>>2続き
1950年秋、東京都世田谷区代田に転居。
以後、東京都世田谷区経堂(1951年から1952年)、東京都渋谷区笹塚(1952年から1955年)、神奈川県川崎市幸区戸手町(1955年から1959年)で育つ。

1951年、成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、
1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学。
同門に秋山和慶、山本直純、羽仁協子、久山恵子がいる。

当時、癇癪持ちの齋藤から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、
あまりのストレスから小澤が自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともあった。

1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現在の桐朋学園大学音楽学部)へ進学、1957年夏に同短期大学を卒業。

4月に卒業できなかったのは、肺炎で卒業試験が受けられなかったためであり、
のちに追試を受けて卒業が認められたが、療養期間中には仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て焦りと嫉妬に苦しんだという。

ただし、このとき父から「嫉妬は人間の一番の敵だ」と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが、後になって大変役立ったと語っている。

短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団を振りはじめ、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当。

1957年12月には、日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会におけるラヴェル『子供と魔法』にて、渡邉暁雄のもとで副指揮者をつとめる。