もし弥生人が日本列島に来ていなかったら?
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上野原遺跡(うえのはらいせき)は、鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森にある縄文時代早期から近世にかけての複合遺跡。
「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という常識に疑問を呈する遺跡ともなった。
特徴的な土器としては、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
弥生土器の大元は7500年前の鹿児島で作られていた
→7300年前の鬼界カルデラ大噴火で世界中に離散
→シニ・ガイ文化に土器の無文化を齎した
→青銅器と一緒に日本に逆輸入された >>228
それ単に弥生土器だぞ
7500年前の中国や台湾土器にはそういう首の長い壺が
ないんだよ
発掘中、何かの間違いで紛れ込んだものだろう 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! >>229
だから弥生土器の大元は日本発祥ってことだよ
7500年前の中国や台湾土器にはそういう首の長い壺がない→発掘中、何かの間違いで紛れ込んだもの
という解釈こそ根拠無し とても薄いです。叔父は青島で憲兵軍曹の時、朝鮮人は体毛が薄いのでほぼ100%日本人と区別
できたそうです。 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 縄文土器って似たようなものばかりだよね。
時代も産出した地域も違うのになぜなんだろう?
縄文土器だって一目で見分けがつくよな。 深鉢と鉢くらいしか器種がないからね
青森は縄文晩期になると壺や甕や注口土器が登場するけど、青森の縄文晩期は九州北部の弥生後期だからね
弥生文化の中心地の九州北部と地方では文化のタイムラグがあるんだよ それにしても1万年以上続く
縄文時代のどの時代でもどこから産出された縄文土器でも
同じようなデザイン。センスが似てるよな〜。
現在の陶芸は見る人がみれば作家が誰かわかる。
縄文時代の数百年、数千年違う時代の違う地域の縄文土器を見ても
同じ人が作ったんじゃないかと思えるほどそっくりなセンス。
遺伝子がかなり均一なレベルだったんだろうけど、それだけだろうか? 富山小竹貝塚の縄文人骨のmtDNAには北方ツングース系のN9と南方オーストラロイド系のM7の両方いたことがわかっている
他にも北中国系のM10やポリネシアのBなんかも居た
https://r.nikkei.com/article/DGXNASDG2000N_Q4A120C1CR0000
縄文文化でも南方系と北方系が混在している
ツングースっぽい文化
縄文の女神(長野・尖石遺跡)
https://i.imgur.com/m9xZtUy.jpg
蛇面把手付深鉢形土器(長野・尖石遺跡)
https://i.imgur.com/TTk9hY5.jpg
南方系っぽい文化
ミミズク土偶(埼玉・真福寺遺跡)
https://i.imgur.com/9SO2IYK.jpg
貝面(熊本・阿高貝塚)
https://i.imgur.com/U9O4KYU.jpg
後期の長野で流行した顔面把手なんかはあからさまにオホーツク文化っぽい
また北日本では猪型土偶みたいなオホーツク文化と類するものも多く出ている
北方系文化の土偶の出土は東日本に偏っていて南日本での出土例は圧倒的に少ない
逆に編みかごなんかは南方系文化で出土量は九州が突出している
佐賀の東名遺跡では完全体が200点、破片も含めると700点以上編みかごが出土
https://i.imgur.com/HVwkmaW.jpg >>239
九州以北には南方の旧石器遺構も南方の土器遺構もない。
南方から来ているとは考えられんの。
それにポリネシアに人類が到達したのは、ほんのまだ3000年前だよ。
そもそもポリネシアから渡来定着があればアウトリガーカヌーが伝わるはずだろ。
伝わってないね。
日本人にある南方と共通する遺伝子は東南アジアやポリネシアから
入ったものではない。
出アフリカまでに形成されたものか、むしろ北方から南方に拡散した
ものである。 ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 稲作やってる国はどこも弱っちい体してる
やはり米が最大の悪
なぜ現代日本人は弥生人が大陸からパクってきたクソ文化に拘るのか
英語圏ではひ弱でモテないアジア人を馬鹿にする「ricecel (ライス+インセル)」なんて造語も生まれてる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C >>242
ちっこいジジババで溢れかえった現代日本
彼らは体を大きくするために何の努力もしなかった
「和食は体にええんやで〜」「日本のコシヒカリは最高なんやで〜」で思考停止したザコ世代
欧米人が体を大きくするために、どれだけの努力を重ねたか
明治維新に倣い、現代日本人は欧米をいまいちど模倣する必要がある ドンガラがええんじゃなぁよ。小柄ん方が、美少年でええよ。 中国東北部とか韓国とかガタイ良いぞ
というか一万年近く肉食やってた縄文人は弥生未満のチビ助だがそこはどう思ってんの?
稲作とかそういう問題ではなく遺伝子の問題だろ
白人の直系子孫たるクロマニョン人なんか旧石器時代から身長180以上ある ガタイいい(日本人比)程度だからな
南欧人とかと変わらんくらいでしょ バスケとか見てるとガタイいいようには思えん
東欧とかガタイいいけど 大陸北部の新モンゴロイドにはクロマニョン人が入ってるからな
中国の上洞人なんかも旧石器時代に既に174cmある
縄文系よりも東アジアの方がウィグル(コーカソイド)に近い
https://i.imgur.com/JEndj1d.jpg >>250
つまり
右上に行くほど天人
左下に行くほど土人
ってわけか 左上に行くほど天人
右下に行くほど土人
の間違いだったわ >>250
でも顔面は奇形だよね…
まず眼が小さすぎる そらヤクート人なんかも目は小さいからな
ただ遺伝子上東アジアと縄文人、どちらが白人に近いかというと東アジアということだ
あと中国華北あたりには目大きい人もいる
あの辺は基本鼻高いし手足も長い
アイヌ・縄文は原始コーカソイドなどと言われていたが現在では大嘘だと分かっている
縄文人が何に近いかってオーストラロイドだね 上洞人の形質
・現代人よりも脳容量がやや大きい。
・頭型は高度の長頭(頭が前後に非常に長い)。
・非常に彫が深くまた直顎でクロマニョン人と類似。
・男で身長174cmと身長が高く、骨太で骨格筋が発達していた。
・埋葬文化を持っていたようだ。
この頃の中国人の見た目は白人だったんだろう
YハプロはK2bで原始コーカソイド 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 トランプの息子バロンがわかりやすい
僅か13歳にして両親の身長を超えた
栄養価の高いものを食わせればデカくなるという証明
日本の先人は体を大きくするための努力をまったくしてこなかった
弥生時代から米で満腹感をごまかす悪癖がある
この悪癖が背が低くて醜いricecelを大量に生み出している 弥生人は稲作が始まる50年以上前にはすでに渡来してるから稲作を
持ってこれないんだよ
稲作は渡来して50年以上あとの渡来人の子孫たちが朝鮮南部からパクってきたが正解 最後のやつ見れん。
朝青龍って書いてるやつが千原せいじっぽいが
阪神の糸井と千原兄弟は同じ人種だろうな
どちらも京都の北部日本海寄り出身だし
少なくとも糸井は両親の代でも国体出てて日本人だが、あそこまで渡来顔なのは近代の渡来人だろうけど
丹後〜丹波は在日以外で近代の渡来人が多いんだろうか? 弥生人は出雲あたりから拡散してるんだよ
丹後〜丹波は出雲に近いでしょ そうでもないかな
普通の弥生人というより渡来人だし
なんか直接渡来して来たかどっかから移動してきたか ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]=B
商朝かb逅ゥ綜梠繧ノかbッては鼎や鬲が荘ス用されていっbスん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 刻目突帯文土器をもたらしたのは、縄文人とも弥生人とも違う縄文晩期人だろ
もうそう定義づけするしかない
弥生人になったのは青銅文化をもたらしたワイ人か、若しくは縄文晩期人と交雑したワイ人
分子人類学者の斎藤成也によると縄文系と弥生系が交雑するのは古墳期に入ってらしいので それはないね
弥生早期から北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土し始めるんだから
つまり、渡来人が渡来したのは弥生早期以前
定説通り、縄文末だね 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! >>240
M7はもっと前の時代にポリネシアを経由せず、東南アジアや台湾等の南方から入ってきたんじゃないか?
だから、カヌーとかポリネシアの土器が見つからなくて当たり前。
M7は沖縄や九州、東北に多いとされてるけど、北海道までいくと、
いるけど、東北の半分以下になってたと思う。
つまり、M7は南方由来。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 やっぱり稲作が最大の悪だね。弥生人の支配文化の象徴
しかも米で育つとクソ弱っちい貧相な体になる
英語圏だとモテないアジア人はRicecel (ライス+インセル) とかいわれて馬鹿にされてる
>七世紀半ば、日本書紀に「都加留(ツガル)」という言葉が登場します。現在の津軽地方に住む<蝦夷>たちのことです。
>太古より縄文時代を通じて、津軽地方が想像を絶するほど豊かな土地柄であったことは、亀ヶ岡や三内丸山の高度の文化を偲ばせる巨大遺跡をみても明かです。
>稲作に頼らなくても食糧は充分に確保されていました。
>そのような風土に馴染みきった人たちと、お節介にもコメ作りを勧めにきた律令国家・中央政権との間で文化摩擦が生じたことは容易に想像できます。 コロナウィルスのせいでアジアの食文化はもう終わり
アジアの食物には変な菌が入ってると欧米で現在進行系で嫌われまくり
日本の食文化を見直すいい機会
どっからが中国のパクリで、どっからが日本固有の食文化なのか線引きすべき 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! >>284
中国大陸はEU並に広いしたくさんの民族がいて、
十把一絡げには出来ないから何とも言えない。 沖縄で朝鮮起源のO1b2a2aが12%も観測される
日本本土は6%なので2倍
沖縄人の正体は沖チョンだった
https://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O-M176
Haplogroup: O-L682 (O1b2a2a-L682)
Possible place of origin: Korean Peninsula or Manchuria
South Koreans 20%
Okinawans 12%
Udeges 10%
Hezhen (Nanai) 8%
Japanese 6%
Manchus 3% 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 肉を食べる習慣が明治までなかったから、体型からしてクソ弱っちい
ヤマトが長年に渡り「米=文明」「肉=野蛮」みたいな糞ステマしたせいだろうなあ >>289
水稲栽培を始めたのは元々日本に住んで居た縄文系の人達だから鼎、鬲や甑は伝わってないんだよ
縄文系の人達が単に新しい作物として栽培を始めただけ。 ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間
589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。
江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 上海から来た中国コスプレイヤー
日本人と顔も体型も瓜二つ
弥生人の正体は短足チビ中国人
背が高く、四肢が長い設定は戦後に作られたウソ
https://www.instagram.com/koi_liyuu/ (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. 最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 100年前のアイヌと和人の写真を見比べても身長たいして変わんない
弥生人の身長が高いって設定これウソですわ そもそも弥生人はどこから来たんだ?
朝鮮だと言う人がいるがならその朝鮮人自体どこから来たんだ? しかも「100年前のアイヌと弥生人の身長を見比べる」なんてこと自体が不可能だからな
弥生人なんて100年前にいるわけないんだからw和人は居ても弥生人ではないし
ただ在日韓国人なんかの北方渡来系の奴らは確かに身長高めの奴は多いから北方から渡来してきた弥生人も同じく高いとされてるんだろう >>304
朝鮮から来たなら、朝鮮土器から弥生土器が始まるはずだろ
ところが、弥生土器は沿海州南部と一致する土器から始まってるの
どこから来たのか、もう言う必要ないよね? ◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 100年前の併合時代の朝鮮の写真を見ると背高いのがチラホラいる
日清戦争の写真でも、中国兵にはスラーっとした華北系がチラホラ目立つが
日本兵はチビゴブリンしかいない >>311
3枚め眉毛くっそ薄い
縄文ほとんど入ってないわ、この人達 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 Youtubeのwalking映像みた感じ、
弥生人の先祖、上海から来たっぽいな
北京はスラーっとした華北系がチラホラいる (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 浜中文一っていうジャニーズ?の俳優が陽岱鋼に似てるからアミ族かなと思ってググったら中国のハーフらしいけど中国って言っても漢民族じゃなさそうだ 漢族でも欧陽フィフィとかローラ・チャンとか鳳蘭のタイプかも
世界一人口が多い民族だから、見た目の多様性は多そう
今マカオのポルトガル系が取り込まれてる最中か 上海あたりに大昔いたミャオ・ヤオ系か。下戸遺伝子も日本人と並んでその辺で高いんだっけ
もちろん今の上海市民も、地の人間は漢族に同化されただけでその子孫なのかもしれないけど 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です! 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! >>325
四肢が長いだけ朝鮮族やツングース族のほうがマシだな
日本の弥生人は世界有数のブサイク民族
縄文人はなんとしてもこいつらを絶滅させるべきだった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています