邪馬台国纏向説が破綻した理由part4
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謎の人物達が、出現して、スレッドが活発になっているので、邪馬台国畿内説の宣伝係員が訳の分からない、呟きで、荒らし始めたな、、、 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
>自女王國以北其戸數道里可得略載
北に對海國も一大國も比定できない
>其南有狗奴國
南に狗奴國を比定できない
>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
東に海がない
>兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃
矛もなければ鉄もない
>住七八十年倭國亂相攻伐歴年
亂相攻伐の形跡がないもとより沼地で人がいない
>乃共立一女子為王
奈良の歴史では推古まで女王は登場しない 倭国は漢の時代にすでに金印を貰って冊封去れてた国
卑弥呼も金印を貰ってた位大陸との外交はきちんと出来てた国
ヤマト王権、大和朝廷は遣隋使の時代になっても外交儀礼が分かってなく国書を持たさず遣使したり煬帝を怒らせたりする
大陸の作法を分かってない国
倭国、邪馬壹國がヤマト王権、大和朝廷になったとは思えない 旧唐書の通り、日本国(畿内政権)が朝貢で現れるのは7世紀頃。
卑弥呼の時代は3世紀後半。
この400年ほどの間に元祖邪馬台国は滅びて伝説と化していたんだよ。
隋書で改めて文字を変えて紹介しているのは、伝説の邪馬台国とは異なるという事を意味しているわけよ。 小学生の作文
「朝起きて、顔を洗い、ご飯を食べて、学校へ行きました」
この↑ 文章を、畿内大和の小先生たちは小バカにする。そのため児童は、脳内の論理構造が壊れて、作文も先生も学校も嫌いになり、
長じては、ひねくれまわった文章を弄するようになる。その典型例が 444の>>1 であろう。
しかし冒頭の作文は、極めて論理的で簡潔で優秀な文章である。
生徒・学生・社会人として成長していくための基本中の基本といって差し支えない文章能力であり、
陳寿の作風にさえ通ずる。
ではあるが、どこがどのように優れているのか、畿内大和の小先生たちには理解できないであろうな。。。 >>6
>3世紀?のまき向と
>5世紀の倭の五王武までの流れがどうなってたか気になる
3世紀の纏向は王権ではない。
ニギハヤヒの末裔、物部の居住地。
だからこそ物部のイカガノシコメを母に持つ崇神天皇が纏向に生まれ纏向に宮を構えた。
その崇神は、大王であった大物主・アタガタスを倒し、その怨霊を怖れ、鎮魂の為に大神神社を建てた。 >>16
>この400年ほどの間に元祖邪馬台国は滅びて伝説と化していたんだよ。
記紀編纂時の7世紀の朝廷は、邪馬台国がどこか、卑弥呼が誰か、分かっていた。
だから卑弥呼=ヒメ后の時代を武勇伝で男王国であったかのような記述をした。
それが神武東征紀だ。
そしてその神武の時代をBC660年などととんでもない時代にずらした。
そうした卑弥呼隠しの理由は、卑弥呼から100年前の倭国王帥升に原因がある。
わざわざ渡海して後漢皇帝・安帝に謁見しに行った。
つまり日本の歴史が土下座から始まる、この屈辱的史実を隠したのだ。
卑弥呼が誰なのか分かれば、その100年前の帥升が誰なのかわかってしまう。
帥升とは神武やヒメ后から100年前、つまりスサノオだ。 >>19
>記紀編纂時の7世紀の朝廷は、邪馬台国がどこか、卑弥呼が誰か、分かっていた。
それが単なる想像なんだよばーか 邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか
1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4
2つ目の理由
箸墓古墳は大きすぎて、人民の少ない纏向では、馬がいないと製作できません。
箸墓古墳には、石や土を製作中の古墳の上に運んだ馬が通行した、スロープの痕があります。
朝鮮半島で高句麗の馬と馬主を捕獲した倭国と日本国が取引をして、馬と馬主を連れてきました。
倭国が新羅を降伏させて、高句麗の馬と馬主を捕獲したのは、4世紀後半です。
だから、箸墓古墳は4世紀後半に作製されました。。。
3つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。
4つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、タコの化石も硯もありませんでした。。
だから、墨汁が作れませんでした。。。
だから、文章が作成できませんでした。。
だから、広い領地を治められませんでした。。。
5つ目の理由
何十年もかかった、延べ数十万人の調査では、掘立柱の周りには、鉄と人民の家がありませんでした。。
そして、桃の種が発見されました。
だから、掘立柱は大物主の桃の倉庫の柱でした。。。 6つ目の理由
魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
だから、人民が都会を作れませんでした。
7つ目の理由
畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。。。
8つ目の理由
畿内説の宣伝係には、インターネットの掲示板での、悪質な荒らし行為を実行する人が多いです。
根拠が必要な討論では、敗北したからです。
だから、悪質な荒らし行為を実行する畿内説が、破綻しました、、
9つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。 倭王武が大和の天皇雄略だなんてのは、畿内説を前提にした話だよ。
倭王武は倭国の王、つまり九州の中にいた王でなければならん。
上表文にも「渡りて北の九十五國を平定した」とあるだろ。
それは朝鮮半島のことだ。逆にいえば、朝鮮半島の南、九州が倭なんだよ。
東の本州ではない。 卑弥呼のいた邪馬台国は、絶対に九州である。それも南の方。
大和などとは絶対に違う。
魏志倭人伝をもっと素直に読め。
そして、邪馬台国一族の子孫が東征して、大和朝廷を作り上げたのだ。
それは神武東征に投影されている。 三世紀の倭人伝を読み解くにあたり、
八世紀の記・紀・風土記を参照しつつ、
二十世紀の万世一系皇国史観のトラウマの下で解釈するから、肝心の卑弥呼の所都にたどり着けない。。。
事は簡単だ。
三世紀倭人伝の、阿蘇高千穂・卑弥呼の所都の実話物語を、
八世紀大和朝廷の小役人がパクって、天孫降臨高千穂の天照大神神話に脚色し直しただけのこと・・・、 >魏志倭人伝時代には、奈良盆地は沼地でした。
>だから、人民が都会を作れませんでした。
なるほど沼地だったのか。
では誰も住めなかった盆地を整備して住み始めた人々というのは九州倭人なわけだ。 実のところ、マキムクの実像は謎だらけだ。居住区画も見つからず、祭祀中心の宗教都市だったとも言われている。
搬入土器を持ち込み、大土木工事に携わったと思われる人々は、いったいどこに居住したのか?
仮説小屋に住んでいたから、痕跡が見つからないだけか? >>27
少なくとも、魏志倭人伝の邪馬台国の姿からはほど遠い。
そして、記紀では崇神らの宮とされている。
畿内説は史書を無視して歴史を創作している。 巻向遺跡の宮殿、景行天皇か、日本武尊の住居発見か!?ってな具合
で色めきたつのが普通だと思うんだけどな。
記述される年代に違いはあるとせよ、日本行程して統一したと思われる記述が
あるのはこの2人ぐらい。神功皇后の朝鮮関連は百済書の日本が侵攻してきた
のと照らし合わせれば邪馬台国から百年ぐらい先になる。
神功が邪馬台国時代と照らし合わせれば台与かもう一代先ぐらいだな。
大体、神功が卑弥呼で日本が朝鮮に攻めてれば魏志伝に書かれてないわけがない。
そう考えると、卑弥呼の時代に大和に居た天皇は景行天皇前後と考えて益々間違いないはずなんだが。
大体、景行天皇の都の名前:纒向日代宮 畿内説の宣伝係には、頭の悪い人が多いです。
だから、畿内説の嘘の宣伝が、国民に信用されません。 >>29
全くその通りです。
景行、崇神らの宮が纒向で見つかって、ヤマト王権の初期の姿がわかるはずなのに、なぜか卑弥呼がどうのという話になってしまっている。
記紀の否定が神代だけでなく4世紀や5世紀にも及ぶなんて、バカバカしい。
畿内説は日本の古代史の全否定みたいなものだ。
いい加減にして欲しい。 >>20
神武東征紀が誇張されてる理由、
そして神武がBC660年即位、
127歳没という理由が他に見当たらない。
あれば言え。 >>31
>景行、崇神らの宮が纒向で見つかって、ヤマト王権の初期の姿がわかるはずなのに、なぜか卑弥呼がどうのという話になってしまっている。
纏向説者には、景行、崇神の系譜で卑弥呼が誰なのかを説明してほしいよね。
その前に崇神(4世紀前半)の数十年前のトヨが誰なのかを説明してほしいよね。
卑弥呼もトヨも纏向にはいないから無理なんだけどね。 >>33
>卑弥呼もトヨも纏向にはいないから無理なんだけどね。
激しく同意 日本人が指導して台湾の特産品となった、樟脳(しょうのう)とは樟=楠くすのきから抽出する古来の衣服用防虫剤。
伝えたいのは、樟 は魏志倭人伝に出てきます。つまり、倭人は樟の育つ日本列島の暖地にいた。
奈良県の寒さでは、樟(くすのき)は天然自然には育たない。 「南」を「東」に読み替える場合、女王国から「北」の国は
「西」の国と読み替えますか。でも、それだとおかしなことに
なりませんか。 読み替えるのじゃない
詳しくは畿内説スレのテンプレを 魏の尚方で絶対に造ることのない神獣鏡に「魏の年号が刻まれている」。
この大きな不条理について、論らしいやり方で説明できた畿内説者は今後も登場しない。
呉が魏に臣従していた時代に呉で造られた神獣鏡に魏の年号が入っているとかいう説もあったが、
いずれにしても洛陽の尚方で造られたものではないことは事実である。
「ねつ造は古代にもあった」。
銘文なんてものは何とでも入れられる。銘文の年代が造られた年代だという保証はない。
さて、魏の年号入りの三角縁神獣鏡は、いつ・どこで・何のために大量に造られたか。
誰の目にも、おぼろ気ながら実相が見えてくるはずだ。 邪馬台国の問題は、結局、卑弥呼の時代における日本の姿を知ることだろう。
邪馬台国九州説は、だいたいにおいて、後の大和朝廷の時代と比較して、統合が
それほど進んでいなかったと見る。その前の段階と見る。
畿内説は、九州説よりももっと進んだ状態と見ている。
これだけは間違いがないみたいだ。 >>42
旧唐書で遣唐使が、日本(畿内)はかつて小国だったと言ってるだろ?
卑弥呼の時代から既に畿内政権が西日本を統制していたという畿内説は妄想し過ぎだ。 纏向を200年頃からとして、古墳時代を250年前後からとする人は三角縁の
舶載を認める考えなのかな?
国産と考えて、紀年鏡は後世に作られたとすると、その年代は無理だよね。
鏡全体の出土傾向を見てみると、新しくなるにつれて九州以外からの出土
の割合が増える。とくに、環濠集落の時期は九州以外での鏡の出土は皆無。
んで、どの鏡の時期から九州以外からの出土が始まるかと言うと、盤龍鏡、
キ鳳鏡、位至三公鏡などの魏晋鏡がそれ以前の方格規矩鏡や内向花文鏡と
同時期に瀬戸内〜畿内に流通を始めている。
上記の魏晋鏡のうち、位至三公鏡は300年頃に中国で流行した鏡である。
よって、九州以外の土地に鏡が持ち込まれるようになったのは、300年頃以降。
考古学的な相対年代でいうと、古墳時代はその後に始まっていますよね。
この状況でどうして古墳時代を300年以前という人がいるのか不思議です。 >>42
土器の様式は共通のものも見られるが、土器の流通は大和と筑紫が完全に別であることから、統合していたとは考えられない。
九州北部は魏志倭人伝にあるような帯方郡との交流が多く、畿内には帯方郡との交流の痕跡が皆無だ。
帯方郡の郡使が訪れた邪馬台国がどこだったのかは明白だ。 >>42
まあその通り
だから畿内は倭人伝と合わないんだよ
畿内説だと卑弥呼が登場して万々歳、古墳と鏡で覇権を広げてったつーんでしょ
倭人伝の方はってぇと卑弥呼共立前は
>住七八十年倭國亂相攻伐歴年
こんな状態で卑弥呼の時代も
>倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状
卑弥呼の死後は
>更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人
っていう国情なわけ
連合国家というより反乱分子を抱えた国家連合ととらえた方が倭人伝の倭国を理解出来ると思う
統合が進んで中央集権に向かう2〜3,4世紀の畿内は倭人伝の倭国とは実状が離れてるんじゃないかな 巻向説が破綻した理由は2世紀前半の男王の墓を示せ其のないから。 弥生時代は土器に地域性があるから、独自性があってもいいと思う。
弥生後期が何を意味するのかわからないが、北九州と畿内を無理やり合わせる
必要はないのではないかな。
重要なのは、池上・曽根遺跡から出土した木材が年輪年代法によって紀元前52年
とされ、それによって、畿内第V様式が100年ほども遡ったこと。
これは重要で、それまでの考古学の常識からすると100年もの違いがある。
それにつられるかのように、庄内式を含め全体的に年代が遡ったこと。
前にも書いたが、年輪年代法による測定結果が妥当だとしても、伐採した
時期と使用された時期が異なるのは、当たり前のようになっている。
誤差が500年あるものもある。つまり、紀元前52年に伐採されたものが
いつ使われたかどうかはわからない。
年輪年代法が正しいとしても、確実に言えるのは紀元前52年より前ではない
ということだけである。つまり、従来の説も十分の可能性がある。
にもかかわらず、第V様式は100年も遡った。
年輪年代そのものにもブラックボックスとの批判もある。
また、C14については、誤差がかなり大きいというのは外国の例でも明らか
である。
年輪年代法の結果によって年代を遡らせたことについて疑問を持つのは
当然だと思う。 良く、考古学的には、畿内説という声を聞く。
しかし、考古学はもともと古代の「文化」を研究する学問。
歴史的なことに口を出すのは、畑違いなのである。
その証拠に、文献に記述のない時代、たとえば弥生前期や中期の歴史的ことは、
考古学では全くわからないといっていい。
どういう人物がいて、何をしたかなどを考古学で知ることは出来ない。
また、そういうのは考古学ではなく歴史学の分野である。
邪馬台国問題も同じで、魏志倭人伝などの文献がなければ、弥生前期などと
同様になる。考古学では、邪馬台国などの国の名前もわからないし、卑弥呼の
存在すらわからない。
卑弥呼が魏から鏡をもらったこともわからないし、径百歩あまりの墓を
作ったこともわからない。
だから、考古学者の多くは邪馬台国問題には首を突っ込まないと思う。
これをいうと、語弊があるかもしれないが、少なくとも良識のある考古学者
ならば歴史学的なことについて断言するようなことはないと思う。 木材の伐採年代からどれほど経過してその木材が使われたかは分からない。
しかし勝山古墳の木材は祭祀に使われたといわれている。
普通、祭祀に古材木は使われないであろう。
ならば勝山古墳の被葬の時期は3世紀前半である。 前方後円墳の分布状況も邪馬台国が畿内にあったとする根拠の一つなんだろうが、果たしてそれは根拠になり得る
のであろうか?
前方後円墳を築く勢力の影響が畿内から地方へ広がったとは言えるかも知れないが、その前方後円墳を築く勢力が
卑弥呼の時代の邪馬台国と言える証拠はない。箸墓は卑弥呼の墓だというのは”推測”だが、証拠がない。 そもそも魏の使いが九州北部までしかきた記録がないのに、卑弥呼の人となりを記録しているわけで。 流れとしては
1.前方後円墳は箸墓など大和が圧倒的にでかい。だからヤマト政権
2.前方後円墳は2世紀後半から築造で卑弥呼からそれほど隔たっていない
3.従って、邪馬台国が大和にないと、邪馬台国からヤマト政権にかわるには時間的余裕がなさすぎ
4.逆に、大和説なら邪馬台国が発展してヤマト政権とスムーズに説明できる
ということかと思う 並行して存在していたで説明できる。
弥生時代の交通量では統一政権を維持できなかったということだ。
魏志倭人伝では、海の東にも倭種がいると買いてあるし。 真実を究明するためのスレッドが、足りないのでは、ないのかな、、、 韓国大好きな連続句読点の立てたスレはすべて糞スレ。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 連続句読点の頭は2013年からずっと破綻している。。。 韓国大好きな連続句読点の立てたスレはすべて糞スレ。。。 995日本@名無史さん2019/05/16(木) 20:29:43.54
>>994
それ、査読で落ちるから >>71
僕達が査読したので、奥山氏の作製したテンプレートは、不採択になりました。。。 僕達が査読したので、奥山氏の作製したテンプレートは、不採択になりました。。。 僕達が討論会に不在の間に、発表されたこの一番長い意見は、どういう意味だろうか、、、
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
>>889
>数字で真っ向勝負できない畿内説w
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方
九州説では、残り千三百里だから九州としか言わないが、
ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
水行20日+10日、陸行1月をどう里数に換算するのかも、一切考察しないww
九州説はでたらめでいい加減 >>81
日本の天皇・・・皇族に聞いてもわからない話だよ、
なぜだと思う?中身は朝鮮人だから
本人のところに行き、
聞いてみればわかることだよ >>80
その意見は長いだけで、短くまとめると、
五行説との対応で、それぞれ萬二千里とされている東西南北+中央之極が、帯方郡から女王国までの距離に等しいと、中国人が考えた、、、
という、脳が破損した者だけが考え付く頭の悪い意見なのでは、無いのかな。。。
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
>>889
>数字で真っ向勝負できない畿内説w
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方
九州説では、残り千三百里だから九州としか言わないが、
ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
水行20日+10日、陸行1月をどう里数に換算するのかも、一切考察しないww
九州説はでたらめでいい加減 呟き荒らしが出現して、僕達に話しかけてきたのでは、ないのかな。。。
82日本@名無史さん2019/05/23(木) 13:44:09.74
>>81
日本の天皇・・・皇族に聞いてもわからない話だよ、
なぜだと思う?中身は朝鮮人だから
本人のところに行き、
聞いてみればわかることだよ 呟き荒らしが出現して、僕達に話しかけてきた内容は、天皇に対して礼儀が悪いな。。。
82日本@名無史さん2019/05/23(木) 13:44:09.74
>>81
日本の天皇・・・皇族に聞いてもわからない話だよ、
なぜだと思う?中身は朝鮮人だから
本人のところに行き、
聞いてみればわかることだよ 上皇陛下は九州説か畿内説かと聞かれて「僕にはわからないよ」と答えていたな。 これも僕達が、何度か、具体的論理的に説明した質問なのだが、
邪馬台国畿内説では、会稽東治をどのように、認定しているのだろうか。。。
940日本@名無史さん2019/05/23(木) 12:12:52.46
>>933
では「距離があてになる」と言うなら
「会稽東治之東」になる理屈を
史料に沿って具体的論理的に説明してもらおうか
出来ないなら、ここでも九州説の負けだ 上皇陛下は九州説か畿内説かと聞かれて「僕にはわからないよ」と答えていたのは、やはり、天皇家が邪馬台国とは、関係がなかったからだという可能性の方が、そうでない可能性より、高いな。。。 >>83
>ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
イミフ
言い訳を考えすぎて破綻した? 関係ない・・・、
天皇というのは中国の話でしょ
日本の天皇は倭人だよと言ってる人がいたり
倭人というのは、
むかーしから住んでいて先住民(不明)みたいだし 言い訳を考えすぎて脳が破損し、考えがまとまらないまま、発表したのではないのかな。。。
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
>>889
>数字で真っ向勝負できない畿内説w
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方
九州説では、残り千三百里だから九州としか言わないが、
ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
水行20日+10日、陸行1月をどう里数に換算するのかも、一切考察しないww
九州説はでたらめでいい加減 『日本国王 足利』
この時代でも倭人と同じ
あと秦人や漢人も日本に住んでいた、
むかーし来ていた人々(すでに日本人) 秦人・・・調べてみて
漢人というのは中国の人、漢民族? 五行説との対応で、それぞれ萬二千里とされている東西南北+中央之極ということと、帯方郡から女王国までの距離が萬二千里であるということは、全く関係がないのだが、
この、五行説との対応で、それぞれ萬二千里とされている東西南北+中央之極ということと、帯方郡から女王国までの距離が萬二千里であることに、関係があるという意見には、
五行説との対応で、それぞれ萬二千里とされている東西南北+中央之極ということと、帯方郡から女王国までの距離が萬二千里であることに、関係があるのだという理由が、全く書いてないな。。。
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方 長い文章なので、余計に笑いリラックスできる意見なので、貼り付けて笑えば良いな。。
904日本@名無史さん2019/05/23(木) 11:25:56.77
>>889
>数字で真っ向勝負できない畿内説w
山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。
五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
こうやってきちんと萬二千里を数字で考察しているのは畿内説の方
九州説では、残り千三百里だから九州としか言わないが、
ならばなぜ、その千三百里が里数で書かれないのかを一切説明しない
水行20日+10日、陸行1月をどう里数に換算するのかも、一切考察しないww
九州説はでたらめでいい加減 これも僕達が、何度か、具体的論理的に説明した質問なのだが、
邪馬台国畿内説では、会稽東治をどのように、認定しているのだろうか。。。
940日本@名無史さん2019/05/23(木) 12:12:52.46
>>933
では「距離があてになる」と言うなら
「会稽東治之東」になる理屈を
史料に沿って具体的論理的に説明してもらおうか
出来ないなら、ここでも九州説の負けだ 距離に関してはクシャーナ朝よりちょっと遠目の距離にしただけやろ
漢の歴史書見ても朝貢国までの距離は結構いい加減
だから途中までは里で書いてあっても突然日数に変わる
正確なことを書くとクシャーナ朝よりずっと近くになってしまうし、
かと言って詳細に書けば後で突っ込まれるからボカしたとしか思えない 淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。
淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある。
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある。
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある。
女王国とは倭奴国のことである。
一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。 なぜ天皇や皇帝を自称しているんだ?
みたいな事を言われたんだろう・・・、
日本に住んでいる人々(もともと中国〜渡来系)から
ちゃんと中国まで行き・・・とか どのスレだったかな、
南朝ばなし(不明)だろう?と言ってる人がいたり
南北朝、中国の南朝? 『長州 チョン州』
こういう話も同じ、
戦争というのがあって、日本は負けたんでしょ?
中国は? カエル、儀式といえば諏訪大社だよな。
纏向から諏訪に移動したという話ならあり得るかもしれないが。 邪馬台国畿内説という仮説は、仮説のまま、完全に破綻しました、、、 邪馬台国畿内説という仮説が、仮説のまま、完全に破綻したのは、箸墓古墳で、猟師がもつれて転がり畿内馬具が目の前にあったからでは、ないのかな、、、 畿内説が破綻した理由を解明してください。
2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
<馬具研究史より>
樋口隆康「鐙の発生について」(1972)は、中央アジアの騎馬民族に
鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に
足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、
中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。 コミュニケーション能力のために使用できる脳が破損していても、していなくても、猟師のもつれでは、情報を共有できるだけで、自分の伝えたいことは、絶対伝達できないので邪馬台国畿内説は、破綻しました。 >>106
>2001年12月
>「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
投棄した、ってひどいなw
そんなもの古墳に捨てるかよ
結局都合のいいように解釈しまくるのが畿内説 畿内説は、纒向が王都らしいが
陸行1月も説明説明できない
魏の使者が4度も行っている、陸行のルート を示せない このスレで確認できたこと、
畿内説のことキナイコシが太刀打ちできないこと >>109
しかも投げ入れたのなら、木製の鐙は浮くはんずなんだよな。
しかし、実際にはきっちり埋めてあったわけ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています