穢多・非人について語りましょう [無断転載禁止]©2ch.net
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穢多・非人(えた・ひにん)とは江戸時代の身分制度で士・農・工・商の下に置かれた身分の人たちです。 江戸幕府は農民や町人に「自分たちよりも、もっとみじめな人間がいる」と思わせて、武士に対する不満を和らげました。 彼らは町外れや荒れ地に住まわされ、人の嫌がる仕事をさせられ、人間外の人間のような扱いを受けて差別されました。 「穢多は人にして人に非ず」という言葉もあります。 穢多は芸能プロダクション社長(ジャニーさんとか吉本の社長とか) 非人は芸能プロダクション所属の芸能人 弾左衛門(ジャニーさん) 市川團十郎(SMAP) 離脱巡ってゴタゴタ ここは歴史版だ。 無関係なヘイトスピーチは該当板でやれ。 現代では ニート 氷河期 ひきこもり アラサー 非正規などが この階層ですなあ 今の小学6年社会の教科書にえた・ひにんのことが書いてないのはなぜですか? まだ穢多と非人の差が理解しきれてない 東西で差があることも難しい 網野善彦先生が「日本の歴史を読みなおす」(ちくま)の中で、えた・ひにんの 誕生プロセスを書いておられるのが興味深い。 元々「特殊技能集団」がいて排他主義(技術漏洩を防ぐため) →一般の人から畏怖されてた存在 →でも社会が定住農耕化してくと、そこに属さない集団を忌避 →ケガれと関わりのある業種は特に賎視される 神の使いであった売春もやる白拍子が後年はやっぱり、階級落とされてるし。 教科書が言ってた「農民に優越感を持たせるために生まれたランク」ってのは 疑わしい。 小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」 『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号 畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、 東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。 このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、 東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半 島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、 東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に 一致することは興味深い(以上、75頁) (追加)形質人類学的にみた未解放部落 われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調 査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。 (中略) 身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。 頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅 は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、 一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国 東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。 畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。 大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持 つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の 分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による) (大阪大学医学部教授) 現在の芸能界は穢多・非人の文化が発展したものである ネトウヨ戦死によると、現在の芸能界は在日が支配しているらしいけど 現在の芸能界も昔と変わらず在日も多いけどやはり部落出身者のほうが多いよ 今は伝統芸能以外は一般人が多いでしょ 出自不詳の自称部落民なら多いかも知れないけど いや今でも一般人は少ないよ。 部落出身っていうだけでコネで優先される。 特に今どき演歌歌手なんかやってる若手はほぼ部落出身と見て間違いない。 芸能関係っても旅芸人とか猿回しとかの伝統的なものってのは 被差別部落出身ってのが多いかもしれんが 近代以降の芸能界ってのは資産家が作った面も大きいからね 大昔はヤクザの親分も顔役的存在だったしね、政治や社会に密接した どこの国でも、芸能関係は被差別民族・階級のものだっただろう? >>32 部落出身と言っても先祖を江戸時代まで辿れる人ら何人いるのよ? 今は部落も混住してるし自分の先祖が被差別民だと確証を持って言える人なんて少ないんじゃないの? 運動団体の活動家にも部落に出自を持たない人が多いでしょ。 あの憧れのアイドルが実は部落出身なんてバレたらファンが泣くからそれはタブー 今の小学6年社会の教科書にえた・ひにんのことは書かれていない。 子どもにえた・ひにんの存在すら知らせないという今の教育方針は間違っている。 子どもに今でも部落問題が存在するということを知ってもらって部落問題について考えさせるのが本当の教育である。 穢多・非人をひらがなで書くのを止めるところからだ 穢多は穢れが多い 非人は人に非ず ひらがなだと本来の意味がわからなくなる 剣豪の故郷として歴史上で先行するのが東国の地である。 関八州は古来尚武の地であった。 平氏政権を倒して武家政治を作り上げるのに大きな役割を果たしたのが東国武士団である。 東国はその後の日本の武家社会を支えるエネルギーの培養源であったといってよい。 武技の伝統は鎌倉、室町時代を通じて、この地に脈々と生き続けた。 その脈絡の一つの中心となるのが、古来から軍神ととして崇敬された鹿島、香取の両神宮の鎮座する常総の地であった。 (原田伴彦・大阪市立大学名誉教授) ▼被差別部落の人口 (原田伴彦『被差別部落の歴史』より) 近畿50% 九州12%、中国12%、四国12% 関東05%、中部05% 其他04% >>23 貴あれば賤あり、と松本治一郎が言ってるな。 ただ貴あるのみ、ってのが民主主義だよな。 そこから、天皇制擁護はできないもんか、と思う。共和制になれば部落差別は消えるのか? 違うだろ。 >>38 元々はエッタと呼ばれていて、穢多という漢字はただの当て字だから。 >>43 意味考えれば違うことわかるやん >>39 文化的に栄える都市に被差別部落はできるからな >>45 意味とは? 穢多は後で当てただけの字だとのことだし、餌はゑだが 部落問題が学校で何も教育されなかったからみんな何もわかっていない <古代> @ 713〜715年(和銅6年〜霊亀元年) 『播磨国風土記』:村上足島等が上祖「恵多」の記載 A 935年(承平5年) 『和名類聚抄』:「屠児」の訓を「恵止利(えとり)」とし、「牛馬を屠り肉を取り鷹雞の餌とするの義なり」と解説 <中世> B 1275年(建治元年) 『名語記』:「河原の辺に住して牛馬を食する人をゑたとなつく、如何」「ゑたは餌取也。ゑとりをゑたといへる也」 C 1264〜1288年頃(文永・弘安) 『塵袋』:「きよめをえたと云うは何なる詞ばぞ」に対し 「根本は餌取と云ふへき歟。餌と云ふは、ししむら(肉叢)鷹の餌を云ふなるへし」 D 1296年(永仁4年) 『天狗草紙』:「穢多童」(穢多の初出) <近世> E 1644年(正保元年) 江戸幕府の公文書:「穢多」 >>47 差別はダメだっていうだけだしね しかも 近世政治起源説が大手を振ってたから >>40 韓国は共和制になって両班も奴婢も白丁も特定できなくなった。 >>48 古代の賤民である 官戸 稜戸 家人 公奴婢 私奴婢 との対照は? 【古代】 「エミシ」という言葉が、はっきりと「エミシ」と訓むべき言葉として出るのは、 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十月の条に載る久米歌の中においてである。 愛瀰詩(えみし)烏(を) 毘ダ利(ひだり) 毛々那比苔(ももなひと) 比苔破易陪廼毛(ひとはいへども) 多牟伽毘毛勢儒(たむかひもせず) 歌の大意は、「えみしを人は一人で百人にも相当する強者(つわもの)だと言っているが、 俺たち皇軍には抵抗もせずにやられてしまった」というほどのことである。これは道臣命 (みちのおみのみこと)が大久米部(おおくめべ)をひきいる神武の軍が、ヤマトに入る前に、 忍坂(おしさか)(=現桜井市忍阪。奈良盆地の南東隅)で敵を宴会に招き、敵が酔いつぶれた ところで一気に剣を抜いて殺してしまった後、戦勝を悦んで久米の子ら(=久米部の祖ら)が 歌った歌である。思いもかけぬ強敵を倒せたことの悦楽が歌われている、と言えるであろう。 「皇軍(みいくさ)大きに悦びて、天を仰ぎて咲(わら)ふ」と言われているのである。 http://www2.biglobe.ne.jp/ ~naxos/tohoku/emisi.htm 【平安時代】 空海は、蝦夷を「羅刹の流(たぐ)いにして非人の儔(ともがら)なり」(人を食う 鬼の類であって、非人=悪鬼の仲間である。)とか「人面獣心」と罵っているので ある。 http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-10.html 学問の神様菅原道真も、蝦夷の性は「狼子」であり、「野心」をもっているとのべ ているのである(『菅家後集』)。さらに、帰服した蝦夷である俘囚でさえも、 律令国家の渡来系の支配層や平民とは民族的に違うことから、『類聚国史』には 「夷俘の性、平民に異なり」とかかれているし、『日本三代実録』にも、「夷俘の 性、本より平民に異なる」などと記されているのである。 【室町時代】蝦夷がエタに 室町時代には、「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。 穢多の子はいつまでも穢多である」という差別意識まで記した史料が明確に現れ http://www.kyoken.jp/36/houkoku36/1houkoku36.htm >>52 稜戸以外は農地を与えられた農業従事者では? https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A3%E5%88%86%E7%94%B0 ・第27条 政府所有の奴隷(官戸奴婢)の口分田は一般人(良人)に同じとする。 私有奴隷(家人奴婢)の口分田は、地域の寛狭に応じ、並びに一般人の3分の1を支給する。 そういえば宗教の門徒も非人に分類された、という話を聞いたんだけどその辺はどうなんだろ? 何の本だったか忘れたけど、「京都八坂神社の犬神人は浄土真宗門主の棺を担ぐ役目を負ってい る。そして犬神人は江戸時代には非人に分類されている。八坂神社だけでなく叡山や、大和の神人 といった人は非人に分類されている。だから有力寺社の少ない関東近辺では穢多が多く、関西は 非人が多い」って書いてあった記憶がある。 という事は、大和筒井氏とかも時代が時代なら非人なんだろうか?と思ったんだが。 >>55 犬神人は早くから脱賤化してて江戸時代は町人の扱い。 > 清水坂の非人宿(そこの住人は犬神人とも称されていた)は、江戸時代には坂弓矢町となり、住人たちは賤民の境遇を脱したという。 『被差別部落一千年史』(岩波文庫/高橋貞樹著/大分県出身) P39 特殊部落の起源については、人種起源説と職業起源説の二種があるが、おそらくは古代の 被征服民族にして賤業を課せられた奴隷が、時代の経過とともに一定特殊の社会群に変じ、 さらに賤業を営むものが穢多族であるという観念に変わったものであろうと思惟する。 この推定には、最も多くの真理を包摂する。部落の遠き祖先は、原始の時代に遡る。特殊 部落の起源を考えるには、上代日本の被征服種族たる奴隷、不自由民、従って賎民について 見なければならぬ。しかしながら、当時における被征服種族が、穢多なる名をもって呼ばれ ていたのではない。当時の奴隷群、賎民のすべてが、後代の穢多となったのでもない。ただ 特殊部落民大多数の起源は、遠く古代日本の奴隷群にまで遡り得るのであって、穢多族とい う明白なる階級的存在を有するに至ったのは、遥かに下がって後代のことである。 明確に述べてはいないものの,このとき坪井が被差別部落民にむけた〈眼差し〉には, 日本先住民であるコロボックルの末裔の姿が投影されていたと見ることも強ち無理で はないように思われる。鳥居らに「むろや」調査を命じたのも,自身の先行調査をさらに 掘 り下げ,その学説を補強する材料を探す目的があったと考えられないだろうか。いず れに せよ,鳥居らによる調査そのものが,当時の人類学界の論争との関連で実施された こと, そこから被差別部落民のルーツが北方民族に求められたことは間違いなさそう である。 そして同調査において示された見解は,後に坪井や鳥居とも学問的親交のあった 民間史家・菊池山哉へと引き継がれることとなる。菊池は 1923 年の『穢多族に関 する研究』で先住民族起源説を説き,発禁処分を受けたことで知られる[前田 2004][礫川 2006]。 同書において菊池は被差別部落民を北方のウィルタ族と同系統の人種とし,彼らこそ先 住民論争におけるコロボックルの末裔であると唱えている。その際,菊池が根拠の一つ と してあげたのも,各地の被差別部落のフィールドワークで見聞した「室」である。 菊池は これを先住民族であるウィルタ族の竪穴式住居と同様の習俗とみなし,同族が北 方に追 われた後も内地にとどまった被差別部落民が今日に受け継いだものとしたので ある。菊池はかつて坪井や鳥居,大野らが唱えた説をさらに発展させることにより,「異 端の学説」 を打ち立てたのだといえよう。 形質人類学のデータ http://ryuchan56.269g.net/article/17864123.html 第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、 東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、 全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、 部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。 とし、 頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。 したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。 しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。 と書き、さらに、 大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。 おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。 と述べている(図2参照)。 http://ryuchan56.up.269g.net/image/ryuchan56-2013-07-12T11:25:23-1.jpg 重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、 中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。 つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。 一部の部落の話を 恰も全ての部落の話のように 捏造する話は嫌い 一部の部落の話をしてるのに 恰も全ての部落の話のように 勘違いして解釈する奴は嫌い >>55 中世非人と近世非人は別物 中世非人宿は近世では夙村になった 制度上は平民 小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」 『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号 畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、 東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。 このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、 東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半 島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、 東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に 一致することは興味深い(以上、75頁) (追加)形質人類学的にみた未解放部落 われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調 査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。 (中略) 身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。 頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅 は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、 一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国 東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。 畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。 大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持 つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の 分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による) (大阪大学医学部教授) >>50 族譜を調べれば簡単に分かってしまうのでは? >>55 と言うか、楠木正成が賤民臭いんだが明治に子孫が出てきたらどうだつたであろうか? 『河原ノ者・非人・秀吉』服部英雄 (著) という本を読んでみてください 部落の人は優しい。 関東大震災の時、朝鮮人が部落に逃げてきたのをかくまってあげたという温かいエピソードがある。 糾弾闘争のときは、殴る蹴るの凄惨なリンチをやってそうだが。 >>56 そうでしたか。大変参考になりました。ありがとうございます。 >>64 もありがとうございました。同じく参考になりましたが、これは資料をあげている>>57 にも共通 する事ですが、大切なのは関西では有力寺社の周辺に非人村が集まっている事例が非常に多いという 部分をもう少し重視した方が良いのではないか? と思っております。 民族性や制度史の観点で見る事も大切では有りますが、何故宗教と密接になったのか? 宗教の 門徒といった人達が何故この身分に甘んじたのか? が非常に興味深いところであります。 例えば少し話は違いますが、辻占い・民間陰陽師も非人の部類に入りますよね?明治維新で朝廷や 志士側が攘夷を主張した主な原因の一つである公卿利権、その中の一つに辻占いや民間陰陽師が 土御門家の教えを受け認可を得る必要があるという利権ですが、これはもう門徒と同義語だと思います。 この様に、穢多が皮革産業という立場から軍事に密接なのに対して、宗教に密接という点が興味 深いと思っております。 >>67 私は逆に楠木正成はヤンゴトなきお方だと思っております。ですから同時に夫人の一人であり、 正行兄弟の母であるとの説もある滋子についても信憑性が高いと思っております。 例えば重要な盟友である平野将監入道が、実は『宝珠院文書』によると持明院統有力公卿 西園寺家の家人であるとの記述があり、さらに正成とは以前から赤松円心と共に繋がりがある とも書かれております。 もちろんヤンゴトなきと言っても色々ですが、例えば時代は違いますが江戸時代の寛文九年 に「長谷三位殿嫡子」が「なはや十右衛門」の家へ強盗に入ったという事件があります。 もちろんこの一事件をもってどうこうは言えませんが、禁裏の方というのも決して「おほほ」 と上品ぶっているわけでなく、凶悪なやり手の方も存在していても不思議ではありません。 そして先述の繋がりと関連すると、むしろ禁裏関係の方では無いか? と思っております。 京都の古地図を見ていると、 エタ村というのがよく出てくる。 >>77 在ります。 今も語り継がれています。洛外に多いです。 松尾の江田溜、山崎の毛雁など在ります。 『被差別部落一千年史』(岩波文庫/高橋貞樹著/大分県出身) P39 特殊部落の起源については、人種起源説と職業起源説の二種があるが、おそらくは古代の 被征服民族にして賤業を課せられた奴隷が、時代の経過とともに一定特殊の社会群に変じ、 さらに賤業を営むものが穢多族であるという観念に変わったものであろうと思惟する。 この推定には、最も多くの真理を包摂する。部落の遠き祖先は、原始の時代に遡る。特殊 部落の起源を考えるには、上代日本の被征服種族たる奴隷、不自由民、従って賎民について 見なければならぬ。しかしながら、当時における被征服種族が、穢多なる名をもって呼ばれ ていたのではない。当時の奴隷群、賎民のすべてが、後代の穢多となったのでもない。ただ 特殊部落民大多数の起源は、遠く古代日本の奴隷群にまで遡り得るのであって、穢多族とい う明白なる階級的存在を有するに至ったのは、遥かに下がって後代のことである。 形質人類学のデータ http://ryuchan56.269g.net/article/17864123.html 第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、 東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、 全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、 部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。 とし、 頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。 したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。 しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。 と書き、さらに、 大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。 おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。 と述べている(図2参照)。 http://ryuchan56.up.269g.net/image/ryuchan56-2013-07-12T11:25:23-1.jpg 重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、 中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。 つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。 部落問題はオナニーと同じで子供は知らないほうがいいと思う 高校くらいで学べば十分だね 小中だといじめに繋がる可能性が高いしね 高校でもまだ早い。 俺は高校の修学旅行で広島の原爆資料館行ったけど全く意味わからなかった。 写真がグロかったことしか記憶にない。 穢多はずっと穢多のままだが 非人は善行があれば平民になれる、と聞いたことがある 穢多・非人の双方を分断していたらしい 非人にも非人頭、非人小屋頭、非人手下と序列がある 罪人である非人手下を管理する非人頭と非人小屋頭は基本的に世襲制 身分を管理する者がいなければ非人という身分自体が成り立たなくなる 非人の足洗いについて弾左衛門が 出した上申書によると 非人素性(非人として生まれた者)の 平人身分への復帰は不可で、 非人手下は非人に落とされてから 原則として10年以内に、縁者から願い上げが あった場合に、復帰が認められることが あったらしい エタの足抜けは不可 有名な例では、腕がいいと評判の エタ医者がいて、近隣の村から調法してるので 平人に引き上げてやってくれと嘆願が 出たが、幕府が認めなかったてのがある 逆に、エタと密通してた娘が咎められ 家族含めてエタ身分に落とされた例も あるし、藩によっては罪人が身分を 落とされる先が、非人ではなくエタと いうところもあった 近世賤民制解体過程の研究−畿内・近国を中心に− http://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-22520671/22520671seika.pdf 無宿の増加と身分−近代の見通し− 城付かわた村では、19世紀半ば頃人口は約700軒・3000人という大規模な都市的密集性をともなった集住形態となった。 嘉永5年(1852)の洪水や、慶応4年(1868)の諸物価高騰という自然災害、社会変動、経済変動によって、 同村の労働販売層や、経済基盤の弱い小商品生産者は大きな打撃を受けた。 19世紀には生計困難、経営困難にあった人達が無宿として析出され、 また例えば幼少期両親病死等の理由で家出−非人化−人別除帳−無宿というようなサイクルが進行した。 19世紀には把握された人口の拡大も多かったが、人別改めから脱落する傾向も顕著となった。 例えば嘉永7年(1854)「岡嶋皮田瀬蔵倅追放立帰無宿捨松」と「同村追放無宿善之助」は 「悪事之品」嫌疑で大坂京町堀五丁目の借家へ出入りしたところを召し捕られた。 両者はともに岡嶋村出身で(追放の上)無宿であった。 善之助は紀州安藤家家来岩瀬善十郎の娘で、嘉永5年に善之助と夫婦となっている。 追放された後は無宿となる以外なかったが、領外で身分違いの結婚を実現している。 要するに無宿化=身分社会から脱落を通じて従来の身分社会からの解放を実現している。 なお、無宿の増大化は、例えば文政11年(1828)〜同14年の入牢者の4割は無宿(かわた村出身の無宿を含む)であり、 天保飢饉時を挟む天保3年(1832)〜同9年の溜収容者の約半分は無宿・無宿非人であった(内4分の1はかわた村出身)。 このように無宿化は城下町・領内、百姓・町人身分の区別なく進展していた。 新たなる貧困層=無宿において身分区別は意味を持たない。かかる状況が大きく進展しつつあった。 >>86 >>87 今でも、うかつに関われば命が危ない世界だからな。 現実に東のほうの人が、興味本位で関わって やけどする事例が多いから。 網野義彦の本を読んでも、それとなく慎重な物の言い方をしているし 元特捜検事で、ヤクザの守護神になった田中森一と言う人の本では、 検察の中では、在日までは話が通じる、 ○○(著書の中ではきちんと書いていた、想像に任せる) は日本語が通じないとボロカスに書かれていた。 よくまあ、差別者認定されて糾弾されなかったものだと 感心するが、連中も田中森一には頭が上がらなかったのかねぇ >>89 穢多は血統差別、非人は罪状に由来した差別だからね。 >>95 田中は許永中のことを似非同和って書いていたけど、同和利権を得るためにわざわざBを名乗るのも少なからずいると言うから誰がガチで誰が似非でを見極める必要あると思う。 田中森一:同和、在日、ヤクザ……みんな出てくるわね。 大阪は、ヤクザと同和と在日をのけたら、誰もいなくなるっていうのよ(笑)。 地上げとかなんとか言ったら、みんな絡んでくるから。 よく警察が言ってたのは、1番話をしやすいのがヤクザで、次は在日だと。どうにもならんのが同和だと。 なぜかと言うと、在日までは日本語が通じるって言うわけよ。 同和の連中は日本語、つまり理屈が通じない。それぐらい言われてた。 夏原武:当時よくありましたよね、農地に同和団体のビルを建てて、役所から「だめです」って言われたら、 「差別だ」と騒いで、農地から宅地に無理矢理変えさせるというのが。 田中森一:ワシもそういう事件を大阪でやったんだよ。 市役所に「俺は同和だから、生活保護を出せ」って来るわけ。 窓口で「あなたは同和と違います」と言うと、「なんでお前がわかるんや?」と。 「ワシが同和じゃないと、どうやってわかるんや?」と。 「お前ら、何かわかる資料があるんやな」と。それが事件に発展した。 夏原武:『部落地名総監』のようなものがあるんじゃないかと言って、難くせをつける……。 >>98 同和ではなく同和紛いと田中氏も言ったらよかったんじゃない。 >>97 許永中も在日のはずなのに、なぜか同和団体の幹部になって いたのだよな。 日本史板なのに現代厨が沸いてくるんだよな 育ちの悪さか >>101 現代は過去とつながっているしなぁ どうしてもこのネタはこういったヤバい話、タブー話、政治ネタに つながってくるしな。 いくら民俗学的な話で研究している、純粋に学問として研究していると言っても、 すぐに差別だと言い出して、糾弾会に呼びつけられてしまうしな。 網野義彦の本を読んでも、その種の関係で相当気を使っているのだろうなとの 書き方をしているし。 >>98 マジでここまで書いていて、よく糾弾会に呼びつけられなかったものだと 感心しているよ。 出版社もここまで書けたものだと感心している。 穢多非人は江戸幕府よりもはるかに歴史が古いはずですがね >>103 昭和の間は、徳川幕府起源説が半ば公式見解となっていたな。 それに対して、疑義を申し立てた研究をしていたら 糾弾会に呼びつけられる騒ぎになっていたな。 もう糾弾会とかいいって 現代の同和問題なら人権板でやってよ 戦前・戦中期の水平運動における部落民アイデンティティと融和政策の相関に関する研究 http://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-21720247/21720247seika.pdf 1920年代をつうじて展開されたアナ・ボル論争をつうじて、水平運動内部で被差別部落民が「身分」的存在であるという理解が定着すると同時に、 その過程について以下のことが明らかにしえた。 アナ・ボル論争の性格に関しては、これまでの研究では指摘されてこなかった側面が浮かび上がってきた。 例えば、近年公開されたモスクワのコミンテルン資料の解析をつうじて、水平運動と第一次共産党の関係が判明した。 全国水平社内部のボルシェビズム派である全水青年同盟は、 当初、日本共産党内で直接行動による社会革命を目指していた佐野学らの影響を強く受けて結成された。 その後、ボル派が議会政治への進出容認へと転じると、彼らとアナキズム派との間で激しい内部抗争が開始された。 このアナ・ボル論争のなかで争点化したのが、被差別部落民の社会的定義をめぐるアイデンティティ論争であった。 被差別部落民の性格規定をめぐり、それまで被差別部落民の間では「民族」や「階級」という概念の間で揺らいでいた。 しかしこの論争をつうじて被差別民の自己理解は次第に「身分」へと収斂していった。 その背景として、1920年代半ば、福本和夫らによって本格的に日本に紹介・導入された史的唯物論の影響があった。 これ以後、全国水平社は被差別部落民が「身分」集団であるとして主張して社会と対峙し、様々な活動を展開してゆく。 この主張は融和運動の側にも積極的に受容され、これに呼応する形で融和運動からも水平運動との対話や提携が呼びかけられた。 その顕著な事例は有馬頼寧らによって起こされた同愛会および全国融和連盟の活動である。 有馬は被差別部落外の「一般国民」を、部落民に対する身分差別を行ってきた加害者であると規定し、 融和運動を加害者自身の「反省懺悔」の活動、水平運動の「姉妹運動」と位置づけた。 有馬は、それまで政府や部落外の人びとによって担われた部落改善運動が、差別の原因を被差別民に求めてきたことを強く批判した。 彼は明確に被差別民が日本人社会の構成員であり、部落差別を日本社会に残存する封建遺制の問題として位置付け、社会運動を繰り広げた。 融和運動に水平運動が与えた影響と政策への反映 有馬が率いる同愛会が中心となって1925年に結成された全国融和連盟の活動は、 1920年代後半には被差別部落に対する社会政策を求める国策樹立運動を展開する。 有馬らの活動の結果、昭和恐慌を経て1930年代には、大規模な予算措置を伴う融和事業が実現されることとなる。 1935年に策定された融和事業完成十カ年計画は、戦前期の融和行政の一つの到達点ともいいうる内容であった。 この計画には、融和運動・融和行政における上述した部落問題認識が色濃く反映されている。 これに対しては全国水平社も一定の肯定的な評価を下した。 そして日中戦争下になると、水平運動と融和運動の合同が画策されるようになる。 この運動は1940年には大和報国運動として具体化され、全国水平社と中央融和事業協会の合同案として浮上する。 しかし結果的には、この計画は実現に至らず、大和報国運動は空中分解する形で収束してしまう。 従来、この経緯については全国水平社の融和運動に対する抵抗の「敗北」や、 後者による前者の「統合」として否定的に評価されてきた。 確かに、それまで反戦を唱えてきた全国水平社の活動に引きつけてみれば、 戦時下の活動には戦争協力という顕著な負の側面が存在することは否めない。 だが皮肉にも1920年代いらい部落解放運動が求めてきた問題理解や施策が そこで一定程度実現されていたことも見逃すことが出来ない。 戦後長らく部落史研究をリードしたのはマルクス主義であった。 部落解放運動史研究は1950年代に本格化したが、当時、現実の部落解放運動は、部落民の解放を社会主義的変革過程のなかに展望していた。 これと同様の観点から、部落史研究においても研究の中心は水平運動の左派(共産党)グループの活動に向けられ、 国家や政府との対決の度合いをもって運動を評価する視点が支配的であった(当該期の最大の研究成果として、 部落問題研究所『水平運動史の研究』全6巻、1971-73年をあげることができよう)。 しかし80年代に入ると、左派に偏重した感のあるそれまでの研究にたいする批判や見直しの必要が唱えられるようになる(代表的な研究としては、 藤野豊『水平運動の社会思想史的研究』1989年など)。 こうした傾向は、80年代末から90年代初頭のソ連・東欧の社会主義圏の崩壊を受け、いっそう顕著になった。 そしてこの間、水平運動史研究は左派のみならずアナキストや社会民主主義者、さらに右派グループの活動にまで光が当てられるようになってきた。 また従来、官製運動として水平運動とは対立的に捉えられてきた融和運動についても見直しが進められてきた。 その結果、水平運動と融和運動の両方にまたがって活動が展開された事例や、両者間で行われた相互協力などの事例が発掘され、 単純に対抗関係だけで説明することには無理があると言われるようになり、従来とは異なる史観が求められてきた。 穢多・非人のような存在は安土桃山時代以前からあった。 江戸時代以後に制度化されただけ。 歌舞伎の中村家とか能の観世家は未だ賤民扱いなんですかねー? 芸能のような観念的な賤民と穢多・非人のような制度的な賤民は別でしょ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる