【九州説】邪馬台国は福岡県山門郡にあった!
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
*過剰なコピペは厳禁! 新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。
以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”
移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。 出雲市山根掘った方が早くね?(まあどこでもええですが
卑弥呼さんは伊都で狗奴は吉備から畿内のち近江若狭と連合(解決 久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」
(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が
「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする。 邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、
宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立している。
邪馬台国九州説の基本論拠は以下のものが挙げられる。
帯方郡から女王國までの距離を直線距離ではなく行程だと考えれば12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、
残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること。 九州北部に比定される伊都国から、邪馬台国への行程において、投馬国や邪馬台国への旅程日数を合算しても「2カ月」であり、方角が「南」であるため。
邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること
魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 筑紫平野
古くから指示されており、人口の多い久留米説を始め、平塚川添遺跡の甘木・朝倉説、八女説、吉野ケ里遺跡もこれに含まれる。
福岡平野
奴国があったと考えられる福岡平野に、これに隣接するように邪馬台国もあったとする説。伊都国や奴国から放射説行程とする説もある。
佐賀平野
唐津から松浦川沿いや現国道323号沿いなどの経路で佐賀平野に抜ける説。広くは吉野ケ里説もこれに当たる。
宇佐
経路などはともかく、八幡宮の総本宮である宇佐神宮を邪馬台国と見る説。 東遷説
神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷したという説がある。
白鳥庫吉、和辻哲郎が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され発展し続けた。 >>1
>邪馬台=大和=奈良(完)
やまとの地名は九州にもあるし
胆略的すぎるな、ありえんw 異説
古田武彦によって提唱された説に、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝(太宰府が首都)があったとする九州王朝説がある、古田は「倭」とは九州のことであり
「邪馬壹國」(「邪馬臺國」)は九州王朝の前身であるとし、その後、九州王朝が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。
邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者はかつてから存在しており、古くは鶴峰戊申から戦後では長沼賢海らがいる。 実は既に18年前の1992年に謎が解かれていたことを最近知りました!!
張明澄著『誤読だらけの邪馬台国』(久保書店刊)に書かれています。著者は台湾人で、魏志倭人伝の邪馬台国についての記述(漢文)を読み解いて、その位置をずばりと書いています。
https://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/dfa3241cf12432febe1480c01c9f5375
張明澄氏は、邪馬台国を「川内平野の阿久根」とされた。
帯方郡(ソウル
↓7,000余里
(渡一海)→狗邪韓国(釜山
↓1,000
対馬国(西ノ浦
↓1,000
一大国(郷ノ浦
↓1,000
末櫨国(佐世保)→100→不弥国(潜木
→100→奴国(大塔
→500→伊都国(塩田
↓2,000
邪馬台国(阿久根
以上の如くである!
https://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/41214268.html >>16
本によると魏志倭人伝を中国語で読まずに漢文読み下しで読んでいるせいだそうだ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 福岡県山門郡の歴史
日本書紀に記された神功皇后が山門県で土蜘蛛田油津媛を討ったとされる山門県に比定される
近世以降の沿革
明治初年時点では全域が筑後柳河藩領であった。
旧高旧領取調帳に記載されている明治初年時点での村は以下の通り(1町113村)。
柳川城下(以下省略)
・・・・・要するに、柳川藩のことじゃねえかwwwww >>18
それにしても
中国人に頼めば済むことやん 西日本の覇権の推移
倭奴国(博多)の覇権→倭国大乱→邪馬台国(筑後)の覇権→倭奴国残党の分裂
倭奴国残党の分裂
1博多に残って邪馬台国の支配下に=伊都国、奴国
2南九州(西都原)に移住=天孫降臨
3近畿(巻向)移住=神武東征
近畿移住組の立場
はじめは近畿の覇者ニギハヤヒ傘下の豪族→四国、出雲征服→近畿覇権奪取(崇神=ハツクニシラス)
九州の再征服
景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で九州政権滅亡→九州全域が支配下に
律令、神話の統一
大宝律令、古事記、日本書紀の制定 >>23
九州は半島南部も支配していた倭国
巻向は半島倭国からの帰来者と大和の豪族と組んだ新政府軍みたいな感じじゃないか? >>22
そう思うけど、それをした人がいなかったらしい。
「到」と「至」に意味の違いが読めていないとのこと。
ウィキペディアによるとこの張明澄氏は「漢学
『誤訳・愚訳 漢文の読めない漢学者たち!』(1967年久保書店)で、
『唐詩選』をはじめとする唐詩の誤訳や原文の間違い、意境の至らなさなどを痛烈に批判した。
(中略)
特に批判の対象となったのは、吉川幸次郎の「新唐詩選」や、前野直彬の『唐詩選』など、岩波書店から出版された漢詩の翻訳であり、
張は激しい調子で王翰の「涼州詩」などに対する吉川らの解釈を否定した。
発表当初は中国文学界からは黙殺されたが、
後になって漢詩解釈の専門家である松浦友久が張の説を取り上げ、吉川の解釈と比較して検証をしている。
松浦の検証によれば、王翰の「涼州詩」に対しては吉川の解釈も張の解釈も両方歴史的に見て正しく、
解釈として成立するものだという。(同著作選は研文出版)」
とのことで古典を読むのに長けた台湾人だから可能だったのかもしれない。 >>12
阿久根に遺跡があるの?
末廬国が対馬ではなくて佐世保と言う話だけど
現代的な距離感で訳して推測も入ってるな
地名からの解読を無視していいのか? 古代の作文には、今の我々には想像もつかないほどの厳しい字数制限があって、
書き方に多大の工夫を擁した。
代名詞・短縮形・省略形は無数にある。
そのぶん、読み・解釈に幅が出るのはやむを得ない。
一方は絶対に正しく、他方は絶対に間違いという硬直した態度では、読み解けないだろねえ。 張氏の説は絶対では
あり得ないとは思うが
張氏の説こそが魏志倭人伝なんだよな
張氏倭人伝を解読すりゃ
それが真実や 外国人だけに、九州の地理感・距離感ゼロだわ。
佐世保に阿久根じゃ、箸墓の二の舞、三の舞だな 『また一海を南渡して千余里、一大国にいたる』と続くが、
ここでの「千余里」が、現代の何キロになるかは分からない
と張氏は説明しているが、少なくとも「対馬国へいたる」
千余里と、ここでの千余里はほぼ同等距離でなければ
いけないとのこと・・・当然だろう。
そのため、「一大国」は「壱岐」に比定している。
距離が同等であれば、対馬国から「千余里」で行けるのは
「壱岐」しかありえないからだ。
(中略)
「壱岐」の次は「末蘆国」と「伊都国」になるが・・・
日本では、松浦と発音が似ているからといって、松浦半島の
「呼子」や「唐津」に比定しているが、百パーセント間違いだと
解説している。
なぜ間違いかといえば、距離は分からないが「千余里」は
等しくなければいけないのに、松浦半島では距離が短すぎる
からだ。
昔であっても、等しいか等しくないかはわかったはず。
さらにこの後、方位的に「南行」できなければ「邪馬台国」へ
行けないのだから、松浦半島では絶対に無理である。
「壱岐」から「千余里」で、「魏志倭人伝」に書いてある
通り、4千人程の人が住めて、その後「南行」できる場所は
「佐世保」しかありえないとのことだ。
地図を見てもらうとわかるが、「魏」から船旅をしてきた
一行が、落ち着いて船を着けることができる場所は、
湾があって、波も穏やかな佐世保ならベストだろう。
それ以前に、上記の条件がすべて合う場所がここしか無い。
https://kazunohi.exblog.jp/18859317/
https://kazunohi.exblog.jp/18865451/ >>31
古代と現代では地形も変わってるだろうから
さらなる解読は必要だと思う、かといって大きく離れた場所でもないはず
これまでの魏志倭人伝の信憑性0%と比べれば
張氏は50% >「壱岐」から「千余里」で、「魏志倭人伝」に書いてある
>通り、4千人程の人が住めて、その後「南行」できる場所は
>「佐世保」しかありえないとのことだ。
ここを四角四面に解釈している割には、その先がハチャメチャ。ま、20点。 『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』
「伊都国」を「糸島」としているのも間違いだと説明。
当時の方位、「千余里」の半分の距離である「五百里」。
これにあたる比定地は、現在の「塩田」だとしている。
『東南して奴国にいたるは百里』。
距離、方位、地形を考えると「大塔」に比定できるという。
ここで大事なのが、「到」と「至」の区別だ!
これを間違うと「邪馬台国」にたどり着けない。
ここで一番重要な点がある。
「伊都国」と「奴国」の「起点」だ!
「到」と「至」では、「起点」になる、ならないが
明確に違う。さらに「起点」になるならば、「従」「始」「又」などに導かれて着いた地点でなければならないそうだ。
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。
そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。
さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を
間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。
(中略)
では、何が正しいのか? 問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。
『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の
「起点」は「末蘆国」である。
しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。
つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。
さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、
やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。
「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。
これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、
それ以外の読み方はできないそうだ。
https://kazunohi.exblog.jp/18865451/ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 距離、方位等を考えると比定地は現在の「潜木」となる。
ここでひとつ矛盾が生じた。
実は「奴国」には「至」が使われていることだ。
つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になる
はずだが、張氏は違うとはっきり言っている。
「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に
「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、
「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まな
ければいけないそうだ。
つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国
へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」
へは行っていない、当然そこを「起点」にしてはいけない
ということだ!
https://kazunohi.exblog.jp/18921676/ >つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国
>へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」へは行っていない、
なんかつまりが多いな。
ま、それはそれとして、伊都国へ行った後に、同じ末蘆国からすぐそこの行かなかった奴国百里を書くのはダサいな。
陳寿は、そんなへまな文章は書かねえよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 海岸線は今よりも内陸にあるはずだから
とりあえず海岸沿いの町阿久根では無いな
阿久根よりも10Km内陸側にある地域が
邪馬台国だ! >>9
> 東遷説
>
> 神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷したという説がある。
>
> 白鳥庫吉、和辻哲郎が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され発展し続けた。 訳者は邪馬台国論争の経緯とか
日本の歴史とかには疎いのかな
鹿児島の隣の宮崎なら日向とか高千穂とか比定地はあるが >>42
「張氏は「魏志倭人伝」に書かれている内容を、忠実に訳しただけであり、本当に「邪馬台国」がそこにあったかどうかは別である。」
https://kazunohi.exblog.jp/19767540/ 鏡の刻印とかで
中国人ならすぐに日本製か中国製か分かるそうな日本製なら和製中国語で書かれてるから
しかし皮肉なもんだ、今なら日本製が有り難がれるが、古代では逆になるんだな >>43
決定打がなぁ...
なかなかうやむやっとさせるな しかし、巻向でどんだけ出土品が出ても
近畿が邪馬台国じゃないのは良く分かった
なんで畿内説論者は結論はさも近畿で決まったかのように思ってるのか >>43
要するに、伊都国放射説を改変した「末盧国放射説」ってだけのことだ。 >>48
「張氏の本を読む必要も張氏の解読した本の内容を受け入れる必要も無い。しかし、張氏が言う
1・語学的に絶対に無理が無いこと。
2・原文を絶対に修正しないこと。
3・国々の位置が陸上にあること。
この考え方を理解しない人は「魏志倭人伝」や「邪馬台国」を語らない方がいいだろう。」
https://kazunohi.exblog.jp/19767540/ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>50
2.原文を絶対に修正しないこと・・・、といっても、
行程上の国々の間隔がチョッキリ千里ずつで並んでいたと厳格に解釈するのは、いささか不自然で教条的だ。
人間関係・人間の行動に関することならともかく、自然現象は人智が及ばぬからな。 帯方郡(ソウル)
↓7,000余里
(渡一海)→狗邪韓国(釜山)
↓1,000
対馬国(西ノ浦)
↓1,000
一大国(郷ノ浦)
↓1,000
末櫨国(佐世保)→100→不弥国(潜木)
→100→奴国(大塔)
→500→伊都国(塩田)
↓2,000
邪馬台国(阿久根)
https://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/41214268.html 末櫨国(佐世保)は4000戸の大国で、
それ以下の4国のキーステーションのはずなのに、官も副も書かれていないのは不合理。 佐世保じゃないということだよ。
糸島平野の入り口なら、三雲の直轄地で良い。 佐世保じゃないということだよ。
佐賀平野の入り口の唐津なら、川上・伊都国の半直轄地で良い。 東南至奴国百里。官曰兕馬觚、
東行至不弥国百里。官曰多模、
両者を比較した場合、東南至、と、東行至、では、
行という動詞のあるなしで、決定的な違いを明示している。
台湾人は、ここんところを読み飛ばしてるようだ。 >>57
「日本では、松浦と発音が似ているからといって、松浦半島の「呼子」や「唐津」に比定しているが、百パーセント間違いだと
解説している。」
https://kazunohi.exblog.jp/18859317/
「なぜ間違いかといえば、距離は分からないが「千余里」は等しくなければいけないのに、松浦半島では距離が短すぎるからだ。
昔であっても、等しいか等しくないかはわかったはず。
さらにこの後、方位的に「南行」できなければ「邪馬台国」へ行けないのだから、松浦半島では絶対に無理である。
「壱岐」から「千余里」で、「魏志倭人伝」に書いてある通り、4千人程の人が住めて、その後「南行」できる場所は「佐世保」しかありえないとのことだ。」
https://kazunohi.exblog.jp/18865451/ >「なぜ間違いかといえば、距離は分からないが「千余里」は等しくなければいけないのに、
松浦半島では距離が短すぎるからだ。
↑これは、台湾流の読み方だな。
陳寿は、千里・千里・千里と、切り良く書いたのだ。
壱岐−唐津は、四捨五入すれば、十分すぎるほど千里なんだからなんの問題もない。 海岸線が今と違うだろ
まずは海岸線を特定してから
距離を当てはめないと意味がない >>60
それは出張報告書としてはNGだなw
別の人が再訪することができないじゃないか。 >>62
台湾人だからといって、中国語完ぺきとは言えない。
とくに陳寿の文章癖に精通というわけでもなかろう。
なお、日本の地理は関知せずというが、この問題は、地理に合わなければ何の価値もない。 >>63
>至一大国。官亦曰卑狗、副曰、、、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
ここで、南北に市櫂といっており、(南へ航路を取れ)と指示している。唐津を目指せということだ。 >亦南北巿糴。
台湾人学者は、↑この一節も見逃してるようだ。 魏志倭人伝の解読に関しては
ここで批判してる奴よりも
張氏を信じる
問題は海岸線だ
数キロずつ内陸側にずれるから末廬国は
佐世保じゃない、佐世保より内陸側にある所
似たような地名があればそこが末廬国だ 魏志倭人伝の邪馬台国は
鹿児島県阿久根市の山下地区じゃないか?
海岸線から数キロ内陸で
山下小学校の辺り >>73
対馬も壱岐も島だから南北に船で移動でき、交易を行うことが可能。
何の問題が? まぼろしの邪馬台国によると
弥生時代の海面は今よりも40m高く
福岡と有明海が繋がっていた おい地図見てみろ
福岡と有明海が繋がってたなら
陸行で佐世保から阿久根までかなりの遠回りになってしまうぞ! 本当に地質学的にそんな地形だったのか?
ソースは?
サイエンスのソース(「まぼろしの〜」以外の客観証拠)出してくれ! 有明海と福岡が繋がっていたなら
吉野ヶ里が末廬国じゃね?
弥生時代の吉野ヶ里は内陸部ではなくて
有明海沿いになるわけだから
そこから阿久根まで陸行でも水行でも南下するだけで
たどり着く
距離的には変わらない >>77
2000年前の古代の事にソースはって
そんなもん仮説に決まってるだろ
てめえで調べるか
ブルドッグソースたらふく飲んで氏ね >>79
調べもせずに地形が全然違ってたって仮定を置いたのか?
驚いた! >>80
お前がまぼろしの以外とか
小難しい事言うからだろ
ソースはまぼろし好きの人のブログだよ どっちにしても有明海今よりもかなり内陸部に
あって
佐世保から阿久根までは遠回りになる >>77
有明海沿岸低平地域における過去の海岸線の変化
www.ilt.saga-u.ac.jp/~hn_lab/lowland_mystery/ariake_shoreline.html 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>85
>>79と同じだ。リンクが切れてるけど。 いや、科学的ソースだから
なんか佐賀大のつながらなくなってるけれど、とりあえず
「有明海沿岸低平地域における過去の海岸線の変化 」でグーグルで検索して「画像」で見ると
図は見られるよ >>88
>とりあえず畿内では無い事は分かった
いや、山門のあたりは弥生時代半分くらい海だったって
いう科学的ソースが出てるんだけど? >>63
次回の現地ガイドも短里を使う倭人なら問題なし。 >>91
>次回の現地ガイドも短里を使う倭人なら問題なし。
短里を使う現地ガイドなど、どこにいるんだ?
倭人は里数を知らないと隋書が書いてるよ? >>90
やっぱり有明海は福岡県まで
行っちゃってるんだな、まぼろしの邪馬台国もまんざらでもない
しかし、張氏は日本の学者を全否定してるのが痛い、せめて地形を踏まえて解読して欲しかった >>94
>畿内は無いと言ってるが
それ、まったく根拠ないし、間違っているけれど、
ここは九州説のスレだし好きにしていいよ >>96
>根拠はあるよ
>魏志倭人伝に書いてある
「魏志倭人伝のどこに何がどう書いてあって、それがどういう意味だと解釈できるから
畿内はないという根拠になる」
というように書かなければ、何も言っていないのと同じ
つまり、根拠はないと言っているのと同じ
でも、ここは九州説のスレだから、好きにすればいいよ >>76
遠回りだろうが陸行一月でたどり着けば
問題ない、弥生時代の地形は今とは異なるだろうが町が古代から陸上にあれば
距離は変わらないだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています