結城記者の記事だけなら、名札や「坂本先生しばらく」も創作の可能性があるが、
明治25年6月〜7月に、東京横浜毎日新聞「叢談」に「只三郎君小伝」を今井がペンネームで執筆した時も、
「即ち刺を通じ案内を乞う」「一番…二階に上り坂本先生久闊と呼ぶ。二番、抜刀にて進み忽ち叫号」とあり、
名札を先に渡して、一番太刀の人が坂本に挨拶し、二番太刀の人は刀を抜いて飛び込んだのが分かる。