開戦2日目の1月4日午後2時頃に慶喜は
「開戦しないように申し伝えておいたが薩摩側から砲撃され開戦に及んだ
 ついては天皇の身柄が心配なのでくれぐれもお頼みする」
という手紙を書いて、どうやら中根雪江に託して
京の尾張・芸州・越前・宇和島・肥後の5候に送っている(徳川慶喜公伝)

天皇が逃げる心配をしてるくらいだから、
2日目の午後まで劣勢と思ってなかったんでしょうね
2日目の午後と言えば会津藩兵が京軍を追撃していた頃だが