0010法の下の名無し
2017/03/07(火) 08:39:37.28ID:r+i0JsM1@営利的言論には自己統治の価値も認められる。
A営利的言論を制約しても民主政の過程による回復の困難性は認められない。
@とAは両立するはずですよ。
営利的言論にだって民主的な政治を実現していく社会的価値がある。
国民が経済に関する情報や商品などに関する情報などを得て
それらの情報を評価・判断し、政治に反映させていく素材になるといえるからです。
これが@の意味です。
これに対し、Aの民主政の過程による回復の困難性というのはこういうことです。
まず、政治的言論の場合について考える。
政治的言論の場合、これが制約されたら、政治的意見を訴えて政治に反映させるのが困難になる。
政治的意見を言えば(たとえば)逮捕されたり処罰を受けたりすることになるのですから。
誰も、政治的意見を言おうとしなくなる。大人しく黙っていようとする。
しかし、営利的言論は純粋な政治的言論とは異なって、営利的言論は「金儲けのためにする言論」である。
これが規制(制約)されたからと言って、大人しくしていよう、黙っていようなんて人間はあまりいない。
そういう「人間に対する行動観」が、この議論の基礎にあるのです。
金儲けのためには、多少の罰則も乗り越える人間が出てくる。
だから、民主政の過程が完全に閉ざされることにはならない。
少なくとも、純粋な政治的言論とは違うと考えてよいのではないか。
だから、営利的言論の場合、民主政の過程による回復の困難性はなく、
むしろ回復力はある。回復力は強い。
以上のような思考過程を経て
@自己統治の価値が含まれるということと
A民主政の過程による回復力の困難性は認められない(回復力は強い)ということは両立すると言えます。