【古田史学】九州王朝スレ10里 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
古田武彦 1926年8月8日−2015年10月14日
古田武彦氏の九州王朝説を語り合うスレです。
節度を持った書き込みをお願いします。
前スレ
【古田史学】九州王朝スレ9里
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1490753614/ 短里・・・・・・周髀とは関係なく単に1/5だったりしてw
公孫氏が国土や勢力圏が狭いから1/5里を独自に使用してただけだったたりして。 >>601
>公孫氏が国土や勢力圏が狭いから1/5里を独自に使用してただけだったたりして。
公孫氏は女真人(満人)だから、商代(女真人国)以来の短里を1300年間以上使っていたのであろう。
魏志東夷伝の魏書引用部分(鮮卑烏丸)にも短里が使われている。
「檀石槐既立、乃爲庭於高柳北三百餘里彈汗山啜仇水上、東西部大人皆歸焉。
兵馬甚盛、南鈔漢邊、北拒丁令、東卻夫餘、西撃烏孫、盡據匈奴故地、
東西(南北)萬二千餘里(900km)、南北(東西)七千餘里(500km)、罔羅山川,水澤,鹽池甚廣。
漢患之、桓帝時使匈奴中郎將張奐征之、不克。乃更遣使者齎印綬、即封檀石槐爲王、
欲與和親。檀石槐拒不肯受、寇鈔滋甚。乃分其地爲中東西三部。
從右北平以東至遼、東接夫餘,濊貊爲東部、二十餘邑、其大人曰彌加,闕機,素利,槐頭。
從右北平以西至上谷爲中部、十餘邑、其大人曰柯最,闕居,慕容等、爲大帥。」 YouTubeアニメーション筑紫造磐井の乱そのものが筑紫造磐井の乱だった、悔しい気持ちは力作に繋がった。
磐井は立派だと思う。
物部麁鹿火は第二次世界大戦の元帥で大王の次の地位ですよ、
古事記と日本書紀に書かれています。
モノノベノアカオカ タツオ
諏訪大社と赤岡名字の分布も気になります。
磐井軍が多いので物部麁鹿火が一騎討ちに持ち込んだ説もあります。
最前線指揮の総大将は物部麁鹿火の他にツタンカーメン王や
アレクサンドロス大王、上杉謙信ですね。 古事記では軍事的地位の物部麁鹿火が上で軍事的地位の大伴金村が下。
日本書紀は政治的地位の大伴金村が上で軍事的地位の物部麁鹿火が下。
おそらく日本書紀は後から律令政治構造が重視され都合で書き換えたのだろう。 実は、僕は角川書店の易しい古事記しか読んでいない。
昔から日本人感性では物部が大王に次ぐ感覚で。
日本書紀は律令政治構造の為に内容を作り替えたとは聞いていた。 古代日本は大連は大王に次いで横にいる。
大臣は大王に次いで下にいる。
神武天皇が軍事的だった影響だろう。 もしかしたら大連に大臣が連で軍事的行動に参加した説も。 リベンジ モノノベ
大連の物部麁鹿火が大臣の大伴金村を連として戦争に参加させた説に、
物部の領地は大伴の領地より豊かで、
物部の邸宅は大伴の邸宅より豪華だった説がある。 日本書紀は律令政治構造の為の捏造で、
それ以前は古事記の首長合議制だった。 大連物部麁鹿火「大王!大臣を連として連れていくぞ!」
大王「勝手にしろ!」
大臣大伴金村「ひーっ!」
しかも磐井軍が多いので総大将一騎討ちに持ち込む物部麁鹿火はジャパニメーションみたいな世界だった。 日本書紀からの律令政治構造とは違う古事記の首長合議制の世界。 物部の領地は大伴より豊かで、物部の邸宅は大伴より豪華だった。 言いたい放題の成立はある。逆の説が教育界をリードしているんだから、これくらいは許される。
奥州藤原氏のやりたい放題成立も尊敬している。 ネットは世界だから日本社会常識が通用せず必ずしも日本社会優秀者が優勢では無い、
だがセロトニントランスポータータイプLLの長い方がネットに有利で、
世界の常識まで変える力があると言われています。 >>613
単に言いたい放題なだけならまだしも、激しくデムパ漂う凄まじい文章でなあ…… デムパだね。MiG-25が電子妨害戦に唯一防御できる真空管バリアのような。 アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト
[物部物語]
神武天皇以前の山城 大和の復権を目論む大和版嘆きの壁、
諏訪大社と赤岡名字の分布も参照、
モノノベノアカオカ タツオ
遺伝子検査と医療検査と史実のツマラナイ世界に身を置く。
いつまでも変わらない次元を大切にする。 遺伝子検査と医療検査と史実、変わらない次元を大切にする。
モノノベノアカオカ タツオ 遺伝子検査が重視される。 気がついていないだけ 正しい方が勝つ
それは永遠の勝利である 「2ちゃんねるが5chになっててビビった」 動物キャラが「2」を蹴って「5」にする動画も
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171001-00000007-jct-sci
↑
ふたつの2ちゃんねる「抗争」本格化 管理人同士が「よほどの事態」に陥った結果か?
https://www.j-cast.com/2014/04/15202259.html?p=all
5chに変わったらきっとまた爺さんが騒ぐに違いない >>625
普通に読めるし普通に書き込めるから、誰にもなんの問題もないだろう。 今、日本は古事記派と日本書紀派の二大流派時代です。 また邪馬台国畿内説Part282からの転写
>>187
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。・・・<
「南≠東」だから、始めから×。 日本の城は全て星座になるという説がある。
もしかしたら邪馬台国遺跡も、物部氏遺跡も星座になるかもしれない。
<赤岡龍男> 古事記について
何故、古事記が正確か?
それは自分の正統性を主張したい天皇だが、
若い編纂者は本当の事を書いてしまうため、
天皇と若い編纂者との綱引きになってしまう。
だから、古事記に本当の匂いがある。
日本書紀は完全に当時の政権的意図を中心にしている。
古事記は旧来の豪族の正統性を崩しにかかる、
古代の他の国の政権と比べて民主主義に近いかもしれない。
もちろん、今の時代の民主主義がより民主主義だが、
古代の努力が凄い、
現代の古事記解釈を、感情の僕から見たら、この内容ですね。 古事記は律令制以前の歴史は素直に描いているが、
日本書紀は律令制以前の歴史まで律令制で描いている説がある。 古事記は感情に素直で正確に記録されている。
古事記は当時の思考回路を素直で正確に記録している。 >>628
現実の方位としては東と南は明白に異なるが、記録文書に誤記や誤情報が乗っていないことの根拠としては薄弱すぎて× >>600
>夏の一里は長くて冬の一里は短いという謎の経験則があったとか、トンデモの極み
「夏の一里は長くて冬の一里は短い」とは、下記「陳子說之曰」の何所にも書いていない。
陳子說之曰:
@ 夏至南萬六千里,冬至南十三萬五千里,日中立竿測影。此一者天道之數。
Aa 周髀長八尺,夏至之日晷一尺六寸。髀者,股也。正晷者,句也。
Ab 正南千里,句一尺五寸。
Ac 正北千里,句一尺七寸。日益表南,晷日益長。
B 候句六尺,即取竹,空徑一寸,長八尺,捕影而視之,空正掩日,而日應空之孔。
由此觀之,率八十寸而得徑一寸。故以句為首,以髀為股。從髀至日下六萬里,而髀無影。
從此以上至日,則八萬里。若求邪至日者,以日下為句,日高為股。
句、股各自乘,并而開方除之,得邪至日,從髀所旁至日所十萬里。
以率率之,八十里得徑一里。十萬里得徑千二百五十里。故曰,日晷徑千二百五十里。” ツタンカーメン王が隕石刀で、天才的集中力を獲ていたのは有名だが、
日本古代王朝も隕石製品で権力者が天才的集中力を獲ていたかもしれない。
隕石サイコフレーム理論<赤岡龍男> 古墳時代の物部氏の邸宅は、大王の邸宅を上回っていたら、ヤバイね。
僕は、物部氏だから、嬉しいが。 やはり、物部氏は源氏長者と征夷大将軍を合わせた感じだな。
執権ではないか。 >>637
>僕は、物部氏だから、嬉しいが。
どのみち、阿波の忌部だよ。 @阿波 筑紫の造磐井は、九州王朝の末裔。
古代遺跡からですよね。 筑紫の造磐井は、九州王朝の創始者。
根拠
@ 磐井律令制定
A 元号制定(年号制定)継体元年(二中歴)=西暦517年
「継体」は、倭王武の政治体制を引き継いだのの意味
倭王武と磐井は別系統の王権
西暦502年〜516年は、武王から磐井王になるまでの混乱期。
B 磐井治世期間 西暦517年〜527年 なぜネット上にはデマや陰謀論がはびこり、科学の知見は消えていくのか:研究結果
https://wired.jp/2016/10/16/conspiracy-theory/
1年ぐらい前の記事だけど、陰謀論にハマる人は(ry
というもの。彼らの目に入らない数々の事実が実在する件。 新唐書に
「其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王,北距新羅,西北百濟,西南直越州」
とある。
日本の東海にヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の3王がいる。
北に新羅、西北に百済、西南に越州があるとあり、日本国が九州島であると言ってる。 つまり薩摩や屋久島、種子島あたりを倭国の東の海中と認識してたのか
種子島が九州の東だとよ >>645
いろいろ論点がありそう
・新唐書なので、既に倭国はなくて日本国しかないのに、畿内じゃなくて九州なのか?
・東の海に南部九州があると認識していたのは東→南の間違いか? >>645
素直に読めば、越=江南まで至近距離という認識だね。どう考えても地理認識に誤りがある
三国志でも江南に近いと説明してるし、地理認識が正しくない点に疑いの余地なしだ 風習が江南に近い、を距離が近いと勘違いされたんだろう 古田氏と言えば東日流外三郡誌
このスレの信者さんも信じているのかな? >>645
中国は倭国がずっと九州にあると認識していたということじゃないかな 倭国が九州にあるとしても、種子島が九州の東というのは方角誤認が確定する記述である点にかわりがない >>650
信じてはいないが、偽書だとする根拠もないな。 >>646>>647
其東海嶼中というのは、九州全域を指すとは読めないの? >>655
>>645の文は日本国の条の最後にあるので、
「其」は「日本国」を指すんだろう
ここでいきなり半島とかは指してないだろうね >>656
其=東海、と読んでみたんだけど、日本語的すぎるかな? >>658
日本語だと、日本は東海に在り、その東海の島としては、あの島もこの島もある、というような意味。 東海について散々書き殴ったあとでの場面転換で「其」と入れたのでない限り、「其」=「東海」と解釈するのは無理すぎるだろ >>660
日本が東海に在る、という記述があればそれで十分だよ。
日本語的な読み方に過ぎるのかな、という気はするけど。 >>661
>日本が東海に在る
だからチガウダロ
日本「の」東海に、薩摩や屋久島、種子島があると書いてるの また邪馬台国畿内説Part294で、ストッパーがかかったので、こちらに転写保存。
294の>>44
>Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。<
それなら、卑弥呼の都ではない、という事だ。
>意図的企画により建設された纒向遺跡は、
首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、
内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。<
武具も戦争も、卑弥呼の宮殿的様相も全くなく、
地方の大倭職の「市の祭祀」的 様相しかない纏向は、
卑弥呼の都足り得ない。
>金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、
庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。<
武具も戦争も、卑弥呼の宮殿的様相も全くない。
>古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。<
水が必要なのは、どこの古代集落でも同じ事。 >>662
とよまゆじゃないんだから、そんなにムキにならなくてもw
直新羅東南在海中島而居
使者自言国近日所出以為名
これを見ると、唐の東の海の中に日本があるという認識は、唐側には確かにあるようだ。
其東海嶼中又有邪古波邪多尼三小王
北距新羅西北百濟西南直越州
其がなにを指すのかはさておいて、そもそも、邪古波邪多尼を屋久島、隼人、種子島に比定すること自体が、なにも確実なわけではない。
邪古、多尼の二つが嶼なのに、隼人だけが嶼ではない?
日本の東の海にある島々と読むと矛盾をきたすと思うんだけど?
東海の嶼(日本)の中にこんな地域がある、という記述だと読めば、矛盾はなくなる。
中国語の読解にはまったく自信がないから、断定も強い主張もできないけどね。 >>524
どこまでの投稿に返事を書いておいたのか?が判らなくなったから、
取り合えず、この辺から。
>ここまで来ると妄想癖も重症だな <
ここまで来ると、大和天皇家一元列島支配の皇国史観の「大和説」者は、重症だな。
>魏の薄葬令ってのは、文帝本人の墓を薄葬にするよう求めた遺言であって、子孫代々の墓を薄葬にすることも求めてないし家臣の墓を薄葬にすることも求めてない。<
初代皇帝が命じた事は、後の皇帝が変更を命令しない限り、当然踏襲される。
>だから違反したからと言って官位剥奪されることもない。<
皇帝家もやらん事をしたら、当然「反抗の意思ありとして、にらまれる」。
>ましてや、禅譲により西晋朝に代わって以降には、いかなる人についても適用される余地すらない。<
勿論、王朝が変われば、にらまれる事になるだけ。
>薄葬令が邪馬台国に徹底して適用されたことにしないと都合が悪いとでも思ってるのかな。
だがいくら空想しても事実無根のものは事実無根だよ<
薄葬令は、魏の文帝の命令だから、晋朝には直接的制約はない。
つまり、卑弥呼は守らなければならないが、壹與は金印を貰っていないから自由。
>相手の発言を事実無根呼ばわりする君の方が圧倒的に事実無根だね、いつもいつも。<
相手の説明や史料実態を曲解捏造して誹謗宣伝するのは、
「南→東」などの嘘吐きダマシと同じように、
皇国史観教の大和説者の、いつもいつもの事だね。 >>533
>九州だと2世紀末か3世紀初頭頃には墓のサイズが小さくなってるから、
仮想の普及より何百年も開いてしまって畿内の場合より以上に論旨が破綻してるけど?<
年代記載もおかしいし意味不明な文だけど、
吉野ケ里も祇園山も平原も、別に「墓サイズ」は小さくなっていないよ。
>薄葬令というシロモノが出たと言って持ち出した張本人すら文面を省いてるんだが。
名前(通称)だけ紹介して中身を省いて騙そうとするインチキさんにこそ文句を言いなさいな、爺さん。<
薄葬令が魏の初代文帝の遺言なら、魏朝に適用され、晋以後には拘束力がない、
という事で十分だよ。 >>535
>妄想中の妄想たる短歩か、馬鹿馬鹿しい <
妄想中の妄想たる「南→東」などの嘘吐きダマシに続いて、
史料実態を6倍も間違った長里や、始皇帝の「1歩=6尺」の長歩か?。
馬鹿馬鹿しい 。 >>536
>>いや、禅譲して貰ったからには、西晋朝は、
変更を決めない限り、魏の皇帝の墓より大きく豪華にする事を控えるもの。<
>儒教軽視ゆえに魏が早期に衰退したと称して儒教立国にした晋が厚葬を取り締まったはずがないが<
魏の初代文帝の命令は魏朝内では、強制力を維持するが、
晋朝に変われば、強制性は薄まるもの。
>そもそも親魏倭王と同等の扱いを受けた親魏大月氏王が
薄葬令を受け入れたかどうかぐらい見てこいよ <
大月氏が、難升米らのような「魏の臣下」、になったかどうか?は知らんよ。 >>664
勝って読みして矛盾がないと主張しても通らないだろ >>544
>さて周牌算ですが、千里ばかり北の地点だけでなく南北回帰線や、夏至だけでなく冬至の影の長さも出ていますよね
それらの数値のうちで1つだけ、千里北の位置の夏至だけです
冬至の影は短里と全く合わない数値だし、回帰線までの距離も問題外に違ってます
どの距離も一理の長さがバラバラで、それらのなかにたまたま短里と同程度の長さのものが混じっているだけ、
誰がどう見ても偶然の一致としか思いません
その程度のものを短里の証拠と呼ぶような短慮な人とは論理的な会話は成り立たないでしょうね <
周髀算経が、(球体地球ではなく)、
周地付近の「大地平面」とみなせる地域での「一寸千里の法」の計測を出発論理にした事は、
南北の双方で「一寸千里」を計測した事からも自明です。
その程度の事も理解出来ないような短慮なアホとは、
論理的な会話は成り立たないでしょうね 。 >>546
>夏至の日の数値だけしか書いてないとか嘘を言うなよ
冬至の日の影の計算も一緒に書いてるし回帰線までの距離とかもセットだろ <
夏至正午の影長測定を論理の出発点にしており、
その論理で、冬至正午の影長の近似的測定値を求めて、
天空での太陽の移動範囲を計算してるんだよ。 >>548
>その千里北の位置の冬至の影の長さも一寸の差とかいてるでしょ
しかし短里で千里の位置では冬至の影の長さが合わないでしょ <
冬至も当然近似値だよ。 >>551
>夏至の日の影で一寸千里だと七十何メートルで近い値だったけど
4冬至の日の影では同じ一寸千里の記述から短里と大きく違う値がでたでしょ
それでは困るので書いてなかったことにしたの?<
夏至正午に比べて、冬至正午の太陽光線による8尺棒の影端では、
入射角が小さくなるなどのための不鮮明さのために、
最大的影端位置での近似的計測になっている。 24節気の影の長さが書かれており
一寸千里は夏至の日の影と周髀算経に
書いてあるのに、なんで冬至の影の長さを
議論しているのかわからない。 >>553
>あくまでも冬至の影の方の一寸千里は存在しないことにしたいんだね、短里説崩壊に直結するから当然だけど。
夏至の日の影だけしか書いてないと嘘をつくしかないよな。<
あくまでも冬至の影の方の一寸千里は、近似的測定値であるのに、
「間違っている」事にしたいんだね?、
周髀算経は、大和説崩壊に直結するから当然だけど。
夏至の日の影だけしか書いてないと、太陽の天空での移動の計測が出来ない、
という事を隠して、嘘をつくしかないよな?。 >>556
>明らかに原典を読んでない(翻訳すら見てない)門外漢が空想で文面を捏造して言いたいことだけ言ってるな
さすが九州王朝信者は妄想を働かせると生き生きしてくるようだ<
明らかに、原典を読めていない(翻訳すら見てない)門外漢が空想で、文面を捏造して、
言いたいことだけ言ってるな?。
まるで「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・サギシの大和説者と、そっくり同じだ。
さすが皇国史観大和説狂信者は、妄想を働かせると生き生きしてくるようだ。 >>557
この投稿は、
人種差別的殺戮戦争主義で「竹島戦争」を鼓舞扇動した・・・・「変則大和説」者の、
ssnの投稿だな。
・・・・は、放置しておきましょうね。 >>562
>根拠も述べずに同一文面の妄言を連続四回投稿か
よほど痛いところを突かれて狼狽えたのかな?<
キミが、周髀算経の、
「夏至正午の影長計測」が出発点で、
「冬至正午の影長計測」は夏至での測定の「応用的な近似測定」になっていて、
それで、太陽の天空での移動を知る事が出来た、
という事が読めなかったアホである事は、
もう何度も説明して上げたよ。 >>564
>棒の影の長さがある場所で夏至の時南北で1寸違うと記されている
そこは千里くらいの距離だからそれを一里で割ると75mくらい
なので周の時代の一里は75mだったに違いないという理屈か
古代の未発達な測量技術の結果を元に
当時の里の長さを断定するのはちょっと乱暴じゃないか?<
周代において、「里」や「尺寸」が存在し使用されていた、
という事を示す貴重な史料であり、史料実態であるのに、
それをむげに否定抹殺するのは、ちょっと乱暴過ぎないか?。
>しかも冬至やその他で一里の長さ換算するとバラバラになるなら
単に計測が不正確だっただけで<
いや、出発点の夏至正午の影長測定は、有効数字1桁程度の概数であり、
冬至は、影端位置が不鮮明になるから、ほぼ最長的になる近似的計測地を選択しただけで、
何の問題もない。
>短里なんて無かった証拠では <
「南→東」などの、史料事実を否定する嘘つきダマシの大和説者の、
「1里≒434m」の「魏志でに長里論」を否定する証拠になるんだよ。 >>566
>あるね 例えば冬至の時に棒の影の長さが1寸違う場所の距離は
A市とB市の七百里になりましたとあったとしてな
冬は南北で影の長さの差が大きくなるからな
それだけ棒の影の差が1寸になる距離は縮まるからな<
(球面地球ではなく)大地平面近似地域では、
夏至での一寸千里は、冬至でも一寸千里になり、変わらないんだよ。
だから、冬至で問題になるのは、
「太陽視角範囲」や「地面への入射角」に拠る影長端の不鮮明化であり、
周髀算経は、推定の「最大影長」での近似計測をしていた、という事になる。
>そのA市とB市の間七百里を一里に換算したら 夏至の時と同じく75mにならなければいけない
夏至と冬至で一里の長さが違うなんて変だろ?<
何を言ってんだい?。大地平面では、ほぼ同じだよ。
>その他の場所でも数値がバラバラだそうだし <
ほぼ同じだよ。
>つまり当時の一里は75mとは言えないわけだ <
つまり、当時の1里は434m位(長里)などとは全く言えないわけだし。
>本文読んでないから数値は適当だが <
頭が・・・・アホの、「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説のキミには無理だよ。 >>567
>どちらの側にもいえることだけど、<
「どちらの側」ではないよ。短里説側はほぼ成立するが、長里説側は全く成立しないんだよ。
>「周髀算經」というのは、天文学の専門書だろ? 専門家でもないというより、三角関数すら覚束ない歴史マニアがなにかの論拠にするのは無理じゃないかな。
「周髀算經」の解釈については、専門家の議論に任せるべきだと思う。<
周髀算経は三角関数など使っていないよ。
だから、小学生レベルでも分る「計測結果からの算術」だよ。
>どちらにしても、韓伝や倭人伝は、短里でなければとんでもなくデタラメな位置や距離が書かれていることになる。
倭人伝を歴史書としてみるなら短里として読むほかはないし、
短里がありえないとみるなら、倭人伝を歴史書として扱うのは無理だ。<
短里がありえないと見、長里だと言い張るなら、歴史書を扱う事が無理だ。
>都合のいいとこどり、みたいな解釈は、しても無意味だと思う。<
長里説は、都合のいいとこどり、みたいな解釈をしており、無意味だと思う。 >>568
>一里75mを周髀算經から割り出したと称するやり方よ 天文学数学関係なしに短里の根拠とするにはちょっとって事だ<
おそらくこの男も、周髀算経の「近似モデル」性が判らず、「何でも絶対断定」した解釈をして、
差異を見つけてそれで都合の悪い史料を否定抹殺しようとするサギシだ。
>ざっくりかいつまんで説明すると 夏至の時にA市とB市で棒の影の長さが1寸違います
A市とB市の間の距離は千里と周髀算經にあります A市とB市の距離を現在で測ると75kmです
なので75000÷1000で75 周当時の1里は75mだったのですってやり方<
それが、逆に「千里を近似計測する方法」になっている、という事だ。
>しかし冬至の時も影の長さが1寸違う所も測ったんだろう そういう記述があるそうだから <
違うよ。
夏至は「周地付近の同じ地点」とその南北千里での影長計測であるが、
冬至は「周地付近の同じ地点」での冬至の影長の近似的測定をしただけだ。
>それに多分冬至はA市C市で1寸七百里なんてあったとして
この七百里も1里75mに換算できなければ 短里が使われていた証拠にはならない <
前項のように、キミは冬至での計測が、
「周地付近の出発点での近似的計測」である事が、判っていない。
>色々記述があるそうだが夏至の時に測った数値だけが
1里75mであとがバラバラなら 1里ま75mだったとする証拠とは言えない <
バラバラではなく、ほぼ同じ近似数値だし、
「1里434m」位の長里が全く×になる数値だ。 >>570
>544の人が言ってるよ
夏至だろうと冬至だろうと 両方の数値が1里75mに一致しなければ
周時代の1里が75mの短里だったとは言えないんだ<
544の人は、おそらく「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・サギシの大和説者であり、
周髀算経が、夏至でも、夏至から帰納した冬至の影長からも、
近似的にほぼ「1里≒76〜77m」になる、という事が分らないアホなんだよ。
>夏至だろうと冬至だろうと 両方の数値が1里75mに一致しなければ
周時代の1里が75mの短里だったとは言えないんだ<
始めから大地平面の近似であり、影長なども近似であり、
長里の1里≒434mであったとは、全く言えないんだが。 >>572
>ザラコクは根本的にわかってないようだな <
ここまでのお前の議論相手は、私(ザラコク)ではないよ。
>何だよ夏至の日の時刻正午が一寸千里の条件て
北極星が書かれてようが何が書かれてようが
夏至と冬至で1里の長さが一致せんのはおかしいんだよ?<
夏至と冬至で1里の長さがほぼ一致しているから、おかしくないんだよ。
1里≒434mの長里では、全く一致しないんだよ。 >>575
>しなきゃおかしいんだよーん <
始めから「大地平面」近似だし、影長も近似値であるから、
「100%完全一致」する筈がないんだよーん。 >>578
>周の時代に使われていた短里が東夷に残り 魏ではまた別の里になったってことかな?<
後漢代末に周髀算経の再収集注釈があり、
魏の初代文帝の即位の詔書での受命改制方針で度量衡の統一の指示があり、
重臣たちが「周制への復古」の上表を提出したから、
度量衡は周髀算経の度量衡を採用する事になり、
役人たちは、周髀算経の度量衡を勉強して使用する事にしたんだよ。 >>666
墓のサイズが変わらなかったなら、薄葬令を受け入れて墓を小さくしたという想定が破綻してるってことじゃないのかな
すると、出土物の質素さは薄葬令とは無関係であって、財力が衰えたことを示してるだけってことじゃないのかな >>661
「其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王,北距新羅,西北百濟,西南直越州」
という記述を見て
>其=東海、と読んでみたんだけど
とか
>日本が東海に在る、という記述があれば
とか言ってるのを
>日本語的な読み方
と称するのがおかしい。こんなのを日本的と呼ぶな異端児
日本の東海(東にある海)に屋久島種子島や隼人の国があると書いてある、そう読むのがマトモ。
隼人が九州島じゃなく島国にいると誤認してるのも重要ポイントだ。倭国と隼人の間は舟運でしか往来できなかった、陸路ではつながっていなかったという事情を示してるからな。
まあ倭と隼人の間に敵国がいて往来できなかっただけなんだろうが、断片的情報を耳にした唐の側が東海中の島と勘違いしたんだよ >>669
矛盾が出る読み方を、勝って読み、というんじゃないか? >>688
>隼人が九州島じゃなく島国にいると誤認してる
>倭国と隼人の間は舟運でしか往来できなかった
>唐の側が東海中の島と勘違いした
ひとつの矛盾を説明するのに、三つの仮説を持ち出さないといけないのか。
人がひとつの嘘を守るために大ぼら吹きになる、という例はよくあるがw
もともと、邪古波邪多尼が屋久島や隼人の国や種子島だという根拠もどこにもないんだよね?
極論すれば、邪古波邪多尼三に小王がいたのかもしれないし、邪古波邪多尼三小に王がいたと書いているのかも知れない。
いずれにしても、日本からの使者が語ったことなのだから、誤認だとか勘違いだとか空想を前提にしてしまうなら、この部分は無視したほうがまだいいと思う。 >>691
日本語が理解できないの?
ひとつの間違った解釈を根拠を付けるには、たくさんの空想が必要だって言ってるんだけど?
倭人伝でもよく見られることなんだよね。 >>693
そうだね。
自分の思い通りにならないと気がすまないから、いい加減な解釈に空想で根拠を求めるんだよね? >>694
分かれば良いんだよ
もう二度と妄想は書き込むなよ >>695
君のことを言ってるんだよ?
相変わらず日本語が理解できないんだねw
それとも、やっぱり君の妄想が酷くなってるの? >>697
勝ち負けの問題じゃなくて、正誤の問題。
まあ、君が負けてるのは確かだけどw >>689
矛盾が出るのはおかしいと思いながら読むのが間違い
古い文献では事実誤認や誤伝や後代の誤写などで多くの間違いや矛盾が見られるのが普通で、
矛盾がない方が珍しいんだよ
聖書の暗号とかダ・ヴィンチ コードみたいなことができたらおかしいんだ >>699
間違いがあるのが普通だからといって、矛盾した読み方が正しいという保証が出てくるわけではない。
内容に間違いが多数あるなら、それはただ史料としての価値がないといってるだけに過ぎないから。
もちろん、僕の解釈を否定する根拠にもなりえない。
>隼人が九州島じゃなく島国にいると誤認してる
>倭国と隼人の間は舟運でしか往来できなかった
>唐の側が東海中の島と勘違いした
三つも仮定しないと成立しない、つまり間違いだらけの、「其東海嶼中又有邪古波邪多尼三小王」の解釈が正しいなんて、誰にも言えないだろ?
僕は自分の解釈が正しいと言い張る気はないけど、屋久島や隼人の国や種子島に比定する解釈よりはマシだと思ってる。
自由自在に位置も名前も比定できることになる。
「其」を日本としても、次の文字は東ではないかも知れないし、というか、実際、東に屋久島や隼人の国や種子島があるわけではない。
南を東ではなく、東を南に読み替える?
日本の使者には南と東の区別がつかない?
一般的な新唐書時代の読み方ではどうなのか、中国語の専門家の意見を聞いてみたいとは思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています