【Y-DNA】ハプログループ総合スレ48【mtDNA】
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日本人Y-DNAハプログループ比率
D1a2--32%(旧表記D1b)
O1b2-32%(旧表記O2b)
O2---20%(旧表記O3)
C2----6%(旧表記C3)
C1a1----5%
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1%(旧表記O1)
N1----1%
D1a1,Q1a1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)
自分のハプロタイプが調べられる機関
GeneLife: https://genelife.jp/
LivingDNA: https://livingdna.com/
FamilyTreeDNA: https://www.familytreedna.com/
ジェノグラフィック・プロジェクト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88
2019年6月1日、ジェノグラフィック・プロジェクトは、Helix版の販売中止を発表。
同時に2020年6月1日をもってプロジェクトを終了する旨を発表した。
既に販売済で未使用のキットに関しては、2019年12月31日までに使用し、
返送の手続きを行っている分のみを解析の対象とし、
解析後のデータの閲覧も、2020年6月1日以降は不可能となることを告知し、
既ユーザーに対してはデータをダウンロードし個々で保存することを奨励している。
ジェノグラフィック・プロジェクトで解析したデータをFTDNAのサイトへ転送した分については、
FTDNAのサイトで引き続き使用可能である。
最新ツリー -ISOGG、ウィキペディア
https://isogg.org/tree/ISOGG_YDNATreeTrunk.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
ヤポネシアゲノム
http://yaponesian.org/
http://www.yaponesian.jp/
前スレ:
【Y-DNA】ハプログループで語るスレ47【mtDNA】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1544833210/
関連スレ:
皇室のY染色体報道を妨害する人の正体!3
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/emperor/1541913496/
有名人のY-DNAハプログループスレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1544833611/
もし弥生人が日本列島に来ていなかったら?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1577375097/
DNAから見た世界史
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1537956125/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:: EXT was configured モンゴルにいるOは漢民族からの逃亡農民かなんかだろ
色々調べた結果ORはむしろ南方適応した南方系ハプロなんじゃないかと思えてきた
なぜならORの分岐元がことごとくオセアニアで見つかるからだ
そして興味深いことにR1bがなぜだかアフリカの奥地で発見される
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcTvab2vFoCwMJiXEnflyDMlzhDw4AM6pW9ENA&usqp=CAU
これはつまりこういうことでは?
https://twitter.com/asianrightsmatt/status/1284854564374474752?s=21
アジア人は南方系Oと北方系Cの混血で、RはCとの混血度合いが小さかったからオーストラロイド的な金髪や彫りの深い顔などの形質を残した
そもそも彫りの深さは明らかに寒冷地適応に反するわけで、これはインド経由で北上していった証拠じゃないか?
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) つまりCがシベリア経由で世界に広まり、南方適応したオセアニアのCから徐々にKやらMSやらPやらが分岐しスンダランドでNOQRが生まれて北上したのだ
NOQRはスンダランド人であるということだ
スンダランド系インド人とスンダランド系アフリカ人とスンダランド系ヨーロッパ人がコーカソイドで、スンダランド系アジア人でCとのハーフがアジア人だな 俺は昔からアボリジニやドラヴィダ人のアルビノは白人みたいであることを指摘していたが、この説はそれを補強するな
黄色い髪や彫りの深い顔は南方系オーストラロイドからの遺伝なんだ NOQRのスンダランド系インディアン共は早く「なぜアフリカにR1bが生息するのか」という不都合な現実に対する上手な言い訳を考えてみろ
印欧語族だのなんだの言ってスンダランド系ヨーロッパ人はアーリアン学説をありがたがっていたが、これってもろヨーロッパ人がスンダランドからインド経由で北上した証拠だろ
Rはめちゃくちゃ新しいハプロなのになぜそれがアフリカから見つかるんだ?
またRの分岐元がみなオセアニアや東南アジアから見つかるのはなぜだ?
白人とオーストラロイドの形質が一致するのはなぜだ?
寒冷地適応したと言われるモンゴロイドとコーカソイドで形質が異なるのはなぜだ? 結局NOQRは「子供を父親として養育する」というK戦略的農耕適応によって繁殖しただけに過ぎない
農耕はシングルマザーが生きづらい環境だったからだ
事実農耕期が終わって産業革命、情報革命が始まると世界の偉人は非NOQR系で塗り変わる
ヒトラー、ムッソリーニ、アインシュタイン、ナポレオンは非R
またGAFAやマイクロソフトの創業者のビルゲイツも非Rだ
ラリーペイジとビルゲイツは非Rが確定している
マークザッカーバーグとジェフベゾスとジョブズは不明だがみんな中東系移民だ 結局大航海時代に始まるQの絶滅もRの優秀性を示すものでもなんでもなくただ単にスンダランド人同士が兄弟喧嘩をしただけに過ぎない ヨーロッパ人がアジア人より馬鹿なのもバイカル湖系Cの遺伝子的洗礼を受けなかったからだろう
東アジア史はCによるOの征服の歴史だ
近代世界史は非Rによる独裁と起業物語の歴史だ
RやOの活躍なんて敗者の歴史としてしか出てこない もしCが南方系なら中国南部に少ないことの説明がつかない
華南にCは少ないんだ
華北や満洲やモンゴルに多く華南にCが少ないのはなぜか?
それはOはスンダランドからK戦略と共に北上した集団だからだ
育児能力以外に取り柄がないイクメン集団がOなのさ なぜユダヤ人が優秀なのか?それは「Rではない」からだ
なぜアジアの中で日本人だけが卓越した活躍を見せるのか?
それも「Oの比率が低いから」だ
ユダヤ人を攻撃していたヒトラーですらRでもIでもないEだったという現実
近代以降政界で活躍したヒトラーもムッソリーニもスターリンもナポレオンも、財界で活躍したユダヤ人たちも皆Rではばいという現実
農業時代の終わりとともに始まったこの変化
当時はY染色体なんて知られていなかったはずなのに偶然にしては出来すぎている そういやホリエモンもDらしいな
孫正義の先祖の孫子も孔子と同じでDECのいずれかなんじゃないか??
