邪馬台国畿内説 Part600
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1590089586/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 Q:纏向遺跡周辺が閑散としているのは?
A:卑弥呼と偉いさんは一般人とは隔絶された空間に居たのです
Q:史書には側近が千人ほど居たと書いてありますがあの建物に収容出来ないと思うんですが?
A:史書がいい加減なのでそんなことどうでもいいのだニダ― >>802
>弥生〜古墳時代の独立棟持柱建物116軒中93軒が40平米未満なんだよ
40平米以上は文句なく大型だ
科学的に結果の出てることに主観で文句つけても無駄だ
一辺が6m強の建物では、普通の小家族の竪穴式住居程度であり、
いくら頑張っても、普通の狭い建物だ。
科学的に結果の出てることに主観で文句つけても無駄だ そんな都合の悪い事実はどうでもいいのだニダ―(畿内説談)
850 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2020/05/28(木) 10:41:20.66
>>848
>あるという証拠は?
要らないよ >>805
>婢1000人が宮殿に住んでるとか 捏造を重ねる九州説には
当然未来ナッシング
「以婢千人自侍」は、当然魏使らの実見聞概算記録であり、
捏造を重ねる大和説には、当然未来ナッシング 九州や山陰で鉄器文化など弥生文化が発展していたころ、畿内はまだ縄文文化を引きずる非弥生人でした
弥生時代の集落跡から縄文の土偶など出土 神戸・玉津田中遺跡
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202001/0013054430.shtml >>809
>邪馬台国畿内説は邪馬台国は畿内だって説なんだから
女王国は畿内全体か、もっと広いかだ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、
大和説は初めから×であり、
畿内も邪馬台国も存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、やはり、×だ。 >>881
それ、ただなんの理由もなく
「オレ様だけが正しい」
って叫んでるだけだよね
これだから九州説はダメなんだ 畿内は女王国の東にあった倭種の国でした
纏向出土の木製仮面について
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着しているとみられる人物が描かれる例が存在する。
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』 >>809
>女王国は畿内全体か、もっと広いかだ
じゃあ、その女王国であった痕跡遺跡はなに? @阿波 >>809
奈良大和の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし奈良大和であれば、「女王國東西南北越山」 である。 @阿波 >>889
>「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
矛盾って、何と何が?
明かなのなら
「何と」
「何が」
矛盾しているのか答えられるだろう?
「何と」「何が」矛盾するのか具体的に示してくれよ
できないなら、矛盾など無いということだ >>809
>女王国は畿内全体か、もっと広いかだ
じゃあ、その女王国があった遺跡はなに? @阿波 祭祀が伝承されている間はその様式は変化しない
3世紀に見られる様式の祭祀用土器が出土したからといってその遺跡が3世紀のものだとは言えない
この典型が纏向遺跡
『 辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纒向遺跡第7次調査出土の
特殊埴輪片や銅鐸の飾耳しょくじがあります。
銅鐸の飾耳は突線鈕式とっせんちゅうしき銅鐸の破片ですが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、
数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
特殊埴輪は都月とつき型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものです。』
【重要】
「纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく」 >>809
>女王国は畿内全体か、もっと広いかだ
じゃあ、その女王国があった遺跡はなに? @阿波 >>894
>じゃあ、その女王国があった遺跡はなに?
纒向遺跡が女王国の中にあったことは確実だ >>893
日本は特に「昔ながらの手法で〜を製作し〜」とか多いからなあ
考古学者はなにゆえ土器そのものの年代測定をしないのだろう?
4世紀に製作された3世紀型の土器なんてのが当たり前にあるかもしれないぞ? >>906
>考古学者はなにゆえ土器そのものの年代測定をしないのだろう?
現代の科学では不可能だからに決まってんだろ 邪馬台国は弥生時代なのに纏向には弥生時代の遺構が少ない
ってことは纏向と邪馬台国は無関係ってことやろ 事実(1) 邪馬台国は弥生時代
事実(2) 纏向遺跡には弥生時代の遺構が少ない
→結論 邪馬台国と纏向遺跡は無関係 >>911
じゃあその不確かな物を使って編年するのは学問として間違いだね >>905
>纒向遺跡が女王国の中にあったことは確実だ
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國東西南北越山」 である。 @阿波 >>915
>じゃあその不確かな物を使って編年するのは学問として間違いだね
確かな物を使って編年してるから学問として正しいんだよ >>905
>纒向遺跡が女王国の中にあったことは確実だ
奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかり。
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」にあきらかに矛盾している。
もし女王国が奈良大和であれば、「女王國東西南北越山」 である。 @阿波 >>919
>何も問題ない
と、自分に言い聞かせる奥山氏か。 わははははは @阿波 >>918
測定不可能なものを使って編年するのが畿内説では正しいのかw
なんて新興宗教なの?w 事実(1) 邪馬台国は弥生時代
事実(2) 纏向遺跡には弥生時代の遺構が少ない
→結論 邪馬台国と纏向遺跡は無関係 >>934
>測定不可能なものを使って編年するのが畿内説では正しいのかw
編年可能なものを使って編年するのだから、どの説でも正しい >>935
>事実(1) 邪馬台国は弥生時代
事実だって証拠は? >何も問題ない
と、自分に言い聞かせる奥山氏か。 わははははは @阿波 >>942
何言われてるか意味わかってないだろ池沼w >>945
だって、あんた人並みの説明ができないんだもん レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。