ソニー入社後は液晶ディスプレイの研究開発を行なっていたが、当時のソニーは
トリニトロンに注力していたため、研究に没頭しつつも成果が出ない不遇の日々を過ごす。
液晶を用いた音量バーグラフ装置[注 3]を開発するが、液晶はコストが高すぎるため
LEDに差し替えられた。このLED音声バーグラフ装置は、ソニー社外の機器にも広く使われ、
出荷量が1000万個を超えるヒット商品となった[4]。

その後、2インチフロッピーの研究に携わる中でデジタル信号処理に興味が向かい、まもなく
ソニーの情報処理研究所に引き抜かれる。同研究所内で業務用のデジタルビデオエフェクタ
「システムG」に出会い、これをゲームに転用できないかと考えるようになる。
ディスクシステムのフロッピーが気に食わなかったことから任天堂に売り込みをかける中で、
任天堂とつながりを持つようになり、その後PCM音源の売込みに成功し、
更にはスーパーファミコン向けのCD-ROMアダプタ開発プロジェクトの中心人物になる。
その後、紆余曲折を経て、社内ベンチャー・カーブアウトによりSCEを設立し、

1994年にPlayStationの発売を実現。その後のPlayStation 2などと併せて、記録的な大成功を収めた。
1999年にSCEの社長に就任。
2003年4月にはソニー本体の取締役およびホームエレクトロニクス・ゲーム・半導体部門を
統括する執行役副社長に就任、ソニー本体、特にエレクトロニクス部門の不振や
自身が推奨し開発したPSXの失敗などが解消できず、
2005年3月に副社長を引責退任し、SCEの経営に専念することとなった。

2006年6月に、CNNが公表した「重要ではない人物10人」の中の一人として、
マイクロソフトCEOのスティーブ・バルマーやLinuxカーネル開発者のリーナス・トーバルズ
などとともに選出された[6]。
2005年3月、ロサンゼルスで行われたElectronic Entertainment Expo (E3) で
PlayStation 3(外観とスペックのみ)を公開し、SCEがPS3のプレスリリースを出した。
2006年12月、ソニーのハワード・ストリンガー会長によりSCEグループの会長に“棚上げ”され、
後任にSCEアメリカ社長がSCE社長兼グループCOOに就いた。
2007年4月26日、ソニーの取締役会に対して辞表を提出する。