古代近代史でNOQRが活躍することは少なくなっていくだろう >>708は訂正
信憑性は置いといて(ルイ16世の件もあるし)、ヨーロッパの王族はRとIが一般的だった
あと細かいけど>>717マークザッカーバーグは中東系移民ではないな
アシュケナージ系ユダヤ人 チンギスハン、清の皇族、孔子→C確定
北魏、金、遼の皇族→Cの可能性あり
孫文、蒋介石、毛沢東、ケ小平→みんなO1。中国人はほとんどがO2なのにその中の傍流でC寄りのO1がなぜ近代中国史で活躍しまくっていたんだい?
スンダランド人さんよぉ...?w ユーラシアアダムから退化していったのがスンダランド=サフールランド人
ユーラシアアダムの支配に対する適応
アメリカの黒人奴隷と同じだな
アメリカで黒人奴隷が繁殖しているからといって黒人奴隷が優秀だとは考えないのと同じ
狼が犬になってた感じでユーラシアアダムに対して“自己家畜化”したのがスンダランド=サフールランド人種なのだ DEの連中が礼賛する「YAP(笑)」はアフリカ系の影響だろうな
DもEもアフリカでよく見つかるし
結局真の正統なユーラシアンアダムはCFだ
DEはCについてきたアフリカ人に過ぎない
半アフリカ半ユーラシアがDE DEの連中はYAP遺伝子(笑)があるから草原の道の覇者になることができなかったんだよw
Cは世界中で見つかるけどDEはアフリカやチベットなど世界の端っこの“インキャ地域”でしか見つからん
これはYAP遺伝子(笑)が気質に対するブレーキ役だったことを意味している
一方でNOQRは、スンダランド=サフールランド人種だからK戦略以外で活躍することはできない
Cのような冒険心がない
こいつらも結局はインキャ人種だ Cはシベリアからバイカル湖を経由してr戦略と共に世界に覇を唱えた
DEはチベット経由で沖縄の辺りから日本に流入したんだろう
YAP変異(笑)のせいで寒冷地には怖くて入れなかったんだろうw YAP共とスンダランド=サフールランド人種は奴隷人種だな YAPはアフリカチベット野郎
NOQRはスンダサフール野郎
どちらも寒冷地適応したCのお陰でアジア人になれた連中
Rは未だに白いアボリジニのままだけどなw YAPでもスンダでも良いから早くなにか反論してみたらどうだ?? YAPで調べたら「YAP遺伝子は宇宙人と共通している」とか出てきたんですが本当ですか?
YAPというのは宇宙人と共通した多型なのですか? Cの本貫地はバイカル湖で、Oの本貫地はスンダランドで、YAPの本貫地は宇宙ってまじですか? >>726
劉邦がO2a1だからめちゃくちゃ子孫が増えた
あと始皇帝、項羽、拓跋珪、楊堅、朱元璋はO2a2 拓跋氏で思い出したけど拓跋氏の子孫がNだかなんだかってのはなんなんだ?? >>739
北魏はC2a1a1b1-F1756かO2a2b1a2-F444
周、唐、遼の皇族がN >>740
なるほど
周は君主はN系統で国民はQ系統だったということですか
調べたら思ったよりも中国のO系統の皇帝は多かったようですね
遊牧系の王朝にOがいるのが意外でした
ちなみに人類学や分子生物学に詳しい方に質問なのですが、このような認識と類似する仮説やデータはありますでしょうか?
https://twitter.com/asianrightsmatt/status/1284970218784096257?s=21
(なぜかimgur使えないのでツイッターから)
例えばモンゴロイドのスンダランド起源説などはこれに近いと思います
またネットでY染色体ハプログループの移動経路の画像を調べてみると結構O系統がチベットの辺りから東に進んで中国に到達するようなデータが見つかりました(根拠不明のものばかりでしたが)
現在の定説では、CからRまで全てのハプログループが中東の辺りを経由して世界に展開していることになっていますがそんなことあり得るでしょうか?
CFが東方に移動した後に中東の辺りに残ったCFからIJKが生まれ、また残ったIJKの中からPが生まれ、また東方に行かず中東に残ったPの中からRが生まれ印欧に拡散したということでしょうか?
相当無理があるように思えるのですが
上の画像だと、Cの中のオーストラリアに移住した一派からFが生まれ、そこからスンダランドに行った一派からKやPが生まれ、Pからバングラデシュの辺りでRが生まれインドからヨーロッパに至るという自然な経路を想定できるのですが...
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 上のツイッター画像の予想はすごく単純というか一番最初に想定されそうな経路だと思うのですが(系統樹の分布的に)、そのような議論自体があまり行われないのはなぜなんでしょう
決定的な反証でもあるんでしょうか https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/29/Y-DNA_haplogroup_migration.png/800px-Y-DNA_haplogroup_migration.png
こういう画像だとDやNやOやCが一緒にシベリアに移動しているように見えるけど、そもそも時代が違いますよね
CやDがシベリアに行った後に後から同じルートでOやNがバイカル湖に向かったってこと?
そのOやNはCの子孫系統なのになぜアフリカや中東の辺りに留まっていたんだ?
少なくとも現代ではCF系統は中東やアフリカにはほぼ見られないのに...
どう考えても俺の経路の方が正しいだろ...
Oとか南方系だろ完全に
Rも南方系だよ
あと2年くらい前のこのスレで日本人の常染色体はO系統の方がD系統よりも南方系に近いなんていう論文かなんかのURLが貼られてたんだけどわかる人いる? https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/29/Y-DNA_haplogroup_migration.png/800px-Y-DNA_haplogroup_migration.png
しかもこの画像見るとY染色体ハプログループと形質に基づく人種(コーカソイドとか)を一致させてるしな
Y染色体と形質なんて全然一致しないことの方が普通だろ
例えば弥生人の父系ハプロは「縄文系に近い(どうせCだろ)」とされている
外からやってきた少数のオスが大多数の現地のメスを孕ませるから時間と共にすぐに馴染んでオスの常染色体なんて数世代ですぐに消える
日本の白人ハーフが次の代でクォーターになって薄まるようなもんだ
時系列とかで考えてもかなりめちゃくちゃだしさ
北方ルートでモンゴルや満洲の辺りから南下してスンダランドやサフールランドに到達したCの中から、Fが分岐し、そっから徐々に分岐してヨーロッパのRになっただけだろ
一番新しいR1bがアフリカにいる理由やジャワ島にO1b2が大量にいる理由はどう考えんだよ
R1bとか特にエジプトに全然いないのになんでサハラ砂漠越えてあんな奥地にいることになってんだか
なにが悲しくてヨーロッパからエジプト素通りしてサハラ砂漠越えてアフリカのサバンナに行くんだよ http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/aoyakamijichi.htm
またURL貼り忘れちまった
弥生人の父系ハプロに関する記事がこれ
縄文系に近いという謎の表現がハプログループCを想起させる
日本語がアルタイ語に近いことや、騎馬民族征服王朝仮説の存在、天孫族に北狄説があることを考えるとCだったんじゃねーの? >>743
細かいけど一応訂正しておきます
× そのOやNはCの子孫系統なのに
◯そのOやNはCFの子孫系統なのに
でした 天孫族ってCだったんじゃねーか?
タタラ製鉄や日本語とアルタイ語の親和性、騎馬民族征服王朝や天孫族北狄説を考えるとまさにって感じやん
縄文系に近い父系というのはCのことなんじゃないか? ちなみに僕が勢いで過去に書いた>>694はなんの根拠もないです
そもそも僕の先祖の地元が宮崎南部かどうかさえ分かりません
苗字検索して宮崎南部とあったのでそれを鵜呑みにしてただけで両親と祖父母の出身はいずれも東京です
でも宮崎南部のY染色体の分布は気になるよなぁ...
結局どんな感じなんだろう .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 結局誰も俺に反論できないのか
NOQRはスンダランド生まれだよ
NはNOからモンゴルの辺りで分岐したんだろう 相手にされてないだけだろ
ここはキチガイの巣窟だしね .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>752
精神的に落ち着いたので反省してます
荒らしてすみませんでした ツイッターの某氏、非常識ですみませんがツイッターでは長文が書けないのでここで説明させてください。お手数をおかけして申し訳ございません。
※今は棄却した仮説です。長文なので読まなくても平気です。
===
https://imgur.com/a/xHRX1HP
この現在の通説が正しいとするならば、NOQRの親系統であるKやFやPなどは、NOQRが辿った軌跡に足跡のように分布していると考えるのが自然。例えばRの一つ上の親系統であるPは、Pが辿った軌跡には分布しておらず、実際にはフィリピンの分布している。現在の通説では、RはPから西南アジアで分岐したと考えられているが、分岐元のPは中東アジアどころか、インドにすら分布しておらず、遠く離れたフィリピンに高頻度であり、その中間であるインドシナ半島においては低頻度である。
仮に、現在の通説が正しいとした時、Pは元々西南アジア、例えばイランの辺りに分布しており、そこからRが分岐し、Rはそこから北上してコーカサス地方に移動した一方で、Pは全員が西南アジアから完全に消え去り、途中で全く留まらずにひたすら東のフィリピンまで移動し続けたことになる。
これはかなり不自然な動きであるように感じる。
同じような不自然さはPとRだけに限らず、NOQRの祖型や関連するハプログループであるMSやKやFなどにも言える。
FやKはNOQRの分岐元なのだから、NOQRが辿ったとされる経路の途上に多く分布していると考えるのが自然である。
実際に、DEやCFの分岐元であるAやBなどの親系統はみなDEやCFが移動を開始した起点であるアフリカ大陸に居住しており、DEやCFが居住する地域を飛び越えて向こう側に分布していたりはしない。
しかし、NOQRの分岐元であるPやKなどに関しては、従来の通説であるこの画像のような経路を正しいとすれば、彼らが発生した故地や彼らが辿った経路の途上にはほとんど全く分布せず、遠く離れた地域に分布している。
これは現在の通説である経路の設定自体が間違っているからであり、DEやCFの経路は、その親系統であるAやBが多く分布するアフリカに起点を求めるべきであるように、NOQRの経路の起点もその親系統が現代で分布している地域にその起点を想定するべきである。
つまりごく単純に考えれば、Rはその一つ上の親系統であるPが分布しているフィリピンを経由していたと考えるのが自然であり、またその前はKが分布しているインドネシア周辺を経由していたと考えるべきであり、その前は、Kの親系統であるFが分布しているオーストラリアに居住していたと考えるべきである。
その場合、オーストラリア原住民はCとFから構成されるため、彼らの親系統であるCFなどがユーラシア大陸からオーストラリアに移住し、オーストラリアで発生したFがインドネシアに移住しそこでKを分岐させ、Kはフィリピンに移動しそこでPを分岐させ、Pは西に移動しそこでRを分岐させたと考えると経路の辻褄があう
また分子生物学的な遺伝子の資料が北ほど古いものが見つかり、南ほど新しいものが見つかる現象は、人類が北を経由して南下したからではなく、高温多湿の熱帯では遺伝子が残りづらいからだという説明が可能
また考古学的な資料に関しても、石器の大半は狩猟のための道具であり、ベルクマンの法則に基づいて大型動物が少なく、捕食対象が小型である熱帯ではそもそも石器そのものが必要とされず生産されていなかったという説明が可能である
===
↑これが大凌河様に過ちをご指摘いただいて、反省し沈黙を決意する前に調子に乗って考えていた僕の持説です。
ツイッターは文字数制限があるので、言葉足らずになってしまい、誤解を招いていたかもしれません、
一応、元々の通説そのものは存じておりました。
それに対して生意気にも異論を唱えていただけです。根拠やデータは欠如している自覚はあります。
しかし、この問題提起そのものは決して全く的外れではないと考えています。
あまりにもデータ不足、知識不足でしたが、NOQRの現在の通説の経路図の「起点」や「軌跡」にその親系統のハプログループがほとんど、あるいは全く分布していないことに関して、誰も言及しないのはおかしいかと考えております。 簡単に言うと、例えば子系統のRがイランの辺りで発生し、北上したとするならば、Rの親系統であるPもイラン周辺に少なくとも当時は居住していたはずなのに、実際には現代ではなぜか遠く離れたフィリピンに分布しているということです
これはRとPだけではなく、F以下の系統全てに言える不自然さです
通説の経路における子系統の「発生地」や「経路」上に、親系統が分布していないのです
通説の子系統の経路から全く無関係の遠く離れた場所から、親系統の分布が集中しているというわけです
僕の仮説ではその問題が解消されます
https://twitter.com/asianrightsmatt/status/1284970218784096257?s=21
日本語が分かりづらかったらすみません
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ツイッターの某氏に限らず僕のこの妄想的仮説に対して決定的反証をあげられる方がいらっしゃれば指摘していただければ理解が深まるのでぜひお願いします
DEの祖先系統であるAやBが、現在のDやEの分布を飛び越えてアメリカ大陸やオセアニアやアジアで見つからないように、親系統は子系統の発生地周辺かその経路上に多く分布するのが自然でしょうし、実際Fまではその通りなのですが、F以降は当然のように、「通説が正しいとするならば」、親系統の分布が子系統の発生地や経路とは無縁の地域に分布しているというのはおかしくないですか? 長えぞ馬鹿!
あのな、遺伝子の頻度というのはな、
まーーーーーーーーーーーーーーーーーーったく意味がないの
移動先がそのハプロタイプにメッチャ適していれば、他のハプロタイプのシェアを
奪ってまでも歯止めなく頻度は高くなり、適していなければ他のハプロタイプに
シェアを奪われて著しく頻度は下がり、極端な場合は消滅する
だから広く拡散すればするほど、途中にそのハプロタイプが存在しないのに、
遥か遠方で頻度が高くなってるハプロタイプがあったりする
ただ単にその移動先でそのハプロタイプが適しているかいないか、
あるいはより適したハプロタイプがあるかないかで頻度が決まっているだけで、
その移動先がそのハプロタイプに適しているかいないか、より適したハプロタイプが
あるかないかは運で決まっているだけ
つまりハプロタイプの頻度は単に運で決まっているだけ
頻度は意味がないというのはそういう事
つまり、そのハプロタイプがあるかないかくらいしか使い道がないという事
しかも、あるハプロタイプの起源地により適したハプロタイプが入ってきたために
そこが起源地のハプロタイプが消滅してしまうケースだって想定できるので、
ないからと言ってそこが起源地ではないとも言えないのだ
それを判断する材料は唯一、考古学しかないのである 日本人に多いハプログループ
D1a2a1a2 (IMS-JST022457) 日本人の20.53% (野中2007) 15300年前誕生
O1b2a1a1(CTS713, 旧47z) 日本人の22.6% (水野2008) 7200年前誕生
47z増えるの早すぎだろ .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>758
うーん、コロンブスを契機に急速に絶滅しかけたQなどの例もありますしY染色体が大胆に増減することは分かるのですが、にしてもNOQRの祖先がスンダランドの辺りに集中しているのは事実なんでねぇ
仮にあなたの言うことを全面的に認めたとしても、移動先の適性の話をするのでしたら、スンダランドの辺りがNOQR系統の適地だということになりますよね
つまりPにとってイランの辺りよりもフィリピンが最適だったということでしょう
あるいはMSにとって最適なのはパプアニューギニアだったということです
Kもインドネシアですね
ここまで東南アジア一帯に適し、それ以外に適さないのに近縁であるNOQRが東南アジアに適していないわけがない
実際Oは東南アジアにおけるマジョリティです
またRもインドで普及していますよね
まぁ僕もいろいろ調べて確たる証拠を見つけてから再度主張しようと思います 上級国民ならまず自分のY染色体のSNPを全て調べ上げろ 現代の非アフリカ人Y染色体の東南アジア起源
公開: 2020年7月14日
https://link.springer.com/article/10.1007/s00439-020-02204-9
現在のサンプル2302におけるハプログループC、D、Fの存在。
マップは、対象の3つのハプログループ(どれも、1つ、2つ、または3つすべて)のうち、
いくつが旧世界とオセアニア近辺の異なる領域で見つかったかを示しています。
https://link.springer.com/article/10.1007/s00439-020-02204-9/figures/2 東南アジアというか南インドあたりじゃないの
あの辺からC,D,Fが拡散してるよね >>759
O1b2を天皇家と結びつけようということなのでしょうが、O1b2a1a1はまさにピンポイントで藤原氏ですね
阿武山古墳の埋葬者がO1b2a1a1で、その埋葬者は藤原氏です
https://famousdna.wiki.fc2.com/m/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93O1b2a1a%E7%B3%BB%E7%B5%B1
藤原氏は、平安時代に天皇家の外戚として勢力を伸ばした一族で漢王朝で言えば王莽のような存在です
事実かどうかは不明ですが日本で「藤」の漢字が入る苗字の人はみんな藤原家の子孫なんていう話もあります(佐藤、加藤など)
天皇家自体や天皇家から派生した武士などは、基本的にみんな「D」です(調査データの信憑性は高いとは言えないが)
また藤原氏はまさに壬申の乱、つまり九州王朝説で言うところの九州天皇家をヤマト王朝が打倒する前後のタイミングで興った一族でもあります
天智天皇の時代に大出世し、天武天皇以降の時代で数百年に渡って朝廷における覇権を握り続けました
壬申の乱以前では天皇は絶対的な存在でしたが、以後の天皇家は藤原氏の傀儡です
おそらく藤原氏は朝鮮系の渡来人です
日本書紀や古事記の編纂の中心にいたのも彼らです
これは明確な学術的データは添えることはできませんが、一つの予想として書いておきますがおそらくは、
縄文人=D(ヤマト王朝の今の天皇家、壬申の乱の勝者)
天孫族=C(壬申の乱以前の天皇家。天皇という言葉がまだなく大王を自称していた天皇家)
渡来人=O(藤原氏を代表とする渡来人)
でしょう
壬申の乱の勝者であるDは天皇家になったものの、結局O系の藤原氏の傀儡となったのです
そのために平安時代に朝廷の実質的な支配者であるOの遺伝子が拡散しただけです
仮に、九州王朝説を採らず、天皇家の万世一系を信じるにしても、東山天皇の子孫のハプログループがDであることなどを考えると少なくとも天皇家とは結びつかないでしょう
またr-K戦略的に考えた時、天皇家が苗字を持たないのも大きなキーポイントだと考えています
天皇家がOならば農耕民らしく父権的に苗字を持っているはずです
遊牧民や狩猟民は母権的であるため天皇家は苗字を持たないのでしょう
日本史は「大王独裁の時代」→「壬申の乱」→「天皇を傀儡とした藤原氏の時代」と推移するのです
また藤原氏に限らず桓武天皇の時代に活躍した坂上田村麻呂や百済王教俊などは朝鮮系渡来人です
白村江の戦いで負けて百済から日本に難民としてやってきた人々もO1b2a1a1かもしれません(というかそれが藤原氏でしょう) また僕はこれも妄想的仮説だが、平家は坂上田村麻呂の子孫だと考えている
母親が百済人で親朝鮮的だった桓武天皇に寵愛された坂上氏は坂上田村麻呂の父の代で改姓してるからね
坂上田村麻呂は渡来人だからO1b2であるはず
平家がそうならO1b2の拡散は納得がいく
まぁこれはスレチだからこれ以上踏み込まないけど何十年後かには証明されているだろう 弥生人が渡来してから朝鮮帰化人が始まるまでに1500年くらい経ってるんだぜ
O1b2のシェアは弥生人の段階で終わっている >>763
数分で作ったので雑ですが、これで説明可能ですよね
https://twitter.com/asianrightsmatt/status/1285889283161636865?s=20
石器時代、特に内陸部では人類は、川や湖などの淡水に沿って移動する。
カスピ海からバイカル湖にかけては、快適な移動ルートだったはず。
Cはここを取ってバイカル湖周辺に適応し、そこから、海に沿って南下したのだろう。
Fはそもそもオセアニアで発生して北上している可能性もある。
中世のモンゴル帝国もこのCの移動ルートと同じで、高麗と南宋を征服し、日本に元寇を行い、泉州からインドネシアのシンガサリ王国を攻め、ロシアまで攻めた。
中世のモンゴル帝国ができたのだから、ましてや障害物としての定住民がおらず移動型狩猟民だらけだった石器時代に、バイカル湖からオーストラリアへの移動が困難だったはずがない。
また作っている最中に面白い事実に気づきました。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 別に47zを天皇だと言ってるわけじゃないよ
ただ弥生人の繁殖スピードが異常で
それが精子製造能力に関わっていることを改めて実感しただけだよ モンゴルを中心とする集団がオーストラリアまで行くなんてあり得ない!って思うかもしれないが、元王朝は実際に泉州から船を出してインドネシアまで侵攻している...
また元は積極的にベトナムを侵攻していた
高麗、日本、ロシア、インドネシアなどモンゴル帝国の侵攻対象はCの分布と重なる
スンダランドがあった時代は元の時代よりもよりも更に南北の移動が容易だっただろう
https://twitter.com/asianrightsmatt/status/1285891908573687808?s=21
Cはモンゴル帝国と同じように泉州から南方を目指したかもしれない
東南アジアよりもオーストラリアはモンゴルに気候が近いため東南アジアを素通りすることは、あるいは経由したとしても人口が希薄化することは自然である
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) https://www.yamacomi.com/2544.html
また年間を通じた精子数の平均では、縄文系男性は1ミリリットル当たり約8300万と
弥生系男性の約1億300万を下回ることも判明しました。
ちなみに月別出生数は7?9月に高く、3月に低い傾向がありますが、バラつきは少ないようです。 >>769
精子製造能力ではなくK戦略でしょう
これは話すと長くなるので控えますが、原始人らはみんな「ヤリ捨て」していたんですよ
農耕社会は「シングルマザー」にとって生きづらい社会なので、しっかりと嫁子供を養育する雄の遺伝子しか残らなくなったのです
例えば中国でも古代は「禅譲」によって王位が継承され世襲は行われませんでした
西洋でもかつては共和制が主流でアウグストゥスの時代まで世襲はありません
劉邦が子供を捨てて夏侯嬰が拾った孤児や、劉備が阿斗を捨て趙雲が救った孤児などは象徴的でしょう
またアウグストゥスの前のカエサルも同様に子供がいません(おそらく認知していなかった)でした
これらはr-K戦略で説明可能です
Y染色体もなんらかの影響があった可能性もあります
証拠に遊牧民も天皇家も苗字を持ちません
これは父親がいないからですよ
チンギスハンはレイプに関する発言をしていますよね
Y染色体は子供や妻に対する愛着に関係しているのではないかというのが僕の予想です >>771
この医者の言っていることの信憑性は置いといて、OやRの繁殖はr-K戦略によるものだと僕は考えています
チンギスハンもあれだけレイプに関する発言をしておいて、実際の子供は10人程度しかいません
これはレイプして妊娠させた子供は認知していなかったからでしょう
孟嘗君がテキトーな理由をつけて子供の時に殺されかけた孤児や、日本で戦国武将などが自分の子供に「捨」などの名前をつけていた話なんかは捨て子文化、ヤリ捨て文化のシンボルでしょう
NOQRは農耕圏に分布しておりDEやCなどは農耕に適さない地域に分布しています
これらはシングルマザーが生きやすい非農耕圏では、r戦略的なオスの子孫が、つまり子供を認知せず養育せずヤリ捨てするタイプの遺伝子が繁殖しやすかったからでしょう
仮説に立脚した仮説に立脚した仮説みたいな話ですが、農耕と共にNOQRが繁殖するのこそれらで説明可能です エンゲルスなどが言及していますが、父権制社会とは父親が家庭的である社会で、母権制社会というのはクマやゾウなどのように父親が家庭に不在の社会です
Y染色体と農耕民族性、母権的か父権的かというのはかなり相関しているように見えます 熱帯を避けるように分布するCと、むしろ熱帯(インド、東南アジア)を拠点に寒冷地を避けるように分布するOR
とても示唆的ですね 性染色体がその名の通り性に関わる機能を持っているのは間違い無いだろう ちなみになぜ僕が寒冷地性、北方性にこだわるかと言うとそこに優生学的理由があります
これも話し出すと非常に長くなるのですがアリとキリギリスの寓話なんかがヒントになるでしょう モンゴルのCも5000年前ぐらいに東南アジアから北上したって記事どっかで読んだが 北方アジアはC2、東南アジアはC1だろ
ハプロタイプが違う
Cはアフリカからアラビア半島経由でイランあたりで北上して北方アジア入り
したのがC2になり、東進して東南アジアやオーストラリアやポリネシアに
広がったのがC1になった
そもそも5000年くらい前に東南アジアからモンゴルに北上した痕跡がない
その逆の痕跡ならあるが >天皇家は苗字を持たないのでしょう
天皇家の苗字は
アマタラヒヒコ
だよ
ソウル出身の朝鮮人だというのが定説
一重瞼だから華北系の漢民族に決まってるよ >>782
皇室に関して
「ソウル出身」「一重瞼」「華北の漢民族」
これらのキーワードを使う人は北朝鮮系の工作員なので注意しましょう ニニギノミコトが天下ったのはソウルだと書かれているだろ アイヌ語を話していた縄文人は旧石器時代に樺太から渡来した
日本語を話していた西日本縄文時代人は縄文時代後期に南朝鮮から渡来した
神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393
現代「本土」集団における「縄文人」系統の割合は、神澤論文では9〜15%、覚張論文では8%程度と推定されています。
弥生時代以降に日本列島に到来した集団における長江流域稲作集団の影響は、遺伝的には小さく、文化的には間接的だった、と考えられます。
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_5.html
従って
結論は
日本人は朝鮮人だった
アイヌ人は北海道縄文人の直系の子孫だった 東アジアではO系統とD系統に加えてC系統が目立ちますが、C系統はZhong 2010で研究されています。C系統はオセアニア、東南アジア、東アジア、中央アジア、シベリア、北米の各地域にある程度の頻度で観察され、パプアニューギニア・オーストラリアでも高い率で見られます。C系統は、長い歴史を持ちますが、比較的よく足跡を残しており、研究のための材料・根拠に恵まれています。Zhong 2010では、C系統も南方から東アジアに広がったという結論が出されました。 >>787
南方のイランあたりから北上して東アジアには広がった
東アジアのCは東南アジアとは関係ない https://www.nature.com/articles/jhg201040
この論文書いたのハプログループで民族分類するの自体を発明した人ららしいね
中国人なのか D1a1(Z27276) 日本人の0.1% 45100年前 ★黄帝
D1a2a1(M116) 日本人の0.4% 21100年前 ★天忍穂耳命
D1a2a1a(M125)日本人の18.3% 17000年前 ★邇邇芸命
D1a2a1c (CTS6609) 日本人の6.7% 17000年前 ★饒速日命
D1a2a2 (CTS131) 日本人の7.4% 21100年前 ★天穂日命
C1a1(M8) 日本人の5.7% 45900年前 ★猿田彦命
C2a(L1373) 日本人の1% 34000年前 ★月読命
C2b1 (Z1338) 日本人の5.2% 34000年前 ★建速須佐之男命
N(M231) 日本人の1.4% 36800年前 ★周武王
O1a(M119) 日本人の1.5% 29800年前 ★禹
O1b1(F2320) 日本人の1.3% 28300年前 ★舜
O1b2a1a1(旧47z) 日本人の22.6% 7200年前 ★天児屋命
O1b2a1a2(K4) 日本人の7.6% 7200年前 ★高皇産霊神
O2a1b(IMS_JST002611) 日本人の6.5% 16700年前 ★劉邦
O2a2a(M188) 日本人の4.3% 23600年前 ★項羽
O2a2b1a1 (M117) 日本人の4.8% 17600年前 ★秦始皇帝
O2a2b1a2a(F444)日本人の3.7% 17600年前 ★朱蒙
O2b(CTS1754) 日本人の0.1% 29700年前 ★神農
Q(M242) 日本人の0.1% 28700年前 ★冒頓単于 邇邇芸命とか実在しない人間の遺伝子を同定されてもね 天皇は一重瞼だから華北の漢民族に決まってるんだよ
縄文人も琉球人も長江人もアイヌ人も全員二重瞼
天皇みたいな一重瞼は朝鮮人だよ >>787
こういう専門的な論文を紹介していただけるのは嬉しいです
英語かつ専門的で難解な内容なので読むのに時間がかかりまだ少ししか読めていませんが、この方はOは南方経由で北上したと考えられているようですね
歯列に関する話もでてきます
まさに僕がNOQRがスンダランドから北上したと考える根拠の一つです
またM347系統(ここではC4とある)がオーストラリアからしか発見されないのも、これは彼らがそもそもオーストラリアで発生しているからという可能性はないでしょうかね
またこれは2010年のものなので現在では意見も変わっているかもしれません
しかしこれを読むと、Cの中の一部はCのマジョリティと違って実際に南方経由で移動していた可能性もありますね
Cも二つのルートがあったという可能性を認めなくてはいけないですね
まぁまた時間をかけて読み込もうと思います
ありがとうございます 論文は10年経つと破たんして使えなくなってるものが
半分近く
Oが南方とか、考古学的にどう見てもギャグなんで、
もうとっくに破たんしてるよ >>791
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国系の
衣食住に関する生活痕遺構はない
繰り返す
縄文弥生を通して日本には中国大陸から渡来定着した事が証明できる中国系の
衣食住に関する生活痕遺構はない
. >>795
じゃあこの論文のCが南方系というルートも信憑性低いよね
俺の最新の予想のが正しい 確かに分子生物学って日進月歩で情報が更新されているだろうし(この論文中にさえ「意見が変わった」みたいなこと書いてあるし)、C北方系仮説の否定には至らないだろうな 八世紀の『隋書』倭国伝には次のような記事がある。「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。
これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとある。 Cは下ルートでほとんど考古整合しているから問題ないよ
問題があるのはOだろ
全く考古整合してないし、全く考古立証もできない
チンコロ学者の勝手な我田引水ルート
飛ばない場合は手動で飛ぶように
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97C_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AHaplogroup_C_(Y-DNA)_migration.png >>800
中国資料にしか載ってない人ですね
少なくとも日本の文献などでは現代でも古くからも天皇には姓はない
天皇に姓があったという主張は、僕の「Cは北方ルートを取った」「NOQRはスンダランド起源」並にトンデモ理論扱いされるでしょうw
多利思比孤はそもそも天皇だったかさえも分かっていない中国の文献にしか登場しない人物
阿毎(アメ)は「天」の訓読みに近いので、天垂らし彦、つまり天孫族に関係する響きです
多利思比孤に関する記述は日本側資料や文化とかなり異なっているのでその整合性を埋めるために、様々な解釈が行なわれています
まぁきっと姓がないからこじつけたか勘違いしただけでしょう
少なくとも天皇には歴史時代の例えば平安時代や鎌倉時代や室町時代などまぁどの時代でも姓がありませんよ 阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)は、古代の日本の皇室の姓である。その由来は『隋書』列伝第四十六東夷伝[1]にある。継体天皇(オホド/オオド/ヲホド)を祖として、『大化の改新』以降の天智天皇(中大兄皇子)の代に中国風の原氏(はる - し)と改姓して、今日の今上天皇(令和天皇)の代までにいたっている。
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概要編集
『魏書』第三十烏丸鮮卑東夷伝・『後漢書』列伝第八十五東夷伝によると、朝鮮半島南部の耽羅[2](済州島)で遊牧生活をしていた州胡こと耽羅鮮卑[3]と呼ばれる部族が存在したことが判明されている。
東京大学の教授であった江上波夫は持論の『騎馬民族征服王朝説』で、以下のことを述べている[4]。
三国時代以降の東晋の時代に北方からトルコ系匈奴・羯[5]・鮮卑[6][7]やチベット系の羌氐[8]などの遊牧民族が南下して中国北部を征服した五胡十六国時代に変遷した影響を受けいた応神天皇(慕容讃)[9]・仁徳天皇(慕容珍)[10]父子が耽羅(済州島)におり、鮮卑化したチベット系の羌氐の酋長である武内宿禰[11]の補佐を得ていた。
この父子はトルコ系遊牧民族で前燕・後燕・西燕・南燕・吐谷渾[12]などを建国した鮮卑慕容部の一支族の酋長として、同じトルコ系東胡の末裔で、ツングース系の穢(獩)貊(濊狛)[13]・沃沮[13]などとの混合民族である半農半牧の扶余[14][15](夫余)と鮮卑化したチベット系の羌氐と古代トルコ人であり現在の中国河北省北部に中山国を建国した白狄鮮虞部[16]の末裔などを吸収して、北魏(代魏)・東魏・西魏などを建国した同じ鮮卑拓跋部と同族で、南涼を建国した鮮卑禿髪部の酋長である烈祖武王の禿髪烏孤の甥で、景王の禿髪傉檀の子である禿髪破羌(源賀)の末子である禿髪阿毎を阿毎氏族の祖となった。阿毎が逝去すると、子の禿髪稚渟毛二岐[17]が後を継いだ。稚渟毛二岐が亡くなると、弟の禿髪意富々杼[18]が後を継いだ。意富々杼が亡くなると、弟の禿髪乎非[19]が後を継いだ。乎非が亡くなると、弟の禿髪汙斯[20]が後を継いだ。汙斯は亡父の諱を採って、禿髪氏から阿毎氏に改姓したという。
汙斯は応神・仁徳天皇父子らと連合して、朝鮮半島南部に移動しながら、耽羅(済州島)を拠点として、多くの部族を統率をしていた。やがて彼らは耽羅(済州島)付近にいた海洋民族である韓人あるいは汙人[21]を奴隷として舟を築造させて、日本列島に渡ったという。
日本列島にやって来た州胡(耽羅鮮卑)の盟主である応神・仁徳天皇父子は、中国南部・ベトナム北部からやって来た越人・呉人・荊楚人[22]が米作りを営む農耕民族であることで、これも奴隷として今までの肉を主食の風習を米食に変更したのである。さらに日本の先住民族である海洋民族の倭人[23](委人)をも奴隷として、河内国で河内王朝が成立され古墳時代に突入した。同時に朝廷の主要民族である鮮卑・扶余・白狄・羌氐などは越南人・呉人・荊楚人・倭人などと混血を繰り返して、これが大陸系の大和民族(和人[24])の成立の過程になった[25]。さらにアルタイ語族を骨子とする日本語[26]といった言語が同時に成立された。
阿毎汙斯は応神・仁徳天皇父子により、出雲国から若狭国までの日本海に面する広大な領地を与えられた。阿毎汙斯が亡くなると、阿毎男大迹(継体天皇)[27]が後を継いだ。その間に阿毎氏族は徐々に勢力を蓄えており、河内王朝にとっても脅威的な存在となっていた。 同時に、河内王朝の動向は、仁徳天皇の孫である大王(おおきみ)の安康天皇[28]は年代が近い叔父の大草香皇子(大日下王・波多毘能王)を誅殺して、その妻である異母妹の草香幡梭姫を奪うも、従弟である大草香皇子の子の眉輪王に暗殺された。安康天皇の同母弟・雄略天皇[29]が後を継いで、眉輪王も含む皇位継承権がある多くの親族を皆殺しして、河内王朝は衰退を極まった。雄略天皇の従孫である武烈天皇[30]は、応神・仁徳天皇父子の6世の孫・玄孫であり、稀代なる暴君であった。このころの朝廷はやや遊牧民族国家から農耕民族国家に変遷していたが、それでも部族間に争いは凄まじいものがあった。
扶余の一酋長でもあった大連の大伴金村は朝廷で権威を振るった挙句に、反乱を起こした平群真鳥・鮪(しび)父子を討ち取る功績を残した。だが、武烈天皇の暴虐ぶり聞いてこれを諌めるも、それを聴きいれなかった武烈天皇は佞臣とともに奴隷の殺戮を繰り返していた。この行為は殷(商)の紂王(帝辛/季受)に等しいものがあり、武烈天皇は諌める臣下を処刑したり、妊婦の腹を引き裂いたり、ある女性たちに数頭の馬と交尾させるなどなど、無限の暴政をおこなっていた。
これを見かねた大伴金村は武烈天皇の姉妹の婿である阿毎男大迹と密談して、武烈天皇を討伐するように計画を立てた。しかし、阿毎男大迹は武烈天皇の姉妹の婿のみではなく、その子の阿毎勾大兄[31](安閑天皇)と阿毎檜隈高田[32](宣化天皇)と阿毎天国排開広庭[33](欽明天皇)兄弟は武烈天皇の娘を娶っていた。
阿毎男大迹は悩んだ挙句に、出雲国から若狭国から軍勢を率いて、南下して大伴金村と呼応して河内国に攻め込んだ。阿毎男大迹と大伴金村の謀反を知った武烈天皇は激怒して、迎え撃ったが離反する臣下が続々と出たため、大敗して宮殿の奥に逃げ込んで火を放ち、自決を遂げた。武烈天皇8年12月8日のことであった。こうして鮮卑慕容部出身である応神・仁徳天皇父子を祖とする河内王朝はついに滅亡した。
阿毎男大迹は大伴金村をはじめ、物部麤鹿火[34]・巨勢男人らに迎えられて、大和国で即位した。これが継体天皇であり、大和王朝の始まりであった。ここで大和時代に突入したのである。それでも、部族間の争いは相変わらず凄まじかった。
歳月は流れて645年の『大化の改新』以降に、腹心の中臣鎌足(藤原氏の祖)とともに、積極的に中国文化を採り入れた中大兄皇子(天智天皇)は、皇室の姓を鮮卑風の阿毎氏から中国風の「原氏」と改称させ、君主の号を大王から天皇に改称させたのである。このころの日本朝廷は、ほぼ遊牧民族国家から農耕民族国家として変遷を遂げ、文明国家となったのである。 原氏(げんじ/はるし/はらし)とは、日本の氏族である。幾多かの系統があり、越後国にも異流の原氏などがある[1]。
原氏 (皇室) : この姓のみ「げん - じ」「はる - し」と呼ばれる。日本の皇室の姓である阿毎氏[2]が『大化の改新』以降に中国風に改姓したもので、現在の今上天皇(平成天皇)までいたる。この系統から皇別[3]として、橘氏・清原氏・高階氏[4]・在原氏・平氏・良岑氏(桓武源氏)・源氏などの庶家が出て、この系統は地方では貴種として尊ばれた。
原氏 (物部氏) : 物部氏一族の原国造を祖とする氏族[1]。
原氏 (漢氏) : 渡来系の阿智使主(阿智王/阿智吉師)[5]・都加使主(都加王/都加吉師)父子[6]を遠祖とする漢氏または倭漢氏(東漢氏/西漢氏)の系統である坂上氏の系統で原首(はらのおびと)を祖とする。摂津国嶋上郡原邑[7]を本拠地とした[1]。
原氏 (秦氏) : 古代トルコ系とされる渡来系の秦氏の系統で、秦原公(はたのはらのきみ)を祖とする氏族[1]。
原氏 (中臣氏) : 中臣氏の系統である荒木田氏の庶家。伊勢神宮の神官の氏族で、藤原氏とは同族である[1]。
原氏 (度会氏) : 古代に皇室に仕えた神官である度会氏(渡会氏)の系統である氏族[1]。
原氏 (藤原氏) : 藤原南家の工藤氏の系統。陸奥国を本拠地とした[1]。
原氏 (千葉氏) : 丹姓平氏良文流千葉氏(坂東八氏/房総平氏)の庶家。下総国香取郡千田郷原村[8]を本拠地とした。この系統は相模国の北条伊勢家こと相模北条氏(相模平氏)および、甲斐国守護の武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)に仕えた原虎胤(まさたね、胤元)[9]・盛胤[10]父子などが出た。通字は「胤」[1]。
原氏 (源氏) : 武家源氏の系統。約3系統ほど存在する[1]。
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E5%8E%9F%E6%B0%8F 天皇はソウル出身の漢民族だから、姓も含め、すべて中国風なんだよ 天皇が漢民族なら、神武天皇の御代から漢字記録遺物があるはずだろうがゴミカス
日本には5Cより前の漢字記録はない
竈や甑や皿や漢服や木沓や土壁の住居など、中国系の衣食住に関する生活必需文物や
住居も神武天皇の御代からあるはずだろうが
ゴミカスすぎる 伊都で硯が見つかってるよ
伊都は皇族の最初の移住地だ
金印もナノワノクニではなくイトコクと読むのが正しいと言われている 弥生時代の中国鏡は伊都国でしか見つかっていないから、
伊都国王は漢民族だよ 単なる搬入宝器やないかドアホウ
在地産の漢字記録遺物や竈や甑や皿や漢服や木沓や土壁の住居などの
中国系の衣食住に関する生活必需文物や住居がないだろうがボケナス
中卒相手にデマ飛ばすな悪党チンコロ 多利思比孤を例示された時はマニアックだなぁと思いましたが「原」氏?というのは聞いたことがないですね
今上天皇が原姓なんてあり得ないですよ
答えが見えてる議論を長々と続けてもしょうがないですが例えば、Wikipediaでも姓はありませんよね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81
天皇に姓がないというのは現代社会でも歴史の分野でも有名な話で日本史の授業で習うと思います
一方で天皇の子孫、例えば桓武天皇の子孫の平氏や、清和天皇の子孫の源氏などがそれぞれの姓を名乗ることはありますが、それは臣籍降下と言って皇室から除外される時においてです
皇族において苗字を獲得するということは同時に皇族でなくなるということです ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています