【Y-DNA】新日本古代氏族とハプログループPart21
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青森の砂沢遺跡は前7C頃の水田遺構で中部地方や関東地方よりも
先に稲作が始まっていた
搬入された遠賀川式土器が数点見つかっているが九州北部から入植した痕跡が
ないため、九州北部との交流を通じて稲作を取り入れて自ら稲作を始めたものと
見られる
けっきょく菜畑遺跡もこれと同じ
交流していた朝鮮南部から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕跡がない
朝鮮半島の稲作も同じだろう
交流していた遼東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕遺構がない
遼東半島の稲作も同じだろう
交流していた山東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから中国から入植した事を意味する中国土器遺構がない
稲作渡来民なんて幻想
そんなものは存在しない 出雲あたりに外来土器たる前池式の刻目突帯文土器が登場する時代と
菜畑に最古稲作遺構が登場する時代とでは少なくとも50〜100年くらいの
時代差があるんだが
稲作を半島から取り入れた在来人は山ノ寺式の刻目突帯文土器だから祖先は
渡来人だろうけど既に在来人だよ
渡来人と稲作伝来は全然時代が異なる別々の出来事だぞ 斉から墓が伝わったなら鼎が伝わらないのはおかしいね
中国の墓にはあの世でも食べていけるようにと奴隷から王まで
必ず鼎が副葬されるんだから
古代中国では墓と鼎はセット
甕棺墓は朝鮮南部の壺棺墓を取り入れて独自発展したものだし、
それ以外の墓も単に半島から取り入れただけで在来人のものだね
外来人の入植痕遺構がないんだから 玉璧はもともと、中国・前漢の皇帝から、
朝鮮半島にあった漢民族系の王朝「衛氏朝鮮」に下賜されたものだった、
という仮説が紹介されている。璧は衛氏朝鮮の崩壊後に流出し、
北部九州などを経て弥生時代に串間にもたらされ、古墳時代に
造営された当地の有力者の墓に副葬品として納められたのだという。
博物館の学芸普及担当、加藤徹さんは「串間市を含む志布志湾周辺地域は、
瀬戸内系の土器や南西諸島で採れる貝・貝製品の交易ルートが交わる結節点として、
弥生時代に重要な役割を担っていた可能性がある。玉璧の出土と交易ルートとの
関わりを裏づける今後の考古学研究の進展に期待したい」と話している。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASP8W6SN1P86TNAB001.html
南西諸島では弥生時代の九州とイモガイやゴホウラ交易があり[89]、
7世紀以降は日本の朝廷や唐とヤコウガイ交易が行われた[90]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9D%E8%B2%A8 プラントオパールは粘土より遥かに小さくて下層に浸透していくので
何千年も古く出てしまうため作物の開始年代測定に使われなくなった
実際はイネは2950年前の菜畑遺跡よりも古いイネは日本にはないし、
サトイモが伝わったのもイネと同じ頃で半島からだし、
ソバが伝わったのは弥生後期頃でもちろん半島からだよ
南方から来てたら三本足の生えた楽しすぎる炊飯器が伝わるだろが
南方の土器は中国土器のコピーなんだから(嘲笑
高床式倉庫は弥生早期に松菊里型住居とともに現れるのが最初だから、
やはり半島から取り入れられている 16000年前の鏃が青森から出土しているから日本の弓は16000年前に
土器技術とともに樺太経由で入ってるから支那朝鮮なんか関係ないの
旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡とみられる日本の大平山元遺跡から、
15,500-16,500年前のものとみられる旧石器時代の特徴を示す石鏃が出ているが、
これは今のところ世界で最も古い石鏃とみられている[2]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%8F%83 昭和の初めまで近畿人も中頭だったんだが
短頭化が進んだ原因は粉ミルクの普及が関係してるんだと
乳児期に粉ミルクの利用が多かった子どもほど短頭だという事 入植していきなり現地の土器を作る事はないね
最初は自分たちの土器を作って徐々に現地の土器に移行していくというステップを踏む 最初に伝わる耕作用農具は石スキのはずだろ
日本の最古稲作遺構には石刃の耕作用農具もスキもないぞ 渡来系弥生人と縄文系弥生人は居住地区が別々だった事が分かっている
言葉の壁や文化の壁や人種の壁があるので一緒には住めなかったようだ
前7C頃から渡来系弥生人骨が増えるのは単に甕棺墓時代に入って人骨が保存されるように
なったからで縄文末から渡来系弥生人の人口は増えている
特に半島から稲作や雑穀作を取り入れてから食料確保ができるようになったために
人口爆発したものと見られる 石毛直道は考古学専攻学者ではない
だいたい長江から稲作が伝わったなら日本の最古稲作遺構の最古イネに中粒種が
あるはずだろ
同期する長江のイネは中粒種が半分くらい混ざったイネなんだから
ところが最古稲作遺構のイネは短粒種だけ
しかも最古稲作遺構の水田の第一層には農具が一切なかった
稲作渡来民とやらが来たなら最初から農具くらいあるはずだろ
ない
在来人が朝鮮南部から稲作を取り入れて自らの手で始めただけだからだ
第三層あたりからようやく耕作用農具が現れるんだが、その耕作用農具は
同期する中国大陸にはないはずのクワであった
当時の中国大陸の耕作用農具はスキだけでクワはない
しかも中国大陸から伝わったなら石刃であるはずなのに木刃であった
日本にスキという耕作用農具が伝わったのは稲作開始から300年くらい経ってからで、
やはり石刃ではなく木刃であった たまたま長頭の個体が出土しただけで九州南部から南西諸島の縄文人骨は基本的に短頭
朝鮮人にも長頭がいるのと同じ事 西日本の縄文人骨は短頭か中頭なんだが(嘲笑
で、渡来系弥生人骨は中頭なんだが もともと弥生人が農耕民だとしたら縄文人は狩猟民ですから
農耕もどこかで覚えたのやろ 日本列島に最初に入ってきたのは38000年くらい前な
台形石器を使う集団なんだが、中近東や中央アジアには台形石器はあるんだが
南支那以南の東南アジアには台形石器がないんだよ
つまり中近東から北回りで来た事が分かる訳
その2000年後の36000年くらい前には石刃技法を使う集団が日本列島に
入ってくるんだが、中近東や中央アジアには石刃技法学があるんだが南支那以南の
東南アジアには13000年くらい前まで石刃技法はなく、しかも細石刃として
石刃技法が現れるんだよ
やはり中近東から北回りで来たとしか考えられない訳
容貌は田園洞人から見ると黒人と白人の中間みたいな感じかな
肌の色ももう黄色だったかもな 縄文人らは木の実などの採取は行ってたけどな
古代から出て来るのは採取した木の実などの類いなんだよ 石包丁が長江から伝わったものなら何で最古稲作遺構菜畑の稲作開始耕作用農具に
長江のメイン耕作用農具であるスキがねえんだ中卒 日本に弓が伝わるのは縄文草創期の北日本からなんだが
青森から16000年前の鏃が出土している
跨湖橋新石器時代遺跡よりも8000年も前の考古文物だよ 47000年前にアルタイ経由して東アジアからシベリアに広がり、38000〜36000年前に
日本列島に入ってきた東アジア以北の最初のサピエンスは台形石器や石刃技法を
使う集団である
ところが南支那以南の東南アジアには13000年前くらい前まで石刃技法がない
その13000年前の石刃技法も華中以北の古モンゴロイドが南支那以南の東南アジアに
南下侵入して細石刃として伝わったものである
だから東アジアやシベリアに最初に広がった台形石器や石刃技法を使うサピエンスが
南支那以南のスンダランドから北上してきたというのはあり得ない
南支那以南のスンダロイドが北上してモンゴロイドになったという説は
あり得ないのである
遺伝学でのルート探査などは考古学や形質人類学の補助輪を使わなければ
デタラメを頻発してさっぱり使い物にならないレベルのものだという事が分かる
つまり考古学や形質人類学だけ見てた方が控えめに見ても百倍くらいルート探査の
精度が高いという事 中東のイラン高原から北回りでアルタイ経由で最初に東アジアやシベリアに
入ってきた人類は北京あたりで出土した42000年くらい前の田園洞人を見ると
エチオピア人のようなニグロイドとコーカソイドの中間的な容貌をした
原始コーカソイドである
ところがシベリアから出土した30000年くらい前の人骨はもろにコーカソイドの
人骨であった
中東のイラン高原あたりから北上してきた時差が1万年くらい違うと完全に
別人種になっている
ところが20000年くらい前になるとコーカソイドとは全く正反対の極めて扁平な
容貌にシャベル型切歯を持った北方モンゴロイドが出現して、それまでの
コーカソイドに近い形質は消えていった
ここから考えるとニグロイドやコーカソイドがモンゴロイドに変わるのに要する時間は
1〜2万年くらいだと思われる
そして7〜8000年くらい前になると北方モンゴロイドの南下が始まり、中国大陸では
6000年くらい前まで古モンゴロイド的形質の人骨だったものが僅か1000年ほどで
北方モンゴロイド形質を帯びた全く別人種の人骨に変わってしまう
時差はあるものの、これと同じ事が沿海州や朝鮮半島や日本列島でも
起こったものと考えられる 山東省人骨よりさらに渡来系弥生人骨と酷似してるのが沿海州人骨な 遺伝学の推測がしばしば暴走するため
客観性の担保としていくつか前スレから引用させて頂いた
己の自然な直感を元にそれを裏付けるデータを集めるのは
象牙であれ在野であれ基本的な姿勢と思われるが
私のああ思うここ思うに沿うデータを
あれこれと持ってきてペタペタと貼るのは
それとは似て非なると考える
客観的なデータは自分の思い込みや前提を
絶えず裏切ってくるものだ
そしてそこから初めて新たな物事が分かってくるのだ
そういう、データに裏切られた体験や感覚のないまま
あれもあるこれもあると色んな図表や物事を
あれこれ提示していく人の気持ちが分からない 【概要】
ニホンヤモリは、日本民家の“隣人”で家の守り神(家守)として親しまれていますが、中国東部にも分布しており、実は在来種ではなく外来種ではという疑いがもたれてきました。しかし、渡来期も含めその来歴は不明でした。
東北大学大学院生命科学研究科博士課程学生の千葉稔氏と東北アジア研究センターの千葉聡教授らのグループは、その日本進出の過程を、ゲノムワイドの変異解析と古文書の調査から推定することに成功しました。
ニホンヤモリは、約 3000 年前に中国から九州に渡来し、平安時代末までに近畿へ、一部が東海道を東進して江戸後期〜明治初期に関東へ、また戦国時代に近畿から北陸に移った系統が江戸時代には、北前船の寄港地として栄えていた酒田へと移住したと推定されました。
遺伝子から推定された歴史は古文書の記録と整合的であり、日本社会の発展の歴史との間に見られる多くの共通点は、ニホンヤモリが人や物資の移動に伴って分布を広げたことを裏付けます。
本研究成果は、現在の生物の分布や多様性を理解する上で、近代以前の人と生物の関係が無視できない要因であることを示す重要な成果です。
本研究結果は、2022 年 11 月 30 日の米国科学誌 PNAS Nexus(オンライン速報版)に掲載されました。
<研究成果の内容>
本研究では、古文書の網羅的調査、ddRAD-seq というゲノムワイドの変異解析、人間社会の発展と絡めた考察という文理融合的なアプローチにより、ニホンヤモリが辿った歴史を推定しました。
地域集団の系統関係と分岐年代、上記の個体数増減のタイミング(図 2)から、ニホンヤモリの住分散のルートと歴史を推定することができます。
その結果、ニホンヤモリは約 3000 年前に中国から五島列島、さらに九州へ渡来したと推定できました。約2000 年前の弥生時代になると、九州から複数のルートで西進が始まり、遅くとも平安時代末までには近畿に定着していました。
その後、一部が東海道を東に進み、江戸時代後期〜明治初期に関東へ達しました。これは 17 世紀にはまだ「関東にはいなかった」という 1697 年の本朝食鑑の記述と整合します。
また、戦国時代には近畿から北陸へと移住し、江戸時代には北陸から北前船の寄港地として栄えていた酒田に移りました。 250年前から1万年前の更新世はホモ ネアンデルターレンシス
ホモハイデルベルゲンシス ホモフローレシエンス ホモエレクトゥス
パラントロプス ホモハピリス (ホモエルガステル)がいて
1万年前にはすべて絶滅 人類はホモサピエンスしかいなくなりました
そもそも進化論は存在しない 絶滅するか新種が現れるがだけです “最初の日本人” その「親戚」がタイの密林にいた
現代の日本人とは姿も生活様式も全く異なるマニ族が、なぜ“最初の日本人”の「親戚」と言えるのか。
この両者を結びつけたのが「古代DNA解析」と呼ばれる、2022年のノーベル生理学・医学賞に選ばれた革新的な技術です。
長い間、土に埋まっていた骨からは、これまでDNAを読むことが出来ませんでしたが、この技術が確立されたことで、保存状態のいい骨に関しては数千年前の骨であってもDNAを読み取ることが出来るようになりました。
このため、従来では考えることもできなかった様々な事実がこの10年で次々と明らかになってきているのです。
その1つが2018年に東京大学の太田博樹教授らのチームが発表した研究結果です。
きっかけになったのは、ラオスにあるファファエン遺跡で見つかった8000年前の人骨のDNA解析に成功したことでした。
タイやラオス周辺には2万数千年前から4000年前にかけて「ホアビニアン」と呼ばれる狩猟採集民が広く暮らしており、DNA解析に成功したのはこの「ホアビニアン」の骨でした。
太田教授らは、ホアビニアンのDNAと、世界各地の古代人や現代人など計80集団以上のDNAを比較し、どのくらい似ているかを示す近縁性を調べました。
すると、東南アジアの古代人に混ざって、日本人にとって歴史の教科書でおなじみの「縄文人」が、ホアビニアンとのDNAの近縁性、どのくらい似ているかの指標で4位にランクインしたのです。
「縄文人」は今からおよそ1万6000年前から3000年前の「縄文時代」に日本列島に住んでいた人々で、いわば“最初の日本人”です。
です。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/feature/2023/12/04/36270.html 縄文人 英語板
ttps://en.wikipedia.org/wiki/J%C5%8Dmon_people
世界中の集団および現在の個人の主成分分析(PCA)をクリック
Principal component analysis (PCA) of ancient and present-day individuals
from worldwide populationsをクリック
Dvils gateと近接してるのは見えにくいが日本人です >>29
ホアビニアン人骨から見ると縄文人骨は近縁性で4位との事だが、
縄文人骨から見るとホアビニアン人骨は近縁性で何位なんだよ?(嘲笑 【概要】
ニホンヤモリは、日本民家の“隣人”で家の守り神(家守)として親しまれていますが、中国東部にも分布しており、実は在来種ではなく外来種ではという疑いがもたれてきました。しかし、渡来期も含めその来歴は不明でした。
東北大学大学院生命科学研究科博士課程学生の千葉稔氏と東北アジア研究センターの千葉聡教授らのグループは、その日本進出の過程を、ゲノムワイドの変異解析と古文書の調査から推定することに成功しました。
ニホンヤモリは、約 3000 年前に中国から九州に渡来し、平安時代末までに近畿へ、一部が東海道を東進して江戸後期〜明治初期に関東へ、また戦国時代に近畿から北陸に移った系統が江戸時代には、北前船の寄港地として栄えていた酒田へと移住したと推定されました。
遺伝子から推定された歴史は古文書の記録と整合的であり、日本社会の発展の歴史との間に見られる多くの共通点は、ニホンヤモリが人や物資の移動に伴って分布を広げたことを裏付けます。
本研究成果は、現在の生物の分布や多様性を理解する上で、近代以前の人と生物の関係が無視できない要因であることを示す重要な成果です。
本研究結果は、2022 年 11 月 30 日の米国科学誌 PNAS Nexus(オンライン速報版)に掲載されました。
<研究成果の内容>
本研究では、古文書の網羅的調査、ddRAD-seq というゲノムワイドの変異解析、人間社会の発展と絡めた考察という文理融合的なアプローチにより、ニホンヤモリが辿った歴史を推定しました。
地域集団の系統関係と分岐年代、上記の個体数増減のタイミング(図 2)から、ニホンヤモリの住分散のルートと歴史を推定することができます。
その結果、ニホンヤモリは約 3000 年前に中国から五島列島、さらに九州へ渡来したと推定できました。約2000 年前の弥生時代になると、九州から複数のルートで西進が始まり、遅くとも平安時代末までには近畿に定着していました。
その後、一部が東海道を東に進み、江戸時代後期〜明治初期に関東へ達しました。これは 17 世紀にはまだ「関東にはいなかった」という 1697 年の本朝食鑑の記述と整合します。
また、戦国時代には近畿から北陸へと移住し、江戸時代には北陸から北前船の寄港地として栄えていた酒田に移りました。 >>36
それだと何でミナミヤモリが九州南部と南西諸島と台湾と南支那の
共通種なのか説明出来ないね
単に南西諸島からミナミヤモリが九州南部に入ってさらに北上したものが
ニホンヤモリになっただけ >>36
ホアビニアン人骨から見ると縄文人骨は近縁性で4位という事は分かった
では縄文人骨から見るとホアビニアン人骨は近縁性で何位なの?何位なの? 姫氏国
日本はかつて「姫氏国」という倭漢通用の国称をもっていた。日本紀私記の丁本によれば、野馬台詩には日本のことを「東海姫氏國」と称し、また日本神話において皇室の始祖は天照大神とされ、女帝・神功皇后を輩出していることから姫氏の国と呼ぶという。 なお、漢の文化における「姫」は、黄帝と周王の姓、そしてその継承者の姓を意味し、こちらに関連する逸話もある。
https://note.com/kazugaga/n/n194c80684d23
https://i.imgur.com/cg1xvoq.jpeg >>39-40
ほれ、おまえらチンコロ工作員のクッサイ遺伝子wwww
黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
. 遺伝学はルート探査にはほとんど使えない
例えば、九州1000体、西日本1000体、東日本1000体、北海道1000体というように全世界を500kmごとの間隔で1000体分のデータを現代から38000年前まで1000年ずつ過去にスライドしていくデータでもあれば信憑性もあるだろう
だが現代人100体分ほどのデータと数千〜数万年前の数体分のデータだけ、それも全世界のほんの一部だけで、全世界のほとんどの地域が現代人だけのデータだけという程度のものに一体何の信憑性があるというのか?
実際は現代から過去1000年以内のデータで99.9%以上のスッカスカでスッカスカのさっぱりデータに
なってないシロモノで日々逞しく妄想を膨らませているだけの、どこまでも空想の域を出ない単なる虚学のファンタジーなのである 3万年以上前の旧石器時代はな
地球全体でまだセロイひと、半セロイひとしか居なかった
ところが、3万年くらい前のシベリアの遺構で出土した人骨は
単なるコーカソイド人骨だったのである
我々モンゴロイドの祖先はイランあたりの中東の有色コーカソイドだったのである >>49
科学はそもそも空想妄想ファンタジーだって知らなかったのかw 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
A(A00~A3(側系統)) アフリカ。コイサン人種(カポイド)、ナイロテック亜人種(ナイル人)、コイサン諸語、ナイル・サハラ語族と関連。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
BT
B アフリカ。ネグリロ人種(ピグミー)、ハヅァ族と関連。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
CT
DE(YAP遺伝子)
D
D1a1 チベット、チベット系民族に多い。
D1a2a 主に日本で検出され、アイヌと沖縄本島南部(島尻)に特に多い。日本国外では、韓国で平均2%ほどの男性に見られるほか、ミクロネシア、ティモール島、中国(東北部、北京等)でも散発的に検出された例がある。縄文人に由来すると推定される。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
E アフリカ、中東。E1b1aはサハラ砂漠以南のアフリカ、メラノ・アフリカ人種(コンゴイド)、バントゥー系民族等のニジェール・コンゴ語族、E1b1bは北アフリカ、アラビア半島、エジプト民族(東部ハム人種)等、アフロ・アジア語族と関連。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
C
C1
C1a1 日本固有。現代日本人の5%〜6%ほどの男性に見られる。縄文人に由来すると推定されているが、縄文時代の人骨から検出された例は未だに発表されていない。青谷上寺地遺跡の弥生時代の人骨や高松茶臼山古墳に埋葬された人骨から検出された例はある。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
C1a2 ヨーロッパ、北アフリカ、アルメニア、ネパール、カビル人(ベルベル人又は北部ハム人種)などでわずかに見られる。クロマニョン人。
C1b2 オセアニア。C1b2aはニューギニア島先住民(パプア人又はパプア亜人種)、C1b2bはオーストラリア先住民(アボリジニ又はオーストラリア人種)と関連。
. オホーツク人をロシア語で検索すると全身が猿の猿人の写真が出て来て
その姿がウポポイにあるアイヌと同じ顔 姿です
オホーツクの猿人がアイヌであり
オホーツク人とは別種です 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
C2 カザフステップ、モンゴル高原、シベリア、極東ロシア、北アメリカで高頻度に見られカザフ人(ツラン人種又はトゥラン人種)、ブリヤート人、エヴェンキ等のアルタイ諸語、コリャーク人、ニヴフ等の古シベリア諸語(古層シベリア人種)、アパッチ族等のナ・デネ語族(北太平洋インディアン又はアリューシャン人種)と関連。中国華北、朝鮮半島では中頻度で見られる。中国華南、日本、ベトナム、タイ族などでも低頻度で見られる。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
F
F* 南アジアに見られる。F2 中国南西部のラフ族や彝族に見られる。その他ベトナム、タイ等東南アジアにも少し見られる。
G コーカサスで多く、ヨーロッパでも少し見られる。ジョージア人(地中海人種)に見られる。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
H 南アジア。ドラヴィダ人(ドラヴィダ人種又はメラノ・ヒンドゥ)、ロマに多い。ドラヴィダ語族と関連。
I ヨーロッパで多く見られる。クロマニョン人。I1は北欧、北方人種、I2はバルカン半島、ディナール人種と関連。
J 中東、紅海・地中海沿岸。J1はアラビア半島、南東人種(アラブ人)、J2はアナトリア半島、アナトリア人種(アルメノイド)と関連。
. そもそもアイヌは、オホーツクにいた猿人で
縄文人とは違います
人の姿に容姿を変えたいために
色々な国の色々な民族と混血をしてきた
人になりたいために 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
K
K* ニューギニア島に多く見られるほか、オーストラリア大陸など。東南アジアでも少数だが見られる。
L 南アジア。ブルショー人に見られる。
T 南アジア、中東、東アフリカ、ヨーロッパ。ソマリ人(エチオピア人種)に見られる。
MS 海域東南アジア、オセアニア、特にニューギニア島で多く見られる。アエタ族(ネグリト人種)に多い。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
NO
N 北ユーラシアに広く分布する、ウラル語族と関連。N1a1は主にウラル山脈以西、フィン人、エストニア人、サーミ人(ラップ人種)などのフィン・ウゴル語派、N1a2はウラル山脈以東、ネネツ人などのサモエード語派と関連。現代の中国、ベトナム、北朝鮮・韓国、日本などでも低頻度に見られるが、古代人骨から得られたデータを考慮すれば新石器時代から青銅器時代にかけて中国東部(山東省)及び北部(遼寧省、内蒙古自治区)に於いて主要なハプログループであった模様。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
O
O1
O1a 中国東南部、台湾島(とりわけ台湾原住民)、海域東南アジア(フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポール等)で多く、アドミラルティ諸島やマジュロなどでも10~30%程見られる。オーストロネシア語族と関連。インドシナ半島、中国のその他の地域、韓国、日本、北アジア、中央アジアでも低い頻度に見られる(英語版)。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
O1b O1b1は中国南部、インドシナ半島、インドネシア、インド北東部、ニコバル人、ションペン人、ムンダ族に特に多い。オーストロアジア語族との関連が想定されているが、漢族や日本人に比較的多く見られる下位系統も現存している。
. アイヌは黒人のオンゲ族とオーストラリアの原住民の混血が純血種で
17世紀に純血種は絶滅しました
毛深い毛人はいなくなり
人になりました 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
O1b2は日本人、朝鮮民族に多く(約30%)、満州族、ナナイ、ダウール族、蒙古族、漢族等にも少数見られる。ベトナムやミクロネシアで散発的に観察された例もある。下本山岩陰遺跡や青谷上寺地遺跡で発見された弥生時代の人骨から検出されたことがある。O1b1とO1b2の最も近い共通祖先は三万年以上前にも遡ると推定されている。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
O2 中国大陸、朝鮮半島、台湾島、漢民族、朝鮮民族、タイ人、ビルマ族、ヤオ族、シェ族、キン族に多い。日本人にも15%~20%程見られる。シナ・チベット語族、ミャオ・ヤオ語族と関連。石川県金沢市観法寺町にある岩出横穴墓から出土した古墳人一体の遺骨に見られたハプログループO2a2b1a1a1a4a1-CTS5308は東アジア全体で比較的多く見られるO-M117のサブクレードではあるが、O-CTS5308は特にチベット人に多く見られるタイプである。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
P
Q アメリカ大陸。エスキモー人種を含めたアメリカ先住民(アメリンド人種)に非常に多い。ケット人などシベリアの一部でも見られる。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
R
R1a 東ヨーロッパ、北インド、中央アジアに多く、西ユーラシア全域で見られる。東ヨーロッパ人種、インド・アフガン人種(インド・アーリア人、イラン系民族)、インド・ヨーロッパ語族サテム語と関連。
R1b 西ヨーロッパに特に多く、ヨーロッパ全域で一般的に見られる。アルプス人種、特にケルト人やバスク人に多い。インド・ヨーロッパ語族ケントゥム語と関連。
. アイヌは、黒い原人で毛人で猿人で不潔であったのに
それを誤魔化すために
半島ルーツのそれも衛氏朝鮮 中国王朝が
支配する従属国朝鮮をバカにし
縄文人こそが 日本人であるとし
大陸のルーツに罵詈雑言を浴びせ
多くの人を苦しめました 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
拡散ルート
Y染色体ハプログループの世界拡散を表す想定地図
崎谷満は人類のY染色体ハプログループが出アフリカ後にイラン付近を起点にして南ルート、北ルート、西ルートの3ルートで拡散したとしている[2][3]。なお、見かけによって人類を分類する人種と父系先祖からのみ遺伝されるY染色体は根本的に異なる概念であり、混同することは甚だしく不合理である。
非出アフリカ…A、B、E、D2
南ルート…C1a1、C1b2、D1、F*、K*、MS、H、L
北ルート…C2、NO、P
西ルート…C1a2、I、J、G、T
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
一方で2020年に発表されたハラストらの系統発生学的手法による古代および現代の非アフリカ人Y染色体のサンプルを用いた分析によると、7万年-5万5千年前に起きた基層となるD系統、C系統、F系統の遺伝子を持つ集団の出アフリカに続いて、新しい移民を除く全ての非アフリカ人男性のY染色体の系統は5万5千年-5万年前に東アジア/東南アジアから拡散したことを示しているとし、この基層となった系統は速やかにユーラシア全体にわたって拡散し、後に東南アジアで多様な系統に分岐し、それから約5万5千年-5万年前に西に向かって拡散し、先住民のY染色体系統と置き換わったとしている[4]。
. アイヌはまた 弥生時代 飛鳥時代と続く
日本の文化の否定
猿人から人間にというアイヌのコンプレックスを
関係のない人々に八つ当たりし
怪しい企みがあるのではと
疑われる言動を繰り返していました 関係のない中国大陸の人々が
アイヌの猿人から人間へのコンプレックスを
持つアイヌに、土人と言われ なぜ私が俺が状態でした
アイヌはアイヌ自身が人に進化しなければ生きていけない
苦渋を抱えていて、八つ当たりしてただけです
アイヌの苦渋は他の人には関係ないです ハプログループD1a2a (Y染色体)
ハプログループD-M55 (Y染色体)(ハプログループD-M55 (Yせんしょくたい)、英: Haplogroup D-M55 (Y chromosome))とは、分子人類学で用いられる、人類のY染色体ハプログループ(単倍群)の分類のうち、ハプログループDのサブクレード(細分岐)の一つで、Z3660の子孫の系統である。今より四万年ほど前に日本列島で誕生したとされる[4]。現存する下位系統の最も近い共通祖先は今より二万年ほど前にさかのぼるとされ、現在日本人の3割ないし4割[5]が属している。同じZ3660のサブクレードとしては現代のアンダマン諸島に居住するオンゲ族及びジャラワ族にみられるY34637がある。
ISOGGでの名称
2006年 ハプログループD2
2014年5月 ハプログループD1b (D1,D2,D3→D1a,D1b,D1c)
2019年6月 ハプログループD1a2 (D1a,D1c→D1a1a,D1a1b D1b→D1a2)
2020年4月 ハプログループD1a2a (D1a2,D1a3→D1a2a,D1a2b) ハプログループD1a2a (Y染色体)
ハプログループD-M55 (Y染色体)(ハプログループD-M55 (Yせんしょくたい)、英: Haplogroup D-M55 (Y chromosome))とは、分子人類学で用いられる、人類のY染色体ハプログループ(単倍群)の分類のうち、ハプログループDのサブクレード(細分岐)の一つで、Z3660の子孫の系統である。今より四万年ほど前に日本列島で誕生したとされる[4]。現存する下位系統の最も近い共通祖先は今より二万年ほど前にさかのぼるとされ、現在日本人の3割ないし4割[5]が属している。同じZ3660のサブクレードとしては現代のアンダマン諸島に居住するオンゲ族及びジャラワ族にみられるY34637がある。
ISOGGでの名称
2006年 ハプログループD2
2014年5月 ハプログループD1b (D1,D2,D3→D1a,D1b,D1c)
2019年6月 ハプログループD1a2 (D1a,D1c→D1a1a,D1a1b D1b→D1a2)
2020年4月 ハプログループD1a2a (D1a2,D1a3→D1a2a,D1a2b) ハプログループD1a2a(D-M55)は、主に日本列島で観察される。日本人の約32%[6] - 39%[7]にみられ、沖縄や奄美大島では過半数を占める。アイヌの80%以上[8]もこれに属する。ハプログループD1a2aは、日本で誕生してから3.8-3.7万年ほど経過していると考えられている[9]。
本系統と兄弟グループのD1a2b(Y34637)はアンダマン諸島南部(オンゲ族、ジャラワ族)でサンプル数は少ないものの100%[10][11]を占める。 なお、本系統と他のハプログループDのサブクレードとは概ね5万3千年以上[12]の隔絶があり、他のハプログループと比べてサブクレード間でも近縁とは言えず、親グループ間並の時間的距離がある。 gm遺伝子見てみろ
沖縄すらまったくセロくないだろうがヴァカ 歴史
現生人類の誕生後、Y染色体アダムから発生した、いわゆるユーラシアン・アダムの子孫たちを含むグループの中から一塩基多型の変異(いわゆるYAPと言われる痕跡)が、約6.5万年前頃にアフリカ大陸の北東部(現在のスーダンからエチオピア高原の辺り)において生じたが、その子系統であるハプログループDは、アフリカにおいて既に発生していたと考えられる[13](一方で、ハプログループDEはアジアで発祥したという異説もある[14][15])。
ハプログループDの子系統D1,D2のうち、D1[16]は、ハプログループCFとともに、現在アフリカの角と呼ばれる地域から、現生人類としては初めて紅海を渡ってアフリカ大陸を脱出した。アラビア半島の南端から海岸沿いに東北に進みイラン付近に至った。さらにイラン付近からアルタイ山脈付近に北上したと推定される。 ハプログループD1のうち、アルタイ-チベット付近にとどまったグループから誕生した系統がチベット人に高頻度のハプログループD1a1であり、東進して日本列島に至ったのがハプログループD1a2aである。日本列島は海洋資源に恵まれ、温暖であったため、繁栄したと考えられる[17]。
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマーは「縄文人の祖先は約5万年前には中央アジアにいた集団であり、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本列島でD1a2aが誕生した」とする説を唱えた[18]。崎谷満はハプログループD1a2が華北を経由し九州北部に到達し、日本列島でD1a2aが誕生したとしている[19]。 各地における頻度
日本各地で高い頻度を誇るが、特に東日本や南九州及び沖縄に多い。
青森:38.5%
静岡:32.8%
徳島:25.7%
九州:26.4%
沖縄:55.6%(25/45)(Hammer et al. 2006[18])
アイヌ:87.5%(Tajima et al. 2004[20])
また、国外では韓国、ミクロネシア、ティモール島、中国などで低頻度にみられる。
ミクロネシア: 5.9%(1/17; Hammer et al. 2006[18])
韓国: 4.0% (3/75; Hammer et al. 2006[18])、1.58%(8/506[21])
西ティモール: 0.2%(1/497; Tumonggor et al. 2014[22])
中国: 0.02%[23]、北京漢族1.96%(1/51)[21] 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
A(A00~A3(側系統)) アフリカ。コイサン人種(カポイド)、ナイロテック亜人種(ナイル人)、コイサン諸語、ナイル・サハラ語族と関連。
. 一塩基多型と人種の関係
Y染色体アダム
BT
B アフリカ。ネグリロ人種(ピグミー)、ハヅァ族と関連。
. 稲作は稲作渡来民がやって来て伝わった
ここからもうすでに間違っている
じゃあ小麦作はメソポタミアから小麦作渡来民が来たのか?
ソバ作はソバ作渡来民が来たのか?
ダイコン作はダイコン作渡来民が来たのか?
モモ作はモモ作渡来民が来たのか?
来ている訳がない
実際、最古稲作遺構の菜畑遺跡には渡来人が入植した痕跡はない 青森の砂沢遺跡では前7C頃の水田遺構で中部地方や関東地方よりも
先に稲作が始まっていた
搬入された遠賀川式土器が数点見つかっているが九州北部から入植した痕跡が
ないため、九州北部との交流を通じて稲作を取り入れて自ら稲作を始めたものと
見られる
けっきょく菜畑遺跡もこれと同じ
交流していた朝鮮南部から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕跡がない
朝鮮半島の稲作も同じだろう
交流していた遼東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから外来人の入植痕遺構がない
遼東半島の稲作も同じだろう
交流していた山東半島から稲作を取り入れて自ら稲作を始めただけの話
だから中国から入植した事を意味する中国土器遺構がない
稲作渡来民なんて幻想
そんなものは存在しない けっきょく、だから、という接続詞の前後に理論的つながりがない駄文。
>搬入された遠賀川式土器が数点見つかっているが九州北部から入植した痕跡が
ないため、
搬入された遠賀川式土器が数点見つかっていて、
稲作が新規開始されているのだから、
九州北部から入植した痕跡そのものだろう。
>交流していた遼東半島から稲作を
該当時期の稲作根拠なし。
>交流していた山東半島から稲作を
該当時期の稲作根拠なし。
>交流していた朝鮮南部から稲作を
ほぼ同時期に対馬海峡南北端で稲作が始まっており、
北部九州倭人による新規稲作開始と考えられる。 >>98
何でわざわざ稲作に向かない青森に九州北部から入植するんだよ馬鹿(嘲笑
入植するなら近場にもっと稲作に向いた良い場所がいくらでもあるだろうが
それに入植したなら遠賀川式土器を1世紀くらいは作るだろうが
そういった形跡もない
だから現地人が九州北部から稲作を取り入れて自ら始めただけの遺構だと分かる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています