしたらこの監督には人格を変えたという意識もないかもしれない 何度も言うが冒頭の場面
本来の夏美ならちょっといたずらっぽい顔して 塩気が足りない と言っただろう それをなんだふてくされたような態度で 塩気が足りない とぶすっと言わせた 脚本は 塩気が足りない としか書いてないだろう 演出でどうともなる 小説の夏美は無邪気で、陽気で、人なつこい性格となっている 出会ってくれてありがとう 想いをつなぐ物語
とか
人は寄り添いながら生きていく
とかだが
もっともらしいれどもう一つピンと来ない ピンと来ないし人格を変えられた夏美とは全く合わない 日本でただひとりの惹句師と言われる関根史郎氏は
映画を見て考えるが間に合わない場合は脚本を読んで考えると言っている 原作と映画は別物と度々言っているが脚本と映画も別物なのだ 原作と映画の間には脚本が入るがその脚本と映画の間には演出が入る 電車で帰る慎吾をバイクで追いかけ泣く夏美 最低もいいとこようこんな場面出すなあ感心するわ 慎吾はカメラマン志望の学生なのだ この設定は原作とおなじ
もう一度言っとくが原作の夏美は幼稚園教諭 カメラマン志望でも学生でもない
それを慎吾と同じ学校のカメラマン志望の学生に夏美を設定したのだ 好意的にみたら有村だから力が入りすぎていたということも言える 映画を見て違和感をかんじた場面は原作には無い場面ばっかなんだ 今言った病院の場面 最悪だった電車を追い掛け泣く場面 夏美が幼い頃父のバイクで訪ねた此処の場面
いずれの場面も無いほうがいい場面なのだ なんでこんな場面を付け足したのかセンスゼロ よく覚えてないけど夏美が慎吾をなじっていたような場面
まるで冒頭のベットの上で慎吾をなじっていた場面の蒸し返し 慎吾役の工藤阿須加さんが どう演ったらいいかわからなかった
と言っているようにまるっきり良いところもなく掴みどころのない相羽慎吾像
原作では主役なのにね 原作では 慎吾ちゃん と夏美は呼んでいるが
なぜか慎吾は 夏美 と呼び捨てにしている ちなみに夏美のほうが一つ年上なのだ 付き合い始めた頃はたぶん一つ年上の夏美は 慎吾君 と呼んでいたに違いなく
慎吾は 夏美ちゃん と呼んでいたに違いない それがいつの間にか相談したわけでもなくそう呼び合うようになったのかもしれない 原作者は二人の仲をそんなふうに表現したかったかもしれない そんな若い二人と年老いた二人の親子が出会い慈しむ物語なのだ
ちなみに
原作では恵三さんは62歳お母さんは84歳 映画では10歳ほど若く設定しているようだ もともとこの小説を映画にするのは無理だったもしれないと読みながら思った この小説の肝の一つはは川遊びと川の生き物や山菜をとって料理して食べること もう一つは 見舞いに来た恵三さんの別れた妻美也子さんと
倒れたことを知らせ35年ぶりに合ったヤスエ婆さんとの思い違いの葛藤とそれを解消して涙する夏美と慎吾 この二つとも映像にして感動させるのはむつかしいと思う 食べ物を料理するところを見せ美味しそうに食べるところを見せるのは簡単だが…… 映画でもそうゆう場面はあったと思うが印象に残らなかった 映画を見ながら来るなと思った
せめて恵三が死んでからと思っていたら来てしまった 来てベットの上で父と息子が抱き合って泣いた 最悪
いくらなんでもこれみよがしすぎる 映画で原作がないオリジナル脚本ってあるのかしら あるだろうたくさん 夏美のホタルからは原作 脚本 演出の関係を考えさせられた まだ考え始めたところだが 演出家と役者の考えが違う場合は勿論役者は演出家に従わなければならない
どうしても嫌なら降りるよりない 関ヶ原の監督は役者たちを怒鳴り散らしていたが唯ひとり役所広司さんだけは好きなように演ってもらったと言っている
だから役者も実力があれば監督の演出を超えたところでやることができる場合もある 役者の生殺与奪を握っているのだから監督を選ぶのは最重要事項なのかもしれない 有村くらいになれば監督を選べると思うが実際に選ぶのは事務所の仕事なので
作品選びとともに事務所の腕の見せどころなんだ 原作 脚本 監督 役者 に加え事務所を忘れてはならないのだ 勿論プロデューサーも ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています