>>567
アホwwwwwwwwwwwwwwww
>[俘虜] 将校14、准士官・下士官兵3、082、【馬匹52】
>[備考]
>1、俘虜は処断す

俘虜に【馬匹52】が含まれているなw
【馬匹52】が処断されたからどうしたw
そもそも【処断】を殺害と判断した根拠はどうしたw
最初にこっちはこう言っているよなw

>559
>その内容は「敗残兵」や「処断」と書かれているのを「捕虜」とか「処刑」に勝手に脳内変換したものじゃないよなw

やっぱりこちらの言っている事を全然理解していないのだなあw

>中島今朝吾 第16師団 師団長 中将
>日記
>一、大体捕虜はせぬ方針なれば

>一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百二分割したる後適当のカ処に誘きて処理する予定なり

「相当大なる壕」は使用されておらず「捕虜はせぬ方針」のはずなのに仙鶴門附近の七八千人の捕虜は殺害されず南京に護送されているわw

上海派遣軍独立砲兵第二大隊『戦闘詳報』
第9号付録(12月13日午前一時〜正午)
「午後2時頃堯化門付近において、約7000名降伏し来り。午後6時歩兵第38連隊の一中隊護衛の下に、仙鶴門鎮北側凹地に集結す。」
『南京戦史資料集』P650

第16師団
歩兵38連隊戦闘詳報 附表第3 戦闘詳報12号附表
「備考
1、俘虜7200名は、第10中隊堯化門付近を守備すべき命をうけ同地にありしが 14日午前8時30分頃数千名の敵、白旗を掲げて前進し来り午後一時武装を解除し南京に護送せし者を示す。」
『南京戦史資料集』P594

これらを総合すると堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことはあきらかである。
『南京戦史』 P324

>佐々木到一 歩兵第30旅団 旅団長(佐々木支隊隊長) 陸軍少将
>「佐々木到一私記」(抄)
>一月五日
> 査問会打切、此日迄に城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中に在りし支那傷病兵を俘虜として収容。

第三十八連隊が「良民証」付与の過程で12月24日より翌年1月5日までに二千人を捕捉し、旧外交部に収容w
ちなみに発行数は16万人w
16万人中二千人(なんと1.25%)wまで選別を行っているw
そして二千人の内何人殺されたかと言うとw

読売新聞 1938(昭和13)年1月10日
 敗残兵一掃のため行われた難民調査は、暮から始められて7日漸く一段落を告げて、敗残兵1600名と
 その他のものは安民居住の証を与えられ、今では大手を振って城内を歩けるようになった

兵民分離査問で摘出された敗残兵は2000人、うち1600人とその他の者は良民証を与えられているw
残りが全員殺害されたとしても最大でもわずか400人w
軍服を着用したままでは市民に紛れ込む事は出来ないのだから、この「敗残兵」は「便衣兵」と判断できるw
しかし市民に紛れ込んでいた「便衣兵」の内、1600人は良民証を与えられて解放されているw
良民証が与えられた者 1600人w
良民証が与えられなかった者 400人w
良民証が与えられなかったのはそれだけの理由があったという事だなw
以上何の反論にもなっていない>567でしたwwwwwwwwwwwwwww