日本の初代天皇は始皇帝を騙した徐福!?
来ようとしたとかは言われてたけど徐福天皇説も昔からあったのかな 実のところ神武天皇を祖とする現皇室が
日本列島で最初に誕生した王族というわけではない いろいろ皇帝から巻き上げた?預かった宝物とかあったんでしょ
そういうので現地民を雇ったんかな 天皇系譜上の初代、神武天皇は、
海(天)村雲命。
徐福と出雲王国の第8代オオナモチ、八千戈さまの妹君、高光媛(天道媛)との御子、五十猛。長じて、海(天)カゴヤマと、
徐福は二度目の渡来で吉野ヶ里を本拠地とし、
宗像王家(出雲王国の分家)の末娘、市杵島媛と政略結婚して生まれた第二子のホヤ媛(第一子はホホデミ)の
異母兄妹が結婚して生まれたのが、
海(天)村雲。
出雲王国の乗っ取りを企てて出雲王国の(第8代の)主、副二人の王を殺害するテロ事件を起こした徐福ら渡来人(実効主犯はホヒとヒナドリ)らですが、侮っていた出雲王国は意外にも強固で反撃にでた事で
徐福は引率してきた二千人の海童(秦国人)と妻子を置き去りにして秦国に逃げ帰った。
取り残され、散りじりになっていた海童(秦国人)たちを五十猛/カゴヤマが呼び集めて丹波国に移住して国を建てました。
先の出雲王国の大逆テロ事件の影響で
葛城に大量移住していた出雲族(摂津三島の人々も加わる)らが大和に出雲第二王国の建設を夢見て開発に勤しんでいたところに
北の丹波国の海村雲が丹波人(元々は秦国人や子孫たち)を武装させて大量に大和に侵入してきて威勢をはって、
先住の出雲族らを凌駕した事から
海村雲を大王に推戴。出雲神族(=王族)の媛踏五十鈴日女命(三輪山の初代祭主に就任済)を大王后とする等して
丹波葛城(大和)連合王国の大倭国が成立。
海王朝、海部王朝、大王宮が葛城の笛吹(高尾張)に在った事から高尾張王朝などと呼ばれる
海村雲から11代約300年の命脈を保ちました(ホホデミの子孫(親戚)の大和侵攻(所謂、神武東征)により滅亡)。 一世代あたり平均25か26歳ぐらいで子供を作るだろ?
神武天皇を一世代目として倭の五王に比定される大王たちが
15〜18世代目。現皇室の先祖とされる継体大王が20世代目。
推古天皇が22世代目。聖徳太子が23世代目。天智天皇と天武天皇
が25世代目。現在伝わる皇統譜と睨めっこする限りでは日本の
初代天皇は西暦1世紀の人物で、後漢の光武帝から金印を貰った
倭奴国王と同時代の人物と考えられる。ただし、皇統譜上で
神武天皇と今の天皇の間に断絶・省略があるなら話は別だ。 皇室の系図を見ると、神武天皇から第17代履中天皇まで
順調に次世代への王位継承が続いている。これが史実なら
神武天皇は西暦1世紀半ばの人物だ。しかし、実際には皇室系図
は他の豪族たちより世代数が5〜6世代分多いという指摘もあり、
履中天皇以前もそれ以降と同じように同世代の人物へ王位継承
していた可能性がある。神武天皇を西暦1世紀よりさらに5、6
世代分後の人物だとすると西暦2世紀末〜3世紀初頭頃の人物で
原初の大和政権は女王卑弥呼と同じ時代に誕生したことになる。 聖徳太子の件もそうだけど、どんどん昔の常識が変わっていくな >>29
架空の先祖を捏造する意味はない。どうせ建国年を紀元前660年に
合わせるならたくさん年齢の正常な架空の先祖を作ればいいのに
記紀はそうしないで天皇の年齢のほうを延ばした。天皇という表現が
誤解の原因なのだろうが、実際に大和政権が奈良盆地から日本全国へ
勢力を拡大するのは邪馬台国より後の崇神天皇の時代から。それまでの
天皇は奈良盆地に住む一豪族家の主と呼ぶのが正確で日本列島の広域を
支配した7世紀以降の天皇とは全く違う。神武が知りうる限り皇室の先祖
だった。とはいえ大和政権と邪馬台国が同じとは決まらない。違う可能
性もあるので、記紀はどうにかして中国で知名度が高い邪馬台国の歴史を
大和政権の一時期に位置づける工夫をした。神武より前の物語は他の豪族
などが持っていた神話を適当に継ぎ接ぎして創作した物語だから史実性はない。
イザナギやアマテラスが天皇の先祖だという話も神話なので疑ってかかるべき
だろう。 >>19
徐福=徐市(徐フツ。、、、フツ主神/フツ御魂神)/彦福。
徐市(フツ)さま。福の文字がお好きだった事から自らの名にしました。=徐福。
中国の史記には始皇帝を二度も騙して、巨万の財宝、財貨と共に前後併せて五千人の童男童女、あらゆる職業の熟練者に(こっそり?身内の者たちを紛れ混ませ)
日本列島に言った事が書かれて、
二度目の渡航は、、
、、、行きて還らず。風聞では広い領地等を得て彼の地の王となった。云々。
一度目の渡航では渡航の一年前に事前工作に
ホヒとヒナドリ(現、出雲国造家の祖)を出雲王国の王の下に送り、財宝ほか珍貴な貢ぎ物をする等して出雲王国から渡来許可を取り付けます(直ぐ連絡員が徐福らの居留地に渡来許可を伝えに向かった)。
ホヒ親子はそのまま出雲王(オオナモチ)の近習(スパイ/諜報活動)として召し抱えられました。
やがて、石見の五十猛海岸に大船団が来航して徐福が引率する二千人が上陸。
そこに居を構えました。 >>32
この際(第一回目の渡来時)、徐福さんは和名(偽名)にホアカリを名乗りました。(天火明/彦火明=徐福) >>18
二千人の配下や妻子を置き去りにして慌てて母国に逃げ帰った >>32
当時、日本列島最大の版図(北は新潟県。南は四国〜北九州(分家の宗像王家))を領した出雲王国の乗っ取りを企て大王にならんとした徐福さま(皇室の祖の1人。徐福の出身地の蘇州うを反転して州蘇として「スサ」スサの男でスサノオ)
ですが
主副二方の王をテロにより殺害した迄は良かった?のですが、
出雲王国側が態勢を建て直して直ぐに反撃追撃に転じた為、居場所を失って母国に逃げ帰ったようです。
その際、引率してきた二千人の海童(秦国人)や妻子を置き去りにしました。
徐福と出雲国王女の高光媛との間に生まれた五十猛は
取り残され散り散りになっていた秦国人らを呼び寄せ集めて丹波(丹後)に集団移住して
丹波国を建てました。
その際、母親の高光媛とその姪の大屋媛も一緒に丹波に移り住みました。
//大屋媛が成人して?五十猛、改め、海カゴヤマと結婚して(カゴヤマの次男の)高倉下が生まれ(後に紀伊の国に母親の大屋媛と共に移住。紀伊国造の祖となります)ます。
彼ら海童/秦国人の子孫たちが後々の秦族等と呼ばれる大集団になります。 >>33
二度目の渡来、帰化ではニギハヤヒを号した。
徐福/市(フツ)/彦福=ニギハヤヒ(ニギハヤヒを隠蔽し改ざんしたのがニニギ)=ホアカリ。=スサノオ。
天照国照彦天火明櫛玉熟速日命=徐福さま。 >>43
出雲王国の元王家(天皇家は分家筋)の二千年にわたる口伝(≒ほぼ正しい我が国の歴史と信仰の実態)。
タブーを破って既に刊行されています。 天皇。は、天武天皇が始めて用いた称号。
天武天皇以前は大王(オオキミ)。
更に遡ると、
古代出雲王国の大王に当たる称号がオオナモチ(主王)。
同じく、副王の称号がスクナヒコ。
、、、古代出雲王国は主副二王制。17代約700年弱の命運
「タラシ」(帯、足、垂)。も大王の称号
神功皇后こと、息長帯媛命 はタラシと命が付与されている事から女帝で有った事が窺い知れます 大正時代に歴代天皇から外された事を考えると
宮内庁は神功皇后が虚構である根拠となる何かを持っているのだろうね
是非とも公表してもらいたいところだ 周から秦の時代に戦乱や圧政を逃れて中国大陸や朝鮮半島から
日本列島へ渡った人たちは少なくなかったであろうと考えれるが、
現代に伝わる日本皇室の系図を見る限り、神武天皇が即位した
のは紀元前660年でも、徐福が生きていた前210年頃でもなく、
紀元後1世紀半ばになるとしか考えられない。これは倭国の王の
使者が光武帝に謁見し光武帝がそれに対し漢倭奴国王の金印を授
けた頃の出来事である。
しかし、天皇の系図は天皇に仕えた他の豪族たちの系図より5、6世代
ほど長いと指摘する意見もあるので、それに従うと、神武天皇は漢倭奴国
王より5、6世代は後の人物であり、邪馬台国の女王の時代かそれより少
し前を生きたと考えられる。神武〜応神までは王位継承が順調に行われず
5、6人分は同世代間の王位継承が存在したと考えられる。ただし、神武天皇
以降の天皇の系図が省略だらけというなら、神武天皇=徐福という説もあり
えなくもない。 中国側の記録を参考にすると、天皇家より前に存在した日本の王は
後漢の光武帝から漢倭奴国王の金印を授かった人物、安帝に生口(奴隷)
を献上し謁見を求めた帥升、邪馬台国の女王卑弥呼と台与(神武・欠史
八代と同時期の女王?)などである。
日本書紀の記録では、大己貴命・事代主神のような出雲系の神々や
饒速日命が神武天皇より前の日本の王のようである。とにかく紀元
前210年代の徐福渡来から、後2世紀末頃の神武天皇の大和定住まで
400年ほどの開きがあり、その間複数の王権が日本に存在したのではな
いかと推測される。大和政権が日本の広域を支配し始めるのは4世紀に
入ってからで、天皇家第10代目崇神天皇が天皇家で初めて大多数の豪族
に王と認められた人物だと考えられる。源氏で譬えるなら、始祖の源経基
が神武、征夷大将軍の源頼朝が崇神のようなもので、欠史八代の王の記録は
一つの豪族が天下人にのし上がるには何世代もかかるということを意味して
いるのかもしれない。徐福王朝が大和政権にどのように繋がってくるのか
今後古代史研究が進むことで解明されることを期待する。 >>62
>後漢の光武帝から漢倭奴国王の金印を授かった人物、安帝に生口(奴隷)
を献上し謁見を求めた帥升、
師升。
、、、このお方は、大和(奈良)の磯城王朝の王、国押人(オシヒト)、いわゆる孝元天皇だと伝承されています。
後漢帝国に自ら出向き大和(大倭。実質的には最大限で畿内政権。王家(大和の3割程度を支配するにとどまる。有力な豪族程度)、各豪族たちが入り乱れて権力闘争に明け暮れていた)の大王と認めて貰うため。
貢ぎモノがなかったのと、漢は奴隷(生口)を喜ぶ?ということで、
行き掛けに広島の生口島で大規模な奴隷狩りをやった(故に、生口島の名前になった)
謁見の際、「オシヒト」の耳に付いたアクセントの「シヒ」を「師飛」と中国人の記録官が草書で口頭速記したモノを正式な文章に書き写す際に
飛が升に誤記され、「師升」とされたらしい(この類いの誤記は良くあることらしい)
また、人名、地名等は省略して記述することや、
中華思想の下、周辺諸国の国名、事物や人名等には獣や魚等の文字等を使い卑字化されたようです
>邪馬台国の女王卑弥呼と台与(神武・欠史
八代と同時期の女王?)などである。
ヤマトの女王媛巫女(ヒメミコが中国人にはヒミコに聞こえたらしい)
邪馬台国の女王卑弥呼。これなどは卑字使用の典型的な例。 >>64
和風諡号が日本足彦「国押人」になるのは孝元天皇じゃなくて孝安天皇だよ。
国押人の年齢にもよるけど、500年後の推古天皇や聖徳太子の何世代前の16、7世
代前の先祖にしては昔の人過ぎないかな?
ヤマトの女王媛巫女は倭迹迹日百襲媛命を指してるのかな?
彼女は西暦107年頃の国押人(孝安)の孫娘なのかな?国押人=孝元で孝元の姉妹が
百四十年も後の248年頃に亡くなったとはちょっと信じがたいな。当時の天皇家の主は
平均何歳ぐらいで子供を作っていたんだろう?もしかして古代天皇の系図には世代の
省略がいっぱいあるの??
>「シヒ」を「師飛」と
>ヒメミコが中国人にはヒミコに聞こえたらしい
例えば卑弥呼は、上古音なら「ピエグミルハグ」、中古音(呉音)なら
「ピェミェホォ」みたいな発音になるはずだが、
後漢の時代には漢字の発音は、上古漢語にあった韻母の末尾の子音が脱落して
中古漢語とほぼ変わらなくなっていたという理解でいいかな? 倭迹迹日百襲媛命=西暦200年代の卑弥呼だとして、その兄弟の孝元天皇の
14世代後の人物が400年後の推古天皇ということは、まあありえなくはない。
でも日本書紀は、神武〜崇神までの間に女王が存在したことを認めていない。
中国人が肝心の男王を知らないで王の娘にすぎない女性を女王と誤記すること
がありうるだろうか? >>70
倭とトビモモソ媛は二人の媛巫女を一人の様に偽装させるため名前を合体したモノ。
モモソ媛命は、九州の遠い親戚の物部勢力が大和に侵攻してきて(第一次物部侵攻)
大和の出雲系の信仰(太陽の女神。幸の神。龍蛇神)と物部の信仰(道教。鏡祭祀)
をうまく融合した祭祀を考案なさったようです。
これは神話の天照大神の岩戸開きの際に
榊を根ごと引き抜いたモノ(出雲の信仰、幸の神の主尊(男神)の形代とした)に鏡(物部の祭祀具)の反射面を参拝者側に向け(丸いモノは女神、出雲の幸媛命/太陽の女神の形代とした)ほかを取り付け、、、云々がまさしくそのものらしい。
モモソ媛の後継者がトトビ媛との事(トビは副王家の登美家/大鴨王家、磯城県主家) 徐福が日本に来ていたら漢字や武器食器馬農耕具など当時の中国文化が様々伝わっているはずだが痕跡がない
服装も梁職貢図を見ると中国様式とは全く異なっている
日本に来てないだろうな 天皇は中国人なのか昔から言われてる通り朝鮮人なのか
興味深いですね その時に漢字が伝わってなかったら未開時代がまだまだ続いてたのか 徐福じゃなくて英語圏の人が来てたら日本も英語になってたのかな >>80
そんな二千年以上も大昔のゲルマン人が英語を喋ってる
わけないじゃんてマジレス 徐福&秦氏ユダヤ人説ってのもあるな
徐福=ジョセフ又はヨセフなんてのが
ユダヤ人の埴輪が多数出土してるから
古墳時代にユダヤ人が来訪しているのは間違いない まじかよ中国人に加えてユダヤ人にも感謝しないといけないな 応神天皇なんかは出身とされてる宇佐あたりに秦氏の拠点があるし、母親が渡来系かつ父親が誰かもよくわからないので朝鮮からの渡来系だろうな
神武東征も渡来系が東に攻めたんだろう まぁ見た目からしてそうだもんね
ご先祖様に再び教えてもらった感じなのかな 曹操の鏡と大分の鏡が似ているらしい
これはもう邪馬台国も徐福天皇も全員九州説濃厚よ 徐福は九州の秦王国の開祖かもしれん。
隋の煬帝に対して自らを「日出づる處の天子」と称したのは
九州の一部を支配していた王であって大和政権の大王ではない
と思う。倭国についての隋側の記録でも阿蘇山があるなんて
書いてるぐらいだから隋の使者は畿内には行っていないだろう。 >>99
南方系て説もないかな?でも南方てどこを指してるんだろう。
中国の南方の呉、越あたりかな?和服のことを呉服ていうし。 「日出づる処の天子」は聖徳太子ではない!!
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/hi_izuru.html
崇神天皇は夫余族出身で、天武天皇は天智天皇の弟ではなく
新羅王族らしい。大化の改新で殺された蘇我入鹿は実は天皇
だったそうだ。南北朝時代から江戸時代末期までの北朝は
足利義満に乗っ取られており、明治天皇の正体も大室寅之助
で孝明天皇とは赤の他人だそうだw
九州倭人王朝と秦王国
https://artworks-inter.net/ebook/?p=3156 >>100_>>101
う〜んすごいね、ワクワクする そんなに詳しくないけど、
>>72
千木とか高床式倉庫とか南方系のものが伝わっている
神道で神木とされるクスノキも南方系の帰化植物。神道で神聖視されている木がなぜか外来
朝鮮半島から何か伝わる以前に、中国南部の建築や宗教?が入っている
例えば鳥居のルーツも南方系と言われている
この画像は弥生期最大規模と言われる佐賀県の吉野ヶ里遺跡。鳥の模型が上にはめ込んである
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn%3AANd9GcTDmQ0LxGrwsB0g-qG0Xd82XIDM79NHJXWu0RMmNt_vf8u6sF8H
ちなみに有明海沿岸には徐福伝説が広範囲に残っており、吉野ヶ里遺跡の発展に徐福がいたのではとも言われている 渡来系が多く来てるわけで大陸文化の痕跡があるのは当然の話
焦点は、その渡来系である徐福が支配層であるならば、より効率よく支配できる大陸文化が導入されてないのが謎ということ
馬とか製鉄とか文字とか、絶対に早急に導入するはず >>104
徐福/徐市(フツ)/彦福。
徐福は三千人の童男童女ならびにあらゆる職工ら、更に家族一族を引き連れて
二度目の渡来を果たして佐賀の吉野ヶ里を本拠地(都)に定め城郭(吉野ヶ里遺跡)を構えました。
彼と宗像の市杵島姫が結婚してホホデミとホヤ姫が生まれ、
ホホデミは後の物部王朝(天皇家?)の祖となりました。云々 >>106
徐福って2回も来たの?
徐福天皇が来てくれていなかったらと思うと恐ろしい そもそも徐福は新天地で違う名前を名乗ったので
徐福伝説な時点で全部偽物 やい、お芋!徐福が来て文字や稲作を日本に教えたいう、客観的に信用に足る資料出せやい! 天皇や私たち日本人は徐福の子孫、つまり中国人なんだね
急いで教科書にのせて! ありえないよ。言語学的にも遺伝子的にも。
なぜ、この両方の学問で考えようとしないのか疑問に思う。 縄文晩期から弥生時代にかけて大陸から
渡来人がやってきたと言っても
日本語が残ってるということは、インディオを征服した
スペイン人のように一斉に大挙してやってきたわけでなく、
少しずつゆるゆる入って混血したんだろう。
渡来人のほうが持っていた言語を失ったに違いない。 渡来人はある程度の団体で(職業集団等)やって来た場合でも、基本的に日本語を使い、日本で暮らしたと思われるのです 現代の在日〇△人と同じで、渡来人の子孫も
何世代もしたら母国語サッパリ忘れました
になったんだろうな 魏志倭人伝には卑弥呼だか姫巫女の事が記されてるようだけど、
徐福天皇のお陰で少し言葉も通じたのかな 日本の始祖である徐福天皇の誕生日を国民の休日にする話はどうなったの 皇室に連なる方々がみんな徐福天皇の子孫という事実は悠久の時を感じますね 公にはしにくいよね
何しろ始皇帝を騙したという事になっているしさ もしかして建国記念日って徐福天皇が日本に着いた日じゃないの 天皇家は朝鮮人だとばかり思っていたけど、皇族の方々もこのスレみて驚いているかな
もしくは当人たちは知っていて「ついに知られたか!」という感じなのか >>142
徐福/徐市(フツ)。
1回目の渡来に際しては、渡来の一年前に先遣隊を派遣。
その頭目がホヒとその息子ヒナドリ。
出雲王国の第8代オオナモチ(主王(帝王))のヤチホコ王ほかに財宝物等の贈り物をして取り入り
「秦国から徐福さまが童男童女二千人を率いて渡来するので上陸の許可を、、、」取り付けて、
早速、待機している徐福へその旨の使者を送り、
満を持して徐福ほか二千人らは石見国の五十猛海岸から上陸。
実は徐福は和国の王となる野望を胸に秘めての渡来。
彼は、秦国に滅ぼされた斎国の王族だったらしく、
今回は実は二度目。
一度目は斎国が滅亡から王族らと共に逃避して海に浮かびボートピープルとなって
周防国(山口)に漂着。
海岸でたむろしているところを直ぐに出雲王国の守備兵に見つかり、
予てより不審な者は排除、追い払え。との八重がき(命令/法令)に従って
出雲兵は斎国の亡命者(数百人居たらしい)を排除するべく攻撃。
やっと陸地(海岸)に漂着して人心地付いたのも束の間、陣地を築く余裕も無く行く当ても無ままに右往左往、、、
ほぼ全滅かという中、かろうじて脱出、逃避して再び中国に戻ったらしい。
山口の海岸に中国人らしき人骨が多数発見されたのがソレだとか?
その経験から、件の先遣隊の派遣と大人が大集団で行くと為れば警戒され上陸は困難で有ろうと少年少女らを引き連れて行く事(少年少女とは言え、二千人の集団はいざというときは、、、) わしも源義経が大陸に渡り、ジンギスカンとしてモンゴルの初代統一帝王になった説でも展開してやろかい 源義経は劉邦に利用され天下統一後に殺された韓信と同じでヘタレすぎる。
俺が義経なら頼朝に気に入られていないことを悟った時点で、平家一門と
こっそり和睦して鎌倉に攻め込んで頼朝を殺して、高倉天皇のお后だった
建礼門院や平家の若い女たちを妻にして男子を産ませて、息子の一人を京
都で天皇に即位させ、もう一人を源氏の棟梁にする。チンギスハーンになる
男ならそれぐらいのことは朝飯前。 女好きのチンギスハーンみたく義経も常識知らずで
天皇のお后を平気で犯したんだろうと妄想したいのは分かるけど
いくら義経が高度な戦法を思いついても平家の軍じたいが源氏の
軍より弱いんで… 徐福は徐氏なんだから
日本書紀で徐氏扱いになってる百済王家の方がまだ可能性はある 百済王家が徐氏なら呉の末裔を自称したのも頷ける
徐氏はそもそも長江近くの漁民が北上したグループだから 卑弥呼?姫巫女は九州で、徐福天皇は近畿で栄えたというのが定説になっているけど、
そもそも卑弥呼は徐福天皇の子孫という可能性もあるよねぇ 526名無しさん@1周年2019/10/11(金) 00:06:06.07ID:SifxUvtP0
神武天皇はヤマト政権の始祖で九州からやってきたとした部分が大事。
つまりヤマト政権の「正当性」を九州の何かに置いたわけだ。
新唐書では記紀以前の情報として、
筑紫城に住む天御中主が始祖の王朝があり、その三十二代目の
彦瀲の息子が「神武」。これが大和州に移って統治したとある。
つまりヤマト政権は、遥かに古い筑紫政権の枝であり、
枝分かれしたのが「神武」。だからこの筑紫政権やその関係が
もう少し解明されないと、単なる「伝承」にすぎないことになる。
だから歴史の教科書にのせるとしたらまだ短い記述になるな
【歴史】なぜ戦後の歴史教科書に神武天皇は登場しないのか
“中国の主張”に引きずられる学界・メディア ★3
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1570482790/526 >>180
徐福=神武天皇が成り立つためには、皇室系図にあと
十世代分ほど天皇を加えないといけないから
徐福(西暦3世紀)から第15代応神天皇(4世紀後期〜5世紀初め頃?)
まで600年以上あるから25世代ならありうるけど15世代ということは
まずありえない >>183
間違った
誤 徐福(西暦3世紀)→〇 徐福(紀元前3世紀) 宋史日本伝だと、国常立尊から応神天皇まで26世代
1天御中主尊…13國常立尊ー14天鑑尊ー15天萬尊ー16沫名杵尊ー17伊弉諾尊
ー18素戔烏尊ー19天照大神尊ー20正哉吾勝速日天押穂耳尊ー21天彦尊ー22炎尊
ー23彦瀲尊ー24神武天皇ー25綏靖天皇ー26安寧天皇ー27懿コ天皇ー28孝昭天皇
ー29孝安天皇ー30孝靈天皇ー31孝元天皇ー32開化天皇ー33崇神天皇ー34垂仁天皇
ー35景行天皇ー36成務天皇ー37仲哀天皇ー38應神天皇 神武天皇は日本を導いた偉大な徐福をモデルに後から作られた偶像 徐福が初代天皇であれば、徐福から900年後に
国史が編まれたときに堂々と載せることができたはず
大和政権が先祖の記録を隠蔽する理由が分からない 私たち日本の支配者の先祖は中国人ですと素直に
書くと、中国に併合されるおそれがあるから
我々は日本を作った神話の神の子孫だと誤魔化したのか?
しかし世代数が合わないのは重大だよな〜
2570年前に生まれた孔子の子孫だって
現在90世代、100世代目の子孫とかいてよさそうなのに
自称孔子の子孫は77世代とか83世代とかだからな。
前漢の孔安国は孔子の10世孫、後漢の孔融は孔子の20世孫
だそうだが、その通りには信じがたい
孔子家も天皇家も系図に省略があるのか? いろんなところに「徐」という文字をちりばめるのだろう 古代史の復元 大和朝廷の成立はAD83年
http://mb1527.thick.jp/mokuji.htm
徐福について書いてある
高皇産霊神が徐福の子孫の系統で、神皇産霊神は飛騨王国の系統、
伊弉諾尊は呉の太白の子孫でともに協力して大和朝廷をつくったそうだ >>196
馬鹿右翼と古代天皇を否定する左翼を除くと
古代天皇が生きていた年代と年齢の復元は、
良識ある日本人なら誰もが望んでいること。
過去に遡るほど学者の説にズレが出てくるもので
仲哀〜仁徳天皇以前はまだ修正の(何十年か先に
進める)余地があると思う。安康・雄略天皇以降
の生没年についてはいい数値を出している。
継体〜敏達の五天皇の誕生年はこのサイトのほうが
ほぼ実際の年に近く、Wikipediaなどがそのまま
採用している通説のほうが間違っている。 徐福の宮家の儀は延期になるのかな
でも事情が事情だし仕方ないね 今日も中継の中で中国式の部分が多々見られると言っていたね!
ご先祖様を大切にしている事がよくわかったよ 徐福とは関係無いけどね。大陸文化、半島文化とは関係あったからね
キトラ古墳の壁画の人物絵なんか見ても判るよね 令和になってから凄惨な事件事故や災害続きだけど
徐福家の方々は精神的支柱として元気な姿を見せて欲しい >>196によると
高皇産霊神は徐福の血統であり、天照大神より古い高天原の最高神、皇祖神である。
天照大神は5人ほどの複数の人物をもとに作られた神である。そのひとりが第三代倭
国王日向津姫命である。高皇産霊神は日向津姫命の夫で神武天皇の祖父である。つま
りわが国の初代神武天皇(生没年 AD58頃〜120頃、63歳)は徐福の子孫、しかも
(高皇産霊尊を天孫瓊瓊杵尊の外祖父とする記紀とは違い)男系の子孫である。
第三代倭国王 日向津姫命
正式には撞榊厳魂天疎向津姫命と推定している。瀬織津姫とも呼ばれている。宮崎県の加江田
神社の地で、BC5年頃伊弉諾尊、伊弉冊尊を両親として生まれ、出雲からやってきた素盞嗚尊
との間に天忍穂耳・天穂日尊・市杵島姫を生んだ。その後、出雲に戻った素盞嗚尊と離別し、
高皇産霊神と結ばれ、瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊を生んだと推定している。
第二代倭国王大己貴命の急死後、西倭国王となり、鹿児島神宮の地で西倭国を統治し、海外と
の交流を活発化し、九州地方一帯の未統一地域を統一した。高皇産霊神との間にできた3人の
子を飛騨国の娘と結婚させ、日本列島統一の基礎固めをした。串間市でAD70年頃亡くなり、
王の山に葬られた。神武天皇の祖母にあたり、神武天皇と共に九州からやってきた人々の崇拝
対象になっていたと思われる。記紀神話の中の天照大神の具体的行動伝承は、この人物のこと
であろうと推定する。 冗談じゃない。中国系の天皇家より縄文系の飛騨王国ウガヤ王朝
のほうが歴史が古いじゃないか。 というわけで西暦2019年は
飛騨王国暦 3719年
従来のデタラメ皇紀 2679年
狗奴国暦 2492年
高良国暦 2229年
修正皇紀 1937年
に決定しました 徐福は初代天皇→間違い
徐福は初代天皇「の先祖」→正しい 天照大神様は永遠の処女だと信じていたのに嘘だったのか
徐福の子孫の男が天照大神とセックスして生れた子供が
神武天皇のお父さんだって?うらやまけしからん なに?いつの間にか我らの徐福天皇は天皇から神に昇格したの 天照大神だって女なんだから愛した男神の一人や二人
いたはずだよ。それが素戔嗚尊と高皇産霊神だっただけ。
皇祖神は女神だから女系天皇を認めろとかいう議論以前に
常識で考えて太陽から人間が生まれるはずがないし、天皇の
先祖というからには誓約で口から神々を産みだした、しかも
自分が産みだしたのは女神で、女神を素戔嗚尊に与え、素戔
嗚尊が口から産みだした天忍穂耳尊ら男神を自分の子として
育てたという神話のほうが非現実的で、自分の両親がそうであ
ったように、素戔嗚尊か高皇産霊神のような男神とセックスし
て天皇の先祖となる男神を産んだという話を残せば良かったんだ。 >常識で考えて太陽から人間が生まれるはずがないし、
ここで考えられることは次の二つ
1.神話の中の神から人間が生まれるわけがないから、
神武天皇は本来どこの馬の骨とも分からない人物(九州に
出自があることは確からしい)で彼、もしくは彼の子孫が
天下を統一したとき先祖は太陽の神で、さらにその親は
日本の島や山川草木を産んだ神々であるという神話が作られた。
2.神とはもともと人間で、記紀編纂者は神武天皇の先祖たちに
神々の名前をなぞってつけて創世神話を創作した。 言うまでもなくこのスレの皆さんは
女系天皇には反対するよね
二千数百年続いた徐福王朝の血統が
絶えてしまうんだよ >>196にあるように、神武天皇から1937年続いてる
時点でわが国の皇室はギネス認定もの。神武天皇が徐
福の血統であろうが朝鮮人であろうがそんなことは些
細なことだ。 中国大陸の人も朝鮮半島の人もこの二、三千年の
間に侵入してきた民族と混血しているのであって
現代の中国人、朝鮮人、日本人というのは二、三千年
前に同じ場所に住んでいた人間とは別人種なんだよ やはり免許証には「徐福の宮徳仁」て書いてあるのかな >>245
中国北方の漢民族や朝鮮人は騎馬民族と混血しまくりじゃん。
遼・金・元のような征服者の遺伝子が相当拡散されてるよ。 >>251
やはりそうだよ
アジア圏は徐福の子孫と言える 蘇我氏とか大陸から渡来した一家が、国の中枢にいたということは
天皇に随行して渡来した可能性もあるのではないか。 徐福そのものが天皇じゃなく
徐福の末裔だね 又は信者
徐福が佐賀県上陸なら末裔が倭国を起こし九州かな
秦の始皇帝時代の徐福が天皇だと辻妻合わなくなる 大河ドラマ化もいいね
徐福天皇に感謝する人が増えそう いよいよ徐福の宮家のパレードだね!
日本の、いや極東アジアの平和の象徴 大河には大抵戦争がつきものなんだが、徐福は神武天皇
みたいに東征して武力で建国したんじゃなくて平和的に
日本列島に国を作ったって設定なんだろ。戦争の描写って
ほとんど中国大陸のものしかないじゃん。
浦賀に来たペリーを大河ドラマにしようというのと一緒で
紀元前278年頃生まれの徐福の日本での生活は彼の人生の
1割にも満たないのであまり見る価値がなさそう。 「天皇」の称号は天武天皇から。
それまでは大王(オオキミ)
しかし、奈良時代〜になっても天皇と書いて従来通りオオキミとよんでいた。
スレの表題の件は、全く違います。
徐福は二度渡来して、
一度目は出雲王国に至り、ホアカリを自称。
出雲王国の乗っ取りを企てて出雲王(いわゆる、大国主神)と副王(いわゆる事代主神)の二方を拉致誘拐〜幽閉して殺害するクーデターを起こしますが結局は失敗して
出雲王国側の反撃を受けて妻子や引率してきた二千人の配下を置き去りにして
母国に逃げ帰りました。
二度目は三千人を率いて九州の有明海に入港して、佐賀の吉野ヶ里を本拠地に定めてニギハヤヒを自称(ホアカリは出雲王国から極悪非道な重罪人として全国指名手配。捕捉したらソッコー殺害オーケー)して帰化しました。
ニギハヤヒを自称した徐福は宗像のサヨリ媛命/市杵島媛命と結婚して、
ホホデミとホヤ媛命が生まれました。 >>268>>269
ここはやっぱり>>196をもとにして
春秋時代の呉の亡命王族や徐福とその子孫たち、朝鮮半島から来た
素戔嗚尊によって日本という国が作られる、五百年とか一千年の歴
史をドラマ化したら面白いと思う。
神武天皇は徐福の子孫、伊弉諾尊や天照大神などの神々も神話中の
空想上の存在でなく実在した人物という設定。天照大神こと瀬織津
姫が素戔嗚尊や高皇産霊神と夫婦生活を営みせっせと子供をこさえ
るシーンは…さすがに子供には見せられんな。 天照大神がセックスするという話がそんなに大好きなんですか?
神話でオナニーするあなたの脳は下(しも)にありそうですね 素戔嗚徐福説もあるから
徐福と子孫で役割を分担すればいい 有識者達は男系じゃないと徐福家の血が薄れるから反対なのかな 他にも徐福家の子孫を名乗っている人いるのかな
徐福公園のそばとかにいそうなイメージあるよね 馬鹿すぎやろ 徐福の時代つまり始皇帝の時代、中国では始皇帝が命じた焚書が知られるように 漢字を使いまくってた
日本国内でそんな 古代から漢字が使われていたという証拠は出てきていない 全く出ていない まったく無いのだぞ? 「事実でも言っちゃいけない事がある」と主張する勢力は存在するから >>290
そもそも徐福が徐福を名乗ってないんだから 中国本土に残留する親戚に
「始皇帝から睨まれるとわるいからお前たちも姓を変えた方がいいぞ」
と言って旅立ったからな
だから中国では徐福の血縁で徐姓のものはいない え!ちょっと待って!
じゃぁ日本が正統な中国って事なの!? 日本を姫国と呼ぶ人もいたからね
周王朝の後裔という意味だ 今の中国よりは今の日本の方が古代中国に近いでしょうね 天照大神は悪魔悪鬼悪神魔王
キリストの悪魔=天照大神
仏教の第六天魔王=天照大神
外道の悪神=天照大神
日本を内側から脅かす悪鬼=天照大神
天照大神は戦争を望み廃仏毀釈を望み光害と干害を与える悪魔そのもの
決して善神ではなく悪神の象徴
ただアメリカに殺された天照は敗北神の末路を辿り無間地獄に堕ちた ゙'. '.;`i i、 ノ .、″
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: `‘"`―---------‐ヽ``"''''''"" 出雲王国(約四千年前にインドから渡来したドラビタ族がBC-660年頃に建てた我が国初の広域統一王国。17代/約700年弱の命運)の8代オオナモチ(主王)の御代に徐福が二千人もの少年少女ら配下を伴って渡来。
もとより、秦の始皇帝の不老長寿の仙薬探しは方便で自ら王となる野望を秘めての事。
ホアカリを自称した徐福は先ず、王家の内親王(王女)との婚姻を望み、許されて
高光媛命がホアカリ(徐福)に降嫁。
此によりホアカリ(徐福)は出雲の神族(王族)に易々と成り上がりました。
あとは、オボコの箱入り媛とせっせと子作りに励んだ甲斐があって早々に御子が生まれました。
ホアカリ(徐福)は御子に父親の徐猛(天押穂耳)の名を貰い「五十猛」と名付けました。
少年少女とはいえ二千人もの勢力を保有するホアカリ(徐福)らに警戒していた出雲王国が
親戚となり、御子の五十猛まで生まれた事にいよいよ警戒が弛緩します。
それを好機と予てより秘めていた野望を露にして >>
それを好機と予てより秘めていた野望を露にして
前代未聞、驚天動地のクーデターを起こしました。
配下のホヒがオオナモチの八千矛王(神門臣王家)を言葉巧みに誘い出して薗の長濱でいきなり拉致誘拐〜猪目洞窟に幽閉。
時を置かずにホヒの息子のヒナドリがポーカーフェイスを装い出雲王国のスクナヒコ(副王)の八重波津身王(富王家)が滞在中の三保に急行して
オオナモチの八千矛さまが行方不明になりました、
スクナヒコさまの出御を仰ぎ共に捜索を、、、
八重波津身王が急ぎ、迎えのヒナドリ(賊とも知らず)の船に乗ったのが運の尽き。
粟島の付近に御座船が至った時、
徐福配下の海童らがいきなり現れて取囲み八重波津身王を拘束。拉致して粟島の志都の窟に幽閉。
哀れ、光輝満てる大出雲王国の八千矛王と八重波津身王お二方共に餓死させられました。
、、、徐福や配下ら(秦族)の子孫たちが二方(大国主神、事代主神/大物主神/少名彦神)の祟りを非常に恐れた理由です。
しかし、出雲王国は直ぐに態勢を建て直して極悪非道の賊らに対して反撃に転じると直ぐに鎮圧平定。
実行主犯人の「ホヒとヒナドリ」親子(出雲国造家の祖)は捕縛されてキツイ尋問に真相を全て自白。
首魁のホアカリ(徐福)には拘束、捕捉次第殺害命令が出て
徐福の身辺を出雲兵が付け狙う事態に
徐福は堪らずに妻子と配下を置き去りにして母国の秦に逃げ帰った。 >>325
>出雲王国(約四千年前にインドから渡来したドラビタ族がBC-660年頃に建てた我が国初の広域統一王国。
>17代/約700年弱の命運)の8代オオナモチ(主王)の御代に徐福が二千人もの少年少女ら配下を伴って渡来。
初代から8代目で450年も経過してる王朝とか世界広しといえどなかなかないぞ。
一世代何十年だと思ってるの? 近世・現代人は古代や中世の人より長生きで子供を作る年齢が
遅くなる傾向があるが、初代が即位して17世代目が退位するor死ぬまで
大抵400年〜500年あたりに収まるものだ。この間大抵傍系継承
もたくさん含むのが普通で親子継承が17世代も順調に続くことはまずない。
日本皇室
敏達天皇(在位572〜585)…後三条天皇(在位1068〜72)500年
後三条天皇(在位1068〜72)…後花園天皇(在位1426〜64)396年
後花園天皇(在位1428〜64)…大正天皇(在位1912〜26)498年
イギリス王室(ヨーク朝〜ウィンザー朝)
エドワード4世(在位1461〜83)…ジョージ6世(在位1936〜52)491年
中国 周王室
釐王(在位 前682〜前677)…赧王(在位 前315〜前256)426年
秦王室
景公(在位 前577〜前537)…二世皇帝(在位 前210〜前207)370年 出雲王国では王様が死ぬときっと生まれたばかりの赤ん坊か幼児を連れて
来て跡を継がせていったんだろう。ダライラマに近いのか?
それなら17代700年もありなくもない うがーい、手洗い、にんにくらんおー
うがーい、手洗い、にんにくらんおー
あーあ、ばーちゃんにゃかなわない >>! 咸陽宮や臨淄ら城壁都市と吉野ケ里遺跡 比べたらありえないって分かるよな?
瓦屋根も奈良の時代まで我が国には一切入ってきていない
これだけでもありえないと分かる 神武東征の時に討たれた長髄彦とその弟(若しくは息子)の安日彦が徐福の子孫であると考えている人はいないの? >>334
さすが朝鮮人 やることが違うというか自分から自白w >>334調べたらなんJのやん
>>336も騙されてバカやなぁ え?なに?山東は中華でも朝鮮でもないの?天皇は山東人なの
くわしいひといるね 東南アジア、中国南部、山東半島、朝鮮南部を通って来た呉人 いじめの責任を公然と被害者になすりつける
大阪府三島郡島本町が
日本全国に与えた悪影響は測り知れない 神武天皇が掛けた日本不滅の呪い。世界最長国、日本の作り方。現世編
神武天皇は、どうやって国を作ったのか本当のところを諷歌倒語を使って隠し、禍を払って、古事記や日本書記の元となる伝承を作り、自分が作った国がいつまでも続くように願いを込めて呪いを掛けて、現在まで続く日本の最初の一歩を築きました。
https://youtu.be/kjXrKv5M1XU 日本書紀の神武東征の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だと地理学、土木学で証明済み。
神武天皇の橿原宮跡地とされる橿原神宮の地下から出土した縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木をC14年代測定した結果、約2700年前のものだと考古学で証明済み。
明治時代に設定された宮内省による陵・古墳の比定が間違えているという落ち。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み。
さらに言うなら、古代の日向は現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域だった。
つまり、約2700年前に神武東征によって南九州から稲作と弥生土器などの弥生文化が日本中に普及したことになる。
邪馬台国=大和国 (三国志において台=ト)
卑弥呼=神功皇后
台与=豊姫(神功皇后の妹) (三国志において台=ト)
興台産霊=コゴトムスビ (日本書紀において台=ト)
倭国大乱=三韓征伐
終わり 古代の長寿の天皇を直接調べてない時点で話にならんでしょ
タイムマシンで過去を直接観測しろよ
ガチで↓だから
大麻を食べていたから寿命が今よりも長かっただけ
大麻を食べる儀式を外に出してから天皇の寿命は今と変わらない長さになった
外に出した大麻を食べる儀式は老いを嫌う皇族の女が担当した
若いままか確認するための鏡を添えて
だから伊勢の隣の伊賀で大麻育てていた伊賀忍者と神宮大麻 混乱してきた
稲作はやまとたけるのみことより早いっていう事なの じゃぁ稲作は徐福以前に朝鮮の人達が教えに来たって事なの 佐賀県・吉野ケ里の遺跡を見たことあるだろう
何千人も載せて、始皇帝の援助を受けた秦国の船団が来てたら、古代日本の建築があんなショボくなるわけない
吉野ケ里の建築は始皇帝・徐福の時代より数百年後と言われるけど、始皇帝の時代の大陸では城壁都市がすでに当たり前だった
城壁やレンガが当たり前に使われてた大陸と比較するとショボすぎる吉野ケ里等
建築見るだけで徐福渡来はありえないって理解できるはず 徐福が連れてきた武人や技術者ら大人たちは船が沈没かお互いに殺し合いになり滅んだのでしょう
すでに先住の渡来系もいたでしょうし 技術レベルは後退してしまいました 渡来人同士で争ってしまったのです 秦が滅ぼした楚や斉からは、大陸内は無理なので船で逃げ出した有力者の一族もいたでしょうし・・・
彼らが先に来ていれば徐福など皆殺しですわ 徐福は正式に始皇帝の物資・資金援助を受け、工員など技術者をも引き連れ、格式も高く、秦国王家のミッションを果たすべく、最高水準の技術レベルの集団として準備万端で日本に乗り込んだと思われますし
徐福集団が来てその先進的な技術が南北九州で伝搬していれば、数百年後の卑弥呼の時代には少なくとも平地の住民は竪穴住居ではなく、一般の農家でも高床式の住居に住むとかしてたのでは・・・ 徐福の何百年も前から海に逃げて海流と風のタイミングが上手くいって九州に流れ着いた
中国沿岸部の諸勢力の遺民が何度も流れ着いてることだろう。
殷の時代の九夷、周の時代の東夷、徐、春秋戦国時代の呉越。
一度に数人から数十人規模の漂流で先住民に滅ぼされたり同化しながら
3000年前から2000年前の千年間で実力を付けたのだろう。
とはいえ古墳時代になっても縄文文化は色濃く残ってたから
中国渡来系同化勢力と縄文勢力が緩やかに融和して連合の形で大和王権になったと推察する。 遣隋使・遣唐使の出入り口であった浙江省が当時の船で行き来する際の
ベストポイントであったように、それ以前も海流と風の観点からこの辺の地域が
有史以前の日本と中国の接触の起点だと思われる。 え?
遣唐使船だって朝鮮半島沿いから対岸の山東半島辺りに渡り、それから海岸沿いにやっとそこまでたどり着く感じだよね
真っ直ぐじゃないよ >>18
妄想だらけじゃん
時代と知力を考えたら地方の一豪族になった可能性はあるけどな、中国船で近畿まで到達するのは無理
そして上陸して陸路を使うなら長崎か福岡発で何代もかかる >>1
徐福が日本に来たとか後世の捏造、大体現在の
日本人の中に古代中国人の末裔が1人も居ない事は
遺伝子解析で明らかなんだから、徐福一行が日本に
来てないのは明白、恐らく中国の何処かに隠匿してたんだろう。 コラコラ
日本人と同じD系統の遺伝子は世界に点在していますので・・・
適当なこと書かないように >>383
何処が適当なんだ?中国人と日本人の遺伝子は似ても似つかない
完全な別物別民族なんだから、徐福の子孫が実在するなら直ぐ
分かる、徐福一行の子孫が日本に居ないのは明白、お前こそ
誤魔化そうとするな。 中国人とは?
斉の国は羌族が主体だったとかも知らない人ですよね
D系遺伝子で調べる気すらないとは・・・ 稲作を日本に持ち込んで開始した連中もいる、稲のDNAが似ているのは・・・ >>380
遣唐使船の出入り口は山東半島の南の浙江省ニンポー
それから数百年後の明の時代の明の世界地図でさえ
日本列島はだいぶ南にあると認識されていた。
ずっと浙江省ニンポーから出入りしてるから日本列島がその近くだと思ったんだろう。
海流と季節風の概念がないからな 徐福も出航地は浙江省寧。古代中国水稲の北限も浙江省。
春秋の呉の支配地域も浙江省、漢代の呉が和を探そうとして台湾の東に船を出したのも、
魏が和に王号授けたのも浙江省の呉の東に和があると錯覚して呉を牽制する目的。
三国志時代の魏が金印を認めた異民族のもう一つは蜀の西隣の大月氏国 >>387
確かにそうですが、九州から直行ですか?違いますよね
航行の流れの話です 最終的な目的地を目指す際に中継地は必要でした
大陸の歴代政府は朝鮮半島を植民地として直接統治していたこともあれば朝貢を受けている時期も長い なので、最初は半島沿いにいくのです
卑弥呼の時代には帯方郡大守が使節を送ってきたり、将軍が応援で来て記録あり
時代を問わず商人たちが貿易で頻繁に訪れていたのは言うまでもない
明の政府だって九州の位置ぐらいは正確に知ってましたよ 四国の位置がおかしいとか全体は把握して無くても >>389
遣唐使船が朝鮮経由で行ったのは35年だけ、直行ルートは136年間。
その後中国の商船が直接日本に来るようになったこともあって遣唐使は必要なくなった。
明の古地図は明らかに現実の地図とは別の物しかない。
そもそもほぼ正確な地図を作るのはそれより数百年後の科学的知識がなくては無理だから。 寧波市(慈渓)を候補地としている者もいるが、中世には日本と宋・明の交易で栄えたとはいえ、秦代では会稽郡に過ぎない。
ありえないんだよ。妄想もいいかげんにしろよ。 やはり巨大な始皇帝像が立つ山東半島しかありえない
沈没リスクを考えれば、これより南は危険すぎる。
浙江省寧波市が国際貿易港として栄えるのはもっと後世の時代だ。
秦の時代ではありえないわけなのね。 >>391
秦の時代の上古音を操る渡来系の技術者が奈良に来て建設事業に関わっている 時代が違いすぎるので、半島で数百年を過ごして渡来して来た徐福船団の子孫だろうという説があり、正解な気がする
徐福は始皇帝の公認で皇帝の船団として出港した。
数百人の児童や専門の技術者達、護衛の兵士らと兵器、建築機材、各種の食用植物の種や農耕器具など、巨大な荷物を積んでいる船団だった。
普通の船団ではない、沈没リスクはできる限り避けるだろう?
そのためには渤海に近い航路で黄海を渡り、半島沿いに南下したと考えるのが普通。
つまり山東半島の渤海側から出港したわけ。「江蘇省から〜」など、この時代にあるわけない。
半島にはこの時代に大陸系の住人が住んでいる地域もあった(大陸の文書に記録あり)
徐福がそこを目指し、期間はわからないが滞在したと考えてもおかしくないわけなのね。 江蘇省も浙江省もこの時代ではありえないわけ 直行とかするわけがない
時代と積載量を考えろよと言いたい 隋の使者が見て、華夏と同じと記した[秦王国]は徐福と関係ありそうだが、時代が違いすぎるのに秦って?
どこで残党が生き残ってたの 徐福が来てたら漢字文化持ち込んでるっての 全くそんな痕跡出てこないのに驚きしかない
やっぱり秦人が集まっていたという辰韓にいっちゃったのかな 徐福来てなかったら、日本には今でも文字がなかった可能性 徐福がきた証拠はないし日本語も話せなかっただろうが楽浪郡、帯方郡から漢人が渡来していた記録はありますね。 妄想に過ぎない 道士が天皇になる道理がない 後の天皇は徐福の子孫を名のっていない
漢字なんか使ってた証拠は1ミリも発見されてない 数百年後の卑弥呼の時代ですら墓に金石文なし 嘘はやめよう 稲作伝授
長江あたりのタイ族系の渡来民が持ち込んだ
でも縄文時代から稲作も徐々に始まってる 一通り調べてみた(徐福について)
まだ完知の3%くらいだけど
http://gdmoment.livedoor.biz/archives/34890945.html
>>412
そうなの?
だとしたら富士山に天照大神の高天原があってもおかしくないし、徐福はそこを蓬莱山としたとか
富士山は不死山らしい
>>1
徐福は僕もう疲れたよっていって
日本に住んだんだわ
神農の子孫と富士山で会ってる 三_,____
三/ __` ヾ),_ 〆ミ ⌒ ヾゝ\
三/〃 (⌒゛`ヾv"ヽミ、 /キンマンコ\:\
三i / /´ _ニ=-=ニ .i l| .| ミ:::|
三| 彳 〃_. _ヾ!/ ようやく滅びたかw ミ|_ ≡=、´ `, ≡=_、|;/
三| _ !" ´゚`冫く´゚`l . . ||-★-| ̄:|-☆-ヽ-/ヽ
三(^ゝ " ,r_、_.)、 | ,rっっ偽イルボンの国主め!|ヽ二/ \二/ ∂>
三ヽ_j 、 /,.ー=-、i リ .i゙)' 'ィ /. ハ - −ハ |_/ <マハーロー!バカヤロー! アイゴォォォ!!!
三/\_ "ヽ ^ )ソ { ) 丿 | ヽ/__\_ノ //ノ
三三 ` ー--ィ´ヽ/'ニ7 \、 | ||.|ヽ_|;////
三"⌒ ヽ / \i il∧∧|:: レ/ノ // /_,. -;=
三 平成日帝 / ../⌒\〆★ヽ ̄ // '-'"☆`" <-‐ニ‐"
三 ィ二 ___|__ ___ _____ / ノつ;∴\∴;’,・ へ★ "`" <-‐ニ‐" \
三::.:::三::三ンィ⌒ ̄" ̄ ̄ ̄  ̄ ̄  ̄ ̄ ̄  ̄ ̄  ̄ ̄ニ≡─‐ー-,! とノ/ / とノ\ ヽ○0o
三::.::.三 三/ ≡''=三≡ ;;;;(( 三iiii_iiiiiii)))))i..-) / \´ )゚
三::::.三 三 _____=≒=ー────;‐‐ ..o0 ヽ  ̄" ̄`' * | (_ノ
''三三 三、 ー ィ⌒/ \___ノ、___ノ@←真心の「1円財務」
http://stat.ameba.jp/user_images/20190206/20/march001001/19/f1/j/o1080056614351653655.jpg 縄文人と弥生人(弥生人倭人説)
スンダランド(今のインドネシア辺り)にいた人類→縄文土器を作る→南方の島々から約1万5千年前に鹿児島南端に辿り着く→日本列島最初の縄文人
スンダランドにいた人類→揚子江河口まで移動し漁業を営む倭人になる→近隣のミャオ族などの少数民族(稲作開発者)の影響で半農半漁民になる →黄河流域の漢民族の勢力拡大に圧迫されて、船で中国沿岸部を北上→朝鮮半島の西岸を船で南下→朝鮮半島南岸から対馬に渡る→青銅器を携えて約3千年前に九州北部に辿り着く→日本列島最初の弥生人(中国や朝鮮半島沿岸付近の部族の文化的遺伝子的な影響はあるが、北方中国朝鮮の影響はない)
縄文人と弥生人がゆっくり時間をかけて(約500年間)平和的に統合
→国家成立前に日本人の原型が形作られる
稲作による疫病を恐れた縄文人のグループ→弥生人と交わらずに北上→オホーツク沿岸部の文化の影響を受ける→鎌倉時代にアイヌと呼ばれる文化になる
ちなみにゾミア(東南~インド中国の丘陵地帯)にも漢民族の圧迫から避難したミャオ族などの少数民族が混在していたからか、日本人とチベット人には遺伝子に共通点があるw
結論
縄文人と弥生人は日本に来た時期こそ違いはあるものの、ルーツは同じスンダランド系なのでお互いに文化的遺伝的な親近感があり、大規模な戦争やジェノサイドが起こらなかったのが重要なポイント。 1.考古学、遺伝学、文字で書かれた史料、現存する文化習俗など全てにおいて、外来勢力が在来勢力に対して大規模戦争したりジェノサイドして日本列島を征服した痕跡がどの時代にも一切ないこと。
2.日本書紀は今のモンゴル辺りで誕生して高句麗経由で入って来た天孫降臨神話(タカミムスヒ)と縄文・弥生期以来の神話(イザナキ・イザナミ~アマテラス・スサノオ~オオクニヌシ)の二元構造になっており、高句麗の王権神話が天孫降臨神話一元構造なのとは対照的である。8世紀になってもなお縄文系が相変わらず強い勢力だったので、それへの配慮が日本書紀の編纂に大きな影響を与えたと考えられること。
3.日本では7世紀まで父系出自集団は存在しないのは古代史の定説になっているので、父系制=血統主義の部族が日本にやって来たとしても、以後は双系性になり血統の連続性は絶たれてしまっていること。
4.古今東西どの部族にも何らかのインセストタブーがあり、他部族と交わらずに近親婚を繰り返しての人口増加や勢力拡大が困難なこと。
5.紀元前の日本にまだ文字がない頃に中国では既に代数の初歩レベルまで到達。そして江戸時代の関孝和の和算は当時世界最先端の数学。
つまり文明度でようやく日本が中国に追いついたのは江戸時代なので、江戸時代までの文化の伝播の方向性はほぼ中国→日本だったこと。
6.朝鮮半島から対馬は肉眼で見えるほど距離が近くて容易に行けて、対馬には日本神道の原型祭祀と思われる神社が多いこと。
7.日本列島は自然に恵まれ食料が豊富な上に、大陸と距離が離れており日本海も海流が速いので、攻め手側が圧倒的に不利な天然の軍事要塞に等しいこと。また渡来人も国家の圧迫から逃れて来た避難民や王朝交代時の政治亡命者や難民であり、予め征服の強い意志を持ち計画的に日本に侵略して来たのは元寇が最初だったと推測されること。 以上の7点から渡来人は入って来たけど、大規模な戦争で征服したのではなく、主に婚姻を通じてゆっくり時間をかけて対等な立場で平和的に縄文人と統合したと考えられる。
その渡来人は元々長江河口に住んでいた半農半漁民だった倭人。漢民族の勢力拡大の圧迫により、中国海岸と朝鮮半島海岸を船で移動した(強敵のいないこのルートにならざるを得なかった)。当時は平均寿命は短かったので、日本列島に到着する頃には何世代もの世代交代が進んで、中国沿岸部や朝鮮半島沿岸部の文化や遺伝子が混交し、長江河口に住んでいた頃よりかなり雑多な部族になっていた。
その倭人は日本列島で約500年かけて平和的に縄文人と統合するが、統合後でも元倭人の社会が形を変えて大陸や朝鮮半島に残っていたので、その人的ネットワークを通じて仏教や律令制度などを比較的スムーズに日本に持って来ることが出来た。 日本には7世紀までは父系出自集団が存在しないのは日本古代史の定説になっているので、早くても8世紀以降、現実には名実ともに父系制に日本がなったのは平安中期頃だろう。その時代に血統を強く意識した文学作品、源氏物語も生まれた。
それ以前の日本は双系制とみて良い。
というのも仏教伝来以前の日本の宗教は呪術であり、呪術の力こそが王権の正統性になっていたからだ。
ところが3~4世紀頃にモンゴル原産で朝鮮半島経由で入って来たある思想が日本列島に大衝撃を与えた。
天孫降臨神話、父系制、血統主義のセットである。
その先進性に衝撃を受けた大王家では後に崇神天皇と呼ばれる首長が先ず父系制を導入した。
ところが当時はまだ呪術の力が大変強くて理念倒れとなり、仏教が伝来して呪術の効力が低下し始めてから、徐々に父系制が日本列島に浸透していった。
だから古墳時代の数世紀は王権の正統性が呪術から血統主義に移った不安定な過渡期と考えられる。
まあ日本特殊な事があるとしたら、弥生人でも古墳時代からの渡来人でも、在来勢力と大規模戦争して征服した痕跡が全くない事だね。
おそらく日本に来た連中は、当時国家の圧迫から逃れて来た避難民や中国、朝鮮半島の王朝交代時に発生した政治亡命者や難民などの烏合の衆がメイン。だから征服される事なく、先進技術や文字文化だけを上手いこと摂取する事ができた。
それと縄文人は弥生人よりも1万年以上前に日本列島に来たアドバンテージがあった。それは日本各地の聖地を最初に支配出来たこと。聖地とは世俗的な力が及びにくい場所。地形や自然環境に左右されるので、かなり限りがある。地形や自然環境などは100年200年で変わるものではないので、縄文時代の聖地がそのまま古墳時代の聖地にもなっていただろうし、埋め立てなどで地形が変化した場所以外は現代でも大体一緒。少なくとも仏教伝来までは呪術に王権の正統性があったので、有力な聖地を支配していた縄文人は、先進技術は渡来人に劣るものの、呪術の力で上回っていた事で優位に立てた。
仏教が伝来すると縄文人の聖地に寺を建てるんだよね。本地垂迹とか言って、それからは神仏習合が日本では一番歴史的に長くなる。 また記紀神話の内容自体にも日本の特殊性は特にない。
神話自体は大昔には世界各地に似たようなものがいくらでもありふれていた。むしろ記紀神話の特殊性は記紀神話を編纂出来た事に尽きる。
あの当時でも縄文人みたいな国家を造らなかったタイプは淘汰されたか、辺境にしか居なくなったからね。
それが日本にはまだ中枢近くにいた。
ところが中世後半になってくると、被差別民というネガティブな存在になっちゃう。
それでも縄文勢力が強かった東日本では近畿に比べて極端に少なく、鎌倉時代には皇族が移り住んでた鎌倉の一区画にしか被差別民はいなかった。
東北にはほとんどいなかったし、明治になって日本に組み込まれた北海道沖縄ではゼロ。
しかし日本文化のメインストリームに縄文文化ががっちり組み込まれたおかげで、20世紀に日本が先進国になっても縄文的感性は失われていなかった。
アニメやゲームのキャラ、ゆるキャラ、萌えキャラなんかはそれこそ縄文時代の土偶を現代人の美意識にバージョンアップした様なもので、クリエイター個人の
才能だけでは説明できないほど量産されている。
実際に外国人にはなかなかこういうキャラは作れないんだよな。欧米人だけでなくアジア人も不思議なほど作れない。日本では可愛いキャラだらけ。
他の先進国でも、北欧のサーミ、カナダのエスキモー、アメリカのネイティブアメリカンなどいるけど、メインストリームから隔絶された劣った文化に見られている。そこが縄文系との違いである。
もう縄文人はいないけどね。 崇神天皇から十代遡ってもせいぜい紀元前一世紀くらいまででしょう
徐福は紀元前三世紀の人だから時代が合わない