秦氏はどこから来たか 4
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秦氏ホータン出身説が最も具体的。その他の説はゴミに近い。
あとは太秦エルサレム説の真贋だけだ。 あと一部の芸能なども同じ、
某氏や某氏・・・某氏のモノ(パフォーマンス・・・。)を踏襲したものばかり。
『レッド・クローンズ』 ほんとーは・・・、
秦氏、某氏や家のヲタ、ファンばかり。
確実に「❓」気づいていない人もいる・・・、
そのような人物のことは知りませんとかw .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>10
それ東漢氏じゃなかった? 調べてないから分からないですが 阿直岐と阿知使主が同一人物の可能性が高く、阿知使主は東漢氏の祖で、
のちに百済から王仁を招聘した 名前からして王仁は百済に取り込まれた漢人ですか 存在したかどうかも怪しいらしいですが >>11
例えば藤原氏とかですか? 例を挙げてもらえませんか わかりません 古代イスラエルから来たというのは偽装だ
確かにシルクロード沿いにユダヤ人の集落があるし
神社は幕屋だろう
だがしかし、秦氏は秦の始皇帝に追い払われている
それで秦氏を名乗るのはおかしいのだ
秦の始皇帝はユダヤ人で、その使いである物部氏もユダヤ人
その物部氏の神社神道を秦氏が乗っ取った
神社の祭を見よ
なんとも下劣な朝鮮人がやってるではないか
あんな連中に神社の文化があるわけないのだ
そして奪った神道だから中身が空っぽなのだ
三種の神器は真似し切れてないので
モーセの三種の神器は剣山にあることにして、お遍路さんをやらせた
天皇はダビデの末裔だってことにするために
ユダヤ人が逃げ出した時点で天皇が始まってる必要があり
だから実在する天皇の前に千年分の天皇をでっちあげ
その天皇の墓を適当に古墳に割り当てたのが明治時代だ
当時は年代測定なんて技術かないからバレるとは思ってなかった
年代測定すればでっちあげ天皇と墓の年代が不一致になるので
宮内チョンは古墳の調査を禁じている
じゃあ秦氏はどこから来たのか
それはツングースだ
北海道とバイカル湖の間のシベリアだ
そこから寒冷化で南下して高句麗へ
高句麗から百済が分裂 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 国宝ガラスは古代イラク由来 沖ノ島出土、調査で判明
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1583118564/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56258390S0A300C2CR0000/
世界文化遺産に登録されている沖ノ島から出土した国宝のガラス製品について、
調査の結果、5〜7世紀のメソポタミア由来と分かった。
ササン朝ペルシャからシルクロードを通って運ばれ、
大規模な祭祀(さいし)の際にささげられたとみられる。 秦氏はミトラ教徒であったというこのスレの議論の結論は出ている 秦氏の頭領は大天使メタトロンを信仰していた神官の一族ということでしょう オルドス式短剣・燕山地方短剣
鋳型に彫られた短剣は柄頭にある双環など中国の春秋戦国時代
(紀元前770〜紀元前221年)のオルドス式と似た特徴がある。
協会によると、上御殿遺跡は日本海まで約30キロと近いことから、
日本海を通じて大陸と交流した可能性があるという。
http://doutaku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/01/29/photo_13.jpg
滋賀県高島市・上御殿遺跡 双環柄頭短剣の鋳型出土
http://doutaku.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/01/29/photo_11.jpg 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」を隋の使節団・文林郎・裴清は
「そこの人々は華夏の人々=中国の古代国家「夏」と同じである」と報告している。
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、
黒海や中央アジア で作られたと考えられている。
新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい)壺に日本でよく見る「三つ巴(ともえ)紋」
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html
秦氏と関係深い、石清水八幡宮の神紋(三つ巴紋)
https://stat.ameba.jp/user_images/20180424/17/kenbuncho2017/7c/b4/j/o1179037914177012945.jpg 新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」 隋の使節団は「そこの人々は華夏
(の人々=中国の古代国家「夏」)と同じである」と報告している。
秦の始皇帝陵、兵馬俑と日本の古墳から出土する、
武人埴輪の甲冑が良く似て居り、墓の回りには大量の土器類を配置する形式も同じ。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/src/11/08/77/src_11087751.jpg?1451096009
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/880/67/N000/000/008/144647630137934814179.jpg (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. なんとインドにはハタ・ヨーガという有名な言葉がある
ハは太陽、タは月という意味らしい
またハは陽、タは陰という意味もあるらしい
しかもハタ・ヨーガができたのは10世紀以降
秦氏の知識がインドに渡ってハタ・ヨーガになったのかもしれない 秦氏のユダヤ人説は偽装
秦氏が、ユダヤ人である秦の始皇帝に追い払われているのがおかしい
追い払われたのに「秦」を名乗っているのがおかしい
騎馬民族の秦氏に神社の文化があるわけない
秦氏は、ユダヤ人の物部氏の神社神道を乗っ取った
天皇は秦氏から出ていると言われるが
天皇の三種の神器は、モーセの三種の神器と違う
そしてユダヤ人がモーセの三種の神器を東の果ての剣山に捨てて帰るわけがない
モーセの三種の神器は紅海を渡って、エチオピアに避難した
秦氏の神社には狛犬がある
狛はツングースを示す
獰猛な馬賊の秦氏は、ツングースから南下して来たサイコパス人食い馬賊だろう
中国人が万里の長城を作った理由は、秦氏に食われたくないからだろう
秦氏の馬が万里の長城を越えられないから、半島、日本に来たのだろ >>36
人間と猿の違いは、穀物を加熱して食ったことに始まる
それでブドウ糖が脳でグリア細胞になって大脳が発達する
日本の獰猛な上級国民=朝鮮人は焼肉を好み、食肉業界は朝鮮人が独占している
天皇を含めた、奴らの低知能は、ツングースの肉食遊牧民だったことが原因だろう
肉食では猿のままだ
ちなみにアジアの稲作地帯はIQが高い
パン食やパスタでも同様と思うが .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >>39
嘘を書くなオカルト野郎 デタラメばかり
X 騎馬民族の秦氏 馬賊の秦氏は、ツングース
→ 真逆やボケ 稲作や養蚕、土木技術、文筆(つまり漢字を操る)に長じた秦氏は明らかに漢人系
X 天皇は秦氏から出ている
X 秦氏の神社には狛犬がある
→ 狛犬は遣隋使、遣唐使が仏教と一緒に持ち帰った 秦氏とは関係ない .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. ギリシャ・クレタ島の線文字Aは漢字やカタカナによく似てる。不思議な文字。
漢字、カタカナ文字はギリシャ系の人達が持ち込んだのか?
中国新石器時代の甲骨文字、象形文字などは、後の漢字とは似ていない。
漢字の一二三、ギリシャ数字のTUVなどは同じ思考のように感じる。
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ファイル:0726_La_Canée_musée_linéaire_A.JPG
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%BF%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A
「コロナウイルス」の名称はラテン語のcorona(コロナ)およびギリシャ語の
王冠または光冠(丸い光の輪)、花冠を意味する κορώνη(korṓnē コロネ)に由来する。
カタカナの「コロナ」を合体さすと「君」という漢字になり、意味と読みが理解できる。
「君」と言う文字を思い付いた人物はギリシャ・ラテン語を理解し
カタカナ「corona(コロナ)王冠」の意味も発音も理解できた人物である。
意味は天下に号令する人、 天子・帝王・諸侯。 また人の上に立つべき徳のある人。
君(きみ、クン)とは、主に東アジアの漢字文化圏の王朝でみられた君主の称号(君主号)
または皇族・王族、貴族(特に外戚・功臣)の称号。 日本の神話にはギリシャ神話と共通するものが多く
スサノオとヤマタノオロチ退治。ヘラクレスとドラゴン退治など
それと、漢字の哲学的意味などは旧約聖書から引用されたと思えるものが多い。
「義」我は仿子羊。「船」八人が箱船によって救われた。
「禁」神は二本の木を示し、そこで禁止事項を語られた。 などなど。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. 「カタカナ」文字は東アジアに来る前に
ギリシャ・ラテン系の交易商人たちの間で私的に使用された文字なのかも、
現地語をラテン語に変換するのに簡単に表記でき、他の部族から秘密が守られる。
それで、ヘブライ語がカタカナに似てて、意味も同じとかの話題とも通じる。 中国の半坡陶符文字とギリシャ・クレタ島の線文字Aが現楷書文字に似てる。
半坡陶符
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%9D%A1%E9%99%B6%E7%AC%A6
半坡陶符(はんは とうふ)は中華人民共和国西安市の半坡遺跡から出土した、
新石器時代の文字に近い形態の記号の一種である。
これを漢字の起源であるとする研究者も存在している。
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋、神紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html 2003年に流行したSARS(SARS-CoV)では、日本人の感染者はゼロでした。
民族による偏りが大きい事に気づいた台湾の研究チームが調査した結果、
HLA型が HLA-B46、HLA-B54(中国南部、香港、台湾に多い)に感染し、
HLA-B46のみ重症になる事が判明したそうです。
SARS(SARS-CoV)で感染するといわれていた、HLA-B46、HLA-B54は、
日本人でも HLA-B46 は全人口の5%、HLA-B54 は7-10%程度いて、
近畿から九州に多いとの事なので安心というわけではありません。
ただ、もし日本で大流行する事になったとしても
約90%の日本人は重症化しにくい? のかもしれません。 秦氏、蘇我氏が歴史に登場する5世紀後半〜6世紀前半に何があったかがわかれば謎が解ける
5世紀後半〜6世紀前半に何があったか
日本の古代史における大きな3つの事件
・継体天皇即位
・任那四県割譲
・磐井の乱
だろう
この3つの事件は当然一連の事件と考えるべきである このスレで誰も「任那」について言及してないのが不思議で仕方ない
謎に思わないのか?
日本は任那に「任那日本府」という交易拠点を置いていた
この任那日本府について、どのような役割だったのかは諸説ある
しかし、日本が任那に常駐機関を置いていたことに異論はないだろう
つまり、倭の豪族の誰かが任那に常駐していたということだ
誰が常駐していたのか
そしてそのうちの誰かは「任那四県割譲」で任那を追い出されたはずだ
誰が追い出されたのか
ここがポイントである
任那四県割譲のすぐ後の時代に、
急に有力豪族に躍り出た、出自のわからない豪族がいる
秦氏、蘇我氏である そう、秦氏、蘇我氏というのは
在任那倭人豪族だったのだ
彼らは任那の縮小によって、倭国に帰国してきたのだ
先進の仏教と語学、技術と情報を身に付けて
継体は彼らを重用した
彼らの技術と情報は、まだ出来て間もない継体王朝を成り立たせるのに必要だった
蘇我氏の系譜を辿ると、蘇我高麗がいる、蘇我韓子がいる
名前を見れば、書いてあったじゃないか、真実が
蘇我高麗、蘇我韓子ともに事績が残っていない
そりゃそうだ、遠く離れた任那にいた彼らの細かい情報なんて誰も把握していない >>39
狛はコマと読み
高麗もコマと読む
倭人からしたら、扶余族も含めたツングース系の遊牧民はみな「高麗の仲間」という認識
後にタリシヒコが隋に強気の国書を送ったのも隋がツングース系遊牧民の国だから過小評価してたからだよ そして百済も同じ扶余族の国
新羅だけが扶余族じゃないんだよ
新羅は元は辰韓であり秦なわけ
それに加えて新羅には倭人が建国に関わってる とりあえずあげとく
任那の駐在官は、
・継体天皇即位
・任那四県割譲
・磐井の乱
の3つの事件でどうなったか
それを考えないと何もわからないよ 「10人の言葉を理解する聖徳太子」
これはどういう意味を持つ説話なのか
聖徳太子の右腕左腕といえば秦氏と蘇我氏だ
秦氏は任那の対新羅担当官
蘇我氏は任那の対百済担当官
その秦氏、蘇我氏に幼少期から英才教育を受けた聖徳太子は当然
日本語、任那語、百済語、新羅語、そして中国語や高句麗語を理解し話しただろう
これが「10人の言葉を理解する」という逸話の真の意味である 任那語、百済語、新羅語、高麗語の違いを教えてくんろ 具体的にはわからんよ
でも「同じだった」とはならないでしょ
たとえばヨーロッパだと同じゲルマン系でもドイツとフィンランドとイギリスでは言葉が違うだろ?
場所的にもそんな遠くないのに
同じラテン系でもフランスとスペインとポルトガルでは微妙に違う
スペインとポルトガルは隣だし共通した単語も多いけどまったく同じではないわけだ
それを考えると韓三国や任那で言葉が同じだったとはあまり考えられないんじゃないか?
ある程度似てたとは思うが 蘇我氏が任那駐在官の百済高句麗担当だとすれば
蘇我稲目が仏教を強く推進したのは当然なんだよね
「倭国以外みんな仏教っすよ」「神道なんてわけわからんの信じてるのウチだけっすよ」「俺も任那いるときは普通に仏教やってましたよ」「仏教くらい知っとかないと倭国バカにされますよ」と
当然そう思ったしそう働きかけただろう そして百済系の仏教、つまり蘇我氏系の仏教を日本は受け入れることになったわけだ
面白くないのは、物部氏、そして中臣氏だろう
この中臣氏というのも出自がよくわからない、いきなり出て来た豪族だが 中臣氏に関しては、俺は九州磐井の部下だったんじゃないかと思う
磐井の乱で筑紫君は領地縮小
筑紫君の北部九州支配は終わり、筑紫君派追従豪族もヤマト朝廷へと鞍替えになった
(九州王朝説とは言ってないぞ、しかし律令のない中で九州が半自立的な立場を取っていた時代があったのは想定できる) で、その九州筑紫君派の有力豪族が中臣氏だったんじゃないか
だから新興豪族のくせに蘇我氏などとは違って仏教を推進しなかった
中臣氏は後に藤原氏となり記紀の編纂に強い影響力を与えた
皇室が九州から来たという説話は中臣氏の故地が九州だったからじゃないだろうか 磐井の乱の背景を言うと
倭の五王系は中国南朝と結んで倭国の広い地域を支配してた
その倭の五王系から継体天皇に半ば王朝交替する形で皇位継承がなされた
地方豪族は「ワカタケルの子孫っちゅうからヤマトに従ってたけど、継体天皇なんか知らんよ」ってなったのは想像できるよ
一番困ったのは「ワカタケル鉄剣」をもらった熊本と埼玉の王だよ
熊本と埼玉の王は「反乱するか、従うか」を迫られたし
その周りの豪族は「お前が反乱しなくても俺は継体なんかに従わないぞ」と言ってきただろう
磐井の乱と同時期に、埼玉を含む武蔵国でも武蔵国造の乱が起きてる ちょうどあれに似てる
漢に金印をもらった倭奴国が、
漢の滅亡とともに覇を失い倭国大乱が起き、
邪馬台国に覇権が移ったと
これを置き換えると
ワカタケルに鉄剣をもらった熊本が、
倭の五王系の滅亡とともに覇を失い乱が起き
勢力図が塗り替えられた 熊本や埼玉だな
熊本は阿蘇ピンク石を見るに、
早々と継体側についたんだろう
このときの功労者が中臣氏かなと思う
中臣氏は阿蘇と継体ヤマトのパイプ役だった
そして皇室の宗教や葬儀をつかさどった
葬儀につかわれたのが阿蘇ピンク石だ 秦氏は在任那官の新羅方面担当だろって言ってる
秦氏が秦王朝の末裔を名乗っていたとすれば、長期間に及ぶ在任那中に新羅王族との血縁があったのかもしれない ギリシャ・クレタ島の線文字Aは漢字やカタカナによく似てる。不思議な文字。
漢字、カタカナ文字はギリシャ系の人達が持ち込んだのか?
中国新石器時代の甲骨文字、象形文字などは、後の漢字とは似ていない。
漢字の一二三、ギリシャ数字のTUVなどは同じ思考のように感じる。
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ファイル:0726_La_Canée_musée_linéaire_A.JPG
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%BF%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A
「コロナウイルス」の名称はラテン語のcorona(コロナ)およびギリシャ語の
王冠または光冠(丸い光の輪)、花冠を意味する κορώνη(korṓnē コロネ)に由来する。
カタカナの「コロナ」を合体さすと「君」という漢字になり、意味と読みが理解できる。
「君」と言う文字を思い付いた人物はギリシャ・ラテン語を理解し
カタカナ「corona(コロナ)王冠」の意味も発音も理解できた人物である。
意味は天下に号令する人、 天子・帝王・諸侯。 また人の上に立つべき徳のある人。
君(きみ、クン)とは、主に東アジアの漢字文化圏の王朝でみられた君主の称号(君主号)
または皇族・王族、貴族(特に外戚・功臣)の称号。 日本の神話にはギリシャ神話と共通するものが多く
スサノオとヤマタノオロチ退治。ヘラクレスとドラゴン退治など
それと、漢字の哲学的意味などは旧約聖書から引用されたと思えるものが多い。
「義」我はさまよえる子羊。「船」八人が箱船によって救われた。
「禁」神は二本の木を示し、そこで禁止事項を語られた。 などなど。 中国の半坡陶符文字とギリシャ・クレタ島の線文字Aが現楷書文字に似てる。
半坡陶符
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E5%9D%A1%E9%99%B6%E7%AC%A6
半坡陶符(はんは とうふ)は中華人民共和国西安市の半坡遺跡から出土した、
新石器時代の文字に近い形態の記号の一種である。
これを漢字の起源であるとする研究者も存在している。
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋、神紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html 2003年に流行したSARS(SARS-CoV)では、日本人の感染者はゼロでした。
民族による偏りが大きい事に気づいた台湾の研究チームが調査した結果、
HLA型が HLA-B46、HLA-B54(中国南部、香港、台湾に多い)に感染し、
HLA-B46のみ重症になる事が判明したそうです。
SARS(SARS-CoV)で感染するといわれていた、HLA-B46、HLA-B54は、
日本人でも HLA-B46 は全人口の5%、HLA-B54 は7-10%程度いて、
近畿から九州に多いとの事なので安心というわけではありません。
ただ、もし日本で大流行する事になったとしても
約90%の日本人は重症化しにくい? のかもしれません。 >>75
三つ巴のマークは秦氏も好んで使ったものだな
秦氏は神社の鳥居すら三つ巴形に並べた >ともかく、片仮名の「コロナ」の文字が読めて、
>ギリシャ・ラテン語の「王冠・光冠・君主」の意味を知ってる者たちとは??
>彼らが秦・前漢時代に甲骨・篆書文字の意味などを基に隷書漢字を整理して行った。
片仮名のルーツとなる古ヘブライ・アラム文字
http://www.historyjp.com/images/1208_5a.jpg
クレタ・線文字A(せんもじA、Linear A)は、
およそ紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられていた文字である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E6%96%87%E5%AD%97A#/media/ 秦氏と云えば、八幡神社をはじめ色んな神社に関わり
神紋として多くの神社は「三つ巴紋」を使ってる。
秦氏は「三・参・山」の絡みがあり「参まいる」神社にお参りも意味深。 クレタ島と云えばミノア文明で牛頭信仰の島で、日本の牛頭天王と関係あるかも。
「牛頭リュトン」 紀元前16世紀のもので、ミノア文明の牡牛信仰に基づいている。
彼らは甕棺墓、S字形の渦巻紋の文化も持ってる。 埴輪文化もある。
http://yuuhis.travel.coocan.jp/queenelizabeth.hp/queen9cretemuseum.htm アレクサンドロス/アレクサンドロスの東方遠征
(現在のウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、アフガニスタン北部)
ギリシャ・マケドニアの王で前334年に東方遠征を開始、
前330年にペルシア帝国を滅ぼして東西に及ぶ大帝国を建設した。
征服した各地にアレクサンドリアを建設、ギリシア人を入植させ、ヘレニズム世界を現出させた。
前323年にバビロンで死去、その後、帝国は後継者たちによって分割された。
バクトリアはアム川上流域、現在のアフガニスタン北部から北西インドを支配した国。
アレクサンドロスの遠征に従って来たギリシア人が建てたヘレニズム諸国の一つ。
前4世紀後半にアレクサンドロス大王は、東方遠征でアム川(現在のアムダリア川)流域を
征服し、バクトリア、ソグディアナにギリシア人を入植させ、支配を行った。 秦国は(紀元前778年 - 紀元前206年)からの中国の王朝で
周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて全土を統一、
紀元前206年に滅亡した。 統一から滅亡までの期間を秦朝、秦代と呼ぶ。
>この秦国の中へ、アレクサンドロスの東方遠征軍の子孫たちが
>多数傭兵や官僚、交易商人の形で浸透し、のち王室を簒奪するまでに成ったんだろ。 そして、秦王朝の係累者や支える家来たちが
朝鮮半島南部に辰王国を起こし後の新羅地域に辰韓国を樹立した
彼らは自分たちを「邦」の人と呼び、
ローマ文化を取り入れ金銀やガラス、ヒスイ、などの加工に匠だった。 >>84
アフガニスタンからでもどんだけ咸陽から離れてるか分かってんのかエテ公? 中国甘粛省 者来塞村 ―古代ローマ人の末裔たち―
紀元前53年、強大な古代ローマから4万人の兵が、クラッスス統帥に率いられ出征し、
パルティア国(現在のイラン)にて広大な土地と大量の金銀財宝を略奪した。
しかしながら一年後、敵に包囲されて、惨敗し、生き残った部隊は、アルバニアへ向けて退却した。
だが、またしても彼らは不意をつかれ、ペルシャ軍に囲まれてしまった。
激戦を経て、クラッススの長男が指揮する第一師団6000人が幸いにも壊滅状況から逃れた。
数年後、ローマ帝国とパルティア国は和議の条約を結び、互いに捕虜の返還を始めた。
捕虜返還が終わったのち、ローマの人々はひどく失望することになる。
当時、敵の包囲を突破した第一個師団が、影一つ残さずして、消え去っていたからだ。
第一師団の消失は、ローマ史上、懸案事項として、千数百年来、
西洋の史学界を悩ませてきた。 歴史学者・関意権は、研究を進めるうち、中国において、この懸案事項についての
新たな歴史的解釈を発見した。
2000年前、敵の包囲を突破したローマ帝国第一師団の数千名が、前漢軍の捕虜となり、
中国西部へ送られたというのである。
中国の歴史書(漢書・陳湯伝)には次のとおり記載されている。
紀元前36年、漢西域、最高長官である甘延寿と、副校尉である陳湯が、
4万人の精鋭兵を率いて西域を出発し、匈奴を討伐した。
この出征中、彼らは匈奴軍の配下に、きわめて奇異な傭兵部隊がいるのを見た。
ある歴史学者は、そのとき陳湯が見た傭兵部隊は、
かつて匈奴に降伏したローマ軍であると考えている。
ここから推測するに、そのとき出現したローマ人部隊は、
失踪したローマ第一師団の残軍に違いない。 歴史書には、甘延寿と陳湯はローマ人を捕虜として中国へ連れて行き、定住させた、とある。
そして漢政府は、特別な県を設置した。それが、すなわちリチェン県である。
また同時にリチェンの町を整えた。リチェンというローマ国を指す言葉を県名とした理由は、
一つしかない。 そこにローマ人を定住させたからである。
古代リチェンの遺跡さえ見つかれば、リチェンとローマ人の関係が紐解ける。
20世紀80年代、関意権は蘭州を出発し、河西回廊をに沿って西へ、
歴史書に書かれていた甘延寿の軍隊が通った道を進み、
ローマ人が定住した形跡について実地調査した。
1996年、蘭州大学歴史学部教授、陳正義の協力のもと、関意権と彼の長男、関亨は、
大量の地方歴史書を調べ、50万字の研究文書を整理し、
中国西部ゴビ砂漠にある70の古い町の遺跡について、さまざまな方向から、検証を行った。 親子は、甘延寿がローマ人捕虜たちを定住させた地が、
今日の甘粛省永昌県であることを、突き止めた。
甘粛省永昌県者来塞こそ、関親子が長年探し求めていた、古代リチェンの町であると、
ローマ人捕虜たちが定住した地であると、出土する文物の一つ一つから証明された。
者来塞の村民たちは、中国語を話し、漢族に属するとされているが、
400名のうち、200名がヨーロッパ人のような顔だちをしている。
先ごろ、中国科学院古人類研究所の研究員が、者来塞の村民300名に対して
DNA分析を行ったところ、この村の人々は確実にヨーロッパ人の血を引くことがわかった。
(人民日報海外版、2002年1月25日より) 者来塞村に住む古代ローマ人の末裔
甘粛省永昌県の県境にある「者来塞」という村は、もともと異国情緒をおびた
古代の砦であった。20世紀に入り、砦はしだいに残骸と化していった。
しかし、どのような変遷を遂げようとも、者来塞の人々は、彼ら固有の民族習慣を保ち続けた。
ヨーロッパ人が作るピザに似たパンを食べ、牛への伝統的な崇拝を続け、
祝日には牛の頭に似せた供え物を作り、手に赤い布を翻し闘牛の祭りを催してきた。
村人たちの中には、代々、ヨーロッパ人に非常によく似た容貌を持つ者がいる。
背が高く頑丈な体つき、高い鼻、深い窪みのある目、褐色でウェーブがかった髪、
比較的長い体毛、赤みを帯びた肌をしている。 漢王朝以前の古代中国山東省、黄河下流には、白人の国が存在していた?!
現在の漢民族は唐時代に民族の基礎が形成されており、
現在のイタリア人と古代ローマ民族以上に別物といわれています。
古代漢族は、現在の中国と違った文化をもつ謎の多い民族です。
そんな漢民族ですが、最近の近代的な考古学的手法の発達により、
遺骨やミイラのDNA分析の結果が断片的に報告されるようになってきました。
2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、
中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、
約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある
春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得た
ミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表しました。
その結果は、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は
現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は
現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近いという結果になり、
現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらなというものでした。 日本のダイコン、中韓伝来ではなかった ゲノム解析で定説覆る
https://special.sankei.com/a/life/article/20200411/0001.html
日本人の渡来ルートと関係か
これまで中国や韓国を経由して日本に伝わったと考えられてきたが、
ゲノムの解析で大陸渡来ではなく、南アジアから伝わった可能性が浮上した。
日本人の渡来ルートと関係しているのかもしれない。原産地は地中海沿岸 【告知】大阪で1番恥さらしな男!!これまで誰一人として語れなかった覚醒剤中毒者の泥沼の世界!!真実のみを赤裸々に語り最低中の最低の究極のゴキブリ男が書いた渾身の力作!!
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【ゴミと呼ばれて刑務所の中の落ちこぼれ】
中学2年生の時に覚醒剤を覚え17歳から45歳まで【少年院1回、刑務所8回、合計20年】獄中生活を体験し100%シャブは止めれないと太鼓判を押されていたが、ある女性との出逢いで生き方を180度変えて見事に更正を果たした感動の奇跡の一冊!!
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勾玉の発生は日本の方が古い。日本では縄文時代から翡翠の勾玉が出土するが、
韓国では5〜6世紀ごろの翡翠の勾玉が最初である。
韓国と日本でユニークな丁子頭勾玉が出土するが、これも日本の方が古い。
韓国では、5世紀ごろの遺跡から出土するのに対して、日本では3世紀前半ごろの
平原遺跡から発見されている。日本ではさらに古く縄文遺跡からも出土している。
丁子頭勾玉は、勾玉の穴の周囲に丁子の花に似た溝が掘られてていることを特徴とする。
勾玉そのものも特徴的な造形であるが、さらにユニークな丁子模様が日韓で共通していることは、
偶然の一致ではなく、日本から朝鮮半島に運ばれたものといえる。 コロナ=君 、片仮名を合体させた漢字が君
これ大変な事で、漢字を整理決定した人たちはカタカナが理解できてたって事で
コロナ(王冠、光冠)=君(王族、君主) 南シベリアのアルタイ山中のパジリク渓谷から発見された
スキタイ族=サカ族の部族長の墓から出土したこの絨毯は、
その後の調査でなんと2500年前のものということがわかったのです。
パジリク遺跡のスキタイ人物像と馬飾りの「勾玉」
http://tribe-log.com/wp/wp-content/uploads/feltslide17_edited.jpg
パジリク5号墳出土の壁面覆いに見られる「乗馬する男」と「勾玉」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/PazyrikHorseman.JPG 朝鮮半島以外あるわけねーじゃん
アホみたいなスレだな そうです そうなのに日本の古い研究者らは「秦氏は半島からきた 箔付けのために中国工程の子孫を自称した」で止まっています 恥じかしくないのか、と
土木技術集団でもあった秦氏はもっと研究されるべき
ここらへんはまだ最近の出版なので変なイデオロギーには縛られていないだと思う
https://www.kadokawa.co.jp/product/321707000029/ 大秦(だいしん)は、中国の史書に記載されている国名で、
ローマ帝国、のち東ローマ帝国のことを指すとされる。
この国が、歴史的実在としてはローマ帝国であることは疑いない。
それは、『後漢書』桓帝延喜9年(紀元166年)に、大秦王安敦の使者と称する者が
海路到来したと記されており、
その安敦(アントン)王の年代とローマ帝国五賢帝の最後の人、
マルクス・アウレーリウス・アントニーヌスの治世(紀元161年〜180年)とが、
ちょうど重なることからもわかる。 シン (メソポタミア神話)
シン (Sîn) は、古代メソポタミアで信仰された月の神(男神)。
シンはアッカド語の名前であり、シュメール語ではナンナ (Nanna)。
「ナンナ」はアッカド語ではナンナルと呼ばれる。
秦氏が「月読命」を祀っている事実に、もっと注目したい。
というのは、『日本書紀』の一書では、月読命のことを「月弓尊」と表記しているからだ。
「月弓尊」と「弓月君」、弓と月が引っ繰り返っているが、両者が無関係とは思えない。
月読神社 (京都市)
創建当初は 月読命ではなくて月神だった。 松尾大社や月読神社に伝わる系図によると、
月読神社社家は源平時代に松尾社家(秦氏)の女を母とし、秦氏を名乗ったという。 >イラン人、サヘル・ローズがコロナ=君、の話題をUPしてるな。
>これは単に面白いと言うよりも、学問的には大変な事でカタカナは、
>日本で漢字の偏からが崩れ、前漢ころに「漢」でカタカナが使用されてた事になる。
サヘル @21Sahel
知人から頂いた発見。
あたたかいな。
https://pbs.twimg.com/media/EVoAZfUUYAArRoq.jpg
https://twitter.com/21Sahel?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 鳥越憲三郎 説
倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。
分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。
またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。
これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。
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