関ヶ原有村架純その4
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
馬に乗った石田三成と島左近と左近の息子の三人が駆かけてきて
朽ちた祠の前に転がる石地蔵を手にとった三成が見上げた山が桃栗山だった ももくり山の説明を三成が何かしていたが覚えていない その間数人の男が何か喋りながら通ったが何者かもわからなかった 石田三成この時40歳 島左近この時60歳 息子の歳は分からないがたぶん35歳前後 島左近に扮しているのは平岳人44歳
島左近の役を役所広司がやったらもっと厚みが出たんじゃあないかなあと思った 年齢的にも でもそうしたら岡田准一ふんする石田三成が軽くなってしまうおそれはあるけど 平岳大さんの父親は俳優平幹二朗さん母親は女優佐久間良子さん 佐久間良子さんの実家は練馬から豊島にかけての大地主 知人が佐久間家の貸家を借りていたとき旦那さんが何かの用事で来て
「娘に変な虫がつかないうちに結婚して欲しいのだが」と心配していたらしいけど
平幹二朗さんが変な虫かどうかはしらない 昔の美人系統の女優さんは大地主とか大庄屋さんとかのお嬢さんが多かった
やっぱりそのあたりの由緒正しい家には代々綺麗なお嫁さんが来るみたいだ 今の事務所にいなければもっと評価されてもいいよおな気がするけど
今の事務所にいるからこんなに活躍できるとも言える ひとりのタレントが一つの事務所に入るのもめぐり合わせなんだ
その事務所に合う合わないもあるしもっと柔軟に流動的になったらいいね それにしても岡田准一ごくごく真面目な顔してやることはやるじゃん 宮崎あおいさんごくごくいい女優さんだ ファンではないけど好きな女優さんだ 女優宮崎あおいが好きなんで誰と結婚しようが誰と付き合っていようがそんなことどうでもいい 初芽役の有村架純は違う ファンだからファンではない宮崎あおいとは違う ファンだからファンとしては
有村架純が誰と結婚しても誰と付き合ってもいいわけではない この間もテレビドラマで
大嫌いな男(役の上でのことで実際の彼は好青年)と結婚させられドラマといえど未だ怒りが収まらない >>24
このスタイルでずうっとやってるんだよ知らなかったあんたもやったら(笑)
書き込みは自由なんだよ 念のため あんたも書き込んでるじゃん 映画の初芽は(俺には妻と子供がいる)と言う石部金吉のような三成と結ばれることようなこともなく
使いっぱしりで命を落としそうになったあげくに奴隷にまでされてしまう 原作の初芽は三成と結ばれ心配した島左近に殺されそうになるくらい三成に溺愛されていたのだった 役所広司の島左近なら所領の半分を与えるって三成が言っても滑稽にかんじないもの 葵三代の家康は津川雅彦さんだった
軽い感じの狸親父で従来のイメ-ジとは違うがこれはこれでよかった 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の告発
色川高志「文句があったらいつでも俺にサリンをかけに来やがれっ!! そんな野郎は俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状)
■ 地下鉄サリン事件
オウム真理教は当時「サリン」を作ることはできなかった。
正確に言えば 「作る設備」を持っていなかった。
神区一色村の設備で作れば 全員死んでいる。「ガラクタな設備」である。
神区一色の設備を捜査したのが「警視庁」であるが さっさと「解体撤去」している。
サリンは天皇権力から与えられた。
正確に言えば オウム真理教に潜入した工作員が 「サリン」をオウムに与えた。
オウム真理教には 多数の創価学会信者と公安警察が入り込んでいた。
地下鉄サリン事件を起こせば オウムへの強制捜査が「遅れる」という策を授け「地下鉄サリン事件」を誘導したのは
天皇公安警察と創価学会である。
天皇は その体質上 大きな「事件」を欲している。
オウム科学省のトップは 日本刀で殺された「村井」という人物だ。
村井は「サリン」授受の経緯を知る人物なので 「日本刀」で殺された。
http://d.hatena.ne.jp/kouhou999/20150224 家康で誰しも思い浮かぶのは西田敏之
葵三代の時は家康の息子秀忠役だったかな 中山道を徳川の主力三万もの軍勢を引き連れ合戦に急ぐ途中信州上田真田城にこだわり
合戦に間に合わなかったという大失態をやらかしてしまった秀忠 なのに秀忠型通りの叱責はされたがキツく咎められることはなく後になんと
家康の後を継いで徳川第二代将軍に収まってしまった なぜなのかという疑問が関ヶ原という文字を見るたび浮かんだ 真田城でもたもたするのは予定通りとでも思わないと
秀忠の愚鈍さを払拭できないし家康の器量にハテナマ-クが付いたままになってしまう 思い切って予定通りとすると思いうかぶのは徳川の主力三万の軍勢 例えば秀忠が中山道を率いた軍勢は三万人ではなく三千人としたら 秀忠の三万は家康が流したデマでうち二万七千は家康の本隊とともに動いていたのだった だったと書いたが
むろん見たわけでも数えたわけでもないがその二万七千が勝負を決したとすると全てが腑に落ちるのだった 関ヶ原ではちょっと年を食ってるが一度岸部一徳の家康見てみたい もし関ヶ原の家康を岸部一徳がやったなら役所広司の島左近との丁々発止の陰謀と言おうか戦略合戦が見ものだったのに 三成は初芽にメロメロでいくさなんかどうでもよく島左近に任せっきり もともと家康の寵愛を受けていたが気まぐれに西方の様子を探りにという名目で三成のもとに たちまち三成を麗技でメロメロにし怪しんて切ろうとした左近までも上目遣いで篭絡 つまるところ家康と左近のホットラインになり三成は蚊帳の外 という妄想は置いて詳しいことは分からないが
徳川の主力精鋭三万が到着する前に決戦をと三成を焦らせたのは間違いなく家康の思うツボに関ヶ原の合戦は嵌った どんなもんだろうと言ってもまったく想像だけでなんの根拠もない なんてたわけたこといってるとまたぞろツイッタ-とかブロクでやれとおしかりの声が聞こえるけどツイッタ-もブログもやったことないしやり方もしらない 相棒の岸部一徳さんはいいねえ
良すぎて殺させやめたんだと思うけどそれまで大変だったと思う それまで大変だったというのは辞めるまで大変だったということと
役者に転向してからから認めてもらうまで大変だったという二つの意味がある 処刑されたはずの三成役に水谷豊
相棒のあの調子で関が原を振り返っての掛け合い漫才 見てみたいね 好きな宮崎あおいさんも三成の妻として登場
三成の浮気をなじり初芽にイヤミを言う宮崎あおいさんをみてみたい 秀忠の継室になったのがお江 浅井長政とお市の方の三女 お市の方は信長の妹 継室と言っても正室の女性は幼少で会ったこともないうち亡くなっており
秀忠にとってはお江が実質初めての妻といってもよかった 二人が結婚したのが1595年関ヶ原の合戦より5年前
秀忠16歳 お江22歳 6歳年上の姉さん女房 大年増といっていいお江は三回目の結婚前二回もそれなりに由緒正しき人
なにしろ父は浅井長政で母は信長の妹お市の方 三代将軍家光の生母でもある
すなわち織田家の血が徳川家に流れているということ 秀忠が率いた軍勢は三万ではなく三万八千という説もあるようだ
とにかく昔のことはよくわからないから自分に都合がいいように判断するよりない もともと秀忠に与えられた任務は別にあったとか
合戦に急ぐようにという家康からの手紙が大雨で届くのが遅れたとか
もっともらしい理由はいろいろあるがそれはそれとして自分の想像を楽しんだほうがいい 中世とか近世とかどこで分けるのか専門家の間でも意見が分かれるようだ 日本の中世とヨ-ロッパの中世は違うようで どこが違うかわからないけど違うようだ 中世と近代の間に近世というのを入れた人がいるらしい らしいというよりいる 元来世界史は古代.中世.近代に分けられていたがそれでは説明が付けにくい部分があり近世という時代区分が作られたようだ 日本史に近世を導入したのは京都帝国大学教授のなんとかコナンという人らしい
コナンといっても今年大ヒット中の映画コナンとはまったく関係ない 京都帝国大学教授 内藤湖南先生でした 失礼しました 内藤湖南 名は虎次郎(寅次郎ではありません念の為) 内藤湖南
1866年8月27日(慶応2年7月18日)秋田県鹿角市に生まれ
1934年(昭和9年6月26日)京都府加茂町で没す 享年67歳 こうゆう人は大体小さい頃から大変な駿才で
末は博士か大臣かと言われるものですが期待通り高名な博士になりました 秋田生まれですが京大を60歳で退官してから郷里秋田に帰らず京都に留まり静かに7年ほどの余生を過ごされたようです ご家族のことは結婚していたかどうかも含め今のところわかりません 近世の始まりはいろいろ言われているけど
好きなのは織田信長が上洛したときからという説 信長は6万とも言われる軍勢を率いて足利義昭を奉じ関が原を通り上洛したのだった 途中六角勢を駆逐し安土山を望み
あのあたりに城を築き琵琶湖を眺めて暮らすのが夢だと近臣たちに言った 長政も信長も秀吉も死んだあと
つわ者達の夢のあと関ヶ原の合戦はおこった そして安土桃山時代は終わり江戸時代がはじまったのだった ひとつの時代が終わる時には大量の血が流れ
ひとつの時代を迎えるにも大量の血が必要なのか あの時家康もいた 勝鬨をあげた家康がふっと笑った あの時琵琶湖を望む信長の顔を思い出してふっと笑った ひとつの時代が終わりひとつの時代が始まることを感じふっと笑った それまで松平姓だったのを同盟を結んだのを期に徳川姓に変えた家康には思うとこがあった 信長は言った「目指すはいくさのない世」家康は何も聞かず黙って頷いた 同じ言葉に頷いた浅井長政がちょっとした手違いで敵対し
家康が先陣を切った姉川の合戦に始まった浅井滅亡までの経緯は他人事ではなくひとつ間違えれば家康の身にも起こったことだった 何が真実で何が誤解かは定かでなく運が行く方を決める要素が強い時代
俺は運が良かっただけだと刑場に引かれる三成を見送った家康 天正10年(1582)6月3日 同盟を結んでから20年信長を見送った家康 三成を見送りながら家康が思い出していたのはお徳という女 二つの首を抱いた公達が微笑を浮かべ舳に立つ
天柩行きの帆船を見送る家康の姿を堺の港で見たと人は言う お徳の初芽と名付けられた信長の血を引く娘を育てた家康 痩せさらばえ横たわる母にすがる幼子
よくある光景と普段なら見過ごすところを魔が差したのか甲賀の三蔵 連れ帰りとく名付けたが年が明けつきものが落ちた三蔵にびた一文で売られた幼子 血反吐を吐きながら耐え11歳になったある日
嗜虐的な目をした男の首をはねた刃で三蔵一家4人の首をはね忍者の里を出奔した女は信長と運命的に出会った 首を刎ねる快感から抜けられなくなった母を持った初芽 母が信長の首を刎ねた
まさかと思うことを家康から聞いたのはい初芽がくつの時だったか そんなことを家康がしたのは三成の首を刎ねよという暗示なのか 天正10年(1582)本能寺から慶長5年(1600)関ヶ原までの初芽という女の物語 安土桃山時代は外国文化特にヨ-ロッパ文化の襲来時代とも言える 好奇心の強い信長は危険を承知でかの文化を学び取り入れようとした 猜疑心の強い秀吉は攻められる前にちょうど国内統一をしてしまった勢いで無謀にも出兵し攻めた 苦労人の家康はいくさのない世を確定しようとキリスト教を禁じ国を閉ざした 信長.秀吉.家康
三人にまつわり絡みついた人脈を整理したのが関ヶ原ともいえる 映画関ヶ原のなかで家康は言った「俺が三成を育てたんだ」と 秀吉の死後すみやかに信長との約束を果たすため三成を育て合戦に導いた家康 そのことを三成は知っていたのか?
時には三成を助けるようなことをした家康 ずうっと半信半疑だった三成 石田三成が生まれたのは永禄3年(1560)
この年 織田信長今川義元を狭間に迎え討つ
同じ年 浅井長政16歳で浅井家を継ぐ 元亀元年(1570)姉川の戦い
織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍が戦い織田徳川連合軍が勝利した 姉川の戦いのすぐ後小谷城に程近く見張りとして横山城の城番として秀吉が着陣 例の秀吉と三成(佐吉)の出会いは後年秀吉が築城した長浜城が出来る前に横山城付近であったかも知れない 姉川の戦いの時三成10歳 戦の様子はるかに窺っていたかもしれない 姉川の戦場と関ヶ原は近い
朝もやが晴れるのを待ちながら三成は初めて目の当たりにした戦を思い出していたかもしれない お寺の屋根に上り高みの見物をしていた合戦
はるか雄叫びは聞こえるが血しぶきは見えなかった 賤ヶ岳で乾坤一擲ヤリを振るったがもともと刀を振り回すのは苦手だった その弱点を補うために島左近を三顧の礼をもって迎えた 男から女にあるいは女から男になるには止むにやまれぬ心の叫びと覚悟が要る
覚悟もなく安易に官僚から政治家になるものがいる 石田三成は極めて優秀な官僚だった
史上まれに見るほど優秀な官僚だったと思う それを不得手な政治家にしたのが家康
「俺が三成を育てた」
政治家に仕立てた三成があいてなら人脈以上に絡みついた血脈を解きほぐす合戦をしても万が一にも負ける心配は無かった 武将を見ても初代は勇猛果敢で知略謀略に優れ家を興しているが
二代目三代目はほとんど家を傾け潰している 政治家の世界も二代目三代目はそんな傾向にあると違うの だから官僚出身の二代目三代目は最悪じゃあないのかな? 決まったこと決められたこと指示されたことには有能だけど
自分で善し悪しを考え自分で方向を決めることができないのが官僚出身議員 大一.大万.大吉なんて訳の分かりにくい寝ぼけた旗印を掲げただけでも任ではないのがわかる 主を選ぶ時代
たしかに恩義はあるけどいつまでもこだわっていては我が身が危ない 身を捨ててまで与する何かがあればともかく何もなければ 家康には信長から受け継いだ目指すものが曲がりなりにもあった 半信半疑でも信じていなくてもそこに言葉があればヒトは頼る 藁おもすがる思いで頼る ヒトはそれほど強くないから 例えそれが盲目的に教え込まれたものでも過去の亡霊でも言葉があれば縋る ジジババは
戦場に送られた若者が血を流し涙を流し泣き叫ぶ姿を見たくて生きているんじゃあない 関ヶ原の頃のジジババも今のジジババも若者に期待するものは何もない ヒトは生物学的に18歳くらいでピ-クになりそのあとは劣化の一途をたどるらしい 日本人だけについて言えば
関ヶ原の頃ピ-クでその後徐々に劣化していき平成に入って急速に早まったという人も居る 皇紀元年は西暦紀元前660年というから優に2500年を越しているす ごいもんだ ちなみにアメリカ合衆国が独立宣言を出したのは1776年
関ヶ原の合戦1600年より176年も後のことだ 結構なことだけどいつからとは言ってない
株大暴落とかいうガセネタを予告期限が来るたびに手形の書き換えみたいなことをしているの見たことがある とにかく情報手段が発達した今起こっていることさえよくわからないのに
記録も記憶もいい加減な戦国時代のことなんかわかるわけないと言ってしまっては身も蓋もない 学術書としての文書と小説のネタとしての文書
想像力区を働かせなければ生かせないのは同じ 学術的なものでも
一字一句を問題にして口角泡を飛ばす大論争することもあるし
命題とか大命題とかを設定してそれに都合のいいものばかりを言い募る人もいる 想像とは言えないような固定観念にもこまったのだそんなのが多い 初芽はいらなかったんじゃあないかという人がままいる だから岡田准一.役所広司と並ぶような扱いなのは宣伝用なんだ 有村ファンとしては主役でも脇役でもいいからきっちりした役がいいなあと思う 例えばこの映画の初芽の役 中途半端な添え物的なんだなあ 忍びとしての活躍も有るような無いような
三成の思われ人としても交わるわけでもないし三成の言い訳を聞くだけ 原作は三成が初芽の色香に溺れ心配した左近が初芽を切ろうとしたと前にも書いた
映画もこの線で行けば有村の存在感もずうっと増したと思う 三成を骨抜きにするのが家康が初芽を派遣した狙いで
思惑道理ことが運んで関ヶ原で勝利することができたとすれば
初芽はいらなかったとは思わせないはずだ 初芽を忍びとするならなら忍びに徹し
三成とのままごとみたいな関係は初芽の存在がぼやけるだけだからやめる むろん一番いいのは有村が主役で忍びもエロケも全開の大活劇映画 今や傾きつつあるハリウッド映画に代わって大活劇映画 是枝監督なんかにやってほしいなあ思いに裏打ちされた理屈抜きの大活劇映画 まあしかしその社会そのものに元気がなければ空回りしてしまうけどね 交通事故死の数が激減しても元気が激減してはねえ角を矯めて牛を殺す喩えもあるし 霞ヶ関の公務員さんは皆さん賢いからそんなこと百も承知しているだろうけど
二百もガッテンしているかどうかは分からない 思えば三成なんかは官僚上がりの政治家が失敗する典型なのかな 俺が三成を育てた
さしずめ優秀な官僚に地盤と資金を与えて当選させ
派閥の一方の旗頭になったところでたたきつぶし自分の力を揺るぎないものにした それにしてもえ多くない
それも押し出されて仕方なくではなくまだ若い課長クラスの転向が 地方の県知事なんかになる人どうゆうつもりなんだろう だいたい当選するけどね 官房長官が押した霞ヶ関の公務員出身の人珍しく負けたもんね 当選したヒトを押した前の知事の影響力が思いのほか強かったということみたい その当選させてくれた前の知事の施策に反することをしようとしている現知事
いろいろ面白い ここに書くべきことを三月のライオンにかいてしまった あの時代
室町から安土桃山にいたり関ヶ原までの時代に麻薬の記述とか話とかなかったのかなあ 映画関ヶ原における秀吉の急激な老衰ぶりはひとつの見ものだったけど
なんか薬でもやっているんじゃあないかと思わせるほどだった なんの薬か知らないけど秀吉の朝鮮への出兵は
薬のせいの幻覚がなしたことだったかも ヒトは人の想像を越したことをすることがあるだ からら面白い 永禄4年(1561年)、桶屋を営んだ福島正信(正光)の長男として尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で生まれる。
また星野成政の子で福島正信の養子になったともいわれる。 母が豊臣秀吉の叔母(大政所の姉妹)だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、
天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。始めの禄高は200石であった 天正10年(1582年)の山崎の戦いでは、勝龍寺城を攻撃するなどして軍功をあげ、300石を加増されて500石となった。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、
賤ヶ岳の七本槍の中突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石) 天正15年(1587年)の九州平定の後、9月5日に伊予国今治11万3千余石を与えられ、
ここに正則は「分国」を形成する大名的領主となった 福島正則は桶屋の息子だったんだ
映画関ヶ原ではその辺を踏まえた役作りをしていたかも もともと分国というのは、日本の中世における1国の単位。平安時代の知行国にあたる。
戦国時代では領地を分国と言う 桶屋の息子に生まれた福島正則は16歳で初陣しわずか10年26歳で大名になったんだ 永禄4年(1561)生まれの福島正則 永禄3年(1560)生まれの石田三成 たぶんお互いライバルとは思っていなんったろうが朝鮮出兵の頃から敵対するようになる 文禄4年(1595年)7月、秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるという事件が起こった。
この際、正則は日本におり、秀次に切腹の命令を伝えている。
同年、尾張国清洲に24万石の所領を与えられた 秀吉のいとこである正則は秀吉の甥である秀次に切腹の命を伝えた 近い親戚の秀次に切腹を伝えた正則はどんな気持ちだったろう
近い親戚の正則に切腹を伝えられた秀次はどんな気持ちだったろう いとこに甥の切腹を伝えさせた秀吉はどんな気持ちだったろう この時ネネはどうしていたのか夫秀吉を諫めなかったのか
諌めたけど聞かなかった秀吉えの恨みが関ヶ原につながったのかも 大政所の死を聞いたとき秀吉は立っていられなかったくらいの衝撃だったらしい 高名な評論家の話 奥さんがなくなり直ぐあとを追って自殺してしまったとか 正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、
慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。
この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。 関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行った。
宇喜多勢の前衛8,000を率いた明石全登に、福島勢は一時退却を余儀なくされたが、
なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。 やがて小早川秀秋の背信を機に、西軍の戦線は崩壊した。
宇喜多勢は、開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅した。
正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩) 桶屋のせがれだけど正則 戦闘にもたけ政治的能力もなかなかのものだったようだ 永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた
母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。 清正が3歳の時に父が死去し、母と共に津島に移る。
羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、天正元年(1573年)、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。
清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。これに清正も応え忠義を生涯尽くし続けた。 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加した。
翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石[注釈 3]の所領を与えられた。 天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭に叙任する 意外にも当時の清正が秀吉から期待されていたのは、豊臣政権の財務官僚としての役割であった。
記録で確認できるだけでも豊臣氏の播磨国や和泉国にあった蔵入地の代官、九州平定後の上使としての戦後処理、
尾藤知宣が改易されて闕所地となった讃岐国に新領主に決まっていた生駒親正が入国するまで代官として臨時に統治業務にあたる仕事などが知られている 文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した 清正は 藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった また清正は飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。
この結果、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年以上経った現在も実用として使われている遺構も少なくない。このとき清正は莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員したが、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、
事業の多くを農閑期に行う事によって農事に割く時間を確保した 武将としては福島正則とともに豊臣氏配下の最有力の武将の一人で、正則とは親しかったとされる。
石田三成とは豊臣政権下で文治派、武断派が形成されるにつれて関係が悪化し、小西行長とは
朝鮮出兵の際の意見対立や互いの領地が隣り合わせであったため常に境界線をめぐって争ったとも言われている。 どちらかといえば清正は三成と似たヒトではなかったのかな 三成、正則、清正 歳も近い三人 ともに秀吉に可愛がられ恩義も感じていた三人 天正10年(1582年)、木下家定(高台院の兄)の五男として近江国の長浜に生まれる。
母は杉原家次の娘。幼名は辰之助といっ 正13年(1585年)に義理の叔父である羽柴秀吉の養子になり、幼少より高台院に育てられた。
元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗っ 天正17年(1589年)、豊臣秀勝の領地であった丹波亀山城10万石を与えられた。
文禄元年(1592年)には従三位・権中納言兼左衛門督に叙任し、「丹波中納言」と呼ばれた。
諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ豊臣家の継承権保持者とも見られていた。 権中納言になったとき数えで11歳 ほんまかいな
高台院の後押しがあるとはいえびっくり 同じ親戚筋なのに福島正則や加藤清正に比べ格段の厚遇
幼少からよっぽど見栄えがよかったんだ 見栄えで扱いが違うのは女だけではない男もそうなんだ 余談だけど松本清張さんも顔では随分苦渋を舐めたようだ
新聞記者当時宴席で酒を注いで回っていた主客に飛ばされたことがあるらしい
本人は醜い顔で飛ばされたと思いそれをバネに大小説家になれたのは人生万事塞翁が馬と言えるのかな 文禄2年(1593年)、秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれる 文禄3年(1594年)秀吉の命により秀俊は小早川隆景と養子縁組させられ小早川秀俊となった。
また、養子縁組を契機に隆景の官位は中納言にまで上昇し、結果小早川家の家格も上昇することになる。 文禄4年(1595年)秀俊は秀次事件に連座して丹波亀山城を没収された。しかし、同年のうちに隆景が備後国三原へ隠居した。
秀俊はその所領30万7,000石を相続する形で筑前国(名島城)国主となった 連座や五人組
きょう日ではこんなのに拠り所を求める若い子が増えているんだつて
嫌だねえ 慶長2年(1597年)2月21日に秀吉より発せられた軍令により秀俊の朝鮮半島への渡海が決定し、
釜山浦にて、前線からの注進を取り次ぐ任が与えられた。
同年6月12日小早川隆景が没した。この日以降、朝鮮在陣中に名乗りを秀俊から秀秋へ改名している[ 秀秋は慶長2年(1597年)12月以前より再三秀吉からの帰国要請を受けており、慶長3年(1598年)1月29日ようやく帰国の途についた 帰国した秀秋には秀吉より越前北ノ庄15万石への減封転封命令が下った これがわからない 減封転封される理由はいずれも事実無根らしい
越前北の庄だって 頭ぼけとるとちゃう 慶長3年(1598年)8月秀吉が死去すると、
その秀吉の遺命をもとに翌慶長4年(1599年)2月5日付で徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行され、
筑前・筑後に復領。所領高も59万石と大幅に増加した。 なんじゃこれは 秀吉の遺命をもとにだって 遺命は三成の思うがままと違うのか こうゆう場合家臣はどうするのかな
人員整理した前の家臣をよびもどすのかそれとも家臣募集の広告でも打つのかな 秀秋は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは1万5,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山に陣を敷いた。 秀秋は家康に応じ、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった この関が原の戦いを決したとも言える小早川秀秋の迷走の謎は未だはっきりしない 高台院の意向が勝負を決めたという説もあるけどわからない 関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)10月18日、秀秋あらため秀詮は21歳で急死した 死因は酒色(アルコール依存症)による内臓疾患によるものだろうとなっている。 関ヶ原で活躍した小早川秀秋の残念な早世があり
家康のために奮闘した福島正則の晩年がある 家康死後まもなくの元和5年(1619年)、
台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。 福島正則が活躍した時代に特攻隊というものがあったのかなかったのか知らない 特攻隊を編成する
紙切れと封筒を渡され、希望するかしないか、誰にも相談せずに書いて出せという 白紙で出そうかとも迷ったが「命令のままに」と書き、封筒に入れて出した。 「何て書いた?」。
白紙や「希望しない」という者はいない。「半殺しに遭うもんな」
「建前社会の軍隊では本音が言えず、事実上の強制だった」 その後すったもんだした結果
安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封。
移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した 秀吉の甥と家康の息子の意地の張り合いとも見えるし阿吽の馴れ合いとも見える 福島正則もそうだったし信長なんかは常に先頭を駈けて突進していた
つまり戦国時代は武将が特攻隊員だったのだ
それに比べ作戦室でのうのうとしている輩は気軽でいいのう 宇喜多秀家
元亀3年(1572年)、備前国岡山城(岡山県岡山市北区)主の宇喜多直家の次男として生まれた。通称は八郎を称した。
天正9年(1581年)に父・直家が病死。天正10年(1582年)、当時宇喜多氏が従属していた織田信長により本領を安堵され、家督を継いだ 元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。
秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正16年(1588年)以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。
このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。 関ヶ原で西軍最多17000人の軍勢を率いて奮戦した秀家がなぜ秀吉の寵愛を受けたのかわからない わからないのは
福島正則、加藤清正、小早川秀秋、宇喜多秀家ら秀吉の親戚及び親戚扱いのなかで
ただひとり西軍に加わったのは宇喜多秀家だけだったのは何故 秀吉の寵愛を受けた訳がはっきりわからない
身長170cmという当時としてはスラっとした容姿やっぱり見栄えなのかな 自身の容姿にコンプレックスがあった秀吉
タニマチ顔で大きな力士を連れ歩きたがる旦那衆と同じ心境だったかも 豪姫をもらって以来いろんな合戦に参加して豊臣を支えた秀家 関ヶ原で敗れたあといろいろあったが最終的には八丈島に流され84歳の長寿を全うした それにしても秀家は秀吉譲りの豪奢を好み、そのツケを領民への苛斂誅求で補おうとした。
鷹狩を好み鷹を100羽飼っており、その世話のための家臣を300名抱え、鷹の餌のために領民に飼い犬を差し出させたとしている。 思えば関ヶ原で自前の軍を率いまともに戦ったのはほとんど
小早川秀秋、福島正則ら秀吉の親戚筋か宇喜多秀家や石田三成などの小さい時が可愛がられた子飼いの武将たちなのだ 豊臣家の内紛とも言えるイクサを仕組んだ家康が漁夫の利を得たのが関ヶ原なのかな 豊臣秀次
秀吉の姉の子供に生まれ秀吉の後継として関白にまでなったのに秀頼が生まれ切腹させられるという不運な男 尾張と京都の間には、容易には越えられない鈴鹿山地が南北に連なり、
南の端の鈴鹿峠を超えて京へ向かう東海道より、北の端の高原盆地である関ヶ原を通る東山道の方が冬の雪深さを除けば行き来しやすかった。 石田三成-岡田准一
徳川家康-役所広司
女忍初芽-有村架純
大谷吉継-大場泰正
島 左近-平 岳大
島 信勝-山村憲之介
八十島助左衛門-堀部吉亮 小早川秀秋-東出昌大
宇喜多秀長-生島 遡
豊臣秀吉-滝藤賢一
北政所-キムラ緑子
前田利家-西岡徳馬
蛇白(家康の側近)-伊藤歩
赤身(伊賀忍者)-中島しゅう
花野-中越典子
尼僧「妙義」壇蜜 だらだら上る細い山道に木漏れる陽を仰ぎながら歩き続けるとやがて視界が開け、まわりを山に囲まれた関ヶ原盆地に出た。
冬には雪深い高原盆地を通り……
