ゆるりと邪馬台国畿内説Pprt 302
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邪馬台国畿内説のスレです。
前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1510884650/l50
1、内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
2、倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
3、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
4、朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。
5、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、
伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。
他説も歓迎です カキコミは自由に語ってください
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なお個人攻撃や、不快感の与えるようなカキコミは止めて下さい
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できれば前スレを埋めてから書き込んでください。 >>101
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、阿波市の「建布都神社」で祀られている。 @阿波 >>106
>海の民とは関係ないということ
湖の民? @阿波 彦根辺りは息長の地とされるが‥
息長氏が彦根辺りを討伐して入植したんじゃないかな。 >>59
日本書紀 景行天皇条より
治世12年11月、日向国について行宮を建てて高屋宮と名付けて住んだ。
治世12年冬12月5日、天皇は熊襲を討とうと考え群卿を集め言った。
治世13年夏5月、ことごとく熊襲国を平らげた。
治世17年春3月12日、子湯(こゆ)県(宮崎県児湯郡)に行き、丹裳小野(たものおの)で遊興した。その時、側の者に言った。
天皇> この国は真っ直ぐに日の昇る国に向いておるな。
そこでその国を日向(ひむか)という。 彦根の稲部遺跡は在来の土器が中心。南に3qの斗西遺跡は、吉備など纒向とよく似た構成の土器が出土。
愛知川を挟んで敵対勢力が睨みあっていた可能性がある。 他のスレの話になるけど
当時、天皇はいなかった
と言っている人がいたよ
当時の日本に天皇はいない、
天王もいなかったとか 他のスレにも書いているんだけど
そろそろ頭のビョーインに行ったほうが良いぞ 極端な話をすると
当時、日本人自体いなかった〜みたいな話 【宋書 巻九十七 夷蛮伝 倭国】
興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大
將軍倭國王(中略)…詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事
安東大將軍倭王
(訳)
倭王武の時代に宋から使持節郡督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王の称号を受ける。
「三国史記 新羅本紀」
倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣を人質とした。 均貞に大阿滄を授け、仮に王子として倭国に人質として送ろうとした。
「三国史記 百済本紀」
(阿宰)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支を人質とした。 太子であった扶余豊は、かつて倭国に人質となっていた。 魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期〜後期(5〜6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。 ふひゃあーー
武内とりゃんめんがうがやふきあえずおーちょーでつながった
いぬがみせんせーのでんぱはでんぱではなかった( >>123
あっちはなープラズマせんせー相手しすぎや さんごくしきは後出しじゃんけんやなー
記事の出典が不明やし >>120
いえ、ここは「並行宇宙(パラレルワールド)」スレです。 宋書倭国伝・・・・・・・・・朝鮮半島は倭が支配している >>129
りょーしこんぴゅーたーでけーさんしたんか >>131
やよいどきもこふんもあるからのー
投げ馬国かのー >>133 についか
じょーもんのひすいの勾玉もでてたか(うろおぼえ 73日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:32:00.02>>75
邪馬台国は190〜270年の九州北部二十数か国の国邑連合で
武力で国家を形成するほどの力は無く、世襲じゃないシャーマンの女王を共立。
この時、対馬貿易が有ったので、魏が使者を寄こして倭人伝に記録が残った。
これだけが、邪馬台国だろ。
魏使を返した二六六年以降、東国平定の畿内、出雲の併合勢力が進攻してきて
筑紫が管理下に入り、対馬航路に任那建立、百済新羅の開拓で高句麗馬を搬入。
この三〇〇年〜四〇〇年で朝廷は甲斐、上州、信州、関東に御牧を広げた。
これが、大和朝廷の基礎だよ。 邪馬台国は無くなったw
卑弥呼の墓は筑紫の君の墓の下にでもなってる。 結局倭国大乱が九州限定か西日本全体かで決まるが、
高地集落性から西日本全体とみていいんだし、邪馬台国は畿内 >>137
>魏使を返した二六六年以降、東国平定の畿内、出雲の併合勢力が進攻してきて
ここが間違い。
むしろ崇神が大和入りする時代だろ。 弥生時代に手漕舟で瀬戸内海の遠距離移動が困難だったとすると、
高地性集落は局地的な小競り合いの結果のものとしか考えられない 300年以降、日本は百済を傀儡として
七枝刀、仏教、五教博士を手にいれた。
倭の五王は半島利権交渉で南京に渡航した。
これは、畿内朝廷につながる。 紀元前後に確か南海トラフ地震があったはず。
高知の地層で津波の堆積物を確認できている。
紀元後の高地性集落は、津波の教訓の結果の可能性も考えないといけない。 スレまとめてくれんかのー(めーまわった(りゃんめん対わにの話できるんならどっちでもええが 高地性集落と大乱を結びつけるのは考古学的にも最近は否定的かな
何れの時期ともずれるから お前に言っているんだよ
一度、戦争でもしてみるか? 博多に一大卒があるからな。
古墳時代に入ると益々畿内から兵が送られている。
朝鮮半島進出はこれを使ったのかもね。
朝鮮半島南西部に複数前方後円墳もあるしね。 そのときになってから、
泣いて謝ったりするなよ
それと、お前(自分の)の書いたことくらいは覚えておけ 帯方郡は313年までは有った。
日本は楽浪郡まで道を開き馬を移入した。
邪馬台国は270年まで馬を入れていない。
大和朝廷は400年までに
甲斐に高句麗馬の御牧を成功させた。 朝鮮半島南東部、洛東江付近に2世紀の日本列島の土器しかでない鉄鉱石採掘跡が見つかっている。
こっちは出雲か丹後半島からの進出かな?
4世紀以降、百済方面は畿内→九州勢力が進出。
新羅方面は、山陰勢力が進出していたのかもしれない。 「そのとおりでございます」
「私が間違っていました」
数年前、
このようなレス(返事)をしてきた人もいた
たしかヤマタイ関係のスレッドだったよ >>143
>紀元前後に確か南海トラフ地震があったはず。
>高知の地層で津波の堆積物を確認できている。
>
>紀元後の高地性集落は、津波の教訓の結果の可能性も考えないといけない。
新しい視点であり、興味深い。 >>142
>これは、畿内朝廷につながる。
何の根拠もないだろ。 横から失礼
ひょっとしてだけど、
アマテラス=卑弥呼?
ありえない? 三国史・・・・・・・・・・・朝鮮半島南「狗邪」は「倭国の北限」 サルタヒコというスレを読んでみた?
すがのゆやまぬし?
みやまぬし?
『松傾』のことだよ >>155
天照大神の方が時代が古い。
時代だけで考えると神功皇后。 神輿とか浦島太郎・・・
そのような話をしているでしょ?
サルタというスレ、読んでみた?
天孫(降臨)の話 随書・・・・・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬った。 wiki 天孫神話?
>天宇受売命が猿田毘古命を送って帰ってきて、
>あらゆる魚を集めて天津神の御子(邇邇藝命)に仕えるかと聞いた。
>多くの魚が仕えると答えた中でナマコだけが答えなかった。
>そこで天宇受売命は「この口は答えない口か」と言って小刀で口を裂いてしまった。
>それで今でもナマコの口は裂けているのである。 さかきばら事件
「向うの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう」
「口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。
その後は文句を言わなくなったという。」 どのスレッドだったかな、
このような書き込みばかりしている人がいたり
「カメみたいな・・・だなwwwwwwwww」
「猿wwwwwwwwwwwwwwwwwww」
なぜかゴキのaaばかり貼り付けていたり 竹取物語に出てくる車持皇子は藤原不比等がモデルだとか >>157 >>159
有難う
やはりあり得ないか 他のスレにも書いているんだけど、
以前から書いている
無断で、人の家の、
お金を使ったりするような事はするなよ
名前(家)や役職などを騙ったり 『ポリゴン事件』ググると
『ポケモン』
『銀?』という作品のキャラが出てきたり、
電気(電源)が何やら、故障してないか見てきて
と言う台詞が出てきたり >>159
神功皇后は海外の史書との比較から、120年繰り上げてあることが判明している。
卑弥呼とはかなり時代が違う。 『本当はクズだった偉人伝』
日本(日本人)の話だけを読んでみて ↑
そろそろ気づいた方が良い
荒せば荒らすほど、あんたの居るスレの品格が落ちる 1. 川で寸断される日本では、ろくに橋のかかってない三世紀には陸行一月する場所がそもそも地理的に存在しない。
2. 魏志倭人伝をそっくりパクって作った梁書では「陸行一月日」となっている。
3. 駢儷文の観点から一月はあり得ない。一月なら他と韻を揃えて三十日と必ず書いた筈。
4. この時代は旅行中は十日ずつ区切って占いをやっていた。だから水行十日とか水行二十日とか書かれている。
この意味でも陸行一月なら陸行三十日と書いた筈。
陸行一月は陸行一日の写し間違い。
すると、九州、出雲、阿波が候補 奈良は外される >>178
陸行一月はあっていると思います
倭人伝の行程から
1日なら記述する必用はないと思います
また、あなたの論で行くと畿内説も成り立ちます
「大和川で纏向近辺 陸行1日で纏向」 >>178
> 1. 川で寸断される日本では、ろくに橋のかかってない三世紀には陸行一月する場所がそもそも地理的に存在しない。
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 河川は川船で渡船
投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>180
>1日なら記述する必用はないと思います
こんな考えの人が一日を一月に誤記したんだろうな。 >>180
>1日なら記述する必用はないと思います
私もそう思います。 @阿波 >>110
>治世17年春3月12日、子湯(こゆ)県(宮崎県児湯郡)に行き、丹裳小野(たものおの)で遊興した。その時、側の者に言った。
>天皇> この国は真っ直ぐに日の昇る国に向いておるな。
>そこでその国を日向(ひむか)という。
そんなわけで、それ以前の筑紫の日向は宮崎県ではなく、福岡県西部の高祖山日向峠の周辺。
平原遺跡を含めて弥生王墓が集中し、魏志倭人伝には郡使が滞在するところと書かれている。 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。
「竺紫(とくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」である。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されている)
しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われているが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっている。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然である。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられる。
ただし、その他で「竺紫」が出てくる事例として、
ニニギ降臨時の「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」と「竺紫君石井」が見られるので、
後代に、「竺紫」と「筑紫」が混同されていったのだろう。 @阿波 北部九州は、記録、遺物、遺跡が多いから
ちゃっかりと取り込んで北部九州は、
他地域の出張所などと主張する人がいるが
本国より出張所のほうが大規模なわけで
その主張は通らないでしょう。 卑弥呼の時代に畿内の土師器が九州をはじめ全国に拡散。
これはその震源地である畿内に王権があった証拠。
したがって考古学者で九州説を言う人は高島さんをのぞいてほぼいない。 考古学の型式論や年代論については解釈の入る余地は余りないが、邪馬台国はそこから先
の話である。
巨大古墳は確かに地域内の権力集中の所産だが、強権的な権力集中が実現しやすかった
のは、政争の絶えない中央ではなく、服従し完全支配された辺境だったかもしれない。
実際、巨大墳墓の築造は時系列に吉備・山陰から畿内そして関東へ向かう。辺境だから
こそ実現できた可能性がある。つまり辺境の大将軍である。
また作られた土器が外部へ出ていく地域とその土器が持ち込まれる地域。当然土器には
モノが入れられていたが、この2つの地域間においてモノの移動を取り仕切っていたのは
どちらの地域か。
同じことは人間にもあてはまる。人間が出ていく地域とその人間が入ってくる地域では
どちらの地域が人の移動を主導していたのか。
移動した人間が支配者階級なら移動した先が従属国だろうし、移動した人間が土器を生産
するような労働力なら移動した先は宗主国の可能性が高い。そして考古学的に移動の痕跡
が残りやすいのはどちらの種類の人間だろうか。強権的な権力の集中が実現されていた
時代に、多くの支配者階級が存在したとは考えにくい。
考古学は古代の人々の生活を知る学問だが、いったん文献なしに政治を絡めだすと途端に
解釈の問題になる。だから考古学の限度をわきまえている普通の学者は邪馬台国を口に
しないし、論文もない。 などと言う妄想をニセスレに書き綴る無学な老人がいる >>199
ニセスレにふさわしい内容だとするなら、その必要はない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています