晩年のモーツァルトの経済状況が逼迫し出したのが、フィガロハウス(1784.9〜1787.5)から市外に引っ越した時期から。

翌1788年から墺露同盟に基づき、オーストリアはトルコ戦争に宣戦布告して戦争が始まり、戦費調達のため通貨価値が下落し、物価が高騰し始めた頃。
ちなみにロシア貴族がウィーンに大勢いたのは、墺露同盟の賜物。モーツァルトもロシア貴族に対しては好感情を持っていただろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%BA%E9%9C%B2%E5%90%8C%E7%9B%9F_(1781%E5%B9%B4-1790%E5%B9%B4)
ドル箱であるオペラの注文、演奏会の会員が減ったのは、貴族たちは皇帝ヨーゼフ2世に従って戦地に出征しなくてはいけなかったからで、
自ずと子女のレッスンが収入のメインになってしまい、それに合わせて家賃の割安な市外に転出したのだ。
因みに皇帝ヨーゼフ2世はこの時戦地で受けた負傷により2年後の1790年2月に亡くなる。
後にモーツァルトとダ・ポンテは、コシ・ファン・トゥッテで王命により戦地に赴く貴族をグリエルモとフェランドで揶揄(からか)ったのだw