関ヶ原が高原盆地だということをつい最近まで知らなかった。 平 岳大(ひらたけひろ) 42才 183cm シスカンバ二-所属 父は平幹二朗 母は佐久間良子 東出昌大(ひがしでまさひろ) 29才 189cm ユマニテ所属 堀部圭亮(ほりべけいすけ) 51歳 鈍牛倶楽部所属 俳優.脚本家.タレント等 幼児期のIQ180 上洛を期に京に通じる街道の整備を始めた信長は、
冬には雪が降る関ヶ原では雪を踏み固め、人馬が通れるようにとの依頼を当時二千戸ほどだった関ヶ原の住民に頼んだ。 撮影現場で怒鳴り声が聞こえたのが新鮮だったと有村架純がいっていた。
これまでの現場では怒鳴るようなことはなかったのだ。 日本海から琵琶湖の上を通った雲が伊吹山を掠めて雪雲になり太平洋に抜ける通り道に当たる高原盆地関ヶ原で大雪を降らせる。 関ヶ原合戦の死者両軍合わせて6千人とも8千人ともいわれる。
どこまで信憑性があるのかわからないが何れにしろ死体の始末には往生しただろうと想像はつく。 合戦か合戦以前かどちらに重点を措いているかに興味がある。
架純ちゃんは忍者の役だから普通に考えたら合戦以前の諜報活動が活躍の場のはずだけど立ち回りなんかもやってるみたいだから都合よく使われていたらコケパタ-ン。嫌だなあ。 従軍記者として赴いた戦地での日本軍を見てこれは日本人ではないと呟いたという司馬遼太郎さんは
そのショックとのバランスを取るため生涯に渡り素晴らしい日本人を書き続けたと言うのはホント?? 合戦の場が関ヶ原になったのは偶然? それとも阿吽の呼吸 もし誘ったとしたら誰かな? 盆地で焦点が定まりやすかったからその日に決着がついたと考えられる。
ここ以外の場所だった個々の場所で勝ったり負けたりで全体の趨勢は見極めにくかったと思われる。 関ヶ原に接する伊吹山は冬には全山白装束の荘厳ともいえる姿をみせる。
その伊吹山から関ヶ原を俯瞰すれば勝負の行方は一目瞭然だったかもしれない。 福島正則−音尾琢真
井伊直政-北村有起哉
黒田長政-和田正人
増田長盛-中村育二 冬の関ヶ原では一晩で身の丈ほどのほどの大雪が降ることがある。 信長が足利義昭を担いで上洛したのは永禄11年(1568)関ヶ原の合戦(1600)より32年前だった。
この時信長に従っていた徳川家康は血気盛んな25才。そして関ヶ原の合戦の時は老獪な57歳になっていた。 音尾 琢真(おとお たくま)
1976年3月21日生 俳優、タレント。北海道旭川市出身
CREATIVE OFFICE CUE(業務提携先はアミューズ)、演劇ユニットTEAM NACS所属 永禄9年10月信長の妹御市御前は北近江の浅井長政と結婚した。
翌10年正月3日臣下が集まるお屠蘇の会が花嫁のお披露目も兼ねたので館の大広間には重臣.国人.豪族が居並んだうえ呼んではいない土豪や地侍らも押しかけた。
お仕掛け組の中から石田正継と名乗った男が連れていた元服前のこどもを、「倅の佐吉お見知りおきを」と言って頭を下げたのが数えで八歳、万で六歳二ヶ月になる三成だった。 徳川家康
天文11年(1542)松平広忠の長子として生まれる 幼名竹千代 子供の頃人質として今川家で過ごす
永禄5年織田信長と同盟を結ぶ 本能寺変以降秀吉と微妙な位置関係を保つ 天正14年(1586)秀吉の実妹朝日姫を正室に迎え秀吉と義兄弟となる 役所 広司(やくしょ こうじ)
1956年1月1日生 俳優。本名:橋本 広司(はしもと こうじ)。長崎県諫早市出身。
ワイ・ケイ事務所所属。身長179cm。俳優・仲代達矢主宰の無名塾出身 石田三成 幼名佐吉 永禄三年近江国坂田郡石田村の豪族石田正継の次男としてうまれる。
長浜城城主になった秀吉に父とともに仕え、後に側近として頭角をあらわす。 岡田准一 36才 ジャニ-ズ所属Vシックスのメンバ- 大阪枚方出身 小学2年の頃両親が離婚 2003年木更津キャッツアイ日本シリ-ズで初主演
大河ドラマ黒田官兵衛主演 岡田准一は大阪府枚方市、有村架純は兵庫県伊丹市、大阪と兵庫だが市は近い。
原作では愛人関係を演じる二人はともに両親が離婚している 初芽(伊賀の忍び) 石田三成の動向を探るため家康方から遣わされたくノ一。
三成の側にいるうちしだいに真っ正直な性格に惹かれ徳川方から寝返ってしまう。 というのは原作の初芽
映画の初芽は忍びというのは同じだけど処刑場で暴れ三成に取り押さえられ三成のもとで働くが関係は持たなかった なぜ監督は三成と初芽をねんごろにしなかったのかがわからない しとけば全体の雰囲気も三成像もだいぶ良い方に変わったと思う しとけば刑場に送られる三成を見送る初芽の目から涙が流れ落ちたのに と言うより原田監督も家康に乗せられたのかもしれない 豊臣家のあとを追って天下を収めるには
力で戦い取らなければならないという認識が家康にはあった だから三成を育てたとしたら何時からそう思ったのだろう 逆に関ヶ原の合戦がなかったとしたら天下はどうなっていたかな それも興味があるけど文官石田三成に力で家康と対抗しよういう考えは微塵もなかったと思う やっぱり秀吉の心にも体にも目に見えるほどの急激な凋落は大政所の死によるものと思わざるを得ない むろんそれを三成は感じていただろうがどうしようもなかっただろう 秀吉にとってねねの存在は大きかっただろうが母はやはり何者にも変えがたいものだったのだ 秀吉と大政所の関係と言おうか触れ具合といおうか簡単にマザコンで片付けられないものをちょっとでも描いてほしかつた 自分の邪魔になるもの邪魔をするものを排除するのに躊躇はない 子供のまま大人になった女は怖い 何かに取り憑かれ女も怖い 信長の首を刎ねた女は
子供のころ首を刎ねる快感に囚われ生涯その魔物から逃れられなかった 昔から傾国の美人というが美人でなくても国を潰す力は女にはある 茶々姫が秀頼を生んでなければというタラレバ話は意味ないが
茶々姫が秀頼を生んでなければ豊臣の世はまだまだ続いたのではないかという人はいる 大政所 1592年8月29日没
秀頼 1593年8月29日生 大政所の母が死に側室の茶々にすがりつくよりなかった秀吉 1592年に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、
慶長2年1597年の講和交渉決裂によって再開され1598年の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、
合わせた戦役の総称である 文禄の役と慶長の役との間に4年ほど空いてる期間があるのだ 義昭公を担いで上洛途上の障害六角氏を追い払い観音寺城に上がった信長 観音寺城から琵琶湖を望み
湖に突き出た安土山を差した信長があの辺りに城を築き琵琶湖を眺めて暮らすのが夢だと言った えっもう隠居されることをお考えですか
と言って驚いた近臣たちの中に浅井長政や木下秀吉もいた 琵琶湖を巨大な港にしてここから大陸に向かう船 大洋に向かう船が溢れている光景を見るのが夢だ という信長に「ここから世界に討ってでられるのですね」という秀吉 「討っては出ない交易と交流だ 間違えるな藤吉郎」と信長は言ったのだが…… 信長と秀吉の人間的な大きさの違いと言ってしまえばそうなんだけど
心の狭いリ-ダ-の時代に生きている不運を嘆くのみなのも情けない 信長は家康に言った「目指すはイクサのない世」家康は黙って頷いた 支配者の名ではなく支配者がいた地名が時代に使われているんだ 日本の歴史
縄文時代 前14000年頃 – 前4世紀
弥生時代 前4世紀(前10世紀) – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
大和時代 前660年? – 710年
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
平安時代 794年 – 1185年
鎌倉時代 1185年 – 1333年
建武の新政 1333年 – 1336年
室町時代 1336年 – 1573年
南北朝時代 1336年 – 1392年
戦国時代 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 1573年 – 1603年
江戸時代 1603年 – 1868年
幕末 1853年 – 1868年
明治時代 1868年 – 1912年
大正時代 1912年 – 1926年
昭和時代 1926年 – 1989年
連合国軍占領下 1945年 – 1952年
平成時代 縄文時代の前に
旧石器時代 – 紀元前14000年頃 というのがある ー記号のところに – と表記されるのは何故なの 従来なら東京時代 1868年からだからちょうど150年 関ヶ原の合戦から418年なんだ いつも思うんだけど1600年が嬉しい 423の訂正
旧石器時代は人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、
終わりは1万6000年前と考えられている。無土器時代、先土器時代ともい 縄文時代(じょうもんじだい)
約1万5,000年前(紀元前131世紀頃)から約2,300年前(紀元前4世紀頃)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、
旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。 弥生時代(やよいじだい)
日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。
採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である 古墳時代(こふんじだい)
古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、
この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。 大和時代は古墳時代と飛鳥時代を合わせた時代と言い換えることもできる。
厳密には大和時代は弥生時代末期を含み、また飛鳥時代は古墳時代末期でもある。
日本書紀などの文献による神武天皇即位年は紀元前660年だが大和時代の天皇には異常な長寿が多数見られる。 飛鳥時代(あすかじだい)
広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。
狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。
飛鳥時代は古墳時代、大和時代の終末期と重なるが、今日では分けて捉えるのが一般的である。
この時代、推古朝では飛鳥文化、天武・持統朝では白鳳文化が華開いた。また国号が「倭」から「日本」へと変えられたのも当時、首都であった難波宮で行われた大化の改新以降であり、この時代と考えられている 奈良時代(ならじだい)
平城京(奈良)に都が置かれた時代で平城時代(へいじょうじだい)ともいう。
日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である 天平文化(てんぴょうぶんか)
時期では8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして(咲く花のにおうがごとく)とばかり華開いた貴族・仏教文化である。
この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼ぶ。 平安時代(へいあんじだい)
延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃。
延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、
京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。 平安時代(約390年)は江戸時代(約260年)よりだいぶ長いんだ
だから京都は未だに威張ってるんだ 鎌倉時代(かまくらじだい)
1185年頃 - 1333年 日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。
本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は
「問注所」と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、
これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。
武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、
頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。
承久の変、承久合戦ともいう 建武の新政(けんむのしんせい)
鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)
を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)である。 名は、翌年の元弘4年/建武元年(1334年)に定められた「建武」の元号に由来する。
後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、
建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。 僅か2年半だけなのに歴史の時代に名があるのはなんでだろう
重要だからかそれともこの期間 鎌倉時代と室町時代 の間が空白になってしまうからかな 後鳥羽上皇といい後醍醐天皇といいこの頃までの天皇家は親政にこだわっていたんだ 室町時代(むろまちじだい)
室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代で「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する 足利尊氏が1336年(南朝:延元元年/北朝:建武3年)に建武式目を制定し、1338年に征夷大将軍に補任されてから幕府を開き、
15代将軍義昭が1573年(元亀4年/天正元年)に織田信長によって京都から追放されるまでの237年間、もしくは235年間を指す。
現在、2つの考えが存在するが、学校教育においては、1338年を室町時代の開始とし、1573年までの235年間としている。 南北朝時代(なんぼくちょう じだい)
建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して
京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、
南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう 天皇家も結構勢力争いがあったのだ 今ではどうなんだろう 戦国時代(せんごくじだい)
15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。
世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭し、
領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。
こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という 元々、足利幕府は南北朝の並立と足利政権を二分した観応の擾乱を治めるために、自派についた大名への恩賞や、南朝や足利直冬などと結び強大な独立勢力と化していた
山名氏、大内氏らの勢力を維持したまま取り込んだことで、独立的性格を持つ大大名の支持の上に成り立つ不安定さを持つ政権であった。
しかし、三代将軍足利義満は南北朝の統一を果たして有力大名の勢力削減に成功し、直属軍を設立するなど将軍権力の強化に成功する。 しかし六代目の足利義教が嘉吉の乱で暗殺されて以降、室町幕府は衰勢となり、
有力守護大名等に対して統制を効かせるのが難しくなっていく。 そして八代将軍足利義政の跡継ぎを巡る争いが始まり、
これに山名氏・細川氏ら有力守護大名の権力争い、畠山氏・斯波氏の跡継ぎ争いなどが加わって、
全国を東西に分けて巻き込む応仁の乱へと至ってしまう みんな暇なんかなあ 小人閑居して不善を為すなのかそれとも不安を紛らわすためのイク?サ 安土桃山時代(あづちももやまじだい)
織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。
2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城伏見城のあった桃山丘陵から、このように呼ばれる 安土桃山時代の始まりと終わりがいつなのか、「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、
室町時代、戦国時代と重複してしまうことが、その定義を難しくしている。 江戸時代(えどじだい)
慶長8年2月12日(1603年3月24日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから
慶応4年/明治元年4月11日(1868年5月3日)に江戸城が明治政府軍に明け渡されるまでの265年間を指す
しかしその他始まりと終わりについては色々な説がある 元和偃武(げんなえんぶ)
慶長20年(元和元年・1615年)5月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、
応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。
江戸幕府は同年7月に元号を元和と改めて、天下の平定が完了した事を内外に宣した。 偃武(えんぶ)
中国古典『書経』周書・武成篇の中の語「王来自商、至于豊。乃偃武修文。(王 商自り来たり、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せて文を修む。)」
に由来し、武器を偃(ふ)せて武器庫に収める事を指している。 「目指すはイクサのない世」
と織田弾正忠三郎信長に言われた永禄5年の日のことを思い出していた家康
思えばあの時はまだ元康だったのだと思うと一層の感慨だった どんな役を演じても『はまり役』と思わせる、その人物造形の巧みさに大きな才能が感じられる 一流の女優はみんな男だという人もいる なんのことかわからない 『歴史は夜作られる』(れきしはよるつくられる、原題:History Is Made at Night)は、1937年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画である。
(撮影は1936年)フランク・ボーゼイギが監督、シャルル・ボワイエとジーン・アーサーが主演した 古事記と日本書紀
古事記 日本書紀
発起人 天武天皇 天武天皇
完成年 712年 720年
巻数 全3巻 全30巻+系図1巻
編纂者 稗田阿礼が語り、太安万侶が筆記、編纂 皇族、官人らが中心となって編纂。舎人親王により完成
特徴 天皇家の歴史を中心として物語風に書かれている 年代を追って出来事を記す編年体
収録時期 天地初発から推古天皇まで 天地開闢から持統天皇まで
表記 日本漢文体 漢文体
目的 天皇家を中心とする国家統一の正当性(国内向け) 国外に国家としての日本のアピール(国外向け 古事記
発起人 天武天皇
完成年 712年
巻数 全3巻
編纂者 稗田阿礼が語り、太安万侶が筆記、編纂
特徴 天皇家の歴史を中心として物語風に書かれている
収録時期 天地初発から推古天皇まで
表記 日本漢文体
目的 天皇家を中心とする国家統一の正当性(国内向け) 日本書紀
発起人 天武天皇
完成年 720年
巻数 全30巻+系図1巻
編集者 皇族、官人らが中心となって編纂。舎人親王により完成
特徴 年代を追って出来事を記す編年体
収録時期 天地開闢から持統天皇まで
表記 漢文体
目的 国外に国家としての日本のアピール(国外向け 正親町天皇(おおぎまちてんのう)
1517年6月18日(永正14年5月29日)生 - 1593年2月6日(文禄2年1月5日))没
第106代天皇(在位:1557年11月17日(弘治3年10月27日) - 1586年12月17日(天正14年11月7日))。
諱は方仁(みちひと) 応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱 弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。
当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった 織豊政権との関係
朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇を保護するという大義名分により京都を制圧した この時信長は足利義昭を奉じて上洛し足利15代将軍に就任させている 上洛以来信長と正親町天皇の間にはいろいろあったが概ね良好に推移したと思う 聖徳太子が定めたと言われる17条の憲法は皇室と貴族や官吏との関係を書いたもので
政府と国民の関係を規律するのが近代憲法 上洛以来信長は
雨漏りが激しく痛みがひどかった紫宸殿をはじめ清涼殿などの殿舎を約2年かけて修復している 信長は利己的に天皇を利用しただけという人がいるけど
実際に上洛し貧窮していた皇室のために尽力した者はほかにいない 元寇(げんこう)
日本の鎌倉時代中期に、当時中国大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である 1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、
2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 モンゴル帝国は、初代のチンギス=ハン以来、5代にわたって繁栄。チンギスの孫・フビライ=ハン(クビライとも呼ぶ)は1264年に国号を「元」と改めた。
それから10年後の1274年、ついに日本へと、その魔の手を伸ばしてきたのである 日本侵攻に先駆け、フビライは日本へ朝貢と降伏を促す使者を都合6回も派遣してきた。
しかし、これに対して日本側は黙殺を決め込む。
当時の日本側の権力者は鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗。この年、24歳。
6年前に18歳で執権職を継いでいた彼は、先代の政村の補佐も受け、強気な姿勢を崩さなかった。 元寇ひとつとっても大変 わからないことだらけと言うよのわかろうとする方が間違ってる まあ元に侵略されなかったわけの一つにはやっぱり島国 元の版図を見ると陸続きの西に西に陸続きに広げている しかしあんなに領土を広げてちゃんと統治できてたのかなあ 井上靖氏の蒼き狼人並みに読んだことあるけど何も覚えていない 元(げん)
1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、
東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝 元は、1260年、チンギス・カンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が、
1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改め成立 クビライが皇帝の位につく過程において、
兄弟のアリクブケと帝位を争って内戦に至り、これを武力によって打倒して単独の帝位を獲得するという、
父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった このあたりから中央集権的勢力が急速に落ち始め元寇の頃は最後っ屁みたいな感じだったみたい 秀吉と違っていいとこのボンボンの信長は教養としてまなんでいたかも 信長から元寇を聞いた記憶が朝鮮出兵に何らかの影響を及ぼしたかもね 正親町天皇の次の天皇は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)
1571年12月31日(元亀2年12月15日) - 1617年9月25日(元和3年8月26日))安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇
(在位:1586年12月17日(天正14年11月7日) - 1611年5月9日(慶長16年3月27日))。諱は初め和仁(かずひと)、
1598年(慶長3年)12月に周仁(かたひと)と改めた 天正14年(1586年)7月に正親町天皇の東宮であった誠仁親王が薨去し、皇孫に当たる和仁親王が同年11月7日に、
皇祖父にあたる正親町天皇から譲位され受禅した 後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府成立の時期をまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、
その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。 後陽成天皇は秀吉の外征には反対であり、秀吉に対して「無体な所業」であると諭している 正親町天皇から後陽成天皇への後継は当時の皇室としては最善の継承と思う 今上天皇は日本で最も誠実な方 皇太子殿下は極めて聡明な方 後陽成天皇が即位されたのは15歳 関ヶ原の合戦の時は29歳 後陽成天皇〜乱世を生き抜く処世術で皇室を生き残らせる〜 後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府成立の時期をまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。
豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。 後陽成天皇と秀吉の関係は概ねでは持ちつ持たれつで良好だったようだ 正親町天皇から譲位され時には信長の支援で皇室や公家たちの経済状態は
一時期の瀕死の状態からだいぶマシになっていた このいささかの余裕が秀吉とのいろんな交渉でなんとか皇室の権威を保てたのではないだろうか 後陽成天皇が関ヶ原の合戦に何らかの働きかけをした文書も行動も見当たらない あくまで中立を保ちどちらが勝利しても影響は最小限にと言う意図だったのかな 1593年に亡くなった正親町天皇がお元気だったらどうしただろうかと興味がある ちなみに初めて正親町天皇の名を目にしたとき女帝なんだと思ってしまった 元寇の時もそうだけどいわゆる情報というやつ多ければいいって言うもんでもなさう あんまり多過ぎると人間の手に負えなくなって機械任せになってしまう 元も悠長だねえ何年にも渡り何回も使節といおうか使者を寄こしているんだ その時北条時宗24歳 いい年だねえ 42歳だったらまた違った展開になったかも でも本当に攻めて来るかどうか半信半疑だったんじゃあないかなこんな島国に 元にかんする知識どのくらいあったのだろう その辺興味ある 外敵があると一つにまとまるというのはいつの世もどの国も同じみたい まだ鎌倉幕府が中央集権的な力も権威もそれほどなかっただろうに御家人と言おうか侍が全国から馳せ参じた 鎌倉幕府がお触れを全国に出ししたんだろうなあそれだけでも大変だ 内裏は? たらを言えば もう少し早く平安時代に元寇があったらどうなったんだろうとおもってしまう ひょっとしたら京都の皇室と鎌倉幕府に権力がといおうか権威が分かれていたことがよかったのかな 国内の身近な情報もよくわからないのに外国のことなんてわかるわけがない ただ耳に入れる者が限られているだろうから限られた情報が真実の情報だと信じたくなるのはわかる 情報に関しては関ヶ原も五十歩百歩で最後は自分の直感を頼るよりないのかな 自分が探ってきた情報によって動く三成を見て微笑む初芽 初芽を忍びなんかで使うから安っぽくなるんだと改めて思った 541のキャストのクレジットを見ると岡田准一に次ぐ二番目なんだ 集客要員でも使う価値があると評価されるのはいいことだけどファンとしては辛い面もある 三月のライオンの有村は出番は少なかったけどよかった とてもよかった
良かっただけに余計残念だった いっぽう関ヶ原はコケてはいないけど実質はコケに近い 女優有村架純としては時代劇の雰囲気も味わえたし良かったと思う 本当の時代劇ってなんだって怒られそうだけどかつての東映時代劇 映画の撮影現場の雰囲気が好きだという有村 怒鳴り声が新鮮だったという有村 撮影スタッフの中にははラストざむらいに関わった人もいるかも
原田眞人さん役者としてラストざむらいに出ているんだよ ビリギャルのスラリと伸びた脚でにっこり笑われるとたまりません
なんて言ってたけど口からでまかせだったみたい まあ忍者役でも有村はいらんなんて無粋なこと言う奴がいるくらいだからなあ 三成とイチャイチャしてたらだから負けたんだなんて言われそう 原作図書館で借り初芽が出てるとこ探して拾い読みして返したから この前久しぶりに図書館に行ったら検索用のパソコンまた新しくなって使えなかった 前もわからなくて女の人に聞いて操作したけど何度も聞くの恥ずかしい どうも役所というところは自分とこの都合だけ考え物事をやっているようだなあ ある種単細胞だろうな悩まないもの 悩む細胞がないんだ 悩まないことが幸せなのかどうか知らないけど幸せってなんだろうということになる さしずめ私は貝になりたいというのは私は機械になりたいということかな 機械は人間を越えられないという人といや超えられるという人が居る 人間は神を超えたのか?
かつて神は死んだといわれたが 死んだのと越したのは違う 神が死んだとして
死んだのは自殺したのかそれとも誰かに殺されたのかそれとも自然死だったのか 神の自然死 神にも寿命があったんだ 金属疲労ならぬ神疲労 寿命といえば長生きしたもの勝ちみたいなところがある 豊臣秀吉
天文6年2月6日(1537年3月17日)生 慶長3年8月18日(1598年)没
享年61歳 秀吉の生年はいろんな説があってはっきりしないけど
没年もはっきりしているようなはっきりしていないようなことがあるのはいろんな事情で伏せておくことがあるから 映画で秀吉が急激に衰弱していくメイクはなかなかのものだった あんまりいい思いで死んでいったとも思えないけど面白い一生だったと想像できる 秀吉にとって生涯で一番の出来事はなんといっても信長との出会いだろう 相性が悪いとお愛想を言ったつもりでもイヤミに取られる 相性がいいとイヤミを言ったつもりがお愛想に聞こえる いい悪いはどこで決まるかわからない天性のものとしか言いようがない 信長と光秀との相性がよかったかどうかはわからない
悪かったとは思えないけど秀吉ほどよかったとも思えない 前田利家
天文7年12月25日(1539年1月15日)生 慶長4年閏3月3日(1599年)没 但し生年説には36年37年などいろいろある
享年60歳 ほとんど同い年の二人は互いに相手を認め合い頼りにしていたようだ そして二人の妻女 秀吉の妻ねねと利家の妻まつの存在も大きかった ねね
1949年生まれという説もあるが実際のところ生年不詳
1624年没 1949年生まれとするとかなり長寿 まつ
1547年7月25日生まれ 生家がはっきりした家なので生年もわかる
1616年8月17日没 ねねほどではないが長寿 賤ヶ岳で柴田勝家に与し敗北したときはまつが秀吉に掛け合い許してもらった
たぶんねねの口添えがあったと思われる 利家は勝家の与力であったため心ならずも秀吉と対立したこともあったが密かに親交は続けていたようだった 記述を見ると槍一筋の無骨者にも見えるしなかなかの策士にも見える利家 つまるところ前田利家は
その場その場で自分に求められていることに忠実だった人物のようだ 秀吉は無論ねねもまつもドラマに取り上げられているが利家はあったかなあ? 徳川家康
天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日)生
元和2年4月17日(グレゴリウス暦1616年6月1日)没 秀吉や利家より6歳ほど若い しかも長生きしているほど元気だった この差なんだな 秀吉や利家がもう10年元気だったら徳川の時代はなんったかもしれない 豊臣秀頼
文禄2年8月3日(1593年8月29日)生
慶長20年5月8日(1615年6月4日) 没 関ヶ原の時 数えで8歳
もう10年早く生まれていたらなあ せめて5年 またたらだ 生まれてから23年一人でいたことなんて一度もないんじゃあないかなあ ではないかも 成人してからも誰かが一緒で誰かがお尻を拭いてくれていた それは嫌だな そうゆう男は天下に号令してはいけない 秀吉なんか厠もないとこでそだって草かなんかで拭いてた さっこんじゃあウオッシュレットがなくては生きていけないなんてほざいてる奴が生きてるからね 尻にうんこ付けてデイトするってのが生きてるってゆうことだよ まあ思えば生きてるってことが何よりだもんね後継にとって そばについてるものは毎日生きた心地しないんじゃあない
自分だったらと想像したら玉が縮んだ それにしても秀吉は秀頼を見ながら自分の幼い頃の生きるための行動を思い出さなかっただろうか 生きるためにはなんでもした自分を思い出したから
秀頼のあまりの過保護すぎる弱々しさに涙したに違いない 急激に衰弱していく己を意識すればするほど秀頼の行くすえが見え涙したに違いない 秀吉は切腹に追いやった秀次を思い出さなかっただろうか 秀頼のためとに思ってやっことが……いまさら臍を噛んでもおそい 言いがかりとも言える連座で罪もない幼い子から身重の女まで首をはねさせたのは俺だ
子供には関係ないということが通るのかと気弱な表情を見せた秀吉 秀頼を頼むと手を取る秀吉の衰弱を確認しながら家康は思った もうまもなくこの男は死ぬ
そして後継はまだ小さい今がチャンスだと思いながら前田利家を窺う家康 利家がこれから何年生きるか分からないが
利家が生きてる間に行動を起こす気にはなれなかった 利家が健在なら利家を中心に豊臣はまとまるだろう そうゆう人望が利家にはあった 控えている三成を気配で窺い思った こいつにはそうゆう人望はない 人望はないしもともと武将ではない 大軍を指揮したことはない そろばん片手に頭を巡らす者と刀を振りかざし突進する者との反りが合うわけない 朝鮮で虎を見ておかしくなったのかな それとも小西行長に刺激されたのかな 小西行長
永禄元年(1558年)、和泉国堺の商人・小西隆佐の次男として京都で生まれた なかなかないこと その後今度は秀吉に才知を認められる どこかで聞いたことがある 豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いた。
天正13年(1585年)には摂津守に任ぜられ、また豊臣姓を名乗ることを許される 豊臣姓を名乗ることを許される よっぽど気に入られたんだな 天正15年(1587年)の九州平定、
天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、
肥後国の南半国宇土、益城、八代の三郡20万石あまりを与えられた。 肥後の国の北半分が加藤清正の領地
領地を接していたせいか何かと揉め事があったらしい 小西行長はクリスチャン 加藤清正は日蓮宗
ともに熱心な信者であったらしい げに難しくて恐ろしきは宗教なり 半島
海の中に突き出して、三方が海で囲まれた陸地 例 能登半島 思えば二人共元々は文治官
なのに朝鮮半島では先頭争いを繰り広げていた そうそう映画の中の加藤清正は怒ってばかりいたようだ 清正に限らず登場する人ほとんど怒っている映画なんだ 家康の笑顔はあったかな 母衣を作ったときいたお付の娘可愛い 決戦前夜あの娘に伽をさせたのか 生娘みたいな初々しさが感じられた ときに家康57歳
前田利家の死を聞いたとき笑った家康は思った 少なくともあと10年は死ねない 結局16年生き徳川の世の基を築き安心して少なくとも秀吉より安心して息を引き取った 徳川初代将軍家康が息を引き取った時二代将軍秀忠は江戸にいた 秀忠は「お江〜姫たちの戦国〜」という2011年の日本放送協会の大河に出てくる 演じているのは向井理といういい男で妻となるお江役の上野樹里の年下の夫 お江の最初の婚姻相手は信長の甥の佐治一成。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、
3度目の婚姻相手が後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠である。 再婚するたびに出世し三度目の秀忠は正室
三代家光の生母で浅井の血ひいては織田の血を後世に残した お江(おごう)
天正元年〈1573年〉8月 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)位階は従一位。
浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、
長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいる。 贈位とはいえ従一位とはすごい さすが三代将軍の生母 徳川秀忠
天正7年4月7日(1579年5月2日)生
寛永9年1月24日(1632年3月14日)没 1595年9月17日、お江が23歳の時、徳川家康の3男・徳川秀忠(17歳)と結婚 お江は6歳年上しかも三回目
秀忠は事情もあって初婚で17歳 1595年
朝鮮の役の一回目と二回目の間
秀吉の死の3年前
関ヶ原の5年前 ドラマでは秀忠の方が年上に見え何かと主導権を発揮したいるように見えた じっさいのお江も甘え上手だったかも 三回目で年増とはいえ23歳の女盛り 17歳でやりたい盛りの秀忠はメロメロになっちゃったかも 吹き出る汗を吹き一物を優しく撫ぜながら夫の助命を嘆願するお江 若い娘は苦手な家康 初芽とは褥を共にしながら手は出していない 息子の妻じゃあないかと必至に耐えていたがはらりと浴衣を落としたお江に…… おかげでなんのお咎めもなかった秀忠はなんと三男なのに第二代将軍にまで 秀吉についで利家とトップ引きが相次いでいなくなり心ならずも先頭に押し出された三成 ここらでちょっと一休み初芽も呼んでと琵琶湖湖畔に手頃な家を準備した イクサは嫌だから家康暗殺計画を左近から持ちかけられた時もダメだと止めた それなのに 上杉討伐と言って東にむかつた家康が軍勢を整え戻ってくるという そして大谷形部が病を押し俺に代わってあちこち飛びまわって家康との決戦の準備をしているという 初芽に会いたいと思った時初芽に付けた侍女が来て岐阜に立ったという なんで岐阜に?そうか家康に会いに行ったんだそう思ったら力が抜けてしまった 家康とは同じ褥で寝ることはあるが交わったことはないと以前初芽が言ったけど…… やってるんだ 初芽と同じ布団で寝てやってないなんて到底信じられない この頃よく自転車に乗るけど若い娘から年配のおばさんまで女性にスイスイ抜かれる 一番元気に抜いていくのは若い母親
子供を乗せられる重たい自転車であっというまもなく抜いていく 必死で漕いでる上り坂でいい年のおばさんが乗った電動自転車にそれこそスイスイ抜かれる 原付では一方通行で入れない道も電動自転車だったら入れるもんね 豊臣秀次
永禄11年(1568年)生 1595年 没
秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として尾張国知多郡大高村で生まれた。名は治兵衛(じへえ) 豊臣秀長
天文9年(1540年)生 1591年 没
竹阿弥の子、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる 1537年生まれの秀吉より3歳下の弟で秀次の叔父なのは同じ 秀吉は秀長を隣に配して重用し、また秀長も秀吉に異を唱え制御できる人物であった。
短期間で成長を遂げ、徳川家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権の安定には欠かせぬ貴重な人物だった。 おもえば豊臣姓で知ってるのは秀吉.秀頼.秀次くらいで知っているといっても詳しくは知らない 今知っているのでは石原兄弟と渡.渡瀬兄弟 他にも知らないだけで優秀な兄弟いっぱいいだろうけどね 曽我兄弟なんてのも思い出したし兄弟船の演歌歌手の顔は二人共浮かぶけど名前が出てこない 顔なんか石原兄弟は二人共いい顔してた
俳優の弟さんは若くしてなくなってしまったけどいい顔のままなくなったみたい
お兄さんの方は年と共にだんだん思わしくなくなってきたみたい 弟さんの方はこの前なくなってしまったけど安心できる俳優さんだった
づば抜けて喧嘩が強いという評判も安心につながったのかな 徳川葵三代という大河のようなテレビドラマで家康の役をやっていた お兄さんは二枚目の弟さんと違った顔を活かした演技派として活躍されていた 同じ昭和9年(1934年)生まれに
石原裕次郎、愛川欽也、大橋巨泉、財津一郎、坂上二郎、藤村俊二、睦五朗、森山周一郎さんらそうそうたるそうそうたる人物が居る 長年頼りにしていた弟の秀長が1591年死に
翌1592年心の拠り所母が死に両手両足をもがれたようになった秀吉 このふたりが健在なら朝鮮出兵はなかったかもしれない 母なか 1592年8月29日没
息子秀頼 1593年8月29日生 死と生 生と死 生きとし生けるものを翻弄し鼓舞する 秀吉個人が翻弄される分ならいくらでもどうぞだけどとばっちりが大きすぎる いつの時代もいつの世も権力者のとばっちりで人は泣かされてきた しかしそれを達成したとたん人類は死滅する可能性が高い 人類の行くすえはおいてヒトの顔については皆んないろいろ思うとこがあるだろう 美男と美女の子供が必ずしも美男美女に生まれるわけではない むしろえっこの両親になんでこんな綺麗な子がと思うことがままある 秀頼が秀吉と茶々の子供だとしてどちらに似たのだろう 普通男の子は母親に似ると言われているけどどの程度の信憑性があるのかわからない 織田弾正忠家は美形の一族なのだから秀頼も肖像画にあるように美形なのだろう 間違ってもはげねずみといわれた秀吉には似てないはずだ だがしかし秀頼の身長が197cm体重は161kgと一説に言われている通りなら誰に似たのた 信長は160cmくらいだったらしいし織田家の系譜に大男の記載は見当たらない 長政が三代目の浅井家は新興の家といってもいいだろう 無論そんな巨漢は見当たらない しかしその前は定かでないのだら記録にない大男がいたかもしれない わからないけとどまあしかし突然変異ということを思えば秀吉と茶々の子供でもあり得るのだ 養源院(ようげんいん)は、京都市東山区にある浄土真宗遣迎院派の寺院。蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置する。
養源院の寺名は浅井長政の院号から採られた。もと天台宗 浅井長政 茶々(淀殿) の父
戒名 養源院天映宗精 浅井長政の官位は
贈従二位中納言(徳川家光の外祖父にあたるため、死後の寛永9年(1632年)9月15日に贈られた)。 叙位は位階(正一位、従三位など)を授ける制度で603年の冠位十二階の制に始まる 叙勲は勲位(一等から十二等まで区分)を授ける制度で、
本来は武人など勲功を挙げた者に対して授与されたもので701年(大宝元年)から始まった 文化勲章受章者は、文化功労者年金法に基づく終身年金(現在は年額350万円)が支給される。 この年金課税されるのかしら 俺には全く関係ないけど気になる 文化勲章受賞者はもれなく文化功労者に選ばれる
文化勲章にはお金は出ないけど文化功労者には年金350万円が毎年でる
ちなみに年金には課税されないけどほかの収入にはそれなりに課税される と普通は思うけど
課税はされないが一応申告はするように とかなんとか但し書きをしたがるのが霞ヶ関の公務員さん 皇室が何時から勲章類を与え始めたのがいつからかしらないけど随分多くのそれこそ数え切れない程だろう こんなこと調べてる人いないよね 分かってもすごいっていうだけだもんね この仕組みがなかったら皇室が今日まで続いてたかどうかわからない 豊臣秀吉の官位
筑前守、従五位下・左近衛権少将、従四位下・参議、従三位・権大納言、正二位・内大臣、従一位・関白、太政大臣、贈正一位 正一位
関白や太政大臣、あるいは征夷大将軍として功労をなした者その他、国家に対する偉勲の著しい者が叙されている。
ただし、生前に叙された者は史上でも6人しかおらず、没後の贈位に用いられた場合がほとんどである 横綱はなんぼ成績が悪くても落ちることはない 落ちる代わりにやめなければならない 大関までは成績が悪ければ落ちる でも落ちてもやめなければならないことはない 織田信長の官位
従五位下・弾正少忠、正四位下・弾正大弼、従三位・参議、権大納言、右近衛大将
正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位 贈従一位・太政大臣、贈正一位 官位を軽く見ていた信長は長いこと弾正忠のままいたが
付き合いや家臣との釣り合いやらで右大臣まで上らざるを得なかった しかし何を思ったのか突然右大臣を返上してしまった信長 それまでは右府様と呼んでいたのに呼べなくなってしまった 信長様とは諱だから呼べない
本名を諱と言って呼ばないようになったのが何時ごろからかは知らない 御璽(ぎょじ)とは、天皇陛下がお持ちの印鑑のことで、世界に一点しか存在しません。 御璽は 親書、詔書、条約、批准書、信任状など国事の重要な文書に用いられています。 国璽(こくじ)というのは、日本の国を表す印鑑
「大日本国璽」と彫られた金印で、
現在では条約の批准や文化勲章の勲記(勲章を贈る旨を書いた文書)に用いられています。 日本国憲法4条は天皇は「国政に関する権能を有しない」と定めている 天皇は法改正や政権批判などの政治的発言が許されない 当然といえば当然だけど
一部為政者からは軽く扱われているように見える時も時にはある そのためもあるのかなあびっくりするような皇室批判が目に付くことがある 以前は元気でも天皇をやめて子供なんかに継がせることができたのに今はできない
死ななければ天皇をやめられない 考えてみたらこれもきついよね 明治からそうなったのかな そして今上天皇の強い要望で生前退位がようやく決まった かつて何度かあった上皇と天皇の争いなんか心配する声もありなかなか決まらなかったんだ 現政権とは思いが違うけど政治的発言はダメだから辛かったと思う 北海学園大学演劇研究会に所属していた5人による演劇ユニット「TEAMNACS」
(森崎博之、安田顕、戸次重幸、大泉洋、音尾琢真) 有村が大泉洋さんとはアイアムアヒ--ロで安田顕さんとはビリギャルで
一緒だったので知っていたけど音尾琢真さんがこのグル-プの一員だとは知らなかった 音尾琢真 縛られた三成を嫌というほど蹴っ飛ばした福島正則を演じた 音尾琢真 (おとおたくま) 本名
1976年3月21日生(42歳)北海道旭川市
職業 俳優・タレント ジャンル 舞台・テレビドラマ・映画
所属劇団 TEAM NACS
事務所 CREATIVE OFFICE CUE 関ヶ原での有村との絡みはなかったが同じ場面には出ていた 蹴られる三成役の岡田准一が腹はやめてくれと言ったのに腹を蹴りまくったらしい つい力が入ってしまったと音尾は弁解していたみたいだけど
ひょっとしたらなにかふくむところがあったかも 森崎 博之(もりさき ひろゆき、1971年11月14日 - )
俳優、脚本家、演出家、北海道を中心に活動するローカルタレント。
CREATIVE OFFICE CUE(業務提携先はアミューズ)所属。演劇ユニットTEAM NACSのリーダー。
北海道東川町出身。血液型はO型。既婚。 ロ-カルタレントなんて着やすく言うこいつは典型な東京の田舎もんでんな(笑) 2008年4月から『森崎博之のあぐり王国北海道』(現・あぐり王国北海道NEXT、北海道放送)の放送が開始されたのを機に、
北海道に残って活動を続ける事となった。 一時期全国放送の番組にも出ていたけどなにか思うことがあったんだろう北海道に帰る 戸次 重幸(とつぎ しげゆき、1973年11月7日 - )
俳優、演出家、タレント。本名および旧芸名:佐藤 重幸(さとう しげゆき)愛称はシゲ。
所属事務所はCREATIVE OFFICE CUE(業務提携先はアミューズ)。演劇ユニットTEAM NACS所属。
北海道札幌市西区(現:手稲区)出身。身長173cm。妻は女優の市川由衣 市川 由衣(いちかわ ゆい、1986年2月10日 - )
女優、タレント、歌手。東京都中野区出身。研音所属。旧所属はエイジ(現在は存在せず)。
東京都立代々木高等学校卒業。夫は俳優・演出家の戸次重幸 五者五様 皆さんそれぞれ大活躍されてるようですばらしい 台風はめぐみの雨を運んで来てくれるから日本の成り立ちにとって大きな意味が有る そういえば昔から地震.雷.火事.オヤジって言うよね めぐみの台風は神風でもあるしね 悪いものの中には入れないんだ 地震.雷.火事.オヤジ エネルギ-の大きさの順番なのかなあ 地震のエネルギ- それこそ日本に与えられた自然のめぐみ よく晴れた明け六つ半
乗馬着姿も凛々しいお市御前が乗った白馬を真ん中に輿入り行列は関が原を目指し大垣城をたった 関ヶ原高原盆地に上り中山道から小谷に通じる街道に入ったとたん雪が降ってきた 季節外れの雪 一気に積もる関ヶ原の雪の怖さを知っている内藤治重郎 あっという間もなく激しい吹雪になり白い闇の中間道に迷い込んだ一行 まずとことになったと思いながら小便を漏らした治重郎 もともと近い上にこの寒さ漏らして濡れた乗馬袴に顔をしかめた治重郎の目に明かりが 明かりが近づき「お市様の輿入れ行列とおみうけしたが」と大声をかけたのが蜂須賀小六 助かったお市様は無事小谷に輿入り 浅井長政の継室となった 永禄9年のことだった いろいろあった末天正16年(1588) 茶々は秀吉の側室となる そして文禄2年 (1593) 秀頼を生む 関ヶ原の戦いまで7年 淀殿となった茶々の関ヶ原
淀殿は石田方が切望したと思われる秀頼の墨付きの発給や秀頼の出陣などは許さず、
石田方の動きを認めつつも豊臣家としては観望する姿勢を保った 家康と三成の私闘として高みの見物を決め込んだのが…… 三成が茶々をたらしこんでおけば勝利は間違いなかったのに もしかしたらその懸念があったので家康は初芽を送りんだ!? 初芽がこうゆう役なら有村はいらなかったなんて言われなかったんだ こんなサ-ビスがあれば忍びの国に負けることはなかったのに 中山道から小谷に通じる街道のあたりが関ヶ原高原盆地の中心 関ヶ原合戦の両軍の布陣もこのあたりを目安にしたようだ お市御前も山々を見ながら夢を小谷に馳せたのだろうか♪ 思えば映画関ヶ原は刑場で始まって刑場で終わったのだ 何かに抗議するよう刀を振り回して三成に取り押さえられた初芽 そして 苦労しないうちに死んで往生できるのは幸せと嘯いた 早く往生して極楽に行きたいという気持ちが殺されることを望ませた 本当は手を振って送りたいくらいだった初芽だけど映画だからやめたのだ かつてはそうであったものが今ではそうではなくなった 「目指すはイクサのない世」
家康に伝えた信長のこの言葉には死をみつめた信長の優しさがあった 死を見つめる心と正義を振りかざす心とが関ヶ原でぶつかった 京都における信長の宿舎が本能寺や妙覚寺 いずれも法華寺 宗教に対してきびしい目を向ける信長にとって
来世の浄土教より今世の法華教のほうがまだましだったかもしれない 関ヶ原の合戦に宗教がどのように関わったか分からない 家康は20歳位の時三河一向一揆で死にそうになったことが有り
宗教の怖さは骨の髄まで知っていた 三成はクリスチャンだったという人もいる 洗礼名もあるらしい ただ秀吉のキリスタン禁止令が出て改宗したのか隠れキリスタンになったのかは分からない 簡単に宗教上の立場を変えたのが事実とすれば宗教にへんな執着はなく現実主義者だったかも 関ヶ原に立てた旗印も主義ではなく趣味だったかもしれない 三成は争いごとが生まれながらに好きだったかもしれない 希にそうゆう人がいる 人と争っている時が一番生き生きしている人 もし三成がそうゆう人だとすれば喧嘩相手として三成が家康を選んだ 「義」(正しい行いを守ること。人間の欲望を追求する「利」と対立する概念)のある世の中にしたい!というのが三成の夢
その夢を達成するには、自らの純粋すぎる感情を抑えることが必要だったと人は言う 三成が落とした竹杖を家康が拾って三成に渡した
それに対し礼も言わず無視した三成
が竹杖事件 三成の思うツボ 思い出すたびに腸が煮えくり返る家康 九州を平定しこのまま落ち着いてしまったら面白くない三成 逆ではないか 大政所の母なかが死んで頼るものがいなくなりすっかり弱った秀吉 その信長と同じ血が流れている茶々には手が出せなかった 夥しいひとの血と涙と命がひとりの男の暇つぶしのために流れた そんな時に出くわしたのが不運とでも思わないと胃下垂になる このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 55日 16時間 8分 24秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。