お前らの父祖の戦争体験教えてくれ
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親父が予科練から海軍航空隊。終戦時は済州島守備隊で水上攻撃機「瑞雲」乗り。
御袋は東京の女学校生。戦争末期は勤労動員で本土決戦用地雷の外装部品製造。
親父の兄貴は歯医者の卵だったが軍医をさせられた。
御袋の親父は写真関連業種で軍機に関わる仕事をしていた。
御袋の二人の弟はともに学童疎開。
御袋の従兄弟は三人出征、一人は特攻待機だったが出撃より先に終戦。他の二人も無事復員。 「戦争」体験なら他にもあるな。
親父の爺さんは日清戦争で出征。分捕り品の支那の掛軸が今もある。
御袋の三代前は旗本。戊辰戦争で薩長軍と戦った。 祖父は近歩第三連隊に入営しスマトラかあの辺から病気で本土へ送還されて終戦
生前に本人から聞いた話は珍しい外国の文化の話や、上官との下らないバトル話、一番よく聞いたのは食い物の話だった
たぶんあまり戦争の言事を話したくなかったんだろうな >>4
うちの親父も似たようなもんだ。
着水した水上機を引っ張って来る途中で大きな海鼠を捕って酒の肴にした話とか、な。
俺自身は昭和丙午の生まれだが、
今から想えば昭和四十年代の東京には所々ポカッと時が止まったような戦争の痕跡が残っていた。 1人の話題で何十レスも使うのはあり?
関東軍にいた祖父の戦争体験についてスレを立てようと思っていたけど、
差し支えなければここに書き込ませてもらうつもり >>6
スレ主じゃないんだが、書いて良いんじゃないかと思う。
場末の落書きと謂われる5ちゃんねるでも記録として残ることには違いない。
先の戦争をしっかり記憶している方々もかなり高齢になってしまった。
今にして何らかの形で残さなければそれは永遠に消えてしまう。 >>7 >>6
ありがとう
では場所をお借りして、2011年に亡くなった祖父の話を書いていきたいと思う
祖父の死後、子供の頃から聞いてきた内容を自分なりに整理して保存していたのだけど、>>7が言うように自分が知っているだけでは、いつか祖父の経験を知る人がいなくなってしまう、という思いが最近芽生えてきて、今回ここに書かせてもらおうと思った次第 最初に祖父のあらましについて
祖父は1923(大正11)年生まれ
獣医を志して専門学校を卒業したけど、時代は太平洋戦争のまっただ中
そのため1943年に徴兵で陸軍へ…
入営後、祖父は甲種幹部候補生の試験に合格して陸軍獣医学校に入校
卒業後は1944年12月に満州へ赴任することに
配属されたのは「城第6753部隊」
(これは秘匿名称で正式には関東軍隷下の第五軍直轄、独立輜重兵第七十中隊といったらしい)
この部隊での祖父の立場は隊付の獣医官
階級は陸軍獣医少尉だったとのこと 最終的に祖父は、1945年の9月下旬に赤軍(ソ連軍)の捕虜となる
そして1947年の11月に舞鶴に帰ってくるまで、ソ連領内で強制労働をさせられていた
ここでは満州での戦闘の様子や、強制労働(シベリア抑留)の話を中心に書いていきたいと思う
1944年12月に祖父が赴任した時点で、部隊には祖父を含めて12名の士官がいたそうだ(4名の中尉と8名の少尉)
けれどもその後転出などで将校は減っていき、1945年8月の時点では4名になっていたらしい
祖父と部隊長は部隊主力と満ソ国境に近い虎林(現在の黒龍江省鶏西市の辺り)に、残りの2名は別の場所(牡丹江のどこか?)に展開していたとか 赴任の際、祖父は上級部隊の将校のところに挨拶に行ったそうだ
当時はすでに本土空襲が始まっていて、内地の空襲について色々質問され、
それで祖父は、上層部も戦局に強い不安を感じていると思ったと話していた
とはいえ、1945年初頭の満州はまだまだ無風状態
15時以降は課業が終わっていれば自由時間で、
祖父たちは満州の草原を馬で走り回ったり、狩猟を行って楽しんだようだ
けれども5月に独ソ戦が終結すると状況が悪化
ヨーロッパ戦線から大量の戦車や兵員がシベリア鉄道で輸送され、
その様子は満州国内でも確認されていた 実際に戦地に行った人ってあまり多くを語らないよね
俺の爺さんは死ぬ間際になってまも、昨夜突然南方に転属させられる夢を見た、とか言って汗かいていたな
よほど辛くて恐かったんだろう 7月になると満州攻撃の訓練なのか、国境手前まで赤軍が移動してきたり、
国境地帯で盛んにのろしがやりとりされるように
のろしを見て馬で駆けつけても、そこには誰もいない…
祖父たちは「早晩来るんじゃないか」と言い合っていたそうだ
あまり連投し過ぎるのもなんだし、そろそろ出勤の時間なので一旦ここまで
続きは夕方以降書き込みます 戦場から生きて帰還した人で、当時の事をペラペラ喋る人ってあまりいない印象。
私の親族でも、直接の戦闘の話を避けているのか、あまり血生臭い話は無くて、ちょっとした軍隊あるある話や内務班生活のエピソード等をポロポロと断片的に話す人が多かった。
戦争について良いとか悪いとかも、その人たちの口からは聞けなかったが、戦争なんてろくなもんじゃないよって感じのニュアンスはあった。 それでは今朝方の続きを
ソ連の侵攻が始まる8月9日
この日祖父は週番士官(部隊の曹長と1週間交代であたっていた)の当番で兵営に
午前2時ごろ、砲爆撃の音で目覚めて外に飛び出すと、すぐ近くにある虎頭要塞(関東軍の主要拠点の1つ)
がすでに交戦状態で、赤軍との間で曳光弾が飛び交っているのが見えたそうだ すぐに非常呼集を行い、やってきた部隊長と相談した結果、
司令部との連絡が途絶えているので司令部に直接出向き、
命令を受領するという名目での後退を決めたそうだ
ここで少し補足すると
1945年当時の日本軍の命令系統をざっくりまとめると
軍→師団→連隊→大隊→中隊→小隊 といった感じになる
(何か異なる点があればご教授願います)
基本的に下の部隊は上の部隊に統制され、その命令に逆らうことはできない
ところが祖父の所属した独立中隊は特殊な中隊で、
軍(第五軍)の司令部に直轄されていた
(大隊など上位の組織に属さないから、「独立」が部隊名称についている) 祖父も部隊長も、このまま満ソ国境に張り付いたままだと戦死してしまうと考えていたようだ
けれども軍隊では命令無しの後退はご法度、最悪の場合は処刑されてしまう
(通常の中隊なら、付近にいる大隊本部が命令を出さないと後退できないはず)
ところが独立中隊が属する司令部は、後方にいる第五軍
だから直接司令部に命令を受け取りに行くという名目なら、虎林からの移動も可能という理屈らしい
もっとも、本当にこのような経緯で部隊が移動したのかは分からない
自分は祖父の話を信じているけど、誤りがある可能性は否定できないとも思う
けれども確かなこととして、ソ連侵攻後に城第6753部隊は虎林から移動している
そして祖父は、「ほかの部隊だったら、国境に取り残されておそらく全滅だった」と語っていた ほかにも祖父たちにとって幸いだったことがある
まず虎林の周辺は湿地帯が広がっており、戦車の通行が困難だった
そのため、赤軍の侵攻までに猶予があったそうだ
さらにすぐそばの虎頭要塞は、8月26日に陥落するまで戦闘を続けていた
おそらくは虎頭要塞の奮戦も、祖父たちが追撃を受けなかった要因の1つなんじゃないかと思う
ひょっとしたら虎頭要塞で戦い続ける日本兵たちは、
祖父たちの後退を知っていたら「ふざけるな!」と感じたかもしれない
けれどもここで祖父が戦死していたら、自分は生まれていなかったわけで
そう思うと、このことについて自分は何も言えないな、と思っている こうして虎林から後退した後、12日くらいまでは行く先々で
人々が遺棄した食料や果物、酒が手に入り、特に苦労することはなかったようだ
この頃のことを、祖父は「戦争はいろいろなものを拾えて、こりゃ楽だと思った」
といった風に話していたのを覚えている
けれども12日の夜、部隊で初めての死者が生じている
ただし亡くなった方は戦闘ではなく自殺だったそうだ
祖父によれば真面目な人だがノイローゼになっていたようで、夜中に足で小銃の引き金をひいていたという この間、基本的に部隊は徒歩で移動したようだ
ただし祖父は馬術が達者で、馬に乗って斥候(偵察)や殿軍を任されていたらしい
詳しくは後で記すが、馬に乗っていたことが祖父の命を救う結果にもつながっていく
なぜ祖父の馬術がうまかったかというと、曾祖父が職業軍人で、
そのツテで祖父は陸軍入営前から陸軍の馬場を使い、曾祖父から馬術の手ほどきを受けていたらしい
なんでも馬術・剣術・戦術は「将校の三術」といって、これらが得意な将校は周りから一目おかれたそう
祖父も馬術ができたことが色々と役立ったと言っていた
(今回の話とは関係ないが、曾祖父は1944年にフィリピンのレイテ島で戦死している) そして8月14日、部隊は虎林から100キロほど西の勃利という場所にいた
ここで祖父たちは、はじめて赤軍と直接交戦することになる
詳しい状況は良く分からなかったが、赤軍と遭遇したのは丘陵地帯
ここで祖父は部隊長から丘陵の向こう側の赤軍の様子を探るため、
下士官と2人で斥候に出るように命じられたそうだ けれども祖父は、明らかに敵がいるのにバカ正直に偵察すると死んでしまうと思い、
下士官と口裏をあわせ、偵察したことにして適当な内容を報告したそうだ
幸い、その後丘陵の向こうの敵から攻撃されたものの、部隊は無事に離脱に成功
このことについて祖父は「真面目にやったら命がいくつあっても足りない、軍隊は要領が大事」といったことを話していた 14日以降、祖父たちは赤軍との遭遇を避けるために山林を移動するようになる
そのため自分たちがどこにいるのか、祖父も大まかにしか分からなくなっていたようだ
(大まかなルートとしては、勃利から牡丹江をへて、南西方向に移動していたたらしい)
また祖父たちだけに限った話ではないが、満州では15日の玉音放送後も戦闘が続いていた
現在日本では一般的に15日で戦争が終わったと考えられているが、
祖父たちの戦争は8月15日以降も続くこととなる
ここで一旦離席します >>24
貴重かつリアルな話、謹聴している。
ここまでについても思う所はあるが先ずは仕舞まで拝読したい。
続きを待つ。 >>25
ありがとう
正直なところ、「祖父から聞いた話」という意味では正確に記しているつもりだけど、
自分の理解不足で祖父の口述を誤って解釈している箇所もあるかもしれないし、
史実との整合性も十分にはクロスチェックできていない
おかしな箇所は指摘してもらえると助かります 8月23日、部隊が土手を越えて移動しようとしたところで再び赤軍に遭遇
このとき赤軍は土手上の道路に重機関銃を据え付けて、祖父たちに射撃を加えてきたそうだ
祖父たちは重機が射撃する間隙をぬって土手脇の藪から道路を横切ろうとしたが、ここで多くの戦死者が出たらしい
祖父と一緒に殿軍を務めていた伍長も、藪から飛び出た瞬間に撃たれて戦死してしまったそうだ
(この伍長が、14日に一緒に斥候を行った下士官なのかは聞きそびれてしまった)
祖父はこの伍長と仲が良く、なんとか遺体を回収しようと思ったが自分も銃撃されて泣く泣く断念
このことについて、祖父は話すたびに悔やんでいたのを覚えている 一方祖父は重機の予測の裏をかき、重機が違う方向を向いている隙に無事に道路横断に成功したようだ
祖父曰く、重機は即座に向きを変えることが難しく、馬に乗っていたお陰で振り切ることができたとのこと
しかし伍長の遺体を回収しようとしたり、重機に足止めされているうちに祖父は部隊とはぐれてしまった
そのためその後数時間、祖父は単独で行動することに 部隊を捜しているうちに、祖父は付近の集落に迷い出てしまう
当時満州では満州族や日本人以外にも、漢民族、朝鮮人、白系ロシア人やモンゴル人など様々な民族が暮らしていた
その中で、日本人の評判ははっきりいって良くはなかったようだ
中には日本人への恨みを晴らそうと、日本兵や日本人を襲撃する人もいたようだ
(中には逆に、日本人をかくまった人もいたようだが)
この集落は日本兵に敵意を持っていたようで、敗残兵狩りとばかりに2、3名が拳銃で撃ってきたそうだ
祖父はなんとか逃げ切ることに成功したようだが、ひょっとしたらこれも馬に乗っていたお陰なのかもしれない
(その後、祖父は無事部隊と合流できたようだ) 祖父たちが敗戦を知ったのは9月1日のことらしい
この日祖父たちは、付近で発見した白系ロシア人の集落で牛1頭を潰して食べたそうだ
(その村に人がいたのかどうかは聞きそびれてしまった)
するとそこに丸腰の日本軍少尉2名がやってきて、この2人からはじめて敗戦について聞いたのだとか
しかし祖父の部下の兵たちはこの情報を謀略だと考えて、この2人はスパイだから殺してしまおうと主張し剣呑な雰囲気に
祖父が殺害の主張を斥けたそうで、2人は殺されずに済んだみたいだ
(のちに祖父は抑留中に2人と再会し、このことを感謝されたという) またこれ以降、2人の話以外にもいくつかの変化から、祖父たちは敗戦を感じ取ったようだ
その根拠となったのが、赤軍の戦意が目立って低下したこと
具体的には、上空を航空機が飛んでいても攻撃されることがなくなったり、赤軍の兵士たちも戦闘を避けるようになったらしい
どういうことかというと、この頃から赤軍は日本兵が潜んでいそうな場所があると、あらかじめ戦車などで砲撃してから進軍したそうだ
そのため奇襲を受ける心配がなくなり、逃げるだけならかなり楽になったとか
ほかにも行く先々でも、見るのは満州国の国旗や日章旗ではなくソ連の国旗ばかり
こういった変化から、祖父たちもどうやら日本は敗けたらしいと考えたようだ しかし敗戦を知ってからも、祖父たちは赤軍に投降しようとはしなかった
その理由として、祖父が「命令がない以上、投降するという選択肢はなかった」と言っていたのを覚えている
前に述べた虎林から後退する一件もそうだが、軍隊は命令で動くもので、命令無しに勝手な行動をとることはできなかったらしい
そのため、その後も祖父たちは満州の山林を逃げ続けることとなる
(虎林を出てから捕虜になるまで、屋根の下で寝たのは3回だけだったとか)
またここまでの出来事は、(合っているかはともかく)祖父は何日に何があったと断言していた
しかしこれ以降は昼夜関係なく移動したため、次第に祖父も日付がはっきりしなくなっていったようだ 祖父から話を聞いた限りでは、祖父が実際に戦ったのは計3回
最後の戦闘となったのが9月10日頃の遭遇戦だ
この時、祖父たちは赤軍を見下ろす態勢で赤軍と遭遇
さらに祖父たちが西日を背負っていたため、赤軍は祖父たちに気づいていなかったようだ
そのためこの戦闘は祖父たちの奇襲となり、何人いたのかは分からないが赤軍の大半を殺害したらしい
なんだか怖くて結局確認できなかったが、ひょっとしたら祖父も相手を殺しているのかもしれない
個人的な話になるけど、小さいころの自分は素朴に「人殺し=悪いこと」と考えていた気がする
けれどもこの話をはじめて聞いた時、大好きな祖父が人を殺したかもしれないという事実をどう受け止めたものか、なんとも言えない感情になったのを覚えている
もちろん祖父を批判する気持ちはないのだけれど、「なんでそんなことになっちゃったんだろう」と感じた気持ちは、今も自分の中に残り続けているように思う 祖父はロシア帝国を滅ぼしてソ連を作り、日本共産党、朝鮮共産党、中国共産党を作った
叔父は米軍が占領した際、米軍機の整備員として入り込み、戦闘機を破壊した このとき祖父たちは、生き残った赤軍の兵士2名を捕虜にしたそうだ
兵たちはこの2名の殺害を主張したが、祖父はここでも殺害に反対
「生き残った者を今更殺すことはない」というようなことを言ったらしい
しかし先日の少尉の一件以来、祖父の部下たちは不満をため込んでいたのかもしれない
殺害を認めなかったことで、兵たちから「お育ちが良いお坊ちゃん」と皮肉を言われたそうだ
そしてこれ以降、祖父と部下の兵たちの間で微妙な緊張関係が続くこととなってしまう 結果的に、ここで捕虜を殺さなかったことが祖父の命を救うこととなる
どういうことかというと、抑留後に祖父はこの戦闘についてソ連から照会を受けており、ソ連は祖父が捕虜殺害に反対したことも把握していたそうだ
もし祖父が捕虜殺害を認めていたら、BC級戦犯として訴追され、最悪の場合死刑判決が下されていたかもしれない
そう考えると、自分は祖父の判断は間違っていなかったと思う
けれども当時は、この判断が祖父の部隊内での立場を危うくしていた可能性がある
その後9月14日ころ、古城子(遼寧省撫順の辺り)で祖父たちは久しぶりに食料を発見し、コーリャンや米を獲得したそうだ
祖父も自分の飯盒に米を入れたのだが、翌朝起きると飯盒の中はからっぽで、米がなくなっていたという
このことについて、祖父はとくに犯人探しをしたとは言っていなかったが、空腹以外にも兵たちの反感が影響していたのかもしれない そして9月下旬、ついに祖父たちは武装解除されることとなる
当時、祖父たちは朝鮮との国境近くにある鏡泊湖周辺の北湖頭という場所にいたようだ
そこで遭遇した住民に付近の村落へ案内させたところ、村落が赤軍に包囲されてしまったという
戦うか部隊長と協議したところ、部隊長は「逃げてもよい」と発言
そしてこの場所で、祖父たちは赤軍に武装解除されて捕虜となった
祖父たちを捕虜にした部隊は独ソ戦終了後に極東に転用された部隊で、ある軍曹がとにかく横暴で閉口したそうだ
また部隊には、日本語の通訳をするために現地で徴発された白系ロシア人もいたらしい こうして捕虜となった祖父たちは、東京城(現在の遼寧省遼陽周辺)に移送されてしばらく同地にとどまることになった
ここの責任者(?)だった赤軍将校が、祖父たちにかなり好意的だったらしい
将校である祖父たちの帯刀を認めたほか、ある程度の自由行動を認めたり、前述の軍曹を軍法会議にかけたりもしたそうだ
(祖父は名前や階級も話していた気がするが、記録していなくて分からなくなってしまった)
晩年まで祖父はロシア人を「露助」と呼び、ソ連に対してもかなり手厳しい評価をくだしていた
そんな祖父もこの赤軍将校は「人間ができていた」と言っていて、ロシア人は組織となると冷酷だが、個々人は人が好いのも多かったと話していたのも覚えている このように東京城での日々は、決して悪いものではなかったようだ
しかし祖父の苦難は、ここからが本番だったのかもしれない
なぜなら祖父たちは日本には帰国できず、ソ連領内に連れ去られて抑留されてしまうからだ
ちなみに一般には「シベリア抑留」と呼ばれるが、祖父が抑留されたのはシベリアではなかった
と、いうのも祖父曰く、日本軍の命令系統(将校→下士官)が残っていると都合が悪かったのか、ソ連は下士官兵と将校で抑留先を分けていたらしい
そして祖父は部下たちとは離されて、シベリアよりもヨーロッパに近い地域の収容所に送られた
そのことは、後で詳しく紹介したいと思う
用事があるため、今日書き込めるのはここまで
明日も朝と夜に書き込む時間を作れるので、残りも明日中に記せるはず 長すぎる割には意味不明。
何が言いたいのか全くわからない。 >>40
そうは思わない。
今にして具体的な話の一つ一つを刻み付けることそのものにこそ意義がある。
むしろ収束性のあるストーリーを期待する感性こそ病んでいる。
「長い」「意味不明」「わからない」などの文言にネット脳の、そして何者かの価値観に毒された平成令和世代の病根を見る。 >>41
長すぎる割には内容がない
まとめて簡潔に書けよバカ >>42
たしかに細々としたことを書き込み過ぎたと思う
自分としては、祖父の戦争体験を知る限り記していくつもり
さて昨日の続きを
祖父たちがしばらく東京城に滞在したのも、収容所(ラーゲリといった)で作業に従事する、作業大隊を編成するためだったようだ
作業大隊は1000名で構成され、100名ずつ10個小隊に分かれていたそうだ
この作業大隊が編成され次第、満州からソ連領に送り込まれていったらしい 11月3日、祖父は関東軍の倉庫にあった防寒具を支給されて列車内に押し込められた
(祖父は約2年間強制労働に従事しているが、その間この防寒具を修理しながら使い続けたそうだ)
移送に用いられた列車は客車などではなく、四方を板で囲っただけのもの
中はがらんどうでトイレもなく、隅の床を切り取って用を足していたようだ
列車がシベリアに近づくにつれて外気温は下がっていき、11月でも氷点下を下回る位
そして扉周辺やトイレの側は冷気にさらされるため、運悪くその周辺に押し込まれた人々は、多くが移送中に凍死してしまったそうだ 祖父によると、凍死者が出ると次の停車駅で補充の日本人が乗せられ、
また凍死すると補充の日本人が乗せられ…ということが繰り返されたようだ
この移送中に、祖父は偶然小学生のころ教わっていた先生と再会している
(小学生のころは、曾祖父が朝鮮の安東で勤務していた関係で朝鮮にいたらしい)
その先生は1945年の根こそぎ動員で現地召集されたのだが、当時すでに45歳で体力が持たず凍死してしまった
祖父がこの先生について話す時、よく「あと1歳年上なら召集されることもなかった。かわいそうだった」と言っていたのを覚えている 一方でより印象的だったのが、抑留者全般の生死については
「生き残ったり、死んだりすることに理由はない。たまたまそうなっただけ」と語っていたことだ
自分からすると、祖父は優しい人だけれども、死生観について述べる時はやたらドライだと感じることがあった
けれどもこのような体験をしていたら、そう考えるのも当然のことなのかもしれない
あともう1つよく聞いたのが、「軍隊は運隊だからな」というフレーズだ
この言葉は兵隊の間で広く言われたものらしい
自分ではどうにもならない流れに翻弄された立場からすれば、すべては運次第というのが実感だったんだろうと思う そして12月1日、祖父は抑留地に到着した
場所は、モスクワとスターリングラードの大体中間点、タンボフという都市のラーダー収容所といったらしい
ここで祖父は、しばらくの間道路工事や、コルホーズ(ソ連の集団農場)での作業に従事することとなる
(この期間に、先に述べた捕虜への対応など身上調査も行われた) ここでは日本兵だけでなく、ヨーロッパ戦線で捕虜になった枢軸国の兵士たちも抑留されていて、その収容所が併設されていたそうだ
ある時、コルホーズでジャガイモを掘っていた際、祖父はとなりにいたドイツ兵と話したことがあるらしい
(祖父は入営前からドイツ語を習っており、ある程度は話すことができた)
そのドイツ兵は爆撃機乗りで、1942年のスターリングラード攻防戦で撃墜されてからずっと抑留されていたとのこと
このドイツ兵の話で、祖父は「こりゃすぐには帰れないな」と、長期間抑留されることを覚悟したという 実際祖父は、その後ラーダーからエラブカ(スターリングラードの上流約600キロの地点にある)の収容所に移り、約2年4か月抑留されることとなる
主に将校が収容された場所だったため、抑留者の中には30代以上の人も多かったようだ
しかし収容所の環境は劣悪で、食事も最低限を下回る量しか配給されない
そのため祖父によると、年配者は多くが抑留中に衰弱死してしまったそうだ
(シベリア抑留全体では、約60万人の抑留者のうち6万人余りが亡くなっている)
そろそろ仕事に行くので一旦切り上げます
残りは今晩書き込むつもり 故人の軍歴と聞き伝えのエピソードをなんで簡潔に書けないのだろう?
なんだか読んでしまったけど、たしかに意味不明だな >>50
戦記物ってだいたいこんな感じだよ
リアルな人間の戦争体験にドラマ性を求めると結局どこかで脚色しなきゃいけなくなる
昔はこのような戦争体験物が本屋に大量にあったんだ。今は消えてしまった分野だけど >>51
つまり、これはお爺さんの日記かなにかを書き写してるということなのかね?
本人ではないのだからもっと簡潔にまとめられるはず。
しかも今のところ何が言いたいのかが全くわからないんだよね。
日記かなにかならPDFにでもして張り付ければいいんじゃないかな。仕事の合間、合間に書き写すのもバカみたいだし大変だろうしさ笑 >>52
何が言いたいって…
現実の人間の行動にテーマ性などあるわけもなく…無理に付けると脚色が非難される原因になりかねないと思うぞ。
俺はとても面白かったけどね。 >>52
これは小説でも報告書でもない。
「簡潔にまとめる」ことこそ愚かな行為だ。
そこに気が付かないだけでもお前さんの病状は深刻さが解る。 >>54
でもさ、本人の書き込みならともかくさぁ
伝聞なんだろこれ?しかも孫が書いてるって・・・ >>55
ならば読まなければ良い。
リアルな話を刻み付けて、及ばずながら伝えようと考える者が書いたり読んだりする場だ。 >>52
ここで記した内容について、祖父の肉筆は知る限りでは存在しない
>>9で記したように、この記述の底本は祖父の話を自分がまとめたノートが基になっている
あとは、確かにこの文章には自分の言いたいことはほとんど入っていないと思う
>>43に記したように、自分の目的は祖父の戦争体験を知る限り記すことだ
なのであえて言うと、「祖父が体験した出来事をほかの人にも知ってほしい」
というのが、言いたいことというか、伝えたいことになるのかな
ただ>>55が指摘するように、伝聞の過程で自分が祖父の意図を誤解した可能性や、
祖父の口述そのものに誤りがある可能性も否定できないと思う
なのでそのような違和感を指摘してもらえると、こちらとしても今後史資料にあたる
手がかりとなるので、言ってもらえると助かります では今朝の続きを
祖父も1947年4月ころ、腸チフスに感染して生死の境をさまよったという
3か月入院するくらいの重症だったが、この時祖父は輸血が必要となり、10人ほどの戦友たちが名乗り出て血液を提供してくれたそうだ
祖父は後々までこの申し出に感謝していて、この人たちのお陰で自分は生きて帰ってくることができたと何回も話していたのを覚えている このように過酷な生活の中、祖父たちは毎朝監視のソ連兵に点呼を受け、仕事に駆り出されていた
これは多くの抑留者が語っている話だが、実際多くのソ連兵は教育を受けていないのか、かけ算を知らず点呼にも手間取っていたらしい
祖父たちは憂さ晴らしの一環で、ソ連兵に日露戦争当時の戦意高揚歌を教え、一緒に歌って溜飲をさげたりもしたそうだ
ほかにも、抑留中も労働しかしていなかったわけではないようだ
例えば厳冬期は作業を行えないため、収容所内でいくつかの講座が開講されたらしい
初期はロシア語講座、末期は中国語講座が人気だったとか 一方講座とは別に、共産主義のシンパを増やすため、赤化教育なるものも行われていたらしい
祖父も早く日本に帰りたい一心で、スターリンに宛てて共産主義を賛美する手紙を書いたことがあるそうだ
(ただ、そのせいで祖父は大の共産主義嫌いとなっていたが)
しかし中には、待遇向上を見込んで積極的に赤化教育に協力したり、共産主義に批判的な日本人を密告する人もいたようだ
そのような人は、収容所内での待遇は良かったかもしれない
しかしほかの抑留者から相当怨みを買っていたようで、祖父が言うには「そういう奴は皆、帰国する際船から海に突き落とされて死んだ」そうだ 祖父は退院してからしばらくは、調理場で抑留者の食事を作る比較的軽めの作業に回されたらしい
軽めと言っても大勢の食事を作るのは楽でなく、日が昇る前から結構な量の野菜の皮を剥く作業は大変だったようだ
ただそのお陰なのか、祖父は野菜や果物の皮むきがとても速くてうまかった
子どもの頃リンゴなどを剥いてもらうと、物凄い速さで皮だけを剥いていて驚いたのを覚えている
そしてついに日本への帰国が決まり、祖父は1947年の11月にやっと復員することができた
自宅に帰ってきてからは、闇市で何やかんやしながら資金をため、それを元手に獣医医院を開業した
そして亡くなる前年(2010年)まで、開業医として戦後を生き抜いくこととなる ここまで長々と、スレをお借りして失礼しました
>>57の繰り返しになるけど、かつてこのような出来事があって、このような体験をした人がいる、ということを知ってもらえたら幸いです >>62
御苦労様でした。
そして得難い話を有り難うございました。
思う所を少し整理してから書くつもりです。
単なる「感想」にしかならないでしょうが…。 >>1
横浜や東京では空襲で火事になり、皆が川に飛び込んだりしていた
沸騰してる川にな、その上にまた人が乗り火傷で死ぬ前に窒息死していたそうな
広島にはアメリカの貴婦人が住んでいるとアメリカ人捕虜に教えてもらい軍人の偉い人の家族や金持ちが一斉に移動したって話もある
実際広島には原爆一発以外は何の攻撃もされてないから捕虜の言った話に信憑性があったのだろうな
人を集めてまとめて殺す、軍人の心のよりどころをまとめて皆殺しにされて戦意喪失
全ては初めから仕込まれていたんだよな 原爆投下の日も広島市の国民はビーちゃん(B29に手を振ったりしていたらしい
今日は何か落としたぞ、食料かーと皆で原爆に向かって走っていく姿が最後だった
ここまで信用させたら絶対防空壕なんかには入らないからな
日傘でも防げそうな原爆の威力を最大限引き出すにはノーガードまで油断させる必要があったんだろうか
横浜に落とそうと思ったけど、雲ってたから止めた(笑)そんな作り話よく歴史の教科書に載せられるなと思ったけど 2021年8月15日(日) 13:55 〜 16:00
テレビ朝日
ラストメッセージ“不死身の特攻兵"佐々木友次伍長
https://www.tv-asahi.co.jp/pr/sphone/20210815_06705.html >>67
ベースとなった『不死身の特攻兵』の著者鴻上尚史による本人インタビューの実録ドキュメンタリー
https://youtu.be/0AsYZ9AlEvI >>68
特攻がヤケクソな作戦だと誰もがわかってたから、特攻は「志願」であって「命令」でないと責任逃れの発言を菅原道大はしたんだよ。
こういう無責任な過ちを二度と繰り返してはいけない。
今のコロナで大変なことになってるよね。「自粛」とか「要請」とか言って、従わないパチンコ店やキャバクラが非難されてたね。休業補償もせず、具体的な感染防止対策もとらず、「自粛」や「要請」と言ってる政治が無責任過ぎるというのがよく分かるよね。
無策無能で思考停止の自民党保守政治。
無責任過ぎる保守政治はダサいね。 >>69
生還できないの前提
正規の作戦・攻撃ではないからなぁ
正規の攻撃でも、特攻に準じた必中攻撃とかもほぼ生還できないし 工作員もいたろ
コスプレ如きの偽写真で
似非退役軍人会とか開いてた奴いたよな? 祖父はあまり戦地での事を話さなかったが、祖母は戦中の話を孫の俺にも良くしてた
夏休みに花火大会に行った時に、シュルシュルヒュリュゥ〜って花火の音にマジで慌てて焼夷弾だ焼夷弾だって興奮していたことと、
何故か東條英機よりも国防婦人会副会長だった東條かつ子にかなりの憎しみを露にしていたのが物凄く記憶に残っている 自分が3歳の時に亡くなった父方の祖父は、大工で樺太に何かを作りに行ったらしい 戦地で敵の接近などで移動する際
瀕死の重傷を負った兵士達をみんなで手分けしてオンブしながら移動したそうだ
息絶えた瞬間に背中でズシーンと急激に重みを増すので
それをもって死亡したものと判断し遺体を下ろして行進したそうだ
子どもの頃に近所に住む元軍医が自分の親に語っていた話
小学生だったのでその部分しか記憶に無い 祖父が言うには、何故か戦地で酒を確保するのが得意(たぶん他の部隊から盗んだか酒保関係に顔が利いた)で連隊内でもかなり重宝がられていたとか 祖父は工作員かもしれんな。
偽写真を見せびらかしてたのかもな。 祖父はコスプレ仲間で
似非退役軍人会を開いていたな。 うちの曽祖父は戦車で網引いて魚取ってたら上官に怒られたって話聞いたな >>6
良い記録を見させていただきました。
お爺様には、お疲れ様でしたと言いたいですm(__)m 私の祖父は海軍に招集
舞鶴→鹿児島
深い内容は聞かなかった(そのときに聞いとけばよかった)
東條の印象について聞いたことあったがよく威張ってたと笑いながら言ってた
みなさんのお祖母さんやお祖父さんは東條英機について何か語っていましたか? >>81
祖母はなぜだか東條かつ子をやたらに嫌っていたな
戦中は高等女学校の教師やってたんだが国防婦人会とモメたとか何かあったのかな? >>82
勝子夫人は誰にでも気さくな人だったというけど
よくわからんね。 ワイマール憲法下でNazisを跳梁跋扈させたのはドイツ国民。
ドイツ国民が総懺悔するのは当然だろう。
日本は国民でなく天皇陛下の臣民。英米に宣戦布告したものも、ボツダム宣言受諾も最終判断は昭和天皇だ。
昭和天皇が戦争責任を取らなかったから、戦争及び敗戦の責任総括をすることが出来なかった。
戦争責任を曖昧にするしかなかったので、一億総懺悔などという言葉が生まれた。戦争被害者の国民が何故懺悔しなければならないのか? 戦争体験とのことで祖父から聞いた面白かった話を。
祖父は戦地に行く前の訓練の時に戦争が終わってしまったので訓練時の話。
穴堀の訓練があって滅茶苦茶怖い上官から
「今から◯分以内に掘れる分だけ深い穴を掘れ」
とのことでみんな我先におっきなスコップ、シャベルをとりにいったけど祖父は出遅れて残ってたのは穴を掘るには向いてないつるはしだけ。
やっべぇ…ってなったけど言い訳も出来んのでもう必死になって掘ったけど当然全然掘れない。そして時間になったけど当然全然掘れてない。祖父は顔面蒼白になってると上官が
「よーし、全員集合。手を見せろ。」
って言って穴の深さじゃなくて全員の手を見始めた。
他のみんなは比較的手が綺麗なのに対して、祖父の手だけ真剣というか恐怖で120%の力でやってたので手は短時間なのに血豆でぼろぼろ。それを見た上官は
「◯◯(祖父)以外は全員穴堀り再開!貴様ら真剣にやれ!◯◯(祖父)は休んでよし!」
だと。いかにも日本軍らしいエピソードだけど、これが祖父も思い出に残ってるって。 84
おめえが当然だのほざけるセリフじゃねえだろアホ 牟田口は「一度、教育総監をやってみたい」と口にし、周囲の笑いものになった。 20年3月長崎港に着いた
上官「明日、乗船する」
祖父「何処へ向かうのですか?」
上官「軍事機密であーる」
地元の人が話してる「また着かなかったみたいだね」
沖縄が目的地だったのかな、途中で潜水艦の餌食
着いたとしても地獄が待っている
地元の人が材木を船に積んでいる
「現地で使うのですか?」
「いや、浮いている材木を掴んで少しでも助かるかなと思って」
直前に出航停止命令が出て99死に一生
本土決戦要員に変更され熊本の山中に
熊本の山中で「今日の長崎の空襲大きいな」
原爆だった 山本五十六、大島浩、牟田口、……こいつら」たちが悪いぞ。
山本……命令いい子バカ。
大島……ドイツ大好き誤情報伝達低能。
牟田口……「日本人は草食民族である。ジャングルは草の宝庫である。従って日本人がジャングルで飢えることは無い……宇宙に吹っ飛ばすべき核兵器的バカ!……
日本、勝てるわけねえよ。ま、これが3バカ愚将
この中でも牟田口が最高の愚将 陸軍に徴兵された人の方が東條のことよく思ってなかった印象。
自分の周りでは。海軍や当時子供だった世代はそうでもなく。何故だ?? 海軍の艦隊勤務なり航空機の搭乗員は専門知識や経験が必要。
戦争の素人である一般国民の召集は、歩兵か人足くらいしかできない。当然ながら戦争好きでもない一般人は陸軍しかない。 >>94
祖父さんも海軍に憧れていたが父親が病死し中学に上がれなかった
中学へ行った友人たちは海軍に志願
祖父は召集令状で陸軍二等兵
まあ三ヶ月で終戦
海軍に行った友人たちは全滅
一年先輩たちは半分になっていた
嫁は近衛兵の娘
戦前だったらあり得ない組み合わせ
それだけ男子不足だった 親戚の話になるが、陸軍主計兵で満州→ビルマ→ニューギニア→ラバウルで終戦を迎えた
人がいる。経理関係をしていたんだが、今村均閣下が視察をすることが時々あって、姿だけ
見たことがあるとのこと。 母方の祖父が
ラバウルの方へ行ったらしい。
で、どこでなのかしらないが一時期、影佐禎昭のそばで仕事をしていた。
影佐禎昭は祖父に
「お前に子供が生まれたら、俺の禎の字をやるからつけろ」と言ったらしい。
それで俺の母には禎の字がついている。
ちなみに影佐禎昭は谷垣禎一の祖父である。 曾祖父は日清戦争、祖父が支那事変へと志願して出征している。
ご先祖さんの生き方を子供達にも伝えたくて伝承用に動画をつくってみました。
https://youtu.be/ivDNOjjjDZE 自分が中一の頃に亡くなった祖父にも、何かエピソードがあるのだろうと、父に聞いてみた。
どうやら徴兵検査で、身長が足りなかったので戦争に行っていないらしい。まじかよって思ったね。ちなみに俺は169p。 うちの祖父もだったけど、兵隊やってた人は戦中のことはあまり話さないよね
戦後になって、あーだこーだとペラペラ話すのは前線の現実知らない腐れ将校か備後備の連中だとか言って軽蔑しているようだった ウチの曾祖母、息子5人の内3人が戦死。
しかも全員遺骨も戻らなかった。
物凄く長生きして、晩年しかしらないけど
「オレが男を産んだからいけないんだぁ!」と命日とされた日によく泣いていた。
もう絶叫に近い形で怖かったのを覚えている。 >>98
うちのおじいちゃんも支那事変行ったって言ってた
海軍だったけど、船に乗ってるとき敵から大砲撃たれて船に穴空いたので
あわててみんなで別の船に乗り移ったらしい >>1
父方は満州(陸軍)へ母方はジャワ(海軍)に出征した
空が見えないぐらいハエのように米軍の戦闘機が襲ってきたと
あと柔道で米兵を投げ飛ばしたと 三島由紀夫の事嫌ってた。理由は知らない。聞けば良かった。
東條のことは好きでも嫌いでもない感じ。ラジオでよく威張ってたと。
山本権兵衛と東郷平八郎のことは尊敬してた。海軍に居たからかもしれん >>105
三島は出征してないのに愛国ぶってたからだよ 息子が成人して戦争にとられて、自分より先に亡くなったら、そりゃ戦争勝ってもうれしくないわ もし、この時、重臣近衛の進言を入れて昭和天皇が降伏することに同意していたら、どれだけ多くの日本国民の命が救われていたことか・・。しかし、 天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい」と、この進言を拒否した。近衛は「陛下は・・・梅津(参謀総長)及び海軍は今度は台湾に敵を誘導し得れば(米軍)をたたき得ると言っているし、その上で外交手段に訴えてもいいと思うと仰せありたり」と言っている。
近衛とともに終戦工作をした高木惣吉海軍少将は、近衛から聞いた話として「その時陛下は『未だ見込みがあるのだ』との御言葉であった。一度叩いてから、終結するということに御期待がある」ということなのである。藤田尚徳の『侍従長の回想』によると、この時、次のような会話もあったようだ。
陛下:もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う。
近衛:そういう戦果があがれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています