徹底討論!真田昌幸がもし長生きして大阪城に入城していたら
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勝てない
真田昌幸1人いてどうこうできるレベルの差ではない >>2
昌幸がいたら冬の陣のあと外堀を埋めさせることは絶対にないと思うけど? >>3
大坂の役の頃には、天下分け目ではなくただの局地戦でしかなかったという事だと思うよ
真田昌幸の外交能力は知らんが
戦には持ち込ませない様にするのが最善の策でしかない
ただの局地戦なので、戦になったら絶望的 タイムマシンがあったら信長を本能寺から救出して歴史改変 >>5
それな
家康が死んだら豊臣に寝返りそうなのが結構いる 籠城という愚策は取らなかったと思う
瀬田の橋を落として秀頼公を総大将として討って出る以外に勝機は無かった ダメダメどんなに良い武将がいても淀殿がいるなら思うようにいかない
そもそも淀殿が秀頼を関ヶ原に行かせてたら家康は終わってた 大阪城内で信用される存在になれるかが問題
戦歴は確かでも外様の元小大名でしかない 三成は淀君を刺し殺してでも秀頼公を御出馬させるべきだった
佐和山の城にチョコンと座らせておけば東軍は一歩足りとも動けないんだから >>12
家康死ぬまで籠城
その後、秀頼を担いで討ってでる
>>13
昌幸なら淀殿がキーマンだとすぐ気づいて説き伏せると思うで それよりも前田利家、蒲生氏郷、小早川隆景が生きてたら、関ヶ原の戦いは起きなかった。 もし豊臣方で長生きしてたら大阪の陣は...ランキング
秀吉
石松丸
利家
鶴丸
半兵衛
三成
秀次
大谷
清正
一豊 秀頼「家康が攻めてきた!どうしたらよい?」
昌幸「わからん!」 豊臣を守る戦だとするならば淀君を刺し殺して秀頼公御出馬しか策はない
徳川を完全に亡き者にしてから三成は腹を切って秀頼公に詫びればいい
一分の優しさで豊臣は終わった 三成にそれだけの覚悟が無く、結局豊臣を滅ぼしてしまうってゆう 野戦に出て家康討ち取る以外、
豊臣方に勝利条件は存在しなかったよね まあ無名の信繁(幸村)より名声があった分だけ城内の主導権争いでは優勢だっただろうな。
かなり強い発言権を持って戦えたはずだ。
ただ有名すぎる分、片桐且元なんかとおんなじように離間戦略は、徹底されたんじゃないか?
そもそも第二次上田合戦は、昌幸の武功ってのが当時の評価で信繁は、無名だった。 城が戦いに使われることが本望とするなら秀吉の大坂城は、落城するまで使われたんだから本望だったと思うな。
小田原城や熊本城もね。
合戦使われなかった姫路城や江戸城は、どこか満ち足りてない気がしてしまう。
一番悲惨なのは、戦いで消失したとは言え名古屋城初め空襲で一方的に破壊された城だけどね。 昌幸は、結果的に家康に嫌われてたから寝返りは、難しいんじゃないか。
関ヶ原の時ならまだしも大坂後は、徹底粛清だったし、今さら調略して土地与える気はなかったろー >>26
江戸城は何度も焼けたけどなw
一番気の毒なのは原爆にやられた広島城 昌幸が生きていたら、豊臣に付いたフリして真田丸に引き込もって、両軍に大打撃を与えると思うw >>12
そもそもが最初は籠城ではなく討って出るつもりだった。
大野修理やら淀やらに反対されてろうになってしまった。 >>26
>>29
一国一城令で破却された城や、
維新の時に(主に財政的な理由で)破却された城のが気の毒な気はする。
当時は文化的価値なんてわからんだろうしなあ。 真田昌幸の凄さって大阪の陣みたいな大きな戦で発揮できるのか わからないけど大坂の陣で大坂に入城した武将たちは、マイナーどころばかりだったので昌幸みたいな名の知れた人間が入城すれば衝撃・注目を浴びたのは、間違いない。 >>38
大名といえば長宗我部と毛利くらい
元武田家臣にして独立大名になってから徳川に二度勝っている昌幸が入城したら城内の士気はやばいやろな まず大蔵卿局を放逐して大野治長を淀君から遠ざけ、
淀君を政治から遠ざけさせ、冬の陣で和睦せずに徳川軍を完全撤退させるだろう。
夏の陣はなしになる。
その後に内裏から調停が入り、将軍職を徳川・豊臣の両家迭立で手打ちになる。
江戸時代でなく大坂時代と呼ばれていたかもしれない。 家康 ハクサンルドルフ
昌幸 トリコロールブルー
この結果で決まるということでよろしい? 元々秀吉は、将軍になれていないし、徳川が将軍になっても豊臣が軍門に降ったと単純に言えるのかと言うと微妙なわけだからな。
秀頼の関白就任することができていたら二頭制が成立するかもな。
秀吉が将軍になれなかったのは、出自の問題でなく小牧・長久手の敗戦で東国支配(征夷大将軍のなので東国支配が必須条件?)ができなかったからという説もある。
関白による西国支配。将軍による東国支配の二頭制なら承久の乱前の朝廷と幕府の関係に近いかな。 昌幸信者って多いんだなw
前線で戦うのが専門の人間に、万単位の人間を動かす大局的な指示を出せると思えないし、
寄せ集めの豊臣勢がすんなりと昌幸の言うことを聞くとは思えないが。
よくロンメルがドイツ軍を率いてたら、石原が日本軍を率いてたら逆になったとか見かけるが、
歴史なんて1人の力で動かせられないだろう。 昌幸が大軍を指揮できる能力があったかは、もちろんわからない。
でも内部がごたごた続きだった大坂方を外様とは言え統一して指示できる可能性をもったカリスマ性のある人間だったのは、間違いない。
当時無名だった信繁(幸村)とは、まったく立場が違うからね。
だから違うシナリオを想像するのは、普通なんじゃないか。
大坂の陣は、大坂方劣勢とは言え両軍総兵力で見れば、日本史上最大の決戦だからな。
これを両軍兵力の総計で上回るのは、沖縄地上戦ぐらいしか思いつかない。関ヶ原や元寇よりもずっと多い。
そもそもこの規模の戦闘の指揮をとったことがある人間などほとんどいないわけだ。 まぁ、小早川隆景かな。
小早川隆景と黒田官兵衛が揃って大阪にいれば、家康は何も出来ないかったかも >>35
大野治長とか大坂はカスみたいな武将しかいなかったのが運の尽きだな
大将格の淀君がアホなら番頭格のこいつもアホ
戦のいろはも知らないくせに幸村の意見を悉く却下してりゃそら勝てるわけないわ 題名は忘れたが真田昌幸が家康の暗殺を免れて大坂城入りする小説があったな
浅野や加藤も真田の助言で暗殺を免れた設定になってて
豊臣恩顧の大名がこぞって大坂の陣で寝返り押し戻すってストーリー >>50
黒田家は嫡男長政が徳川にべったり
官兵衛は秀吉の死後豊臣家を見限っとるし
豊臣方に味方するなど絶対にない >>50
むしろその二人が結託して第三勢力になりかねない ねねが子供産んでればな
ねね=佐野量子
秀吉は種ありだった >>50
小早川隆景生きていたなら小早川秀秋が家督を継いでいないし、していたとしても関ヶ原の裏切りや毛利一門の動きが全く違うものになってただろうな 家康は、そもそも翌年には、死んじゃうから最大の逆転シナリオは、1年引っ張るなんだけどね。 >>61
それは豊臣家を滅ぼした安堵感があったからかもしれないよ
執念深い人間だから目的があれば5〜6年は寿命が延びてたかも 大阪の陣の前からの下準備が無いと逆転は無理かな信濃の領地地を守りきったのも下準備があったからだろうしな 時間さえ稼げば勝ちだった2回の上田合戦とは状況がまるで違うというか
日本全国の大名全て敵方で開戦という時点で、
野戦で家康を討ち取って、もう一回戦国時代起こす以外勝ち目なかったよね >>63
いや胃ガン説あるし無理でしょ。
むしろ元服して英邁に見える秀頼を恐れて、大坂の陣を決意したとの説があるから死期を察して、戦いを決意したかもしれないね。 既に23にもなって、戦国時代の大名だったら親兄弟と殺し合ってたような年なのに、
淀殿の言いなりだったレベルだし、秀頼はそこまでの器ではなかったと思うよ >>67
かなりの巨漢にして温和な雰囲気に家康が勝手にビビっただけなのかもしれないね いや秀忠もなかなかダサいから
秀忠vs昌幸の大坂の陣のシナリオを考えてみなよ 豊臣と特に関係が深い浅野と蜂須賀が近隣にいながらに敵になってる時点で勝ち目無し
関ヶ原から10年以上の期間に着々と外堀は埋まってて開戦=負けになってる 浅野も蜂須賀も加藤(熊本)も代替わりしてるからね。
生きてればシナリオ違ったでしょ。史実か知らんが加藤清正は、家康が秀頼に手をだそうもんなら刺し違える覚悟だったってよく語られるしね。
まああそこらへん名護屋城の穴兄弟梅毒同時死亡説とかあるけど >>47
昌幸は、信玄からも自分の両目と言われた人物だからね。
信玄の教え、合戦はいくさの最終段階であり、勝敗はもうその前に決まっている、という考えを最も色濃く受け継いだのが昌幸。
何人かが語っているように、昌幸が大坂方の要職にいれば、あんな不利な状態から開戦することは無かったよ。 >>72
指揮権が与えられていればでしょう、でも思い通りにならないから戦の後の事考えて特に何もしなかったと思う 信玄に昌幸そんなこと言われたの?
昌幸の親父の名前忘れた・・・の方じゃなくて?
昌幸は、長篠で兄貴2人が戦死したから家督を継いだんだから勝頼は、まだしも信玄なんて昌幸のこと知らないでしょ
昌幸の兄貴たちは、三方原にも長篠にも参戦してるから真田家と徳川の戦いは、
三方原
長篠
第一次上田
第二次上田
大坂冬
大坂夏
6回は、戦ってるな。
探せばまだあるかも あー昌幸と信玄のくだりは、『甲陽軍鑑』にあるのか。
あれは、軍記物。いわゆる歴史小説だからね。
山本勘助なんて実在しない説もあるからね。 >>75
脚色は有るだろうけど、事実として小姓の頃からそういった扱い受けているからね。
まあ、武辺者揃いの武田家の中では異端に思われていたし、信玄亡き後の、若い頃の昌幸には家中をひとまとめにできるほどの力量が無かったのも間違いないだろうけれど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています