「鎖塚」と聞いて、何のことか、すぐわかる人はかなり北海道の歴史に詳しい人だ。
公知のように、北海道開拓には多数の「囚人」が動員された。

彼らは逃亡しないように、両足に約4キロの鉄玉を付け、ペアとなる囚人と鉄の鎖で繋がれていた。
重労働の末に亡くなった人も多かった。鎖を付けたまま埋められた彼らの墓を「鎖塚」というのだ。 
網走から北見に抜ける「北見道路」(163キロ)は「囚人道路」と呼ばれている。

1891年に切り開かれた。当時人口約600人といわれた網走に、全国から約1500人の囚人が送り込まれた。
シベリアではそのころロシアが鉄道敷設の測量に着手していた。
ロシアに備えるために、屯田兵村をオホーツク沿岸部に作る必要があるということで道路建設が急がれた。一種の軍事道路だった。

突貫工事の苛酷な労働だったから逃亡者も出た。「逃亡せる者は斬殺」とされていた。
まず足を銃撃し、抵抗すると斬る。「拒捕斬殺」という。これは看守の権限とされた。
毎日のように脱走者が出たという。いわば見せしめのために鎖や縄を付けたまま埋葬した。

のちに近隣の田畑を掘り起こしていると、白骨と共に鎖が出て来ることがあった。「鎖塚」だ。
この「北見道路」周辺には何か所かあり、近年、地元の人たちが慰霊碑もつくっている。

映画「網走番外地」を見た人なら思い出すだろう。高倉健が脱走するシーン。手錠と鎖で繋がった相棒と、雪原を転がるように逃げ回る。
似たようなことが実際に「国策」の陰で北海道開拓では起きていたのだ。

北海道には1881(明治14)年以降、樺戸(現月形町)などあちこちに「集治監」(現在の刑務所)ができていた。
収監されるのはおおむね重罪の囚人だった。その中には、通常の刑法犯だけでなく、政治犯も含まれていた。
西南戦争の敗惨囚もいた。

本書は「秩父事件」の関係者の消息探しから始まり、さらに「囚人労働廃止をたたかった人々」「朝鮮人・中国人の強制連行と労働」「三池炭鉱から送られた人たち」など地域やテーマが次第に広がっていく。
そして、北海道がどのような手立てで開拓されたか振り返る。

本書で意外なことも知った。たとえば福岡県三池の「集治監」の地下はトンネルで炭坑とつながっており、囚人が炭坑で働かされていた。
明治19年からの11年間に686人の囚人が死んだという。三池ではしばしば暴動がおこり、首謀者が北海道に送られた。

なぜ北海道の開拓にアイヌ人を動員できなかったも記されている。
江戸後期からのアイヌ虐待で人口が減少していたこと、元々漁労民なので土木工事に適さなかったこと、
無理やり樺太から連れてきて働かせようとしたが、コレラや天然痘で大量の病死者が出たことなどによる。
当初はアイヌ人利用を目論んだが、無理と分かり、囚人に切り替えたというわけだ。

https://www.j-cast.com/bookwatch/2018/09/30008017.html