音楽を聴くという事2
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今のクーポンは握りしめなくても平気だよ
スマホ見せて終わり
そんな事も知らないという事は、やはり「クーポンを使う事は恥ずかしい」という法律を厳守しているのか
律儀だね、人間て
まあ、ただのバカとも言うが 爆 だから神様がクーポン握りしめてマックで並んで
『ポテト揚げ立てにしろや〜』ってんだろ?
もうね、腹腸がちぎれそうだよ、マジでwwwwwwww スマホだからいいってことじゃねえんだよw
ちなみにマック以外ではどこのクーポン使ってんだ?
どうせ使い倒してんだろ? 俺のやり方は、スマホをスマートに見せて、「クーポンで」かな
そして、すかさず「揚げたてでお願いします」だね
簡単だろ?
キミ達もやってみるといい
何も難しくないよ
怖がっていては何も進まない
逃げちゃダメだ クーポンはマックのポテトくらいしか使わないかな
あと、たまにナゲット
そういえば、マック以外ではクーポンて使わないな、俺は
わざわざ使うまでの価値が無い店や商品が多いというのが理由かもしれないね
まあ、俺は必要な事しかしないからな
必要な事しかしないのは、俺の国では法律というよりは、「モラル」だね 店員に、「この人いい歳してクーポンなんて使ってる、キンモ〜」と思われる事を恐れていては、この先も、キミは何も出来ないよ
何をそんなに恐れているのカネ? クーポン出す店は使わないんでね。
クーポン分はクーポン使わない客が負担するシステムなんでね。
マックは株は持ってるが、優待の食事券は人にあげてる。
キミにやろうか?キミが見たこともないバリューセットもらえるぞ。 で、いつになったらコテ名を変えるんだい?
『聞き神』に戻すのもいいんじゃない? ちっぽけな人間の為に投下するネタはいかな
もっと大きくならないとな まずは、恥ずかしがらずにクーポンで揚げたてポテトを購入する事
ここから始めてみようか
植民地から独立するのは、最初は大変かもしれないが、逃げちゃダメだ
このままでは、キミは一生奴隷だよ
クーポンで揚げたてポテトすら購入出来ない、何も出来ない奴隷
それが今のキミだね 神は無理でも、せめて小人からもうちょっと大きくならないとな
このままでは、マトモに会話も出来ない
今のキミは、あまりにも小さすぎる
まるで虫のようだ これが進化に失敗した者の末路の姿、か
悲惨だな
虫ケラのような人生だな また鳴いてる
これが便所虫の鳴き声か
変わってるね 自分で第10感まであるって断言したんだからさ。
説明するのなんて楽勝でショ? ぐうの音も出ないのかあ。。。『聞き神』時代の方が面白かったじょ〜♪ 進化し損なった出来損ないの虫の鳴き声には哀愁を感じるねえ っていうか、狂い方が足りんのだよ。
まだまだ18点。 虫の世界では俺は相当、都合が悪い存在のようだ
カンラカンラ 虫は別に怖くはないが、特に好きではないかな
気持ち悪い虫も中にはいるよね
だから、自分の部屋に侵略してきた虫も、殺す虫と殺さない虫で、きちんと仕分ける
てんとう虫とかは可愛いから部屋に入ってきても殺さないよ
蛾とか、小バエなどの「害虫」は容赦なく殺すかな
自分の国に侵入されても、害が無い限りは「観光客」として扱ってあげる
我が国に害を与える虫は、テロリストとして容赦なく制裁するけどね てんとう虫とかの可愛い客が我が国に迷い込んできた時は、優しくつまんで、外に逃がしてやる
蛾とかは、粉を撒き散らすし不快なので、プチッと潰して処分だね さて、便所虫のキミは、果たして我が国の制裁から逃れる事が出来るのか
答えは、神のみぞ知る さあ
虫をどちらに仕分けるか、全ては俺の気分次第だね
ふんふんふーん♪ 下手くそだな物真似
悟空は、「オーラ、ワークワクすっぞぉ!」
これが正解だよ さっさと制裁
さっさと制裁
さっさと制裁
クソ虫はよ 面白そうだな
神よ早う制裁やってみ
大声で喚いて唾吐いて殴りかかってきて威勢良く拳振り上げながら
バックしていくフンコロガシ 笑い声書かないと怖くて怖くてなぁ
いいぞもっと狂え
もっとビビれ
部屋の壁叩いて喚け喚け 俺が狂うのは素晴らしい音にだけだよ
キミ達のような便所の住人が奏でる音では、笑い声しか出ませんねえ
愉快愉快 人生は有限だよ
虫さん達は、無限に時間が続くとでも思ってるのカネ? どこかの国の植民地や、誰かの奴隷をやってる暇などあるのカネ? まずは自らの旗を持つ事だね
自分の国である事を主張すらしていない土地や資源など、誰かに奪われても当たり前だよ 他人はキミという国から全てを奪う事しか考えてないぞ
そして、侵略してくるのは、大抵は隣国だ
キミの隣りにいつも居る人物には気を付けろ
人は人から奪う事しか考えてない
最も近くにいる者ほど、危険だよ >>179
やはり田舎町暮らしでしたか。
「蛾」や「小バエ」なんで子供の頃は見ましたが、それ以来自宅近辺では見たことないですね。ハエもありません。
「蝶」や「赤とんぼ」は毎年よく見ますが。 >>197
被害妄想が尋常ではありませんね。
「人の心なんで分からない」
これ常識です。
人は信頼出来るところと信頼出来ないところが混在し常に変化している。
これも常識。
バリアなどはりめぐらす必要はない。
利用されていると判断すれば受け流し、そうでなければ(この判断は阿呆でなければ可能)「自分ならこうするがするしないは君の問題、私の問題ではない」と返答する。
神になんかなる必要はない。 都会のほうがカッコイイ、田舎はダサい
それって、キミを奴隷にしてる者が決めた法律かな? 「常識」は、奴隷にとっては絶対に破る事の出来ない法律だよね キミ達奴隷は、君主が決めた法律を厳守しないとな
「どこかの誰かの都合」という、キミ達の絶対的な君主が決めた法律を守る事こそが、キミ達奴隷の喜びであり、正義なのだから ここでは馬の耳に念仏だじょ〜♪
ね、『聞き神』君♪ 先程、自宅の敷地付近で「犬の糞」が、こんばんは〜、と喋りかけてきやがったから、耳を塞いでガン無視してやった
皇帝に話しかけていいのは、俺の人生における「重要アイテム」だけだという事を、これからも厳しく分からせていかないとな
世の中に蔓延る、犬の糞どもに 今日は新しいクッションソファを手に入れたよ
良い音楽は、良いクッションから、だね >>203
198 199
だが、「その常識」は、【私の常識】であって「世間の常識」ではない。
私はフリーランスであるから「したくない事はしない。したい事だけする」。
お前さん、心にそうとう深い傷を負っているね。逃げの行き着いた先が『神』となり、辛うじて心の安定を保っている。
同情はするが、自然の結末。
なんと言おうと、私の目は誤魔化せない。
なんとも悲惨な人生だな。 耳を塞ぐ。
ムンクの「叫び」か。
いずれにせよ、私への制裁はできない。
君のような敗者には。 「お酒はぬるめの 癇がいい ♪
肴はあぶった イカでいい ♪
女はむくちな 人がいい ♪
灯りはぼんやり 灯りゃいい ♪
しみじみ飲めば しみじみと♪
想い出だけが 行き過ぎる ♪
涙がポロリと こぼれたら ♪
歌いだすのさ 舟歌を ♪」
18歳の石川さゆりの津軽海峡冬景色(日本コロムビア)に比して、ポニーキャニオン移籍(35歳)の再録も最近の石川さゆりの津軽海峡冬景色も無残だが
不思議に八代亜紀の舟歌はもう70歳前後だというのに味がありますねぇ。
声の質の問題だけではなさそうに思う。
小林幸子のおもいで酒ともども、たまには演歌もよいものだ。
ソフトはすべてシングル45回転レコード。
声と弦はアナログレコード、ピアノと大編成オーケストラ曲は(SA)CDと決めている。 ダ・ヴィンチやモーツァルトは人類史上における天才の中の天才である(自然科学の分野ならボーアやアインシュタインに匹敵する)。
しかし、ダ・ヴィンチの人生は就活のための放浪そのものであり、芸術作品に取り組めた時間とエネルギーは1/10にも満たなかった。
同様にモーツァルトの人生も就活のための放浪そのものであり、600曲にあまる作品の90%は貴族や富裕層からの注目に応えた作品であった。
結婚するまでは父レオポルドに支配され、結婚後はコンスタンツェの浪費癖に悩まされ続けた。
そして極貧の中で斃れる。
二人とも、「時代」と所謂「世の中」に翻弄された人生を生きた。
我々凡人と決定的に異なるのは、時代と世の中に翻弄されながらも人類史に残る作品を遺したことにある。
世の中を超然と生きているらしい「自称神→音狂い」は、天才であるというのは嘘で、「俺が俺がの、女性に生理的に避けられる」頑固親爺にすぎない。 やまいだれが回ってるのか
注文ではなく注目なんだわさ ふー、本日はベートーヴェンと向き合っている
彼と俺はとても似ている
違うのは、彼は死後に神となり、私は生きたまま神となったという事だな
死後、神となった者は、キリストを始めとして、案外多いが、生きたまま神となった者は、人類史上、私だけだよ 今日も凡人の嫉妬が激しいな
生きたまま神となった俺がそんなに許せないのカネ? >>211
キミのような「常識人」では神を理解する事などは永遠に不可能だな ムンクは結構好きな画家だよ
彼の作品は、今ちょうどスマホの壁紙にしてる
もう一台のほうはマグリット
絵画は音楽と同じくらい、私の人生にとっては「重要アイテム」だな うーん、昨日買った新しいクッションソファが心地よい
音楽が捗るな レオナルドの手がけたいくつかの記念碑的作品は、ほとんどが悲劇的な運命をたどっている。
『晩餐』は完膚なきまでに手を入れられてしまったし、『騎馬像』はついに青銅に鋳られる機会を得ず、粘土の原型のまま土に帰ってしまったし、『アンギアーリの戦い』は形をなす前に彼自身が仕事を投げ出してしまっている。
唯一の例外がウフィツィ美術館の『三王礼拝図』で、未完成ではあるが、完好の保存状態で残っていることを私どもはせめてもの慰めとしなければならない。 厳然として圧倒してくるこの絵の威容をなんと表現したらよいであろうか。
私はこの絵に対比させ得るものは法隆寺金堂の壁画以外にないと思っている。
逆に法隆寺金堂の壁画に対比させえるものもレオナルドの『三王礼拝図』以外にはない。
これらふたつの絵に共通するものは「玲瓏透徹にして翳りなし」とでもいった印象であろうか。
世の中には暗くて不明瞭であることによって神秘感をかもし出しているものがいろいろある。東洋の仏画の神秘感はだいたいそれで、法隆寺金堂の壁画はきわめて顕著な例外ということができよう。
法隆寺金堂の壁画にも『三王礼拝図』にも隠微なところは全くない。
すみずみまで明瞭である。しかも、峻烈きわまる高さがあり、すさまじい威圧がある。
若き天才の緊張した精神そのものの顕現とでもいえよう。 「女性に生理的に避けられる」
これを犯罪と決めたのは、キミの君主かな?
私の国では、逆に「栄誉」とされているよ
女性に「キモい」と言わせられれば勲章ものだな ダ・ヴィンチだけじゃなく、もっと色々な絵画も見ないとな
逃げちゃダメだ やや緑を含む鳶色の地塗りの上に濃い紫で下書きの素描をし、ハイライトを白で描き起こしている。鳶色と紫のコントラストがなんともいえず効果的で、絵全体が鳶色に輝いているように見える。
法隆寺金堂の壁画のようだと書いたが、このふたつの絵は線の質に関する限りまるで違う。
法隆寺の壁画の線は太さの変化のない、きわめて図式的、説明的な線である。
『三王礼拝図』の線は筆がかすれるのを物ともせずにぐいぐいと引きまくった実に豪快な線である。妙心寺竜泉庵の長谷川等伯若描きの『枯木猿喉図』、あの線がまさにレオナルドの線である。 やや緑を含む鳶色の地塗りの上に濃い紫で下書きの素描をし、ハイライトを白で描き起こしている。鳶色と紫のコントラストがなんともいえず効果的で、絵全体が鳶色に輝いているように見える。
法隆寺金堂の壁画のようだと書いたが、このふたつの絵は線の質に関する限りまるで違う。
法隆寺の壁画の線は太さの変化のない、きわめて図式的、説明的な線である。
『三王礼拝図』の線は筆がかすれるのを物ともせずにぐいぐいと引きまくった実に豪快な線である。妙心寺竜泉庵の長谷川等伯若描きの『枯木猿喉図』、あの線がまさにレオナルドの線である。 レオナルドについては遅筆、逡巡ということがいつも言われるが、実は彼はルネサンスきってのクロッキーの名手であり、形を取ることが素敵にうまい男なのだ。
その頃の画家が大きな絵を描くときには、まず原寸大の完全な下絵を作り、それを板、あるいは壁の上に重ねて、下絵の輪郭に沿って針でちくちく刺していったり、錐の先でぎーっと力を入れてなぞったりして下絵の輪郭を板や壁に移し、後は塗り絵のようにそれぞれの部分をそれぞれの色で塗りつぶして仕上げてゆくのが常法であった。
しかし、レオナルドはごく初期の絵を除いてこの方法を使っていない。彼は原寸大の下絵というものをほとんど作ってないし、『聖アンナ』のように、原寸大の下絵を描いたと思われる場合にも、それを板に移す時にはもういちどフリーハンドで描いている。
『三王礼拝図』の場合は部分の練習はたくさんやってるし、構図の工夫もいろいろしているが、原寸大の下絵はおそらく描かなかったであろうし、描く必要がなかったことは原作を見ればよくわかる。
肖像画では『ジネブラ・ディ・ベンチ』については美しい手の素描が残っているが、『モナ・リザ』については、関係のありそうな素描は一枚も発見されていない。
完全なぶっつけ本番で会ったと私は思う。 モーツァルトやダ・ヴィンチだけでキミの感性は簡潔してしまっているな
そんな事では「常識人」からは抜け出せないゾウ? 『三王礼拝図』は、同心円形という構図の基本線だけは決まっていたが、細かい点は決めないままで描き始めている。
影の部分を暗く塗っているうちに、混沌の中からあるイメージが形をなしてくる。するとそれを描き込む、とでもいった要領で細部に描き進んでいるように思える。
既に描き上げた部分も、他の部分をひとまわりしてきたあとで、何度も訂正されたであろう。浮動的な部分をまだ多く残した段階にある絵で、下絵として決して完成しているわけではない。
レオナルドの構図に対する要求が非常に高い水準にあったことは、『晩餐』や『聖アンナ』を見ればわかるとおりであるが、『三王礼拝図』のこれだけ多くの登場人物を『晩餐』の程度の完璧な構図にまとめ上げることは、さすがの彼にとっても容易なわざではなかったであろう。
この絵はいつまで見ていても、人物がいくらでも新しく見えてくる不思議な絵であるが、その大ぜいの人物の組み合わせにはまだまだいたるところに混乱がある。
遠景の奔躍する馬や人の群れなどは画家の遊びのようにさえ思える。 此処で、レオナルドに於ける【完成】について触れなければなるまい。
まず確認しておかなければならないのは、レオナルドにとっては、「絵画は色のある素描ではない」ということだ。
レオナルドがほとんどすべての作品を未完成の状態で残したのは、不幸な偶然の積み重なりと素直に解釈するのが正しく、全体に共通する一貫した意味はないと私は考える。
未完成画のひとつひとつがそれぞれ別の理由で未完成に残されたのである。
言い換えれば、レオナルドの未完成作品は製作の途中で終わっている作品であって、あの段階で終わることを始めから意図して作られた作品ではない。
しかし、ひじょうに良い調子が出ているので、あのままでも芸術品としてじゅうぶん鑑賞に耐えるというにすぎない。『モナ・リザ』とてこの範疇にある絵画であることは忘れてはならない。
幾多の美術批評家たちの戯言は無視するとして、レオナルドに於ける完成の一例として、たとえば『モナ・リザ』の【右手(腕ではない)】を私はあげよう。
ここに私はレオナルドのスフマートの神技を見る。
しかし、このアルティザン的な絶技はそれを駆使する芸術家としての彼の精神があってはじめて生かされるのであって、レオナルドにおける完成は断じて職人仕事ではない。 まあダ・ヴィンチ作品はパソコンの壁紙に使ってるけどさ
ロック画面はボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」だけどな ヴェッキオ宮殿の大壁面にはレオナルドの『アンギアーリの戦い』とミケランジェロの『カッシーナの戦い』が対峙するはずであったのは有名な史実である。
もしこの二大壁画が完成していたら、チンクェチェントオ広間はルネサンスの記念碑的大広間となり、空前絶後の壮観を呈する至宝の空間となるはずであった。
そこにはウィンザー城やヴェネツィアのアッカデーミアに現存する素描下絵に片鱗が伺われるような、戦塵を巻き上げて激突する人馬の群れが転々と配置されるはずであった。
ルーベンスの模写に残る軍旗を奪い合う乱闘場面、ブタペスト美術館の怒号する戦士の顔が脳裏に去来する。
これこそ、真にレオナルドの名に値する宇宙的雄作になるはずであった。『アンギアーリの戦い』が完成しなかったことによって、ルネサンスは最大の遺産を失った。まさに人類史な痛恨事と言わなければならない。
『モナ・リザ』の画家レオナルドは東洋的静謐の画家と見なされているが、それは正しくない。疾風・激突・叫喚こそ彼が生涯追及して止まなかったモチーフであった。
前にも述べたように、それまで最も静かな画題であった『晩餐』を彼は激動場面としてとらえている。
スフォルツァの騎馬像も彼は後脚で躍り上がる構図を考えていた。これは技術的な理由で、結局普通の騎馬像型に落ち着くが、彼にしてみれば不本意な妥協であっただろう。
七メートルに余る巨大な騎馬像を後脚だけで支えることがもし構造力学上可能だったならば、彼は当初のままの構図を選んだに違いない(後年、馬の下で腕を伸ばし馬の腹に手をあてる戦士のインスピレーションを得て、この構造力学上の問題は解決する)。 レオナルドはなぜ『アンギアーリの戦い』の壁画を完成しなかったのであろうか。
乾燥に失敗して絵の具が流れてしまったためとも言われ、下地が不適当であったために絵の具が壁に馴染まず、剥落してしまったためとも言われる。真相は不明である。
が、私は、マドリッド手稿に彼自身が書き残している1505年7月15日の嵐によるカルトーネの冠水という事件を重視する。
冠水によるカルトーネの破壊は、彼の精神にとって、一種の転機をなす事件ではなかったかと想像されてならない。
これは全くの想像にすぎないが、彼には、自分のカルトーネが急にみにくいものに見え始めたのではないだろうか?
大自然の暴威の前に、戦争画というものが、いかにも児戯に類する絵空事に見えてきて、いわば目の前の塵の落ちたような心境だったのではないだろうか。
『アンギアーリの戦い』は、もう精魂を打ち込むに値する対象ではなくなってしまったのであろう。
剥落であれなんであれ、仕事を放擲する口実にさえなればなんでもよい、要するに早く縁を切って次の仕事にかかりたい心境になってしまったのではないかと私は想像する。 『イザベラ・デステの素描』がルーブルにある。
この素描を眺めながら、額から鼻筋、くちびる、おとがいから喉へと、レオナルドの正確きわまりない描線のあとを静かに眼で追っていくのが私のお気に入りの楽しみのひとつである。
イザベラがあれだけ熱を上げていたのに、レオナルドのほうは彼女を全く無視していたと見る人もいるが、そうではあるまい。
レオナルドほどの芸術家がこれほどの女性に心を動かさないはずがない。イザベラのあまりにも性急な懇望に応じきれなかったというだけで、彼は彼なりのペースで悠々と彼女を反芻咀嚼しながら肖像画の構想を練っていたのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています