和邇は鰐であって鮫ではない!!!
日本書紀や古事記に出てくる和邇は普通にワニを指す。鮫ではない。
鰐と鮫を混合しているのは確かであるが、まぎれもなく和邇は鰐のことである。
日本に居もしない生物なのに出てくるのはおかしいのでは?と思うかもしれないが
そもそも、竜や虎だって居ない、でも出てくるし、
鰐は氷河期までは日本に居たとされる。(一応、年代的に古代日本人とバッティングはしている)
稲葉の白兎のワニの背を渡る話は、東南アジア各地(アフリカにもある)に古くからある酷似した神話が
日本に伝わり、日本の話として古事記に記されたものでやっぱり和邇はワニなのである。
とはいえ、当時の日本人には「ワニ」というものがなんなのか想像つき難く
身近な鮫と混合してしまうこともあったのだ
そもそも和邇に関して
足は4本有り、口の長さ3尺、トラや鹿が水を渡ると仕留める と説明されているし
陸に上がりヘビのようにうねるともある
これを鮫というのはいかがなものか・・
結論は混合されていたのは確かであるが
鰐はワニそのものを指す言葉であり、鮫ではない。 >>488
明治政府が標準語定める前から「わに」は爬虫類の鰐に使われてるからな。
平安時代の和名抄に有四足と書かれ、江戸時代の訓蒙図彙・和漢三才図会・紅毛雑話でも爬虫類のワニの絵に対して鰐(わに)という名前が使われている。
方言で鮫を和邇と呼ぶことを知ってる人でもこれを知らなかったりする。 うん、だから色んな方言がある中から標準語が選ばれたわけだからさ 明治政府が標準語を定めました
爬虫類の鰐=ワニ
魚類の鮫=サメ
うん、そうだね
でも、神話ではワニをサメと言い換えて教えました
それは出自を隠すためです
この古墳時代の日本人は、縄文系・北東アジア系・東アジア系の3系統の祖先によって構成され、
三重構造の構成としては、縄文系・北東アジア系(弥生時代に移入)・東アジア系(古墳時代に移入)の祖先であり、
この多重構造が古墳時代に成立し、現代においても同様の構造が見えているというのが我々の発見したことです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/ishidamasahiko/20211001-00260989
・縄文系
・北東アジア系(弥生時代に移入)
・東アジア系(古墳時代に移入)
の3系統の混血が古墳時代以降の日本人の主であり
縄文系とは4万年前に東南アジアから北上した集団のこと
それが天皇の出自であり、それがバレると天孫降臨が瓦解して、天皇による統治の正統性が失われるから
ワニをサメって言い換えて出自を隠しただけの話
それは今でも続いているから
東南アジア系のみ縄文系って言い続けてる >>482
任那の中心、金官加羅国(狗邪韓国)
建国者首露王の妃はインド(サータヴァーハナ朝)の王女である許黄玉
加羅国=韓国=空国=仏教国
任那=那に任された地=イザナギに任された地
金官国=金属採取の役目の国
任那(? 〜562年)
加羅(3世紀〜6世紀中頃)
弥生時代の3世紀までに鉄器が普及していたのは北部九州地域に限られており、
日本のその他の地域から出土する鉄器は僅かである。
日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは
たたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、
確立した6世紀の古墳時代に入ってからである。
それまでは朝鮮半島産の鉄を利用していた。 >>482
許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、
インドから船に乗って48年に伽耶に渡来し、首露王と出会い、
その時にインドから持って来た石塔と鉄物を奉納した。
許氏は首露王との間に10人の息子をもうけたが、
そのうち2人に許姓を与え、それが金海許氏の起源とされる。
2004年の学会発表によると、許氏の「インド渡来説」には遺伝学的根拠がある。
金海にある古墳の、許氏の子孫と推定される遺骨を分析した結果、
ミトコンドリアDNAは(韓民族のルーツである)モンゴル北方系ではなくインド南方系の特徴を備えていた。
サータヴァーハナ朝(Sātavāhana、紀元前3世紀/紀元前1世紀? - 後3世紀初頭)は、古代インドの王朝である。
デカン高原を中心とした中央インドの広い範囲を統治した。
パックス・ロマーナ期のローマ帝国と盛んに海上交易を行い、商業が発達した。
この時期の遺跡からは、ローマの貨幣が出土することで有名である。
王たちは、バラモン教を信仰したが、仏教やジャイナ教も発展した。 >>482
サータヴァ―ハナ朝では、特に仏教なども国家の保護の下で活動していた。
当時王妃を始めとした王家の女性はしばしば仏教教団に種々の寄進を行っており、しかもそれは国家によって奨励されて援助すらされていた。
2000年前にインドのサータヴァーハナ朝の王女とその従者たちが
鉄器製法技術と仏教をもって朝鮮半島南部に定着し金官加羅国(任那加羅)の初代王と婚姻した
北九州〜半島南部を中心に栄え、山陰にも勢力を伸ばし、これを出雲という
畿内からの国譲りに負けて吸収合併された際に、分家である出雲の長は日本海側から信濃に入り、諏訪に封印された、これが諏訪大社
本家である筑紫の那国(なのくに)の長は海神を祖とする安曇氏、これは太平洋側から信濃に移住したと説かれている
出雲は本州として大和と協力したから神話に組み込まれたが、筑紫は九州であり大和が国譲りを迫った側の本家本元だから隠蔽した
どちらにせよ、国譲りで負けた勢力が逃げ込んだ場所が信濃、というのは明らか
2000年前に
インド南部に栄えたサータヴァーハナ朝の王女とその従者が
鉄器製法と仏教をもって対馬海峡に到達し
任那日本府の中核を担う金官加羅国(日本が鉄採取のために半島南部に作った国)の初代国王と婚姻していたという事実
土着の自然の神々を擬人化した上でなければ仏教を説けないため
当然ながらサータヴァーハナ朝はバラモン教と仏教をセットで伝来している
(キリスト教を教える際にユダヤ教の知識が必要であることと同義) >>482
ダマスカス鋼とは、木目状の模様を特徴とする鋼であり、古代インドで開発されたるつぼ鋼であるウーツ鋼の別称である。
南インドで紀元前6世紀に開発され、世界的に輸出された。
tps://i.imgur.com/tGZ2XuC.jpg
天叢雲剣
天に群がる雲のような紋様を持つ刃の剣。
上座部仏教(南伝仏教)は東南アジアで止まっておらず、
約2000年前の時点でインド南部のサータヴァーハナ朝の王女が自ら布教しにきていたという事実
その王女は日本が鉄採取のために作った任那日本府の中核である金官加羅国の建国者と婚姻していたという事実
これら重大な事実を隠蔽している日本の史書と神話 >>482
銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の地方国家「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸が出土している。
日本の銅鐸は、中国大陸を起源とする鈴が朝鮮半島から伝わり独自に発展したというのが定説だが、発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前306年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。
首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。
後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。
越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。
『史記』をはじめとする諸書では、夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。 >>482
『呉越春秋』は夏の少康の庶子であった無余を最初の越の君主とし、また夫譚の前に無壬・無?を挙げる。『史記』越王勾践世家は初代から允常まで二十余世とし、『漢書』地理志は初代から勾践まで二十世とする。
越侯夫譚
越侯允常 - 『史記正義』によると、はじめて王を称した。
越王勾践(在位紀元前496年 - 紀元前494年)
呉の支配による空位:紀元前494年 - 紀元前491年
越王勾践(在位紀元前491年 - 紀元前464年)
越王鹿郢(?与)(在位紀元前463年 - 紀元前458年)
越王不寿(在位紀元前457年 - 紀元前448年)
越王朱句(州句、翁)(在位紀元前447年 - 紀元前411年)
越王翳(在位紀元前410年 - 紀元前375年)
越王錯枝(在位紀元前374年 - 紀元前373年)
越王無余之(在位紀元前372年 - 紀元前361年)
越王無?(在位紀元前360年 - 紀元前343年)
越王無彊(在位紀元前342年 - 紀元前306年?)
少康(しょうこう)は、夏朝の第6代帝。
『史記』越王勾践世家や『漢書』地理志粤地、『呉越春秋』によれば、少康の庶子である無余が会稽に封ぜられ、文身(入れ墨)・断髪したのが越の起源であるとされる。『漢書』によれば、文身断髪した理由は蛟竜の害を避けるためとされる。
『翰苑』巻30所引『魏略』逸文や『魏志倭人伝』にある倭人の習俗についての説明では、倭人が入れ墨を彫っているのは大魚や水鳥の害を防ぐためであるとして、この少康の子の故事が引き合いに出されている。 >>482
銅鐸が発見された記録は、『扶桑略記』の天智天皇7年(668年)、近江国志賀郡に崇福寺を建立するのに際して発見された記述が最古であろうという。
ただし、天智期の記事を詳細に記しているはずの記紀は、この出来事について全く触れていない。
『続日本紀』には、和銅6年(713年)、大和宇波郷の人が長岡野において発見した記事があり、『日本紀略』には、弘仁12年(821年)、播磨国で掘り出され、「阿育王塔鐸」とよばれたとある。
>「阿育王塔鐸」
阿育王=アショーカ王
アショーカ(訳:無憂〈むう〉、在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)は、マウリヤ朝の第3代の王である。
漢訳音写では阿育王と書かれる。インド亜大陸をほぼ統一した。
釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説もあるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。
アショカとも表記される。アショーカの名前は花のアソッカ(無憂樹)を由来とする。 >>482
『古事記』の国産みには小豆島(播磨灘にある島)の別名として大鐸姫(大野手比売)が登場する。
『諸系譜』では布留多摩命の娘として登場し、天日方奇日方命の妻・日向賀牟度美良姫の別名とされる。
小豆島では島の島玉神として祀られ、島内にはかつて大鐸村などの地名もあった。「おおぬでひめ」の「鐸」(ぬで、ぬて、ぬりて)とは銅鐸のことで、実際に三五郎池の西側から銅鐸が出土している。
『古事記』では伊邪那岐命と伊邪那美命の子とされ、夫や子孫に関する記述はないが、『諸系譜』では綿津見神の子・布留多摩命(倭国造、尾張氏等の祖)の娘とされ、天日方奇日方命の妻とされる。
銅鐸の女神である大鐸姫は
倭国造の祖である布留多摩命の娘であり、天日方奇日方命の妻とされる。
天日方奇日方命は鴨王(かものおおきみ)とも呼ばれ、天皇以外で「おおきみ」と呼ばれる唯一の存在である。
天日方奇日方命(鴨王)の父は大物主神(大国主神)であり、同様にカモを関する迦毛大御神(阿遅?高日子根神)の父は大国主神(大物主神)である。
また、大御神を関する神は、伊邪那岐大御神、天照大御神、迦毛大御神の三柱のみである。
国生みを行った側の娘、あるいは倭国を造った側の娘が、銅鐸の女神であり、
銅鐸の女神は国を譲った側の大国主(大物主)の息子と婚姻しており、
国譲りを迫った側の天皇側と同じく「オオキミ」「大御神」を称されている。
弥生時代の銅鐸が668年に発見されたことを記紀は記さず、
821年に発見された際には「阿育王塔鐸」つまり仏教の鐘と呼ばれていたとされる。
春秋戦国時代に越国が南伝仏教を受け入れて、越王は無を重視し仏教の鐘として銅鐸が作られた。
越国が滅亡したことで、銅鐸と南伝仏教が日本に伝来して南伝仏教の国が作られ、仏教の鐘として日本でも銅鐸が作られたが、
土着集団が国譲りを迫り、銅鐸が埋められた。 >>482
漢委奴国王金印が出土した志賀海神社の山誉祭 神楽歌
君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳という
花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな
国歌である君が代に酷似しているが、先々代の香椎宮・宮司 木下祝夫の父である木下美重によれば、この山誉祭神楽歌が旅芸人によって広められ、古今和歌集に収められ、のちに薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」になり国歌になったことが香椎宮に所蔵されていた筑紫の神楽記録から判明しているという。
また福岡市東区の名島神社とに福岡県大川市の風浪宮も類似した神楽歌が伝わっている(志賀海、名島、風浪宮の三社の神職は共に安曇氏)。 >>482
ワタツミ→フルタマ→倭国を作った者→娘が出雲の大国主の息子と婚姻
一時は近畿を中心とした銅鐸文化圏という概念が存在したが、その後吉野ヶ里遺跡をはじめ北部九州で多くの銅鐸およびその鋳型が出土したことから、銅鐸文化圏の概念は否定された。
特に、吉野ヶ里遺跡から出土した銅鐸およびその鋳型が伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)と完全に一致したことから、最近ではむしろ北部九州で作られたものが出雲にひろまったと考えられるようになった。
銅鐸
北九州→出雲→近畿、四国、近江、中部
倭国を作った者たちに国譲りを迫り、日本中の銅鐸が一斉に埋められ、今の日本の三種の神器の一つである銅鏡が作られ、古墳時代(ヤマト時代)が始まる >>482
海人
イザナギ→ワタツミ→フルタマ→安曇(ア住み、最初に住んだ、最初に国を作った)
これが南伝仏教と関係している
前の国の信仰、銅鐸、南伝仏教、国譲り後丸ごと隠蔽
山幸彦と海幸彦、山幸彦が勝って天皇が治める
蘇我はスサノオの流れ、スサノオの子孫の出雲はワタツミの筑紫と婚姻連合
蘇我神社はスサノオ
北伝仏教をゴリ押しして地位を復権して蘇った我、蘇った倭
そして仏教の守護神となったスサノオ
実は兄弟じゃない天智と天武
大海人皇子を教育した凡海氏(海部一族の伴造)
大海人皇子→天武
天智→山部(桓武)
仏教統治を進めた天武朝、奈良の大仏完成時に招いたのは東南アジアの南伝仏教の僧侶
大海人の天武朝が途絶えて天智朝の山部が平安京へ
倭国を作った安曇が逃げ込んだ信濃伊那
国譲りで負けた大国主の息子が逃げ込んだ信濃諏訪
仏教寺院の最高峰は長野の善光寺 わたつみ
倭辰巳
倭国の金印のトーテムは辰巳
海人が国を作って
山人に国を譲った
仏教の守護神となったスサノオ
善光寺を支配している藤原氏、アメノコヤネ
三島由紀夫「日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」
海神、ワタツミ、倭辰巳、倭のトーテムは龍蛇、国を作った者と国を治めている者は違う、呪術
神話と史実、鏡合わせで暗号化
出雲のスサノオ→大国主→日本海側から信濃へ
筑紫のワタツミ→倭国造→太平洋側から信濃へ
銅鐸の流れから筑紫が大元、派生が出雲
出雲を神話でピックアップして大元の筑紫のワタツミの倭国を隠蔽 ワタツミ系海人族は北九州から四国経由して尾張から上陸して長野伊那やで
あと、国譲りを迫った側はワタツミ(ツクヨミ)筑紫(ツクシ)でもスサノオ出雲でもないからな
その両方は一体であり、そこに国譲りを迫ったのがアマテラス系な
出雲の大国主が西向いてるのは、出雲の元が筑紫だからな
2世紀に国譲りが完了して銅鐸を全て埋めて鏡を作った時点で
それまでの倭国の歴史を継承してアマテラス系が治める様になったからな
出雲だけ記紀で描かれてるのは、出雲がアマテラス系に恭順したからやで
スサノオ系出雲とアマテラス系ヤマトが同盟結んでワタツミ(ツクヨミ)系筑紫を滅ぼして隠蔽して乗っ取ったからな
だから出雲だけ記紀で描いてワタツミの倭国は完全に抹消したからな
徳島の海部氏
毎年天皇に布を献上
これ国譲りからずっと続いてる儀式
ワタツミ→布留多摩命
ツクヨミ=スサノオの系図も海人が持ってるでしょ
ツクヨミ(ワタツミ)の筑紫とスサノオの出雲は筑紫から出雲へ派生して婚姻結んで一体だから
四国から
東側の摂津に天照
北側の安芸に須佐之男
西側の日向に月読
天照と須佐之男が本州一体として協力して
月読の九州を支配して隠蔽
これが天照と須佐之男の誓約 >>69
春日氏は和珥(丸邇、和邇、丸)氏と同族だしね
>>102
漢語で類聚し漢籍を出典としてるんだってよ
つまり、それは900年代の中国での概念だなあ >>93
>>101
おもしろい
全身ウロコのように翡翠つなぎの埋葬服を来たミイラもいたよね
まるで武将の鎧みたいな >>121-122
数は違うけど「イワンレクトゥシペ(アイヌ民謡で六頭の化け物という意味)」の歌を聞くと、ヤマタノオロチ連想する
困った外来者をやっつける話なんだけど、やっつけ方はサルカニ合戦に似てるし、やっつける人は女神さんなんだよね
もしかしてヤマタノオロチの元ネタは、アイヌ系による「6団体のオロチョン族を撃退した話」とか「6人のオロチョン族に侵攻された話」とかだったんじゃないの?って思ってしまう
(ちなみにオロチョン族はアムール川あたりの鹿角つけた少数民族のこと http://p2.cri.cn/M00/12/D7/CqgNOlwl0XGAAU5_AAAAAAAAAAA389.640x427.jpg)
記紀の中にもアイヌのような描写の民族が出てくるし、ヤマト朝廷は記紀作成前に全国から民話を取り寄せてるからアイヌの話も把握してたと思うんだよね
ちなみに、そのアムール川あたりには他にも少数民族がいて、どの民族だったか忘れたけど(ナナイ族かな?)めちゃくちゃ「カンチュガ」さんが多いらしくて、いつも語感が「春日」みたいだなーと勝手に思ってる
和邇氏やその系譜の春日氏って、奈良盆地でも居を北東に構えてたし、奈良よりも北東からやってきた人たちなんじゃないの?って オロチ族、オロチ人(露:О́рочи、自称:ロシア語: орочисэл、古称:ロシア語: нани(アムールのナナイからの借用で、наは大地、ниが人で、「土地の住民」の意)は、ロシアの少数民族の一つ。
人口は約900人でハバロフスク地方のアムール川支流トゥムニナ川(Тумнина)下流およびその支流およびフンガリ川、アムール川、キジ湖他に居住している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81%E6%97%8F ヤマタノオロチは越国を侵略したオロチ族を出雲国のスサノオが退治した話 >>512
アムール川からバイカル湖にかけて住んでるらしいけど、バイカル湖の東側にクダラという地名があるの気になる
あと扶余や高句麗も鹿に執着してる人たちだったのも関連あるのか気になる
↓この辺りも日本に馴染みあるし、打月なんてまるでウサギの餅つきみたい
>鄂倫春族(オロチョン族)の人々は名月を祭る時に独特な行事を行います。空き地に一鉢の清い水を置き、その周りに供え物を並べます。そして、たらいの前にひざまずいて、月に拝礼をします。
>また、土族(トゥ族)にも類似した習俗があります。中秋節の夜にたらいに清水を入り、月の影が水に映れるようにたらいを置きます。そして小石で水面に映っている月を打ちます。この習俗を「打月」と言います。 和邇は「はに(赤土)」の転訛って説聞いてなるほどと思ったんだけどみんなはどう思う? 鳥は凶悪害悪悪魔魔物災禍災厄国賊畜生餓鬼地獄
故にすべての鳥は鮫の餌 中国で実在の獏が描かれた青銅器が見つかって瑞獣の獏と実在の獏の同一説が出て来たらしい。
日本神話の和邇に関してもこれから新しい証拠(記紀と同時期に和邇という名前で描かれた鰐の絵や鮫の絵)が見つかるかもしれない。 >>93
玉衣
https://www.google.com/search?q=%E7%8E%89%E8%A1%A3&rlz=1C1NDCM_jaJP732JP732&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwjF9rHz_8D2AhXSEHAKHR60CU4Q_AUoAXoECAEQAw&biw=1920&bih=937&dpr=1
ワニだ >>522
どう見てもサメじゃなくてワニのウロコみたいに見える 金縷玉衣
きんるぎょくい
中国、漢代、死者に着せた玉の衣。
玉匣(ぎょくこう)ともいう。名刺大の玉片を金の糸でつなぎ合わせ、鎧(よろい)のように全身を覆ったもの。
玉のもつ霊力によって肉体を永遠に保たせようと願ってつくられたものと考えられる。
皇帝や皇后、王侯貴族が用いたが、身分によって銀縷、銅縷の別がある。
河北(かほく/ホーペイ)省満城漢墓、江蘇(こうそ/チヤンスー)省徐州土山漢墓などで発見され、完全に復原できるようになった。
『前漢書』霍光(かくこう)伝をみると、金縷玉衣のほか、喪葬の具、棺や槨(かく)、柩(ひつぎ)をのせる??車(おんりょうしゃ)などが下賜されることを記している。 >>518
埴(粘土)→和邇
ゴーレムのようなモンスターの可能性もあるわけか。 高天原で暴れすぎて追放処分された須佐之男命(すさのおのみこと)は、
五十猛命(いそたけるのみこと)、大屋津姫(おおやつひめ)、抓津姫(つまつひめ)の三神を従え、新羅國に天隆り曾尸茂梨(そしもり)に住みました。
しかし、ここに居たくないとのことで、埴船(土でつくった船)に乗り日本へ戻るときに、 大浦の島(神島)に船を泊めて、上陸したと伝えられています。
http://www1.ttcn.ne.jp/~kitasanbe/a_sub_kagura_yamatanooroti.html 史実では4世紀末に日本に伝わった馬が日本神話では須佐之男命の時代から日本にいたことになっている。
同様に後から漢籍や絵画で知った鰐を神話に登場させたとしてもおかしくはない。 >>529
史実では4世紀末に日本に伝わった馬
どの史書に4世紀末に日本に馬が伝わったと記されているのか? >>530
史書ではないがhttps://ir.kagoshima-u.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=11003&item_no=1&page_id=13&block_id=21によると日本にもともといた馬は一度絶滅して4世紀末に再導入されたらしい。 >>533
先史時代、現在の日本列島に相当する地域にはウマが存在した。それは今から1万年以上前
の氷河期のことである。当時は寒冷な気候のため、日本にもウマの生育に適した草原が発達し
ており、岩手県では2万〜3万5千年前のものと考えられる化石化した馬骨も発見されている
(中村 1993:505、近藤ほか 1994:49)。
当時は氷河として地上に大量の水が存在していた影
響で海面低下が発生し、日本はユーラシア大陸と地続きであったため、ウマは陸地伝いに日本
へやってきたものと理解しうる。ただし、約1万年前の氷河期の終了とともに気温が上昇し、
大陸から隔絶することで形成された日本列島においては、森林が草原にとって代わり、ウマの
生息を許す環境ではなくなった(中村 1993:505)。つまり、氷河期の終了とともに、日本列
島ではウマが絶滅したものと考えられる。 >>482
最近その説をyoutubeで見て調べて見たけど
ドラヴィダ人に特徴的なハプログループはH(古代インド人)
https://en.wikipedia.org/wiki/Y-DNA_haplogroups_in_populations_of_South_Asia
出雲所縁の地域ではハプログループDが濃いと言う特徴があるけど
Hは日本では出て来ない事から、集団的な渡来は無理筋だろうな
江戸時代に歴史偽書作りが流行ったらしいけど、それじゃないかな
「鼻の長い動物がいる国から来た」とかw 出雲族とか海人族とかここじゃ当たり前のように使っている用語だが確か宝賀の造語なんだよな
明確に違いが確認できない集団を族として分けるのには違和感がある 氏族の祖神が海のモノだから彼奴らは海人というのは暴論
では山の神の子孫なら山人なのか
日本、わけても西日本では大半の地域において海も山も身近なものであったわけで それは干拓の進んだ今ですらそうなのだから
河内湖、ともすれば奈良湖でその先の海を感じられたはずの奈良盆地も例外ではなく 漁労や水運に関わっていた氏族(クラン)も山と無関係ではいられなかったろう 逆も然り
オオヤマツミの例が分かりやすいか
だから俺は和邇がワニだとかサメだとかの海棲生物を意味するという説にすぐさま与すことはできない
賀茂(鴨)も同様 というか今ちょっと調べてみたら割と簡単に答えが出てきたわw
和邇氏の本拠地に和爾下神社という神社があるのは知っていたのだが、和爾下があるなら和爾上的な社もあるのではとどうして俺は今まで一度たりとも考え付かなかったのだろうw
あったあったw
程近くに和爾坐赤坂比古神社というのがあったわw
赤坂比古とは件の神社の主神 阿田賀田須命の別名で和爾神ともいう(天理観光ガイド「和爾坐赤坂比古神社」より)らしく赤坂=和爾坂らしい
また応神記には"櫟井の 和邇佐の土を 端つ土は 肌赤らけみ…"とあるらしくやっぱり赤いらしいw
というか和邇氏絡みと見られる近くの古墳の名前も赤土山古墳だしw
ダメ押しで言えば実際に現地に行った人のHPを読むとあの辺赤土だらけらしいw
和邇氏の和邇はやはり本拠地周辺の特徴的な赤土(ハニ)の転嫁で間違いない
つうかここに同じこと書いてあるわw→ 國學院大學「古典文化学」事業 地名データベース「丸邇坂」https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/chimei/wanisaka/
このスレの518は俺だ
2年越しに答えを知ることができてちょっと感動して長文になってしまった
何にしてもきちんと調べる癖をつけることの大切さを理解させてくれてありがとう(?)