最近安易に流行ってる「明治維新否定」って何なの?
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明治維新150年を期に、政府の思惑とは裏腹に明治維新をディスる
明治維新否定が流行っている模様。
先人が大変な苦労をして成し遂げた明治維新を否定して「江戸時代に戻せ」って
ホントにそれでいいの? 最初に満蒙獲れとか言い出したのは佐藤信淵の混同秘策だな。
秋田人です。 政府が明治維新150年を祝う式典 天皇陛下は出席せず
宮内庁「政府からお声がけがなかった」
安易なのかな?
普通の新聞の記事だった。 >>559
佐藤は地元の平田国学の信者で強烈な皇統主義者でもあったから、清を滅ぼし明を復して欧州を制するという主張をした
蘭学者と交流し海外情報を知った天保期になると撤回し、正反対の主張(清と組んで西洋を打払う)を主張する
平田篤胤自身も逝去する
ところが萩の椿八幡宮の宮司青山清が明倫館助教を務めた影響で
長州の青年層が平田国学にかぶれまくる
(高杉晋作も平田篤胤の「霊の真柱」という聖書のパクリ霊能書みたいなのを熱心に読んでいる)
しかも松陰は江戸遊学中に水戸学のオルグを受け、同時期に地元で子弟に皇国思想を鼓吹する
で、朝鮮満州を取れと怒号する異様な集団が誕生しましたとさ なお晋作くんが熱心に読んだ「霊の真柱」であるが
読んでみるとおや?何だか内容がどこかの宗教に似ているぞ そうです
実は平田篤胤はキリスト教の教理問答書をぱくって和風に仕立て直しているため
晋作くんたち尊王論者たちは気づかずに「洋夷」の邪教を学んでいたという阿呆なお話でしたとさ >>560
まぁ〜所謂「賊軍」の末裔らに配慮したのでは?とw たんに内閣が出席を助言しなかっただけだろ。秋篠宮は出席されたのだから。 >>553 だからそれは「あんたの」あと智慧だっつってんだよ。
左翼は最新の研究結果をもって「それみたことか」論法を
してるから、誰からも相手されず、また自分は批評家の地位に
堕落して何一つなすことがないんだよ。研究者なら研究者の
スタンスで謙虚にしていろ 明治維新の中枢にいた人たちは、その当時入手できる限りの定評のある
信頼できる学問を身に着け時代に飛び込んだんだよ。その結果がアレだ。
あんたの言ってることはそれを後から批判してるだけ。あんたがやるべき
ことは「現代」を切り取って分析して現代の政治家に提供することであって
先人の失敗に悪口をいうことではない。それは政治家を励ます行為ではなく、
たんに自分の賢明さを政治家に対して誇ろうとする愚かな行為にすぎない。 別に幕末に松陰が言ったから朝鮮取ったんでなく
日露戦争の時に朝鮮がロシアを招き入れたから危険だから取ったんだろう
日清戦争にしてもそれまでは朝鮮を独立させる方針だったし >>543-545
めんどくさい。
お得意の詭弁でだらだら話を続けようとしているだけで
すでに議論の中核は終わってるのでこれ以上は相手にしませんよ。
外交テクニックだとかそういう言い訳はいらない。
要は幕府は日本を代表する政権としてはちょっとお話しになりませんよと
海外から突き付けられた事実が大事。
そして、国内的にはこの外圧に対し、日本国をとりまとめる政権として
充分に防ぎきれなかったという事実。
幕府瓦解はここから始まったのであり、成り行き上、はからずも
日本を代表して列強と一戦を交えた薩摩と長州が幕府を倒すことに
なるのも、これまた歴史の妙とでも言うべきものであろうか。 >>502
>薩摩はこっそり奄美の黒糖地獄
この遠因は江戸時代を通じて行われた幕府による陰湿な「薩摩いじめ」
があるんだがな。
薩摩が命がけで他国に作った堤防を完成間近に壊させるとか。
日本の陰湿ないじめ体質の元凶は理不尽な身分制度下で醸成された
徳川時代の遺物だと思われますが >>561
水戸学は将軍も学んだ江戸時代最先端のスタンダード思想だろ。
異様なのは他国人(ドイツ生まれのユダヤ人)の思考で作った
人工的歴史観で日本の歴史を歪めながら語る左翼集団の方だろう。 >要は幕府は日本を代表する政権としてはちょっとお話しになりませんよと
>海外から突き付けられた事実が大事。
>そして、国内的にはこの外圧に対し、日本国をとりまとめる政権として
>充分に防ぎきれなかったという事実。
さすがにこれは幕府に対して失礼。列強は自国の利益につながるように
いかようにでも恫喝外交したんだから。じっさいは大したこと無かったなど
あと智慧で言えるんだって。 じぶんをごりっぱに見せようとする心性の卑しさが学術を曲げ
教訓を枉げ、けっきょく誰にとっても何ひとつ役に立つことのない
言説のみ並べ立てることになる。いわくサヨクおとくいの
「それみたことか」論法である。 幕府組織はもうボロボロだった
長州征討や鳥羽伏見でのあり得ない負け
戦争は組織と組織の究極のぶつかり合いだから負けが天下に示されてしまい崩壊を迎えた 日本を壊滅させた国賊・山本五十六
岡田啓介、山本五十六ら艦隊派が海軍軍縮条約からの脱退を企て
予備交渉を意図的に破綻させる。
↓
海軍軍縮条約から脱退確定
↓
海軍、政友会、三菱財閥など利権勢力が青年将校らに襲撃される(2.26事件)
↓
山本五十六が海軍次官に就任。山本は米内を海相に推して米内が海相に。
↓
大山事件勃発(海軍の自作自演、謀略)(陸軍主導の船津和平工作が妨害され潰された)
↓
海軍が中国都市爆撃を独断で強行
↓
海軍による都市無差別爆撃が世界中から非難される
国際連盟は対日非難決議を採択。中国支援を決定。
国共合作が実現する。
日中戦争勃発。
↓
閑院宮・陸軍参謀総長は畑陸相に対し、日中戦争を拡大泥沼化させてる要因は
米内ら海軍だとして、日中停戦のため米内内閣に協力しないよう要請。
↓
井上成美は中国都市爆撃の強化を唱え重慶に対する
無差別爆撃を実施。
↓
陸軍は日米諒解案をベースに対米交渉を続けるが
それを妨害するため海軍が主導し南部仏印進駐を強行 素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ヤンチュ(黒糖奴隷)】
薩摩藩では奄美の島民を黒糖栽培の為に奴隷化していた。
島民達に人権なく安値で売り買いされ牛馬以下の扱いで酷使され続け
また、サトウキビ以外の生産は厳しく制限され飢餓に喘ぐ悲惨な状態であった。
そして驚く事に明治12年まで続く事になる。
島津は維新を謳いながら自領は江戸時代同様の支配を手放そうとせず
政府からの奴隷解放令や自由売買許可を握り潰し続け告布しなかったのである。
西郷隆盛も奄美の人々を蛮族と蔑み奴隷政策に加担していた。 >>567
木戸孝允が慶応4年4月に太政官に真っ先に建白したのは征韓論
そのあとも明治3年くらいまで本人はやる気満々だった
外遊から帰ってから老け込んだが長州の三元老以下はその後も朝鮮半島専任みたいなもの >>568
お前は単にイギリスが幕府に要求した賠償金が「肩代わり」だと思い込んでた阿呆じゃん
だから幕府が払ったのにイギリスが薩摩を攻撃したとかいう意味不明のこと言い出して
大恥かいたんだからもう黙ってろよ >>565
何が後知恵?
当時だって半島で英露との権益の調整が面倒だから手を出すな派も多かったんだぞ。
早い話が伊藤博文も併合まではなかなか踏み切れなかった(途中から併合賛成に転じたけど)
台湾なんてさらにクソド田舎しかも先住民がゲリラ抵抗するという悪条件だから
植民地取った後になってこの道しかなかったと言い出すほうがよっぽど後知恵だわ >>566
>明治維新の中枢にいた人たちは、その当時入手できる限りの定評のある
>信頼できる学問を身に着け時代に飛び込んだんだよ。その結果がアレだ。
明治政府の参議どもは征韓論政変で大使差遣案を圧倒的多数で可決した阿呆じゃん
それも脳筋の西郷板垣だけでなく多少なりとも外交や法制諮問にタッチしてた
江藤、後藤、副島あたりまで漫然と賛成してるんだぞ
当時ここまで外交知識が乏しい首脳なんて清朝ですらない >>570
>水戸学は将軍も学んだ江戸時代最先端のスタンダード思想だろ。
いや全然。異端思想。
しかも松陰の思想は会沢新論と東湖思想がごちゃごちゃになった政治的ドグマに近い代物
当時も議論した学者からは理解不十分とみなされてる
要するに長州藩の兵学師範を信者にできれば何でもよかったんで適当に吹き込んだんだろうな 松陰と同様に水戸学にかぶれた横井小楠はその後洗脳から醒め
水戸学の分派抗争に批判的になっていく
ところが松陰は周りと議論して「君のは正統な水戸学じゃない
ちゃんと理解してもっと落ち着け」みたいなこと言われたら
馬鹿にされたと思ったのかますます意固地になって暴走した 左翼の研究成果ってか、幕末長州ばっかり研究してたのが左翼なんだけど
鳥羽伏見の戦いで薩長軍が人民を解放すると人民が歓呼の声を上げて迎えたとか言ってた井上清とか
いや戦争が終わって喜ぶのは普通だろとか突っ込まれてたけど
三十年くらい前まで そんなことも知らんのかね 戊辰戦争の会津藩と徳川幕府をテーマに語り合う(左2人目から)松平氏、伊達氏、上杉氏、南部氏、酒井氏、丹羽氏、柳沢氏、左は白石氏=会津大
http://www.minyu-net.com/news/181022news1.jpg
戊辰150年に合わせた歴史文化講演会「戊辰戦争 会津藩と徳川幕府」が21日、会津大で開かれた。会津、庄内両藩や奥羽越列藩同盟で主力を担った各藩の当主がパネル討論で
同盟の意義などを語り、「先人の努力で平和な社会が成立したことを忘れず、未来につなげる役目がある」と結論付けた。
約450人が来場した。会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)氏(64)、庄内酒井家18代当主の酒井忠久氏(72)、仙台伊達家18代当主の伊達泰宗氏(59)、二本松丹羽家
18代当主の丹羽長聰(ながとし)氏(74)、米沢上杉家17代当主の上杉邦憲氏(75)、盛岡南部家46代当主の南部利文氏(48)が登壇し、在京の会津出身者でつくる「会津会」会長の柳沢秀夫氏(65)が加わった。
進行役は漢字文化振興協会の白石宗靖(むねはる)常務理事・事務局長(85)が務めた。
当主らは各藩の置かれた状況を語り、戊辰戦争が新政府軍の「大義なき侵略」を目的に行われ、「義」の在り方に対する疑問が東北、越後諸藩の同盟成立につながったとした。
松平氏は「戊辰戦争は明確な侵略戦争。民に塗炭の苦しみを与えることが分かっていて、なぜ推し進めたのか理解できない」と指摘し、柳沢氏は「過去を変えることはできないが、今の時代に
生きる者が何を教訓にし、未来に向けてどう生かすかが大切」と語った。
討論に先立ち、徳川宗家18代当主で徳川記念財団理事長の徳川恒孝(つねなり)氏(78)が「江戸時代に
築かれた日本の基礎」の題で講演、「武」から「文」に大転換した江戸時代に平和の基礎が築かれたことを語った。漢字文化振興協会長の石川忠久氏(86)は戊辰戦争に関係する漢詩を紹介した。
「戊辰戦争から150年、これからの街づくり」をテーマにした鼎談(ていだん)も行われた。
文化講演会は漢字文化振興協会、徳川記念財団、福島民友新聞社の主催、戊辰150周年
記念事業実行委員会の共催、県、会津若松市、市教委、読売新聞東京本社福島支局、福島中央テレビ、ふくしまFMの後援、弓田建設、会津商工信用組合、会津若松商工会議所、会津若松観光ビューローの協賛、会津まつり協会の協力。
福島民友 2018年10月22日 08時00分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20181022-318073.php >>579 だからそれが結果論だっつの。そういう「それみたことか」史観だから
いつまでたっても傍観者で政治家からいっさい相手されないんだよ。
じぶんを偉そうに誇りたいといういやしい心性でしかない。そういうのは学問じゃ
ないんだよ。 歴史の判断の時点での前提をごまかしてんだよ。
じぶんだけはオーパーツを手に入れて判断してよいという
ラノベ主人公を真剣にやって「ばーかばーか」とわるくち
言ってるだけ。やってることは小学生のまんま。 >>579
征韓論って軍事力で朝鮮を交渉テーブルに着かせるためのもんで
明治政府のやった朝鮮を併合するとかそんな話でないよ
実際のその後政府は江華島事件で武力行使して条約結んでるし
日清戦争も朝鮮を清から独立させるためだし そもそも明治日本にも大陸進出派でなく本土防衛派が居たからな
谷干城、三浦梧楼という人たち 表現としての征韓論はいさましいけど詳細みたら釜山の森山らが侮辱されて
激発して、板垣がそれに便乗して大さわぎして事が大げさになっただけだものな。
そして武力で威嚇して交渉にもっていくという方針じたいはまったくそのとおりに
執拗に遂行されて江華島事件に引きずり出したわけだから、まあ征韓論そのものは
ちゃんと上手くいったのよね。「征韓論派」が政権中枢から叩き出されただけの話しで。 ぜんぶその都度その都度の判断の積み重ねよ。最初から一貫して特定の思想に
従って行動するなどという器用なことが出来るわけが無い。それにも関わらずあたかも
ひとりの黒幕にあやつらてているかのように歴史は動くから、だから科学の対象として
興味を持たれるだけの話し。 >>586
ほんとそれ。
コピペと荒らしと狂信者とテロリストと扇動者と……
たぶん書きもらしあるけど、ろくなもんじゃない。
借金は返さないしおもちゃ同然の藩札を勝手に流通させて
経済を混乱させるし自分らが直接の加害者にあたる
黒糖地獄の悪行を棚上げして何がなんでも幕府が悪いと
罵ってくる。
こんなのに日本は盗られたのか。 >黒糖地獄の悪行を棚上げ
アベガーか。沖縄は武力で併合されたのだから文句が
あるなら琉球王に言えばいいだろ。 >>591
その黒糖の金で参勤交代や幕府に軍艦を献上してたんだが?w >>583
コイツらに長州征伐についてどう思うのか聞け 琉球王が薩摩に屈服し、あまつさえ天皇の臣下となって国土と人民を
献上したというのに、ただの土人ごときがそれに異論をとなえてあたかも
じぶんが国王であったかのように権利を主張してんだから笑える 修学旅行で九州をまわったことがある。
バスガイドさんは話上手で楽しかった。
長崎では原爆の話聞いて、教会をいくつかとグラバー邸にも行った。
お土産さんはとても充実していた。
宮崎県の口蹄疫で被害をこうむった酪農家は本当に気の毒だったと思う。
そういうことをアピールしているだけならあの辺りを修羅の国だと認識しない
ままでいられたのだが、――史実にある薩長の所業に六道輪廻の修羅道・
畜生道・餓鬼道を連想してしまうようになってしまった。 アンチ明治の内向き引き籠りの妄想オナニーは意味ないんだよ。
当時の世界情勢はそんなの通用しないシビアな時代なんだから。
どんな言い訳をしたって徳川は激変する世界情勢、迫りくる列強に
対応できるだけの変化ができなかった。
それが明治維新の核心だろう。 >>587
>征韓論って軍事力で朝鮮を交渉テーブルに着かせるためのもんで
>明治政府のやった朝鮮を併合するとかそんな話でないよ
という説を「遣韓論」といい、1970年代に毛利敏彦という学者が唱えて
1980年代には滅茶苦茶に批判され終わった説 そんなのを堂々と信じてるだけで知識の程度が知れる
「明治政府のやった朝鮮併合と異なった話」ではないという反証はいろいろあるが、
分かりやすいから>>542を挙げておこう 明確に半島の征服および統治を企図している
「征韓論…西郷先生の主張通りになっていよいよ海外に兵を出すということになれば
伊地知さんと私が文官として随行することと決められていた。
『お前は占領した地方地方のことを裁いていく役になるのぢや』と先生は言っていられた、
たぶん民政官みたいなものであったろう…(略)西郷先生は…常にこういうことを話された
『朝鮮朝鮮と皆やかましく言うちょるが、朝鮮はほんの通り道じゃ、満州を占領してここに初めて
我々の足場ができるのだ、この満州の足場を作っておいて、我々に手向かうものを片っ端から征服する、
もし手出しをせぬ時はわざとそれらを激動せしむる…こっちからちょいといたずらする、怒って来る、
それをすかさず占領するという方法でもって周囲に強固なる地歩を占め…しかる後シナに着手するのだ』」
(『維新史の片鱗』西郷隆盛についての回想 有馬純雄) >>584
>>587
>>588
ID:fzk+CT0v0は明治初期の征韓論が「朝鮮併合の意図を含まない」と言ってるようだが、
上で示す通り、西郷・板垣・伊地知正治など征韓派グループの間では
明確に征服後の民政まで視野に入れて談合が進められている
実現可能であるかはともかくとして当人たちは征服する気満々
また、三浦悟楼や谷干城を「本土防衛派」と呼称しているが
おそらく明治14年の国憲創立議会開設建白のことを言ってるんだろう
だが三浦は閔妃事件に関与した特命全権公使であり、
谷干城も明治10年頃には征韓を志向しているから全く「本土防衛派」ではない
征韓派参議が国会開設の建白をしてることで分かる通りそれは対外政策は全く関係ない >>589
>>590
征韓論が明治初年から政府の政策として是認されていたことは
まともな概説書読めばみんな書いてあるよ。
慶応4年閏4月には木戸孝允が三条・岩倉宛書簡で
「逐々先朝鮮位は皇国版図に加え申したく」まず日本府の設立から始めようと言っており、
これが征韓論の萌芽とされる
ところが朝鮮側は「皇」「勅」の使用と言った旧来と異なる書契を用いたことを理由にこれを拒み、
政府内に路線修正か、正式な「皇使」派遣かの温度差が生じたが、後者はもちろん戦争を意味する
だが木戸はこれに対し一貫して後者を支持した(明治2年1月 大村益次郎宛書簡)
また日記にも「益平生所思の征韓之念勃勃」としるし(明治2年1月30日)、
2月1日に三条・岩倉両大臣にあて「過日申上候通り、征韓一条、得と御高案の上、
御勇決奉願度」と強く征韓を要請しており、実際に木戸は明治3年春以降の朝鮮派遣が内定する
ただしこの時はロシア兵による外務省官員捕縛により樺太問題が急な案件として浮上し、
4月13日・14日の閣議で朝鮮・樺太両問題の並行解決が決議されたうえ、
清で民衆争乱が発生したことから木戸が大使志願を取り下げ、3年8月には大久保から岩倉に見合わせが要請され、
これに対して木戸が「来春頃までの御見合せしかるべく」と同意した
つまり木戸は時期が来ればまたトライする気だったが、使節団参加により無期延期になった
木戸も征韓の方法としては「初発より干戈をもって相征し候訳には御座なく」、
大使差遣にも関わらず朝鮮側が拒絶したしたことをもって名目とするという手法を提唱している
実は西郷によって明治6年に推進された征韓論はほとんど明治初年〜3年にかけて木戸孝允らが土台を作っている
西郷はたまたまそれに関心を持ち推進しただけ >>593
昇平丸は帆船なので長崎海軍伝習所でも使われていない
文字通りひな形に過ぎない
また、嘉永・安政期の幕薩関係でやたらに薩摩藩の貢献を強調するのがいるが、
そもそも島津斉彬は世子時代から阿部正弘と盟友関係にあり強いバックアップを受けていたほか、
幕閣も1年前には完全に把握していたペリー来航情報を薩摩藩だけには伝えたり、
薩摩藩による贋札発行を黙認して財政面でも融通を図っており、まさに持ちつ持たれつ、至れり尽くせりだった 征韓論じたいは維新前からの既定路線で、安政五か国条約を朝廷に認めさせるときに
間壁が三韓征伐の昔に戻すためと言及してるくらいだからその点は疑いない。むしろ
維新がなって、現実の外交や内政の実務を担任するようになって、ようやく海外派兵が
いかに絵に描いた餅かということを痛感して、「遣韓」にトーンダウンしたというのが正解
だろうね。 >>598
というのが安政から文久にかけての攘夷志士の言い分だったが、
現実には朝廷はその後、安政条約を勅許し(慶応元年9月)、
兵庫の開港まで認めた(慶応3年5月)
要するに幕府の結んだ条約を全面的に追認した
さらに明治政府は成立直後から開国和親方針を表明しこの方針を継ぐことを言明した
まるで消費税をぼろくそに叩いて廃止を主張してた野党が政権取ったら忘れたような顔してるのと一緒で
さんざっぱら言ってた「幕府の無策無能」とは何だったのかという話である >>603
>征韓論じたいは維新前からの既定路線
そんな説初めて聞いたね。
幕末の朝鮮外交は一貫して宗家を介した徳川将軍家と李王家の私的交流という体裁であって
明治初年のような書契問題は引き起こされていないのだから「征韓」の契機すらない。
お前いまあわててwikipediaか何か引いて間部詮勝の発言引いたんだろ。
お前が言ってる安政条約勅許奏請の際の間部の発言については、引用文献で藤村道生がこう注釈している
「安政条約の勅許が難航した理由は…日本をヨーロッパ国家系に開放し、
小中華主義体制を根底から覆すものとされたからにほかならない。従って、幕府もその理由を
日本沿岸の防備状況から説かねばならなかった…間部詮勝が、13,4年ののちは『外諸蛮此方之掌中二納候事,
三韓掌握之往古二復ス』る状況を実現できると誓い,そのときは,条約を改正し『神武ヲ以海外二御威光ヲ示シ,
天壌ト無窮之皇統万代二余慶ヲ伝ルベキ』ことを前提に,それまでの仮条約として締結するのみである
と言わねばならなかったのである」
要するに元の文献では間部の「三韓征伐の往古に復する」旨の発言は、日本の伝統的な小中華思想と根底から矛盾する条約の
受諾を求めるための方便として理解されている。
そもそも間部は「三韓征伐の往古」つまり国威が最も盛んだった時に戻すと言ってるのであって
征韓とは言ってないし、この時圧力を受けていた列強に朝鮮は含まれていないだから念頭にない。
たとえて言えば「日露戦争当時の気概を取り戻す」と言ったところで、べつにロシア侵略を意味しないのと一緒。
ところが、なぜかこの文献を引いたwikipediaではこれを「征韓論」に位置付けている。
こんなもん、常識があればええっと思って元文献読んでウソだと分かるのだが、その常識がないやつが騙される。
まさにネットde真実。 ソースがwikipediaとかネットとかほんとに舐めてるね
史料だって恣意的な引用するやつが多いから元史料見ないと油断ならないのに
ネット見て反論してるようなやつは明治維新なんて論じないほうがいいよ 英国が明治維新を起こしたことも知らず
傀儡寄生虫を美化するだけのアホウも論じないほうがいいよ 三韓掌握之往古二復スって言ってるじゃん。それを自説に合わないからって
主旨を勝手に曲げて却下してはいけない 常識で考えて幕府は開国の意義を朝廷に説得したが
拒否されたので「三韓掌握之往古二復ス」ために仮に
必要だと述べれば朝廷は承認した。朝廷側の基本路線は
三韓掌握の往古に復すことであった。こう読むのが正しい。
これがなぜ「朝廷側には征韓の意図などなかった」と
読めるのか意味不明。 >>609
>>610
木戸ははっきり「征韓」という言葉を使っているが
「外諸蛮此方之掌中二納候事, 三韓掌握之往古二復ス」のどこに征韓の意図がうかがえるの?
間部詮勝の上奏はこれから頑張りますから安政条約を認めて下さいという方便なわけだし、
このときの条約の相手国に朝鮮は含まれておらず全く無関係
「三韓掌握之往古」というのは、日本の過去の海外版図最盛期が当時は神宮皇后の三韓征伐だったんだから
国威発揚の比喩として使われてるだけ
「日露戦争の頃のように〜」とかおっさんが言っててもロシア侵略の意図がないのと同じ
過去の栄光の回顧
それよりなにより、間部詮勝のこの上奏が「征韓の意図」があるなんて論じてる専門書は1つもない
自分も征韓論についてはかなり本見てきたけどそんな阿呆なこと言ってる研究者見たことないね
誰がそんなこと言ってるかぜひ教えて頂戴 言っておくけどwikipediaはソースにならないよ ID:H+d8SEmE0が唯一のソースにしてるのがwikipediaで、
そのwikipediaがソースとして挙げてるのが藤村道生の論文で、
藤村はその中で三韓征伐云々を「安政条約承認のためにそういう論理を用いざるを得なかった」
と解説してるんだから、征韓論の嚆矢などではないのは明白じゃん
第一、江戸期の日朝関係は徳川将軍家と李王家の私的交流という体裁をとってたから、
明治政府が引き起こしたような禁忌字の使用による書契問題が生じる余地がなく、従って征韓論が生じる余地がないんだ
明治政府だって書契問題が引き起こされた後は従来の交流形式を維持しようという慎重論があり
それに対して征韓を主張した木戸によって征韓論が定着していった 愛と自由と平等。
平穏から遠ざかる洗脳ワード。
薄っぺらいなぁ。キリスト教圏から持ち込まれたその概念は
てっぺん盗った人間だけがそれを得られそうだからと
弱肉強食社会にまい進することになる。
愛はそう悪いものじゃないけど、愛別離苦の愛だから
その感情一色になったらいけないものだし
自由は、他者のそれを侵害する自由なら悪行だし
平等という言葉の使われ方は完全に詐欺。人間社会のあらゆる
組織活動の全否定である。
薩長は幕府倒して何をした?
変わらなければならないと扇動。世界征服を目指す侵略型国家に
日本を改造していったんだっけ?
ソレ、作り話のテンプレ悪役がやりたがることだよ。 キチガイ陰謀論にハマった奴が大量殺人を犯したぞ。
だから陰謀論は危険なんだ。
オウムの前例もあるし、「〜の陰謀だああ」と叫ぶキチガイを徹底的に取り締まろう。
米東部のユダヤ教礼拝所で銃撃、8人死亡=男が押し入り乱射、投降:時事ドットコム
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018102800015&g=int んでもサウジ記者殺害でトルコの大統領が出張るくらい証拠があると言っているのに
今やその件はトーンダウンと言っていい状態
「陰謀か?」と勘ぐりたくならない?www いくら幕府擁護の能書きを書いても薩長に対する罵詈雑言を書こうが
実際に徳川幕府は15万もの兵力を動員しながら、長州一藩に
軍事的敗北を期したのです。
武家の棟梁として君臨してきた徳川幕府はどのような言い訳をしようが
この時点ですでに終わったわけです。
長い太平の世を経て徳川幕府は清国並みに弱体化していたということでしょう。
列強がはじめて戦った日本国の相手が薩摩や長州というこの時代日本国でもっとも
戦闘的な藩であったことは幸運だったのかもしれません。
もしも、幕府相手に列強がが戦闘をして、その弱体化を見抜かれ付け込まれて
いたならば、日本国は列強に蹂躙されていたかもしれないのです。 >>605
>現実には朝廷はその後、安政条約を勅許し(慶応元年9月)、
>兵庫の開港まで認めた(慶応3年5月)
>要するに幕府の結んだ条約を全面的に追認した
暴走した軍部が作ってしまった既成事実を追認せざるをえなかった
昭和初期の内閣と一緒の構図です。しかたがないでしょうな。
>さらに明治政府は成立直後から開国和親方針を表明しこの方針を継ぐことを言明した
不利な状態を承知で国際信義を守ったうえで今後堂々と条約改正の交渉を
続けた明治政府のあっぱれな態度を高く評価したい。
前政権が勝手に決めたことと2015年の日韓合意という国同士の約束を
反故にした韓国の現政権のような国際信義に悖るようなことをするものは
この時代、徳川幕府であろうが、明治政府であろうがいなかったこと
我が国の歴史の誇りとしたい。 信義厨が半世紀も不利な条約を守ったという自己満を誇ってもな
明治政府の良かった所は開始から不平等条約改正を交渉目標にしたこと
そもそも長州藩の破約攘夷で国内が一致してれば有利な条約改正は早くなったかもしれないのに 明治政府の狂った国策をを軌道修正しようとしたり修復しようとしたりする
勢力があったから日本はまだ存在している。
過ちは正していきたいのがまともな人情。 「れば」とか「たら」とかの仮想ファンタジーで明治政府を批判するのは
そろそろやめましょう。
武家の棟梁、征夷大将軍・徳川幕府15万が地方の外様大名・長州3千に
軍事的敗北を期したことに代表される弱い幕府の数々の現実が江戸時代を
終焉させたのであり、薩摩が悪いわけでも長州が悪いわけでもない。 明治維新、明治政府を否定してる奴って
つまるとこどうだったら良いわけ?
具体的に言ってみろよ そこまでくると「明治維新とは何か」という定義問題になってくるからな。
おれは最小範囲として大政奉還と五箇条御誓文の2点のみを維新とし
あとは付随的な事象とみなすべき派なので、そもそも善悪という評価を
下そうという意図がほとんどの場合、意味不明(他の政治的意図を実現
するための傍用)に見える。
徳川幕府が役職を朝廷に返納し政治の経緯を改めて整えたこと、
天皇が日本全国に改めて統治の要諦を発布し確認させたこと、
この2点に尽きるだろう。開国だの法令の改変だの太政官の設置
だのはそれに付随したことであって、個々に吟味されるべき。 んでそれらを殆ど事務処理した連中が
旧幕臣
だったんだっけか?w 武士の過半は旗本御家人とその家臣なんだからそうならざるをえんだろ
薩長土肥が例外で、廃藩置県するまではむろん、置県したのちも統治の
実質は旧藩の組織をほとんどそのまま流用してたくらいなんだし。 神は、その時々の人に重要な役目を与えて、人は与えられた仕事をするだけのこと。
それに、いちいちイチャモン付けるのは天に唾する行為。 明治維新否定論者は徹底的に論破しないと、社会的に非常に危険な存在になりかねない。
そのまま放置すれば、己の妄想で勝手に政府に敵愾心を募らせ、凶悪テロを起こしかねない。
かつて、己の妄想でユダヤ人に敵愾心を募らせたナチスやオウム真理教は
ホロコーストや地下鉄サリン事件を起こし自滅した。
ナチスやオウム真理教が滅亡したのは、勿論ユダヤの陰謀(笑)ではなく、己の妄想で勝手に自滅したに過ぎない。
ここ最近「サッチョーガー」「タブセガー」「ニホンカイギガー」「アベガー」と喚く奇痴害が沸いているが、
こいつらは精神的に危険(所謂「デムパ」)であるだけでなく、社会的に危険(所謂「公安監視対象」)であり、テロ予備軍である。 仮に、討幕派に崇高な目的だあったとする
しかし、それで出来上がった明治政府の連中がクズ人間過ぎる
例えば、伊藤博文は朝鮮部落の足軽=チンピラだぞ
崇高な目的があったなら、武家や公家出身の識者でないとおかしい
なんで無学の朝鮮チンピラを初代総理大臣にしてしまうんだ
伊藤博文の功績といったら女体盛りの発明だけで
他は英国の指示通りに動いていただけだ
徳川幕府のままでは欧米の植民地になっていたろうと言われる
その通り、植民地になったんだよ
徳川末期には高句麗の連中が入り込み、中から弱体化されたようだ
多分、水戸の連中がそれだろう
明治から通貨発行権を奪われ搾取される型の植民地になった
英国の指示通りに戦争する植民地になった その英国もその実「搾取されてる」国家に思うがw
しかも自国の「中」の連中にね >>618
>そもそも長州藩の破約攘夷で国内が一致してれば有利な条約改正は早くなったかもしれないのに
あり得ない、100%敗戦条約で終わるから南京条約の二の舞になるだけ
列強は開港場を増やしたい、幕府は交易場所を制限したいで攻防してたんだから
破約攘夷で負けた途端に自由港ボコボコ作られて詰む >>620
>徳川幕府15万が地方の外様大名・長州3千に軍事的敗北を期した
これ前から不思議に思ってるんだけどソースどこ?
長州藩は明治初年に藩士の数だけで1万超えてんだけど。
幕府軍は15万なんていないし。 「朝鮮より日本のほうが壊しやすかった…だから明治維新が成功した」(1)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181029-00000016-cnippou-kr
明治維新専門家の三谷博教授が中央日報とインタビューに答えている。
明治維新150年を迎えた今年一年、日本では論争が続いた。
明治維新は長州藩(今の山口)と薩摩藩(鹿児島)などが中心となって徳川幕府を倒し、天皇中心の近代国家改革を行った一連の過程を称する。
山口出身の安倍晋三首相は「列強の植民地になる寸前だった危機から独立を守り、近代化を成し遂げた輝かしい歴史」としての明治維新だけを強調している。
だが、「軍国主義の土壌ができ、各種社会問題の出発点となった歴史の影」にも目を向けるべきだという反論もある。
中央日報は日本屈指の明治維新権威である三谷博・東京大学名誉教授(現・跡見学園女子大学教授、68)にインタビューを行った。
4月の対面インタビュー後、3回の書面インタビューを通じて内容を補充した。
日本国内の論争ポイントだけでなく、当時の東アジア諸国のうち、なぜ日本だけで維新が成功したのか、日本と韓半島(朝鮮半島)の違いは何だったのかについても光を当てた。
三谷氏は「当時の日本は韓国(朝鮮)に比べて国をひっくり返して壊すことがはるかに容易な構造だった。だから可能だった」と話し始めた。
−−日本人にとって明治維新の最も大きなイメージは。
「近代化の始まりだ。明治維新が第1革命、そして戦後(連合国軍総司令部主導の)第2革命、この2つがあったから今の日本がある」
−−明治維新の革命史的な特徴は。
「フランス革命などと比べて犠牲が少なかった。
特に、革命の中心勢力である武士階級が革命後に消えたということが不思議だ。武士が退職金(国債と金、普段の収入の10分の1ぐらいに相当)だけをもらって他の職を探すことになった。
明治維新による最も大きな変化は身分制の廃止だ」
−−なぜ日本だけで可能だったか。韓国(当時の朝鮮)との違いは。
「260の藩に分かれていた連邦制的特徴と、天下の権力が天皇と将軍に分かれていた双頭制だったから可能だった。一言でいえば(国の体制を)壊しやすかった。
朝鮮の支配階級『両班(ヤンバン)』は地主だったが、日本の大名と侍のほとんどは自分の土地を持っていなかった。土地がない官僚なので、彼らの権益や収入を国が奪いやすかった」
−−朝鮮のほうが安定的だったから変化に不利だったという意味だろうか。
「そうだ。朝鮮は王が1人だったが、日本は2人(天皇と将軍)だった。朝鮮は科挙制度と性理学の伝統が強かった。当時の朝鮮の人々は、自身の(政治)制度を変える必要があるとは誰も考えることができなかった。
科挙制があり、原則的には誰でも試験を受ければ官僚になることができた。現実はどうであれ、ひとまず『機会の平等』があった。朝鮮は日本より政治制度の整合性が高かった。
(壊しにくく)しっかりと体系が整っていたため、結果的に改革が遅れたと考える」
−−日本も朝鮮も外敵を斥ける「攘夷」を進めたが。
「朝鮮は本当に『攘夷』をしたが、日本の水戸藩から始まった『尊王壌夷』(君主を尊び、外敵を斥け国内に入れない)という『攘夷』は本当の『攘夷』ではなかった。
『西洋と一度は戦争をしなければならない。戦争をしなければ200年以上平和が続いてきた現在の日本がどれほど危険か分からない。
戦争によって現実に目を開くべきだ。そうしてこそ改革が可能だ』という意味の『攘夷』だった。
西洋を排除するのではなく、国内の改革のために、導火線に火をつけるために爆弾を落とそうというものだった。リーダーたちは非常に腹黒かった。反面、朝鮮は誠実に『攘夷』を進めた」
−−そのせいで鎖国政策が積極的な開国に変わったのか。
「攘夷論者たちはいつかは開国するだろうと早くから腹をくくっていた。それが韓国とは違っていた。朝鮮よりも多くの西洋人が先に日本に上陸したため危機意識が高く、そのため日本は西洋の技術に大きな関心を持つようになった」 「朝鮮より日本のほうが壊しやすかった…だから明治維新が成功した」(2)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181029-00000017-cnippou-kr
−−明治維新に対して「表面では尊王を前面に出してはいたが、結局のところ薩長が覇権を握るための権力闘争だった」という批判もある。
「権力と覇権だけのためだったら、廃藩置県(藩を廃止して全国を府県に一本化した1871年の中央集権改革)はしなかっただろう。
廃藩置県で長州も薩摩もすべてなくなり、武士階級そのものがなくなった。自分の足を自分が切った」
−−膨張政策、軍国主義の種が生じたのも明治維新のときではないのか。
「明治維新がその後の膨張政策の必要条件だったことは間違いないが、十分条件だとは言えない。維新の目標が戦争や侵略ではなかった。
もちろん、早くから侵略を主張した人もいないわけではなかったし、征韓論(1870年代に台頭した朝鮮征伐論)もあったが、1890年まで政府を実際に主導していた人々にそのような考えはなかった。
そのような雰囲気が日清戦争(1894年)までの4年でガラリと変わった。
初めは『我々の経済力や軍事力では無理』と考えていたが、力をつけながら軍人を中心に『できる』というほうに判断が変わったようだ」
−−明治維新と太平洋戦争は無関係か。
「2つの事件の間に70年の歳月がある。近代化が成功したので隣国を侵略し、米国と戦争をすることは必然ではないだろうか。
中間には別の選択肢がいつもあった。明治維新だけにすべての責任をなすり付けてはいけない」
−−大院君(テウォングン)の改革など、朝鮮の内部改革が成功していたら両国関係はどうなっていただろうか。
「両国間で戦争はあったかもしれないが、一方的な侵略はなかっただろう」
−−もし明治維新がなかったとすれば日本と北東アジアの様子はどうなっていたと考えるか。
「日本人が列島だけに閉じこもっていたとすれば、西洋とはるかに不利な条約をむすび、領土の一部を奪われていただろう。もちろん、朝鮮や中国に対する侵略もなかっただろう」
◆尊王攘夷の母胎、逆説の地・水戸
今月20日に訪れた茨城県水戸市の弘道館周辺は閑静な雰囲気に包まれていたが、観光客の足は途絶えることがなかった。
江戸時代、水戸は「水戸学」という学風の本産地だった。明治維新のキャッチフレーズだった「尊王攘夷論」の母胎だ。
弘道館は水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭が作らせた教育施設だった。ここを中心に各種改革・攘夷政策が推し進められた。
韓国の明治維新研究者ソン・ヒソプは、著書『静かなる革命、明治維新と日本の建国』で、斉昭時代の後期水戸学について「水戸を中心に置かず、
『日本全体』という全く違う地平から当時の対外的危機状況を見ていた」とし「その前まで日本の侍たちはこのように考えたことがなかったため、思考の大転換だった」と評価した。
水戸藩は徳川将軍家の一族で、将軍職を継承できるいわゆる御三家の一つだった。実際、斉昭の七男・徳川慶喜は江戸最後の将軍だった。
徳川家でありながらも、幕府ではない天皇中心の尊皇攘夷を胎動させた逆説的な地位だった。
また、水戸学の「天皇崇拝論」は、後の皇国史観につながったという批判も受けている。 >>626
自分らがやったことを今度はやられる側になったと心配している?
そんな居もしない妄想敵にキーキー威嚇するよりも
明治維新大好き派は身内同士が共食いしている現状を
憂うべきなのになw。 >>633
それが的はずれなんだよなあ
朝鮮人と言ってる事が一緒 身内同士が共食いっていうのは有名な呪術「蠱毒」を連想する。
同種の蟲を狭い壺にに閉じ込めて喰い合いをさせて
最後に残った一匹で呪いを放つっていうオカルトネタ。
明治時代以降ポピュラーになった思慮と分別の欠落した「自由」と「平等」と
「競争」の概念は権力闘争をエスカレートさせて対立構造を煽る潰し合いを
煽る社会にしてしまった。
――けっこう蠱毒っぽいんだよなぁ。
多神教の神々を絶滅させる一神教が、次の段階で○○派として
分岐してまた互いに戦争を始めて延々と終わらなくなっている
今の国際社会もそうなんだけど。
廃仏毀釈で神仏習合の在り様を否定して、天皇一神教を押し付けてきた
やり口はまさしく原理主義の排他的思想による人心汚染。
乱獲で絶滅したニホンオオカミ・ニホンカワウソ・オオウミガラス、
その他のあまり知られていない日本の動植物が大量絶滅して多様性が
失われたことは、そのまま多様性のある地方文化が滅んでいったことと
写し鏡のような事象だった。おぞましいね。 明治維新が無ければ欧米の植民地になった!
→明治維新は朝鮮人を使った英国の侵略であって、明治から植民地になった
皇居の横には英国の軍隊が駐留して明治政府を操縦
明治維新が無ければ近代化しなかった!
→明治大正のダンスホールで優雅に踊ってるような富裕層はみな朝鮮人であった
政府によって日本の女の子が海外の売春宿に売られ、収益で三井三菱財閥誕生
江戸時代に育まれた日本人の資質を悪用され、半強制労働で軍備増強
それも英国の世界覇権のための戦争をするためだった
そのために庶民は飢餓状態になり、全国で農民の一揆発生
江戸時代の農民一揆は穏やかな交渉に過ぎなかったが、
明治の一揆は政府に猟銃を向ける必死なものであった キチガイは学問に興味もたなくて良いよ。
そこらでアウアウ言ってなさい。 結局否定派って否定するだけかよw
それに代わる対案なりヴィジョンなりを提示できるやつおらんやんw
否定するだけ否定してなんも示さないなんて左翼がまんまやっとることやんw
つまるとこそういうことですかここで議論されてる構造の本質は?w ここまでの議論で
江戸幕府擁護の数々はもはやただの負け惜しみにすぎないことが
あきらかにされただろう。
ちなみに一人でイギリス陰謀論をのたまわっている方がおられますが、
たとえば慶応二年6月24日に長州の木戸孝充は駐日イギリス公使の
パークスと会談した際に、長州藩は自信をもっており団結しているので
外国の援助を求めていないむねをはっきりと述べて、イギリスの介入を
防いでいる。(「遠い崖」三巻、300〜304)。
また慶応三年にアーネスト・サトウから新政府を作るようけしかけられた
時も木戸は幕府を倒すようなことは考えたこともない。と、慎重な
発言をしてイギリスの介入を防いだ。(「遠い崖」五巻、294〜297)
このような資料に基づく歴史的事実がありますので、以後資料的根拠なき
陰謀論を述べてもただの妄想であると見なされますので御了解ください。 >>635
>廃仏毀釈で神仏習合の在り様を否定して、天皇一神教を押し付けてきた
>やり口はまさしく原理主義の排他的思想による人心汚染。
この最近の左翼の決めセリフも最新の研究であやまりであることが
証明されはじめております。
そもそも、
明治政府は廃仏毀釈を命じてはいません。穏やかな神仏分離を
進めようとしただけです。
一連の関連する法令とうを見てみましょう。
「神仏分離を慎重にすべき令」
(太政官布告第二に六号、慶応四年4月10日)
「神仏分離は廃仏毀釈ではない旨の論達」
(御沙汰第第五〇四号、慶応四年6月22日)
「僧侶が妄りに復飾することを禁じた件」
(行政官布告七五二)
それで、天皇一神教を押し付けたうんぬんですが、これは太平洋戦争の
さしせまった一時期に戦争遂行のため天皇権威を強化するために
行われた一時的なものを戦前全般に行われたかのように左翼が
広めたウソの話しです。
実際には明治21年6月27日の枢密院第一審議会第二読会に
おいて行われた議論を見ればあきらかなように、国民に押し付けた
ということは基本的にない。戦争や戦争のさしせまった非常事態に
おいては制限されうる可能性については予め憲法に書いてある。 イギリスは中立方針取ってただけだからな
長州に武器も売らなかったから買えなくて坂本龍馬の出番が出たんで
新政府は我々が公式な政府だと言っても外国に相手にされなくて甲鉄艦も当初買えなかった >>629
英国が薩摩に簡単に撃退されてるように国内が破約攘夷で一致してれば十分勝てるよ
列強は持久戦取れないし数千の兵送れるのがやっとで
日本より武力で劣る朝鮮が攘夷に成功したのも国内が攘夷で一致していた為 >>635
>そのまま多様性のある地方文化が滅んでいったことと
>写し鏡のような事象だった
いや実際には地方文化は明治以降もけっこう残っていて
本当に無くなっていったのは戦後の高度経済成長期に滅んだものの方が多い
のが事実ですね。
たとえばもっとも日本の土俗的な風習の一つであるイタコやユタなどの
女性シャーマンは実際には明治以降も日本全国に存続していいました。
これらの多くが消えたのは戦後の高度経済成長の時になるわけです。
このことは地方文化の消滅がたんに政治的な問題だけで起きるという
ことではないことを表していますね。 >>642
いやいや、一時期的に勝てたところで、根本的な問題を解決
しなければ意味ないことはそれこそその後の朝鮮の運命を見れば
あきらかでしょうに。
まさに引き籠り幕府のメンタリティそのものですな。
その過ちを薩長の留学組達は実際に海外を見て覚醒したわけですよ。 >>641
当時の列強はそんなお人よしな連中ではありませんよ しかし、最近気づいたのだが、徳川幕府は家康亡きあとは
じつはとてつもなく弱い軍事政権だったのではと思うのです。
第二次上田合戦
徳川(秀忠)3万8千 対 上田城(真田)2千5百
敗北
島原の乱
徳川 13万 対 原城(天草四郎以下農民) 3万7千
農民相手に大苦戦の末、九州の諸大名の助けを借りて辛勝
第二次長州征伐
徳川 15万 対 長州 3千
敗北
鳥羽伏見の戦い
徳川 1万5千 対 薩長土 5千
敗北
全て大軍を擁しながら稀に見る戦下手。
神君家康公の戦上手の伝説だけで265年間を強いふりをしてごまかし続けて
きたのだろうか?! >>646
やっぱ戦争の強さは指揮官次第なんですね
家康が率いてた時は天下無敵 今時、明治維新は英国が起こしたものではないと言ってる生きてる化石がいるな
薩長のチンピラが最新の銃器を買えるわけがない
ま、アメリカのお下がりではあるが、使った弾丸すら買う金は無かったろう
坂本は武器商人でなく単なる武器の運び屋だ
倒幕派は、薩長の下級武士と言われる
長州の下級武士ってなんだ?
長州藩など実在しないぞ
ごちゃごちゃと藩が存在した時代を、まとめて長州と言ってるようだが
無所属の朝鮮チンピラ(山口県田布施村の石城山にいた)が
幕府を倒したとなると疑問をもたれるので
長州藩というものをでっちあげたと思われる 武器何て金出せば誰でも買えるっての
長州藩と戦った熊本藩はなぜミニェー銃やアームストロング砲装備してるの
英国が長州藩に具体的に何の支援したの? 長州を武器支援したのは薩摩
薩摩は薩英戦争の和睦からイギリスと懇意になり薩摩を支援した
因みに幕府はフランスが支援した
薩摩はイギリスから銃を購入して龍馬に仲介させて長州に武器を渡してその側長州からは米をもらった
物々交換みたいなものだ
その米は結局ソノマ龍馬が薩摩からもらったらしいが、恐らくそれが報酬だったのだろう 応仁の乱はトップが優柔不断なせいで
だらだら続いて戦国時代の幕開けとなった。
乱世は足利将軍家からトップダウンの順に
広まった。
幕末、徳川幕府の上層部は至極真面目だった。
動乱は討幕派が暗殺やテロで治安悪化を引き起こし
扇動して世論誘導することによって引き起こしたもの。
軍事クーデターを起こす意義? そんなものは無かった。
只々、衆愚のヒステリーが魔女狩りのごとき排他的
選民思想を煽った。魔女狩りはスタンフォード大学の
監獄実験を屋外で行ったようなもの。 反乱鎮圧どころか治安維持さえブラック条件で外注してたツケが来ただけ
懲罰能力がないと知れ渡った途端譜代はおろか親藩にすら見放される始末 陰謀論は別スレでどうぞ
このスレでは誰も読まないよ >>1
安倍総理が維新の志士を気取っているから、アンチの連中がイチャモンを
つけているだけだよ。 >>654
朝鮮人が書いた「竜馬がゆく」等のフィクションしか認めないってそんな 今戦前の反動した時期をのぞけばメイジイシンから今現在まで連続してるわなあ どっちにしても、維新150年は薩長土肥以外はまったく盛り上がってないから
ただの官製運動に終わって来年から見向きもされなくなるだろうな
公式見解の押し付けみたいな運動には研究者もあんまりいい顔してないしね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています