結局のところ基礎部分と思われているのは後付けなんですよ。一定レベルに達成した人を
分析してみるとそういう能力が備わっているということです。
一定の能力があることとと、その為に一定の練習が必要なのとは違うのではないかということです。
一定の能力を分解して、その一つ一つを完全にすべく順番にマスターしていく方法が
一定の練習=教育法、訓練方法です。
この方法が絶対的で合理的だと思われている。常識的にそう思われているから誰も疑わない。
しかしその思い込みは間違いではないかと言う意味です。
例えばPolyglot達の勉強法を参考にしてみるといいです。彼らの言語獲得方法は様々です。
学校に依存していませんし、誰一人として同じような方法を取っていません。

発音、リスニング、フレーズ暗唱などは練習する必要はありません。
そういう練習は重要でも有用でもありません。
言語は歩いたり、走ったりすることと全く同じです。誰の力をかりなくても、様々なメッソドに
頼らなくても自力で獲得できます。先ず右足を前にだして、そこに体重移動して、次に
左足を、、、、などのようにしなくても自然に歩けます。つまり言語能力は思考とは全く
違います。思考を必要としません。思考が言語を必要としているにすぎません。
現実に日本語を獲得する過程でそんなことを意識したことはないでしょう。意識しなくても
練習しなくても自然に身に付きます。