中3春…ソフトBドラ2高橋をアンダースローに改造したのは「佑ちゃんの同僚」

中学時代は地元の強豪「流山ボーイズ」に所属した。同学年18人のうち6人が投手。
当時オーバースローの高橋の位置付けは3番手程度だった。きれいなフォームから投げる球は素直で打ち込まれるシーンが後を絶たなかった。
中学3年の春。「0か100。でも、懸ける価値はある。横回転の方が合っている」。
コーチの新佐古剛人はアンダースロー転向を迫った。早大で斎藤佑樹(日本ハム)らとプレーした経験を持つ青年コーチの脳裏には、高橋がゴロを捕球した際に、ターンして横手から投げる球の勢いが焼き付いていた。
「投手を続けるにはやるしかない」。登板機会に飢える高橋に、迷いはなかった。

進学した千葉・専大松戸高の監督は、茨城・藤代高、常総学院高などを春夏7度甲子園に導いた持丸修一だった。
2年冬。高橋は再度、オーバースローにするよう持丸に命じられた。ただ既に横回転の投げ方が染みつき、上手から球威ある球は放たれることなく、2週間で断念。
3年春、エースとなった高橋の活躍もあり同校は千葉大会で準優勝し、関東大会で4強。
甲子園初出場が期待された夏の千葉大会、準決勝の相手は木更津総合高だった。2−2で迎えた延長13回、高橋の213球目のスライダーは外角に外れ、押し出しでサヨナラ負けを喫した。

燃え尽きた高橋は野球をやめ専大では別のことをしようと思っていた。
だが、その別のことが見つからなかった。1年秋にデビューし1部昇格に貢献すると、ストッパーを務めた2年春は昇格即優勝の瞬間、マウンドに立っていた。
一躍脚光を浴び、韓国・光州でのユニバーシアードに出場した日本代表に2年生投手で唯一選ばれた。
順風満帆に見えたが3年からぱたりと勝てなくなった。
意気消沈した右腕の支えになったのがロッテで通算87勝を挙げた渡辺俊介だ。

専大監督、斎藤正直の人脈で、学生野球資格を回復したアンダースローの“先輩”の指導を受ける機会を得た。「初めて全てを受け入れられた」。
カーブを伝授され球速も141キロまでアップ。
188センチのサブマリンは発展途上。球界の絶滅危惧種はまだ息絶えそうにない。