私は法を憎む
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かつてのローマ法やプロイセン一般ラント法、ナポレオン法は裁判官による法の解釈権を否定し
法律解釈に疑義があるときはかならず皇帝(実質的には法務官僚と思われる)、議会ないし
法律諮問会に問い合わせることとしていた。しかし結局運用できなくなったり、過去の判例から
判決されるという実態が露呈して自由心証主義にもどされたという経緯がある。
法廷証拠主義は歴史法学の視点でいえばむしろ古典的なもので親を訴えれば絞、親を殺せば斬と
決める主義で、高権が犯罪者を審判して処断するモデル。西欧近代刑法は原告が法廷に刑事私訴を
おこない被告との仲裁を行うというスタイルなので、判決は原告被告が合意できるもっとも善良なものを
審決するという手段となっているので、法廷が事実さえ認めれば原告被告の意思に関係なく判決が
降りるというものではない。
よって原告側(被害者・遺族)が峻厳な処罰感情をもって被告に臨むばあい、被告が有罪なら峻厳な
処罰が下り、原告側が被告の事情に同情し、また賠償も十分になされている場合は、寛大な処罰が
下りるという方式が採用されている。これは前憲法的な法的慣習であって、事後的に憲法の読み方を
変更することによってこの習律を変更させることは不正であり憲法違反。むしろこの習律を変更させる
ためにはそのように明示的な合意を得たあらたな憲法を立てる必要がある、こういうことになります。 このあたりは穂積・法律進化論に詳しいが、簡略なのは「続・法窓夜話」
(四五、法と主権者の意思)に記述があるので読むと良い。それでも納得
出来ないのならまた立論したまえ。法律というのは架空に据えられた記号の
行列ではなく、現実に人民のなかで確信され、正しいものとして運用されて
いる社会力なのであるから、ある仮定から推論したものを真として現状を
変更することを要求するようなスタイルでは通用していかない。前提に
社会的真実を置かなければならない。そこに必要なのは観察である。
法窓夜話私家版 (原版初版1916.1.25)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BT473FB
(続)法窓夜話私家版 (原版初版1936.3.10)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07BP9CP5V ×「四五、法と主権者の意思」
〇「五八、法律解釈は皇帝の大権」 倉持孝司は地獄へ落ちたのか
地獄で苦しみぬいているのかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています