純粋に漢文としての魏志倭人伝を研究するスレッド
観光業や非科学的な古ぼけた物事を好む学芸会とは、完全に切り離して、漢文としての魏志倭人伝を翻訳すれば良いな。
魏志倭人伝
倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
從郡至倭
循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絕島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戶無良田食海物自活乖船南北巿糴
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴
又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戶M山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉沒取之
東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戶
世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戶
東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家
南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戶
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戶
自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳
次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里 「卑弥呼以死 大作冢 径百歩」〜卑弥呼は直径(円墳)百歩(140m)の冢を大いに作(るを以)って死んだ〜 のカラクリ
@265年、曹魏から禅譲を受け、280年、ついに呉を平定し中国を再統一。天下に再び平和と繁栄をもたらした西晋の功績を後世に書き残すための正史「三国志」を編集中、30年前の魏使の報告書「径百尺(25m)」を見た陳寿は、当時の倭国はすでに古墳時代に突入し、王墓だけはやたらと長大という情報を、官僚だけに読み知っていた。
A(膨大な餓死者を出しておきながら黄巾の乱を放置した後漢皇帝たちの厚葬に呆れた)曹操の薄葬に従ったのだろう卑弥呼でも、「径百尺(25m)」の墓ではいくらなんでも小さすぎる。地方豪族級の小さい墓しか作れない倭王に明帝曹叡が親魏倭王の金印を授けるはずがない。
Bおそらく「径百歩」の誤りであろう。ついでに「以+【大】作冢」と補足しておこう。
こうして陳寿は仕方なく、形状◎(直径=円墳)や数値「百」はそのままに、単位「尺(25cm)→歩(1.4m)」だけスリ替えた。
(もし誰かが気付いたとしても誤記と言い逃れればよい。少なくとも倭国にわざわざ渡海してまで確かめようとする者ももはやいまいw)
そして時は流れ、1740年後の日本…
当然のことながら、祇園山古墳(九州説)も箸墓(大和説)も「径百歩」に該当せず、短里だ長里だ、南だ東だと、果てしない水掛け論が継続中w
もしも箸墓(全長280m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作【大冢】 長二百歩」と記録→陳寿は魏志倭人伝にそのまま転載(×不正解)
もしも祇園山古墳(直径25m)が卑弥呼の冢だったら…
→魏使は「卑弥呼以死 作冢 径百尺」と記録→陳寿は「卑弥呼以死 【大作】冢 径百【歩】」と盛る→魏志倭人伝(○正解)
祇園山古墳は上方下円墳で、天(上)から見ると方格規矩(四神相応)鏡そのもの。鏡マニアの倭王に相応しい。
「殉葬者奴婢百人」は、曹魏の薄葬に従いつつも、死後の孤独に怯えた卑弥呼の面従背腹であろう。
面白いのでそのまま転載しようw(陳寿、心の声) 早速、奥山氏が九州説にナリスマシながらなりすましながら、実際には邪馬台国畿内説の都合に合わせた漢文の誤訳を宣伝するために、来訪したな。 「魏志倭人伝には、卑弥呼の塚の大きさは、全く書かれてはいない。」という真実と
「魏志倭人伝に登場する會稽が、夏の時代の太湖を中心とした狭い範囲の會稽なのだ。」とい真実と
「魏志倭人伝に登場する會稽東治が、夏の時代の太湖を中心とした狭い範囲の何処かであり、上海付近なのだ。」という真実を
発表します。 まず、「魏志倭人伝には、卑弥呼の塚の大きさは、全く書かれてはいない。」という真実について、詳しく発表します。
卑彌呼以死大作塚徑百餘步徇葬者奴婢百餘人
の部分を翻訳する前に、魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
詔青兖幽冀四州大作海船
と書きました。
これは、「詔して青、兖、幽、冀の四州で、大いに海船を作った。」という意味です。
大きな船を1隻作ったのではなく、4つの地域で、たくさん海船を作らせたのです。
つまり、
卑彌呼以死大作塚徑径
は、「卑弥呼死するを以て、大いに(たくさん)塚を作るは、径百餘步に徇葬者奴婢百餘人のものだ。」という意味になります。
漢文的に、二つの百が対比しています。 「魏志倭人伝に登場する會稽が、夏の時代のの會稽なのだ。」
という真実について、詳しく発表します。
男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏後少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東治之東
という文章から分かるように、魏志倭人伝での会稽は夏後少康之子が封じられた会稽です。そして、夏後少康之子が会稽に封じられたことは、魏志倭人伝より古い文章からの引用です。
その頃の会稽は、太湖を中心とした狭い範囲でした。 「魏志倭人伝に登場する會稽東治が、夏の時代の太湖を中心とした狭い範囲の何処かであり、上海付近なのだ。」
という真実について詳しく発表します。
まず、魏志倭人伝では東治です。東冶は、あまり頭の出来栄えが良くはない人物が、魏志倭人伝よりも後の時代に、勘違いし書き直してしました。
そして、「魏志倭人伝に登場する會稽東治が、夏の時代の太湖を中心とした狭い範囲の何処だ。」という命題は、
先>>14に説明し、完全に証明した「魏志倭人伝に登場する會稽が、夏の時代の太湖を中心とした狭い範囲の會稽なのだ。」という真実から導けます。
そして、東治は蘇州か、良渚城の東方の海岸か、今でも上海に地名として残っている中国大陸で唯一の「東治」のいずれかである可能性が高いです。 「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が無かった」のならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に、畿内には、大和という地名が有った」のならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高い。
そして、
「倭王済という謎の人物が、天皇でない」ならば、邪馬台国畿内説は完全に破綻し、
逆に「倭王済という謎の人物が、天皇である」ならば、後漢書の作者が「魏志倭人伝に登場する邪馬壹國は、「後漢書の作者が生存していた5世紀前半に畿内にあった大和」のことなのだ。」と誤認した可能性が高まる。 始めて會稽郡が置かれた秦の時、その郡域の東部に置かれた治所は蘇州にあり、それが、魏志倭人伝の会稽東治の候補であり、
その郡の範囲は揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なので、元々の會稽という地名もまた、
揚子江デルタであり、今の上海西方の太湖を中心とした「大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」で示される狭い地域なのだということが、頭が普通の者にはすぐわかり、
さらには、考古学的に夏后少康の子の無余が、約4100年前以降に赴いた會稽の中心が良渚城であることが決定的になり、その東の治所から八方位で北東でもなく、南東でもない、正に東の対岸には、九州があることも、邪馬台国畿内説を、完全に叩き潰してしまったね。
「会稽郡初置时,领有吴、越两国之地,大致相当于今江苏长江以南、安徽东南、上海西部以及浙江北部。」
http://baike.baidu.com/item/%E4%BC%9A%E7%A8%BD%E9%83%A1
http://sa.sogou.com/sgsearch/sgs_tc_news.php?req=fTHB0oVBvP8_OA2O9bRmtEvFDGmMLbBQJUG3mNn3l9A= もしも、兆が一、巻向が邪馬台国であり、緯度が同じ中国のどこかの地点を選び、その東としたいならば、洛陽の東と書けば良いだけなのだが、
あえて、会稽東の治所の東と書いたのは、やはり、「東シナ海を越えれば、割合、すぐそこに、八方位での東の、ちょうどその対岸に女王国があるのだ。」という物事を強調するためであり、
九州の水人が、越の最後の首都でもあったことが「翳三十三年,遷于吳。」でわかる、蘇州にあった「会稽東の治所」の人々の様子と似ていることも、同時に強調できるからなのだったね 修正。
まず、「魏志倭人伝には、卑弥呼の塚の大きさは、全く書かれてはいない。」という真実について、詳しく発表します。
卑彌呼以死大作塚徑百餘步徇葬者奴婢百餘人
の部分を翻訳する前に、魏志倭人伝の作者は、別の文章で、
詔青兖幽冀四州大作海船
と書きました。
これは、「詔して青、兖、幽、冀の四州で、大いに海船を作った。」という意味です。
大きな船を1隻作ったのではなく、4つの地域で、たくさん海船を作らせたのです。
つまり、
卑彌呼以死大作塚徑百餘步徇葬者奴婢百餘人
は、「卑弥呼死するを以て、大いに(たくさん)塚を作るは、径百餘步に徇葬者奴婢百餘人のものだ。」という意味になります。
漢文的に、二つの百が対比しています。 >>1
貴方は、次々に、真実を発表しているな。良いぞ。感動だ。感動だ。 王郎字景兴,东海郡人也。以通经,拜郎中,除菑丘长。师太尉杨赐。赐薨,弃官行服。举孝廉,辟公府,不应。徐州刺史陶谦察朗茂才。时汉帝在长安,关东兵起,郎为廉治中,与别驾赵c等说谦曰:“《春秋》之义,求诸侯莫如勤王。今天子越在西京,宜遣使奉承王命。”谦乃遣c奉章至长安。天子嘉其意,拜谦安东将军。以c为广陵太守,郎会稽太守。孙策渡江略地。郎功曹虞翻以为力不能拒,不如避之。朗自以身为汉吏,宜保城邑,遂举兵与策战,败绩,浮海至东治。策又追击,大破之。朗乃诣策。策以儒雅,诘让而不害。虽流移穷困,朝不谋夕,而收恤亲旧,分多割少,行义甚着。
https://baike.baidu.com/item/%E9%92%9F%E7%B9%87%E5%8D%8E%E6%AD%86%E7%8E%8B%E6%9C%97%E4%BC%A0/22449222 孙静字幼台,坚季弟也。坚始举事,静纠合乡曲及宗室五六百人以为保障,众咸附焉。策破刘繇,定诸县。进攻会稽,遣人请静,静将家属与策会于钱唐。
是时太守王朗拒策于固陵,策数渡水战,不能克。静说策曰:“朗负阻城守,难可卒拔。查渎南去此数十里,而道之要径也,宜从彼据其内,所谓攻其无备、出其不意者也。
吾当自帅众为军前队,破之必矣。”策曰:“善。”乃诈令军中曰:“顷连雨水浊,兵饮之多腹痛,令促具罂缶数百口澄水。”至昏暮,罗以然火诳朗,便分军夜投查渎道,袭高迁屯。
朗大惊。遣故丹杨太守周マ等帅兵前战。策破マ等,斩之,遂定会稽。表拜静为奋武校尉,欲授之重任,静恋坟墓宗族,不乐出仕,求留镇守。策从之。
权统事,就迁昭义中郎将,终于家。有五子,皓、瑜、皎、奂、谦。皓三子:绰、超、恭。超为偏将军。恭生峻。绰生綝。
https://baike.baidu.com/item/%E5%AE%97%E5%AE%A4%E4%BC%A0/22627106 「王郎という人物は、卑劣な作戦で合戦に負け、杭州湾を出たのだが、
500km以上の航海になる福州市という場所に逃れていたならば、追撃はされなかったが、
一旦、杭州湾の北東端の長江が運ぶ砂が堆積した原野である東治に逃れ、南方の交州という場所に逃れるため、外海を航海できる船団や兵糧を整えようとしていたところを、再び、合戦に負け、捕らえられた。」
というのが、真実です。
後世に書き換えられた「東冶」は、以上の真実とは、完全に無関係です。 >>9
「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が「中国大陸側の行程」を倭国に転用した忖度(嘘
曹魏(洛陽)から見た倭列島は、宿敵である孫呉(建業)の背後にないといけないのよ。 >>15
太湖の東の蘇州らしいよ
378 :ニューノーマルの名無しさん :2021/08/06(金) 10:58:28.89 ID:rorhbJj30
>>352
そもそも陳寿はそんなこと言ってない
魏志倭人伝には会稽【東治】の東と書いてある
会計東冶=福建省福州市付近と会稽東治=江蘇省蘇州市は字が似てるだけで全然別の場所
http://andokunio.blogspot.com/2018/08/blog-post_19.html
> 5.東治の「東」
> 「治」とは、地方官の駐在するところ(治所)の意味である。(康煕字典:「治、州郡所駐曰治、如蜀刺史曰治成都、揚刺史曰治会稽」)
> 呉志孫輔伝の裴松之注に、【典略曰、輔恐権不能保守江東、因権出行『東治』、乃遣人齎書呼曹公、行人以告権、乃還偽若不知、
> 與張昭共見輔、権謂曰「兄、厭樂邪何為呼他人」、輔云「無是」、権因投書與昭、昭示輔、輔慙無辭、乃悉斬輔親近、分其部曲、徒輔置『東』】とある。
> ここに「東治」と「東」が見える。
> 紹煕本に「東治」とあれば無条件で校勘なしで「東冶」に改訂する百衲本も、この「東治」だけは改訂していない。
>
> 典略がいう事件の背景は呉志孫権伝にいう「建安五(200)年、曹公表権為討虜将軍領会稽太守、屯呉」にある。
> 典略の要は、孫権の兄の孫策の死後、その業(討虜将軍領(=兼)会稽太守)を継いだ孫権が十九才という若さのためか、
> 孫権の江東を保守することに危惧を抱いた従兄弟の孫輔が、孫権が「東治」へ行った留守の間に曹操を呼ぼうとしたことがばれて、孫輔は「東」に徒(うつ)された、ということです。
> 建安五(200)年、孫権が会稽太守として屯した呉は、春秋時代の呉の都、秦漢では会稽郡(今の浙江省から江蘇省)の郡治の江蘇の呉県(太湖の東の蘇州)。
> 後漢の順帝永建四(129)年に会稽郡から呉郡が分離して、以降呉郡の治になる。
> 会稽・呉分離以降、会稽郡は浙江以南となり、郡治は山陰(紹興)に移る。
> 典略のいう、孫権が会稽郡治の山陰(紹興)を留守にして出かけた「東治」とは、孫権が江東を保守するために駐屯した呉の地のことである。(「東冶」は江東からはかなり遠い。)
> 「会稽東治」とは、「会稽の『東』の治所」という意味である。 優れた人物が、スレッドに来訪し、僕達の研究では辿り着くことが出来なかった、
「孫権が会稽郡治の山陰(紹興)を留守にして出かけた「東治」とは、孫権が江東を保守するために駐屯した呉の地のことである。」
という真実を、投稿したぞ。感謝だ。感謝だ。有難う。有難う。 奧山氏の卑劣な嘘の通報で、日本史板に書き込めなくなってしまったな。 魏志倭人伝を含んでいる三国志という文章は、翻訳すればするほど、面白いぞ。 又迫大兵惶怖北引從者疾患死亡略盡獨與老母共乘一欐
大軍が迫り、北の岸に引いた後、従者が疾患したり死亡しほぼ悉く尽きたので、母と二人で船の代わりに梁木に乗った王朗が、福州市まで行けるわけは無いな。 王朗は、やはり、東治と呼ばれていた揚子江デルタの水上に、母と二人で浮いているところを、捕らえられた可能性が高いな。 又迫大兵惶怖北引從者疾患死亡略盡獨與老母共乘一欐
流矢始交便棄欐
就俘稽顙自首於征役之中朗惶惑不達自稱降虜
又、迫る大兵に、惶て、怖れ、從者を引いて「北」するも、疾患死亡略盡し、獨り、老母と共に一欐に乗る。
矢流れ交し始め、便に、欐を棄てる。
征役の中において、俘に就き稽顙し自ら首す。
朗、惶て惑い、自ら虜として降りるを稱うに達せず。 修正します。
又迫大兵惶怖北引從者疾患死亡略盡獨與老母共乘一欐
流矢始交便棄欐就俘稽顙自首
於征役之中朗惶惑不達自稱降虜
又、迫る大兵に、惶て、怖れ、從者を引いて「北」するも、疾患死亡略盡し、獨り、老母と共に一欐に乗る。
矢流れ交し始め、便に、欐を棄て、俘に就き稽顙し自ら首す。
征役の中、朗、惶て惑い、自ら虜として降りるを稱うに達せず。 良いぞ。良いぞ。
これで、「王朗が捕獲された場所が、紹興から北に行った場所だったのだ。」という真実が、完全に明快になりましたね。 >>37
又迫大兵惶怖「北」引從者疾患死亡略盡獨與老母共乘一欐
という文章が、邪馬台国畿内説を完全に破壊してしまったな。 >>37
「王朗が捕獲された場所」=東治=会稽東治
朗功曹虞翻以爲力不能拒不如避之朗自以身爲漢吏宜保城邑遂舉兵與策戰敗績浮海至「東治」策又追擊大破之朗乃詣策策以朗儒雅詰讓而不害
「魏書鍾繇華歆王朗傳」
呉人嚴白虎等衆各萬餘人處處屯聚呉景等欲先擊破虎等乃至會稽策曰 虎等群盜非有大志此成禽耳 遂引兵渡浙江據會稽屠「東治」乃攻破虎等
「呉書孫破虜討逆傳」
男子無大小皆黥面文身
自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏後少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽「東治」之東
「魏志倭人伝」 だが、後漢書での「王朗が捕獲された東治でもある、魏志倭人伝の東治を、東冶と書き換えた誤り」の理由は、
本当に、
「
1。 王朗奔東治
2。 候官長商升為朗起兵
3。 遣永寧長韓晏領南部都尉將兵討升以齊為永寧長晏為升所敗
4。 齊又代晏領都尉事升畏齊威名遣使乞盟
5。 齊因告喩為陳禍福升遂送上印綬出舍求降
6。 賊帥張雅・彊等不願升降反共殺升
という物事の進行では、「東治ではなく東冶」に逃げ込んでいたのだと(有り得ない)仮定をされた王朗が、孫策の軍勢に捕獲される余地が全く無い。
」
ということを理解できなかった、頭の出来栄えがあまり良くない者が、「時王朗奔東治候官長商升為朗起兵」という文章を読み、
候官が冶に関わりが強いという、くだらない駄洒落から東冶を思いついてしまったという理由や、
「呉誌呂岱傳に2度繰り返して書かれた「会稽東冶」の印象が強く、後漢書の作者が、
揚子江デルタという割合狭い範囲での孫策という武将の軍勢の2回の合戦の記録で、三国志全体で何度も登場する東治や、
建安5年に孫権が屯した場所を説明する為に引用された典略の東治や、
地理的に無余が封じられた会稽との関係性に全く疑いの余地が無い、魏志倭人伝での東治を、
全て、東冶なのだと愚かに誤認した。」
という理由だけなのだろうか。
本当は、後漢書の作者が、当時の情勢のために、洛陽付近や洛陽以北の資料に、アプローチできずに、一寸千里の法の距離感や、あるいは一寸千里の法の知識そのものを、持ち合わせていなかったからなのでは、
ないのだろうか。 ,ィi _ ix
∥i , : :'': ´: : : : `: '' : 、 iI|.| _
.∥i!.:´: : : : : : : : : : : : : : : : ''、|.|_x'i.|_
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,.ィ': ; ベv'´://: : : : :/: : : : : ハ: : : : : : :ヽ; : : ヽ:|∥:ヽ:`ヽ: :ハ`'' ー
./7: : : ::xベ、/´: : : : : i: : : : : : : :i: : : ヽ: : : iハ: : ヾf: ; : ヽ: ハ: : ゙,
i/: : '"/: : ゞ; : : : : : ::| : :λ: : : ::l: :、i: :ヽ: : :i:|: : |:}: ::i: 、: : : :l、: :i
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.i: /|': : : : ::|: :|: : : 斗ビi´ .i:i、i: ::| \i: : :、::゙:|: ::kェ: : : : |ヽ,: | 'ヘi
iイ .|: : i: i: :!/|::i: : :i" |,;斗x ゛、゙、::トr无ミz、::|: ::|リ: :|'、: :| ヽ| ゛ ハァ……♥ ハァ……♥
./. ! .{: ::|::λ゙: !:::l: ::i,ィ禾JI} ヾ, い゙リ ゛゙|: :|i゙ヘ::|.ヽ:| }!.
i: /!/ .i://ハ::{ 弋シ , ,`''´, , /;::i_゙,, }! ヾ,
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゙! .∨γ'i::|`''ェ、 .,, ,... ,, .'', ∥ ,!' ゙、
' / ゙'!、 |:|_ゝ_,゙ ..=I´,.-´.┸‐ァ , / ヘ __ /} ∧
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. ム/イ ,/ /⌒/ }/⌒ヽ} } | |:::::::::::廴_\ノ
. /| /| ァ=ミ/ /ァ=ミ,ハ/ ,'人::::::ノ::::::;>‐- そして最後に紹介するのがまどっち
〃|/ |小r'リ r'/ 心// / 廴_::::::::::::ノ\
{ /,.イⅥ `゚ , V (ン// /}/} /|⌒jハ |'⌒ヽ ちょっと背伸びしたい年頃なのか
∨ | ,人 v:::., ノイ /ノ' ノ' | ∧jノ\ ことあるごとにお姉さん風を吹かせる
____|/〃 > _ .. <ノイニニ7 |/ :, `ー- .. _, 可愛いやつだお
/´ ̄ ̄ ̄/ / //、{二¨ノ 〃⌒ヽ, ′
(_( / ' // (::ノ ⌒ ,// ' \
/ ノ 〃7x ゚ ,x=≠/ } \ 【レンジャーLv73】
. / 廴__,{::{{ }Y「 {{ ノ 八 ;)
(; <ノ入{{ i。| {{x\ _,ノ
⌒{ヘ{ i| {{廴__`ー-<〆\ノ\
ノ\∧ ヽ! i彡{{,,/ ⌒7¨(_/⌒}ソ\
/⌒,〈 ノi ∨i / / x‐(:::) 〈-=7^ー‐;
x─\//ノ| |゚ i ,′ // `}\人__|\ ノ:┐ 邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは、
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)
・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)
・文部科学省検定済教科書
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年) >>19
おれと同じ解釈だw
卑弥呼の塚の大きさではなく卑弥呼の葬儀が盛大に行われた事を書いていたんだ。 倭人在帶方東南大海之中依山島為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
「倭人は帯方郡の東南、大海の中に在って山がちの島に依り国邑を為している。昔は百余国あって、漢の時代に朝貢する者が有った。今、使者と通訳の通ずる国邑は三十国である。」 從郡至倭
循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
「帯方郡より倭に至るには、
(帯方郡より倭に至るには)海岸に沿って水行する。
(帯方郡より倭に至るには)韓国を歴て、乍南し乍東し、倭の北岸の狗邪韓国に到着する。
(帯方郡より倭に至るには)七千余里である。」 7000里で倭の北の端の狗邪韓国に到着
韓を経て南へそして東へ
海岸沿いに進む
陳寿は同じ行程を3回も繰り返し説明している 枕からおっさんのにおいがするようになったけど、枕も年取るんだな キウスヤマタイコクキナイセツによる荒らし行為が、酷いな。