音楽を聴くという事2
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>>179
やはり田舎町暮らしでしたか。
「蛾」や「小バエ」なんで子供の頃は見ましたが、それ以来自宅近辺では見たことないですね。ハエもありません。
「蝶」や「赤とんぼ」は毎年よく見ますが。 >>197
被害妄想が尋常ではありませんね。
「人の心なんで分からない」
これ常識です。
人は信頼出来るところと信頼出来ないところが混在し常に変化している。
これも常識。
バリアなどはりめぐらす必要はない。
利用されていると判断すれば受け流し、そうでなければ(この判断は阿呆でなければ可能)「自分ならこうするがするしないは君の問題、私の問題ではない」と返答する。
神になんかなる必要はない。 都会のほうがカッコイイ、田舎はダサい
それって、キミを奴隷にしてる者が決めた法律かな? 「常識」は、奴隷にとっては絶対に破る事の出来ない法律だよね キミ達奴隷は、君主が決めた法律を厳守しないとな
「どこかの誰かの都合」という、キミ達の絶対的な君主が決めた法律を守る事こそが、キミ達奴隷の喜びであり、正義なのだから ここでは馬の耳に念仏だじょ〜♪
ね、『聞き神』君♪ 先程、自宅の敷地付近で「犬の糞」が、こんばんは〜、と喋りかけてきやがったから、耳を塞いでガン無視してやった
皇帝に話しかけていいのは、俺の人生における「重要アイテム」だけだという事を、これからも厳しく分からせていかないとな
世の中に蔓延る、犬の糞どもに 今日は新しいクッションソファを手に入れたよ
良い音楽は、良いクッションから、だね >>203
198 199
だが、「その常識」は、【私の常識】であって「世間の常識」ではない。
私はフリーランスであるから「したくない事はしない。したい事だけする」。
お前さん、心にそうとう深い傷を負っているね。逃げの行き着いた先が『神』となり、辛うじて心の安定を保っている。
同情はするが、自然の結末。
なんと言おうと、私の目は誤魔化せない。
なんとも悲惨な人生だな。 耳を塞ぐ。
ムンクの「叫び」か。
いずれにせよ、私への制裁はできない。
君のような敗者には。 「お酒はぬるめの 癇がいい ♪
肴はあぶった イカでいい ♪
女はむくちな 人がいい ♪
灯りはぼんやり 灯りゃいい ♪
しみじみ飲めば しみじみと♪
想い出だけが 行き過ぎる ♪
涙がポロリと こぼれたら ♪
歌いだすのさ 舟歌を ♪」
18歳の石川さゆりの津軽海峡冬景色(日本コロムビア)に比して、ポニーキャニオン移籍(35歳)の再録も最近の石川さゆりの津軽海峡冬景色も無残だが
不思議に八代亜紀の舟歌はもう70歳前後だというのに味がありますねぇ。
声の質の問題だけではなさそうに思う。
小林幸子のおもいで酒ともども、たまには演歌もよいものだ。
ソフトはすべてシングル45回転レコード。
声と弦はアナログレコード、ピアノと大編成オーケストラ曲は(SA)CDと決めている。 ダ・ヴィンチやモーツァルトは人類史上における天才の中の天才である(自然科学の分野ならボーアやアインシュタインに匹敵する)。
しかし、ダ・ヴィンチの人生は就活のための放浪そのものであり、芸術作品に取り組めた時間とエネルギーは1/10にも満たなかった。
同様にモーツァルトの人生も就活のための放浪そのものであり、600曲にあまる作品の90%は貴族や富裕層からの注目に応えた作品であった。
結婚するまでは父レオポルドに支配され、結婚後はコンスタンツェの浪費癖に悩まされ続けた。
そして極貧の中で斃れる。
二人とも、「時代」と所謂「世の中」に翻弄された人生を生きた。
我々凡人と決定的に異なるのは、時代と世の中に翻弄されながらも人類史に残る作品を遺したことにある。
世の中を超然と生きているらしい「自称神→音狂い」は、天才であるというのは嘘で、「俺が俺がの、女性に生理的に避けられる」頑固親爺にすぎない。 やまいだれが回ってるのか
注文ではなく注目なんだわさ ふー、本日はベートーヴェンと向き合っている
彼と俺はとても似ている
違うのは、彼は死後に神となり、私は生きたまま神となったという事だな
死後、神となった者は、キリストを始めとして、案外多いが、生きたまま神となった者は、人類史上、私だけだよ 今日も凡人の嫉妬が激しいな
生きたまま神となった俺がそんなに許せないのカネ? >>211
キミのような「常識人」では神を理解する事などは永遠に不可能だな ムンクは結構好きな画家だよ
彼の作品は、今ちょうどスマホの壁紙にしてる
もう一台のほうはマグリット
絵画は音楽と同じくらい、私の人生にとっては「重要アイテム」だな うーん、昨日買った新しいクッションソファが心地よい
音楽が捗るな レオナルドの手がけたいくつかの記念碑的作品は、ほとんどが悲劇的な運命をたどっている。
『晩餐』は完膚なきまでに手を入れられてしまったし、『騎馬像』はついに青銅に鋳られる機会を得ず、粘土の原型のまま土に帰ってしまったし、『アンギアーリの戦い』は形をなす前に彼自身が仕事を投げ出してしまっている。
唯一の例外がウフィツィ美術館の『三王礼拝図』で、未完成ではあるが、完好の保存状態で残っていることを私どもはせめてもの慰めとしなければならない。 厳然として圧倒してくるこの絵の威容をなんと表現したらよいであろうか。
私はこの絵に対比させ得るものは法隆寺金堂の壁画以外にないと思っている。
逆に法隆寺金堂の壁画に対比させえるものもレオナルドの『三王礼拝図』以外にはない。
これらふたつの絵に共通するものは「玲瓏透徹にして翳りなし」とでもいった印象であろうか。
世の中には暗くて不明瞭であることによって神秘感をかもし出しているものがいろいろある。東洋の仏画の神秘感はだいたいそれで、法隆寺金堂の壁画はきわめて顕著な例外ということができよう。
法隆寺金堂の壁画にも『三王礼拝図』にも隠微なところは全くない。
すみずみまで明瞭である。しかも、峻烈きわまる高さがあり、すさまじい威圧がある。
若き天才の緊張した精神そのものの顕現とでもいえよう。 「女性に生理的に避けられる」
これを犯罪と決めたのは、キミの君主かな?
私の国では、逆に「栄誉」とされているよ
女性に「キモい」と言わせられれば勲章ものだな ダ・ヴィンチだけじゃなく、もっと色々な絵画も見ないとな
逃げちゃダメだ やや緑を含む鳶色の地塗りの上に濃い紫で下書きの素描をし、ハイライトを白で描き起こしている。鳶色と紫のコントラストがなんともいえず効果的で、絵全体が鳶色に輝いているように見える。
法隆寺金堂の壁画のようだと書いたが、このふたつの絵は線の質に関する限りまるで違う。
法隆寺の壁画の線は太さの変化のない、きわめて図式的、説明的な線である。
『三王礼拝図』の線は筆がかすれるのを物ともせずにぐいぐいと引きまくった実に豪快な線である。妙心寺竜泉庵の長谷川等伯若描きの『枯木猿喉図』、あの線がまさにレオナルドの線である。 やや緑を含む鳶色の地塗りの上に濃い紫で下書きの素描をし、ハイライトを白で描き起こしている。鳶色と紫のコントラストがなんともいえず効果的で、絵全体が鳶色に輝いているように見える。
法隆寺金堂の壁画のようだと書いたが、このふたつの絵は線の質に関する限りまるで違う。
法隆寺の壁画の線は太さの変化のない、きわめて図式的、説明的な線である。
『三王礼拝図』の線は筆がかすれるのを物ともせずにぐいぐいと引きまくった実に豪快な線である。妙心寺竜泉庵の長谷川等伯若描きの『枯木猿喉図』、あの線がまさにレオナルドの線である。 レオナルドについては遅筆、逡巡ということがいつも言われるが、実は彼はルネサンスきってのクロッキーの名手であり、形を取ることが素敵にうまい男なのだ。
その頃の画家が大きな絵を描くときには、まず原寸大の完全な下絵を作り、それを板、あるいは壁の上に重ねて、下絵の輪郭に沿って針でちくちく刺していったり、錐の先でぎーっと力を入れてなぞったりして下絵の輪郭を板や壁に移し、後は塗り絵のようにそれぞれの部分をそれぞれの色で塗りつぶして仕上げてゆくのが常法であった。
しかし、レオナルドはごく初期の絵を除いてこの方法を使っていない。彼は原寸大の下絵というものをほとんど作ってないし、『聖アンナ』のように、原寸大の下絵を描いたと思われる場合にも、それを板に移す時にはもういちどフリーハンドで描いている。
『三王礼拝図』の場合は部分の練習はたくさんやってるし、構図の工夫もいろいろしているが、原寸大の下絵はおそらく描かなかったであろうし、描く必要がなかったことは原作を見ればよくわかる。
肖像画では『ジネブラ・ディ・ベンチ』については美しい手の素描が残っているが、『モナ・リザ』については、関係のありそうな素描は一枚も発見されていない。
完全なぶっつけ本番で会ったと私は思う。 モーツァルトやダ・ヴィンチだけでキミの感性は簡潔してしまっているな
そんな事では「常識人」からは抜け出せないゾウ? 『三王礼拝図』は、同心円形という構図の基本線だけは決まっていたが、細かい点は決めないままで描き始めている。
影の部分を暗く塗っているうちに、混沌の中からあるイメージが形をなしてくる。するとそれを描き込む、とでもいった要領で細部に描き進んでいるように思える。
既に描き上げた部分も、他の部分をひとまわりしてきたあとで、何度も訂正されたであろう。浮動的な部分をまだ多く残した段階にある絵で、下絵として決して完成しているわけではない。
レオナルドの構図に対する要求が非常に高い水準にあったことは、『晩餐』や『聖アンナ』を見ればわかるとおりであるが、『三王礼拝図』のこれだけ多くの登場人物を『晩餐』の程度の完璧な構図にまとめ上げることは、さすがの彼にとっても容易なわざではなかったであろう。
この絵はいつまで見ていても、人物がいくらでも新しく見えてくる不思議な絵であるが、その大ぜいの人物の組み合わせにはまだまだいたるところに混乱がある。
遠景の奔躍する馬や人の群れなどは画家の遊びのようにさえ思える。 此処で、レオナルドに於ける【完成】について触れなければなるまい。
まず確認しておかなければならないのは、レオナルドにとっては、「絵画は色のある素描ではない」ということだ。
レオナルドがほとんどすべての作品を未完成の状態で残したのは、不幸な偶然の積み重なりと素直に解釈するのが正しく、全体に共通する一貫した意味はないと私は考える。
未完成画のひとつひとつがそれぞれ別の理由で未完成に残されたのである。
言い換えれば、レオナルドの未完成作品は製作の途中で終わっている作品であって、あの段階で終わることを始めから意図して作られた作品ではない。
しかし、ひじょうに良い調子が出ているので、あのままでも芸術品としてじゅうぶん鑑賞に耐えるというにすぎない。『モナ・リザ』とてこの範疇にある絵画であることは忘れてはならない。
幾多の美術批評家たちの戯言は無視するとして、レオナルドに於ける完成の一例として、たとえば『モナ・リザ』の【右手(腕ではない)】を私はあげよう。
ここに私はレオナルドのスフマートの神技を見る。
しかし、このアルティザン的な絶技はそれを駆使する芸術家としての彼の精神があってはじめて生かされるのであって、レオナルドにおける完成は断じて職人仕事ではない。 まあダ・ヴィンチ作品はパソコンの壁紙に使ってるけどさ
ロック画面はボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」だけどな ヴェッキオ宮殿の大壁面にはレオナルドの『アンギアーリの戦い』とミケランジェロの『カッシーナの戦い』が対峙するはずであったのは有名な史実である。
もしこの二大壁画が完成していたら、チンクェチェントオ広間はルネサンスの記念碑的大広間となり、空前絶後の壮観を呈する至宝の空間となるはずであった。
そこにはウィンザー城やヴェネツィアのアッカデーミアに現存する素描下絵に片鱗が伺われるような、戦塵を巻き上げて激突する人馬の群れが転々と配置されるはずであった。
ルーベンスの模写に残る軍旗を奪い合う乱闘場面、ブタペスト美術館の怒号する戦士の顔が脳裏に去来する。
これこそ、真にレオナルドの名に値する宇宙的雄作になるはずであった。『アンギアーリの戦い』が完成しなかったことによって、ルネサンスは最大の遺産を失った。まさに人類史な痛恨事と言わなければならない。
『モナ・リザ』の画家レオナルドは東洋的静謐の画家と見なされているが、それは正しくない。疾風・激突・叫喚こそ彼が生涯追及して止まなかったモチーフであった。
前にも述べたように、それまで最も静かな画題であった『晩餐』を彼は激動場面としてとらえている。
スフォルツァの騎馬像も彼は後脚で躍り上がる構図を考えていた。これは技術的な理由で、結局普通の騎馬像型に落ち着くが、彼にしてみれば不本意な妥協であっただろう。
七メートルに余る巨大な騎馬像を後脚だけで支えることがもし構造力学上可能だったならば、彼は当初のままの構図を選んだに違いない(後年、馬の下で腕を伸ばし馬の腹に手をあてる戦士のインスピレーションを得て、この構造力学上の問題は解決する)。 レオナルドはなぜ『アンギアーリの戦い』の壁画を完成しなかったのであろうか。
乾燥に失敗して絵の具が流れてしまったためとも言われ、下地が不適当であったために絵の具が壁に馴染まず、剥落してしまったためとも言われる。真相は不明である。
が、私は、マドリッド手稿に彼自身が書き残している1505年7月15日の嵐によるカルトーネの冠水という事件を重視する。
冠水によるカルトーネの破壊は、彼の精神にとって、一種の転機をなす事件ではなかったかと想像されてならない。
これは全くの想像にすぎないが、彼には、自分のカルトーネが急にみにくいものに見え始めたのではないだろうか?
大自然の暴威の前に、戦争画というものが、いかにも児戯に類する絵空事に見えてきて、いわば目の前の塵の落ちたような心境だったのではないだろうか。
『アンギアーリの戦い』は、もう精魂を打ち込むに値する対象ではなくなってしまったのであろう。
剥落であれなんであれ、仕事を放擲する口実にさえなればなんでもよい、要するに早く縁を切って次の仕事にかかりたい心境になってしまったのではないかと私は想像する。 『イザベラ・デステの素描』がルーブルにある。
この素描を眺めながら、額から鼻筋、くちびる、おとがいから喉へと、レオナルドの正確きわまりない描線のあとを静かに眼で追っていくのが私のお気に入りの楽しみのひとつである。
イザベラがあれだけ熱を上げていたのに、レオナルドのほうは彼女を全く無視していたと見る人もいるが、そうではあるまい。
レオナルドほどの芸術家がこれほどの女性に心を動かさないはずがない。イザベラのあまりにも性急な懇望に応じきれなかったというだけで、彼は彼なりのペースで悠々と彼女を反芻咀嚼しながら肖像画の構想を練っていたのである。 しかし、レオナルドはついにイザベラの肖像画を描かなかったではないかと言う人があるかもしれないが、そうではない。彼はイザベラを油絵にしているのである。
ルーブルの『聖アンナ』の聖母はまさにイザベラその人ではないか。理想化されているとはいえ、おでこな額、やや上を向いた鼻筋、いたずらっぽい眼つき、抑揚のある薄いくちびる、あごから喉にかけてのおもむきなど、あの聖母こそイザベラである。
一歩ゆずるとしても、イザベラとモナ・リザとの間に生まれた庶子である。
レオナルドといえども、イザベラなしであの聖母を創造し得たとは私には思えない。 『聖母アンナ』
はじめに、この絵は全く未完成な段階にあるということを確認しておかなければならない。
レオナルドの作品中いちばん完成度が低いのは『三王礼拝図』で、これは全体の布局さえもまだ完全には決まっていない。
登場人物はもっと増えるかもしれないし、減るかもしれない。背景の騎馬戦などはたぶんある段階で消え去るべきモチーフであろう。もちろん彩色は全くない。
『三王礼拝図』よりももう少し先まで描き進んだのが『聖ジロラーモ』である。この絵は、モノクロームの下書きが終わり、背景の一部や聖者の顔(私にはレオナルドが毎夜解剖していた死体の顔に見える)にわずかに彩色を始めたところで終わっている。
それよりもさらに進んでいるのが『聖アンナ』で、画面全体に簡単な彩色をして、色の調子が整ったところで終わっている。聖母の顔はおおよそ完成とか言う人がいるが、そうではない。
聖母の顔には額、あごの先、頬骨の上に白でハイライトまで入れてあるが、それは調子を見るためのもので、最終的なものではない。
この絵が完成からほど遠い状態にあることは、写真や複製でもわかる。キリストの向かって左側の輪郭線が、聖母の右手を境にして、上下で十五センチも食い違っている。たぶん、下半身が古い線であろう。
描き進むにしたがって、キリストの上半身は位置や大きさを修正されて現在のように変わった。修正が下半身まで波及しなかったのは、さすがの彼も、仔羊のできばえに未練があって、その辺はいじりたくなかったかので、あとまわしになったのであろう。 レオナルドが、完成という言葉でどの程度の状態を考えているかは『モナ・リザ』を見るとよくわかる。
『モナ・リザ』ももちろん完成した絵ではない。著名な識者は「専門家が辛うじて指摘し得る程度の未完成」などと言っているが暴論もはなはだしい。
左手が未完成であることは誰が見ても一目瞭然である。他にも、たとえば左肩から胸にかけてかかっているものが、現状では、たぐまった布よりも、むしろ籠の鉉か何かのように見える。
こんな不得要領なもの(例をあげればきりがない)を含む状態で完成画とはとてもいえない。
しかし、たとえば右手(腕ではない)などは彼自身もほぼ完成と考えていたのではないだろうか。
私は『モナ・リザ』の実物を見て、レオナルドのスフマートの絶技にあらためて舌をまくと同時に、私どもの持っている複製技術、写真とか印刷とかいうものがいかに幼稚な段階にあるかをしみじみ考えさせられた。
現在の複製技術にとって、レオナルドを伝えることは全く力に余る。最近の『モナ・リザ』の複製を見ると、亀裂がひとつひとつ鮮明に映っていて、いかにも本物そっくりでありそうに見えるが、たとえば右手の微妙な凹凸感、透明な肌に透けて見える血管に流れる血液の温もりなどは全部飛んでしまっている。
複製でのっぺらぼうな『モナ・リザ』ばかり見ていると、いつかそれがほんとうの『モナ・リザ』でもあるかのように思えてきてしまうだろう。
それを避けるには、実物の直接鑑賞しかないのであるが、私自身は「8Kカメラで撮影した8K画像」に期待している。
4K画像を遙かに上回る(まさに窓である)現在所有している「パイオニアPDP-5000EX」画像を凌駕するとしたら「8Kカメラで撮影した8K画像」しかないだろうから。 1501年のカルトーネは結局油絵にはならなかった。構想が更に大きく変わり、キリストの受難を象徴する仔羊が洗礼者ヨハネで置き換えられる。この段階を示すのがロンドンのカルトーネである。
結果的には、ロンドンのカルトーネはいわば寄り道となる。
『聖アンナ』は三位一体画とも呼ばれ、祖母と母と子で三位一体を象徴する神学的意味を持つ画題である。単なる聖家族の絵ではない。
したがって、受難を象徴する仔羊があってはじめて神学的な意味における構図が完成されるのである。
しかし、この寄り道をすることによって彼の構想は最終的にふっきれたように思う。ロンドンのカルトーネのキリストの位置まで聖母が前にかがみ、ヨハネの位置までキリストが移動したのがルーブルの絵の構図である。
レオナルドが、幻想の中で、ロンドンのカルトーネの背後にルーブルの絵の構図を認めたのであろうと、私は思う。
ルーブルの『聖アンナ』を彼は死の直前まで手がけていた。彼はこの絵を楽しんでいたように思える。この絵にかかっているときが彼にとっていちばん自分の時間ではなかったかという気さえする。
暇さえあればこの絵に帰ってくるのが彼の最晩年の生活だったように思う。
聖母の足もとの小石がひとつふたつかなり念入りに仕上げてある。小石の変に硬い感じが実に良く描けている。
しかし、この調子で全体を仕上げるとしたら、一体いつでき上がるつもりだったのだろうかと苦笑を禁じ得ない。
時間など完全に超越してしまって、こつこつ仕事をしていたのであろう。ハイゼンベルク教授がいつ完成するともしれない統一場の計算をこつこつと進めていた様に似ている。 キミはもっと、「アートステージ 画家たちの美の饗宴」を見るべきだな
TOKYO MXテレビでやってるよ
勿論、俺も毎週欠かさず見ている あとは、BSイレブンでやってる、「フランス人がときめいた日本の美術館」だな
これも中々面白い、オススメ 背景の山水にはウフィツィの『聖告』の背景以来の伝統がある。突兀たる奇岩の重畳は『聖ジロラーモ』や『岩窟の聖母』でいちど中景から前景にまで押し出してくる。『晩餐』では室内から窓越しに見えている。『アンギアーリの戦い』もおそらくこのような風景の中で戦われるはずだったであろう。
『モナ・リザ』で再び遠景として扱われる。『聖アンナ』の背景はその到達点であり、完成である。
ドロミーテン・アルプスを連想させる急峻な山々が奥へ奥へと重なりながら、どこまでも深まってゆくおもむきは無類である。これほど画格の高い絵は、『雪舟の山水図』意外には無い。
レオナルドの『聖アンナの背景』には水墨画の山水にはないふしぎな光がある。輝きがある。
この光と考えて輝きというのは、三王礼拝図』以来レオナルドの絵に固有のもので、おそらく色の対比と、それから逆光をじょうずに使うことによって生み出すのであろうが、画中の空間が光を含んでいるような感じがするのである。
彼は大気を輝きとしてとらえ、それを表現することに成功している。 『聖アンナ』の聖母は、絵画史上にに創造された最高の個性のひとつだろう。
識者はモナリザ以降彼の絵にあらわれる新しい女性類型などと訳のわからぬ解説をするが、とんでもない。
この聖母は、前にも書いた通り、『イザベラの理想形』である。
「何ごとにも動じない、落ち着いた、ものごとを悪戯っぽく眺めている愛想のよい女性」というブルクハルトの言葉は、この聖母にこそぴったりあてはまる。
私の娘に言わせると、「お手玉のじょうずそうな」聖母である。
よく発育したしなやかな体軀は成熟した女性美の典型である。考えぬかれたポーズによって、ピンクの着衣に空色のマントという図象学上の約束が最高の絵画的効果を生んでいる。
この聖母に理知的なアンナを対比させる構想は、ロンドンのカルトーネのものをそのまま踏襲している。
この絵が完成にはほど遠いことは、聖母の右腋下から腰の上部にかけて盛り上がっている衣服のたぐまりも気になるし、この襞は即物的合理性を欠いている。
ぼかしの技術も拙劣である。
この聖母は、母親ディオーネの膝に身を横たえて「神々の安逸」にひたっているアフロディーテの分身である。レオナルドは、アペルレスかポリグノートスでも描きそうな絵を描いて了ったのである。
『聖アンナ』の全体的印象をひと言であらわすとしたら、俳諧がある。
人生の黄昏に臨む大天才の枯れに枯れきった全人格を彷彿させるような絵である。良く費やされた人生は老後に飄々とした一種の境地をもたらすもののようである。
アインシュタインやハイゼンベルクとか、そのいかにも蝉脱した人柄は充実した人生の年輪のようなものを感じる。
『聖アンナ』の印象はまさに彼らの印象に通じるのである。 なんだ、美術好きにはお馴染みの番組すら見てないのか
どうりで感性が狭いわけだな 『聖アンナ』の背景の山岳風景に流れる音楽はモーツァルトの『クラリネット協奏曲 K.622 2楽章』しかないと、これまでもたびたび書いてきた。
モーツァルトのお気に入りの数曲と同様に、私はこの絵に完全に満足してしまったらしい。
美に対する私の要求は
・『聖アンナ』
・モーツァルトの『K.622 2mov.』『K.620』『K.595』『K.488 2mov.』『K.466』『K.482 3mov.』『K.183 1mov.』『K.136 2mov.』『K.626(ラクリモーサまで)』
で、完全に充足されている。 キミの感性は、モーツァルトとダ・ヴィンチだけで完結してしまっているんだよ
そんな事では神には近付けないゾウ? レオナルドとほぼ同時代の日本の水墨画家である『雪舟』の
・『紙本墨画秋冬山水図』2幅、各47.7cm ×30.2cm(東京国立博物館)
→特に冬山水図
・『四季山水図巻(山水長巻)』1巻、縦39.7cm×横1592.0cm(毛利博物館、文明18年(1486年))
こそ、レオナルドの『聖アンナ(ルーブル美術館)』『モナ・リザの右手(ルーブル美術館)』『聖ヨハネ(ルーブル美術館)』『アンギアーリの戦い(存在せず)』『完成直後の最後の晩餐(修復され原作は想像するしかない)』に 匹敵する、強靭な精神が描いた人類の至宝である。 「私にとって、飛翔の研究はきっと宿命なのであろう」と言って、幼少の頃、鳶の夢を見た話を彼は手記の中に書いている。
腹這いになった人が両足を揃えて屈伸して翼をはばたかせる絵が有名だが、彼が最後まではばたき飛行機に固執してついに凧型飛行機(現代の飛行機)を思いつかなかった点で彼を責める人がいるが、彼ははばたきの原理自体を理解していなかったようである。
彼のはばたき飛行機は、はばたきによって空気を下へ押さえつけて飛ぼうとするものである。
レオナルドの飛行の原理を図式化すると、落下傘の下へ長い綱を下げて、落下傘の下降速度よりも速い速さでその綱を手操って空へ昇っていこうとするのと同じである。
はばたきによって空気を下に押さえつけるには、翼が下がるときだけ空気を押さえ、翼が上がるときには空気を逃がすようになってなくてはならない。
彼は、小さな弁の集まりのような翼を考えたりしていろいろ工夫しているが、おそらくうまくいかなかったのではないだろうか。
彼はずいぶん鳥を観察しているのだから、鳥は決してそんな飛び方をしてはいないことに気づいてもよかったと思うのだが、彼には翼に働く『揚力』という現象が最後まで掴めなかったようである。 鳥がレオナルドの考えたような飛び方をする機会は一回だけある。
それは着地の瞬間で、鳥は一瞬空中に停止し、水平よりもかなり上向きの姿勢になって、翼を水平面内でぱたぱたと振る。
その時、翼の面はおおよそ垂直であるから、この翼の使い方は、お寿司の御飯をあおぐときの団扇の使い方と同じである。
空気を下へ押さえつけるために翼は水平面内でぱたぱたと振られる。上下にはばたかれるのではない。鳥が翼を上下にはばたきながら、しかもレオナルドの想像したような原理で飛ぶ機会は一度もない。 日本画といえば、やはり版画を使った浮世絵だな
歌川広重とか素晴らしい 鳥は前進しながら翼をはばたくのであるから、翼は正弦曲線の軌道に沿う運動をする。
その間、翼は常にこの正弦曲線に接する向きに保たれる。従って、はばたきは前進の為の推力だけを生むのである。
鳥の重量を支える『揚力』は、鳥が空気中を前進すること自身によって自動的に得られる。
飛行機と違って翼は固定されてないから、翼の空気に対する相対的な運動の向きは鳥の前進の方向と同じではないし、また、たえず変化する。
『揚力』はいつでも翼の空気に対する相対運動の向きに垂直に働くから、細かく議論すればかなり複雑な説明が必要になるが、大局的には飛行機が『揚力』を得るメカニズムと同じである。 つまり、鳥と凧型飛行機との間に原理的な相違はない。推力を生む方法だけが異なるのである。
はばたきによって推進を生む方法は全く合理的で、プロペラに比べて少しも劣るものではない。現に、それがきわめて効率の高い推進法であることは、渡り鳥の長大な飛行距離が示すとおりである。
もちろん機械として見れば往復運動よりも回転運動のほうが優れているが、流体力学的な点に関しては、はばたき式推進法に不都合な点は全くない。
したがって、レオナルドがはばたき飛行機に固執したことは、それ自身では少しも間違いではない。彼がはばたきの機能を正しく理解していなかったのが欠点なのである。
しかし、その点でレオナルドを責めるのは酷であろう。現代の自然科学者でも、はたして何パーセントが鳥の飛行の原理を正しく理解しているであろうか。
物事を正しく見るということは、どんな場合にも、大変むずかしいことなのである。
鳥類の生態観察でひとつの学問分野をひらいたニコ・ティンベルヘンでさえ、飛翔のメカニックについてはレオナルドと同じ誤りをおかしているのである。 人間機械論という言葉を、私ども現代人は、人間といえども自然法則の支配下にあるひとつの自然現象にすぎない、というきわめて広い意味に解釈するのが正しい。
もちろん、厳密にいえば、人間を自然現象と見るのはひとつの作業仮説にすぎないが、現実の問題として他に考えようがないのだから、我々はそれを自明のこととして受け取っている。
人間がひとつの自然現象であるというのは、超自然的な影響力の支配下にはないということでもある。いいかえると、物質的な因果関係によって記述し尽くすことができるということにもなる。
物質的な因果関係を追求するためには、まず人体の構造を知らなくてはならない。
生命現象は本質的には化学変化なのであるから、屍体を解剖して内部構造を明らかにするだけでは、試験管の形を見て中の薬品を当てようとするようなもので、生命現象のいちばん大切な部分は解らないわけであるが、まず解剖によって内部構造を明らかにするのがアプローチの第一歩であるのはいうまでもない。
ここからが本題になるのだが、ヨーロッパ人の考え方の大きな特徴のひとつは動物と人間との間に明確な一線を引きたがることである。
ダーウィンの進化論が白人の世界では猛烈な排斥を受けるのだが、日本には殆ど抵抗らしい抵抗を受けること無しに入ってはきている。
それはダーヴィニズムに対抗するはずのカトリシズムが日本にはなかったからだという説明では説明にならない。
ダーヴィニズムを排斥する精神がすなわちカトリシズムを生む精神であり、それが西欧化に特徴的な、人間と動物との間に一線を隔したがる精神なのである。 遅漏だな、キミは
そんなんでは女性に嫌がられるゾウ? 音狂いよ、イント何チャラという受け売り妄想の変なおじさんを、お前の神の力でさっさと追い出してくれよ。 追い出すまでもない
自分の言語を持たぬ者など、我が国では「子犬」と同じさ
自分の言葉で語らぬ限りは、ワンワンと吠えてる子犬と同じだよ
子犬はしっかりと躾てやればよい
まずは、遅漏から治していかないとな なるほどな、神らしい言葉だな。はじめて感心したわ。 我が国では、動物愛護の精神は強いからね
国に迷い込んできた動物は、外来種としてすぐに処分するのではなく、まずは可愛がり、躾けるようにしている
この子犬は、中々の「珍種」みたいだからね
俺は珍しいモノが好きなんだよ この子犬には、まずは幅広い音楽、そして絵画に触れ合ってもらう事から躾けよう
モーツァルトとダ・ヴィンチだけで終了してしまっている狭い感性から抜け出すには、間口が広い入り口から入るのがいいね
やはり、TOXYO MXでやっている「アートステー 画家たちの美の饗宴」や、BSイレブンでやってる「フランス人がときめいた日本の美術館」あたりのマイルドな玄関口から入るのがいいかもしれないな
共に土日の朝に放送している
まあ、「日曜美術館」あたりは、感性の狭い子犬くんでもさすがに毎週見てるとは思うので、敢えて言わないが 音楽番組の入りやすい玄関口ならば、「音楽交差点」や「エンターテイメントミュージック」、あとは「題名のない音楽会」あたりかな
これまた、土日の朝だけで事足りる
まあ、毎朝の「クラシック倶楽部」や、「クラシック音楽館」、「プレミアムシアター」は言うまでもない まあ、素人はそこら辺から入るのがオススメだね
芸術を愛すべき者ならば、常にアンテナを張っていないとな
思わぬところに「宝」は隠されているものだよ
同じ「洞窟」ばかりを探していても、既に開けられた宝箱しか見つからないぜ? まあ、テレビは嫌いではないね
ラジオもいいが、ラジオとなると絵画関係は無理だし、音楽関係も、音源の垂れ流しだからな、結局は
まあ、素人は、やはりテレビから入るのがオススメだな
芸術の神からのアドバイス 芸術関係以外でもテレビは結構見るよ
俺がリマインダーに登録してる、その他のテレビ番組一覧を載せていってあげよう
・かながわ旬彩ナビ
・哀愁の街角ラーメン
・ストーリーズ
・至福の京都ふらり散歩
・ザ・ノンフィクション
・渡辺篤史の建もの探訪
・激録・警察密着24時
・奇跡のレッスン
・ひとモノガタリ
・週末ハッピーライフ!お江戸に恋して
・早川光の最高に旨い寿司
・こころの時代〜宗教・人生
・伯山カレンの反省だ!!
・列島警察捜査網THE追跡
・イッピン
・トラブルSOS サギ師vs弁護士
・家、ついて行ってイイですか?
・ノーナレ
・町中華で飲ろうぜ(女性編のみ) ・プロフェッショナル仕事の流儀
・ドキュメント72時間
・大改造!!劇的ビフォーアフター
・探偵!ナイトスクープ
・朝まで生テレビ
・美の壺
・寺門ジモンの取材拒否の店
・ドラマ浦安鉄筋家族
・激レアさんを連れてきた。
・サウナを愛でたい
・BSいきものがかり
・水曜日のダウンタウン
・逆転人生
・幸せ!ボンビーガール
ざっと、こんなところかな
やはりNHKが多いね
あとは、「らららクラシック」と「ぶらぶら美術・博物館」もだな 幅広く、常にアンテナは張ってるよ
宝は見逃さないじょ〜 俺は、これらを録画一切無しで視聴している
キミ達のような奴隷には、到底無理な話しだな 職務質問は全て断るようにしてる
何故ならば、俺には必要ないからだ 俺が神と化してからは、俺に職務質問が成功出来た警察官はたったの一人もいないよ
果たしてキミは出来るかな? >>249
>この光と考えて輝きというのは、三王礼拝図』以来レオナルドの絵に固有のもので、おそらく色の対比と、それから逆光をじょうずに使うことによって生み出すのであろうが、画中の空間が光を含んでいるような感じがするのである。
彼は大気を輝きとしてとらえ、それを表現することに成功している(×)
>この光と輝きというのは、三王礼拝図』以来レオナルドの絵に固有のもので、おそらく色の対比と、それから逆光をじょうずに使うことによって生み出すのであろうが、画中の空間が光を含んでいるような感じがするのである。
彼は大気を輝きとしてとらえ、それを表現することに成功している(○) また、遅漏の犬が欲情してしまったか
困ったものだな >>259
>鳥類の生態観察でひとつの学問分野をひらいたニコ・ティンベルヘンでさえ、飛翔のメカニックについてはレオナルドと同じ誤りをおかしているのである(×)
>鳥類の生態観察でひとつの学問分野をひらいたニコ・ティンベルヘンでさえ、飛翔のメカニズムについてはレオナルドと同じ誤りをおかしているのである(○) キミの言葉は、全ては「技術的な話し」や「一般論」であり、キミ自身から生まれた言葉は一つもない
つまりは、薄い >>260
>ダーヴィニズムを排斥する精神がすなわちカトリシズムを生む精神であり、それが西欧化に特徴的な、人間と動物との間に一線を隔したがる精神なのである(×)
>ダーヴィニズムを排斥する精神がすなわちカトリシズムを生む精神であり、それが西欧人に特徴的な、人間と動物との間に一線を隔したがる精神なのである(○) キミをそんなに薄いジュースにしてしまったのは、誰なのカネ? まあ、結婚してる時点で薄味もいいところだな
キミという存在は、嫁や子供にすっかりと薄められてしまったようだな
そんなんで、いいのカネ? 結婚してる時点で、その者は全てを分け合わないといけないからな
キミの道具袋の中身を見てごらん
キミの持ち物など、最早、何一つない
キミの家族がとっくに全部奪ってしまったよ
今のキミは、抜け殻だな
キミは負けたんだよ
そして、奴隷と化した
自ら、奴隷と化す事を望んだんだ
そして、キミは自分の言葉さえも、失った 他の板に書いていた日記の一部を転載してみたが、【自称神】の軽薄なレスに呆れあてている。同情さえされている。
(お前さんの妄想と異なり)娘達が独立して以降、リアル社会で『私に命令できるのは私だけである』ゆえ、此処も私の日記サイトとする。
お前さんの戯言は完全に無視する。 >>291
>【自称神】の軽薄なレスに呆れあてている。同情さえされている(×)
>【自称神】の軽薄なレスに呆れはてている。同情さえされている(○) キミに命令出来るのは、キミではなく、キミから全てを奪った嫁と、子供だろ
爆笑 キミという国は、嫁と家族に侵略され、とっくに植民地と化してるんだよ
諦めろ
キミは、奴隷だ
キミの人生は、家族のモノだ
キミのモノなど、一つも、無い 分かったかい?
これが、「自分の言葉」というやつだ
自分の言葉は強烈だろう?
人を怒らせ、悲しませ、喜ばせ、感動させる力が、ある
それが、本来の、言葉というものだ
キミ達が言葉だと思って使っている言語は、私にとっては単なる記号に過ぎない 私の言葉には力がある
何故ならば、全てが自分の中から生まれたモノだからだ
借り物など一つも無い
俺の中から生まれたモノは、全ては「生きている」のだよ
キミ達を怒らせるのも、喜ばせるのも、悲しませるのも、そして、感動させるのも
「神の言葉」を持つ私にとっては造作ない事だな 音狂いの大勝利
イント何チャラは、ミクロン単位のゴミですな、書き込みは長ったらしいけど。所詮受け売りと拡張妄想だからな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています