邪馬台国畿内説はなぜ駄目なのか

1つ目の理由
箸墓古墳を作製した崇神天皇は、720年に完成した日本書紀を作製した人物の、16回の親子関係で繋がった先祖です。。。。
日本書紀の記録した時代の、父と子の年齢差は、学部によると、平均が21.6歳であるから、箸墓古墳が374年頃に完成しました。
720-21.6✕16=374.4

2つ目の理由
箸墓古墳は大きすぎて、人民の少ない纏向では、馬がいないと製作できません。
箸墓古墳には、石や土を製作中の古墳の上に運んだ馬が通行した、スロープの痕があります。
朝鮮半島で高句麗の馬と馬主を捕獲した倭国と日本国が取引をして、馬と馬主を連れてきました。
倭国が新羅を降伏させて、高句麗の馬と馬主を捕獲したのは、4世紀後半です。
だから、箸墓古墳は4世紀後半に作製されました。。。

3つ目の理由
箸墓古墳を作製したときに掘った穴の数十年かかって積もった固い土の中の、底から20年分の部分に、紀元後400年頃の畿内馬具が落ちているのが、発見されました。。。
だから、箸墓古墳が380年頃に完成しました。

4つ目の理由
2013年に実行された箸墓古墳の大規模調査で、纏向遺蹟は全体も、魏志倭人伝時代の後の遺蹟だと判明しました。。