原本現代訳〈15〉[教育社新書] 陰徳太平記(下)
名実ともに山陽山陰の覇者となった毛利は、秀吉の全国統一支配に
協力し、参加する道をとる。やがて新時代の大きな鼓動が……。
そこで輝元・隆景様は、新庄へお出になって、『秀吉公のこれほど
道理を尽くしての仰せに、背いたならば、今は無礼になるでしょう。
そのときは、吉川家はいうまでもなく、毛利家にとっても大事と
なりましょう。輝元のためをもお考え下され、さらには元長・元氏・
経言のご身上をもお考えになるならば、ぜひ九州へご出陣下さい』と、
しきりに忠告された。そこで元春様は、『それがし、霜雪に耐え、
身命を惜しまず、大敵・強敵を打ち砕いて来たのも、畢竟家を興し、
毛利家の危うきを助けるがためでした。今、秀吉の命を受けねば、
わが家のため、輝元殿のためよろしからぬと言われる以上、いたし方
ありません。この上は秀吉公の仰せに従いましょう』とあって、
九州へ赴かれたのですが、豊前退治の半に、小倉においてご他界あそば
されました。これを思うに、劉備が魏の曹操を討とうとしていたとき、
諸葛孔明に臥龍の徳ありと聞いて、その草庵を三度にもわたって訪れたの
で、孔明も、ついに庵を出て蜀に仕え、所々の軍労を経てのち、
軍営のうちに病に冒され、世を去ったことと、さてもよく似ていることです。
思うに元春様は、孔明の後身とも申すべき方でしょうか。