コリアンは何に関心を持たなかったのか。法治と文化だ。法治がわからないので、弁護士出身の盧武鉉元大統領さえ昔の親日派の子孫から財産を没収してしまった。無実の証拠が挙がっているのに、加藤達也元産経新聞ソウル支局長を裁判で見せしめにした。

 文化はシナ文化しかなかったのでこれもよく分からない。だから柔道も剣道もウリ(自分たち)が起源だと、文化音痴なことをいう。これが俗にいうウリジナルだ。民族にとって歴史上関心を持たなかったものについては、今に至るもよく分からないのである。

 韓国について、日本に贖罪(しょくざい)論と同情論しかなかった1990年代、どちらかに寄り添わなければ編集者に本を出すことも拒まれていた時代背景を無視し、私を変節漢のように非難するブロガーがいる。こういう人は考えていないのだ。

 ついでに言っておくと、私は今でも韓国の地形と歴史に同情している。

≪民間にこそ知性主義は胚胎する≫

 ブロガーも知識同様、玉石混交だが、日本にはもともとそのような人々が伝統的に多数いた。荻生徂徠が論語を解釈した『論語徴』(宝暦10年)なる書物を著すと、たちまち洒落(しゃれ)者が『論語町』(跋文(ばつぶん)は虚来山人)なるパロディー本を出して茶化(ちゃか)すのである。

 もちろんその実力は相当なもので、漢学の素養は抜群だ。私は日本のそのような伝統を「茶化」と英語の  tease(からかって悩ます)にかけ、Teazation=ティーゼーションと呼んでいる。

 日本の伝統文化には、外来の理論や理想に対する反骨と挑戦の態度が始めから胚胎されていたのであり、朝鮮では猖獗(しょうけつ)を極めた朱子学も民間のティーゼーションによって矯(た)められたのだった。

 だから左翼や「遅れてきた勉強家」たちが、「反知性主義」などと民間の知性をばかにしていたが、いつの間にか掻(か)き消えたであろう。

 最後に一言いえば、百田尚樹さんはそのような伝統から出てきたティーゼーターである。彼の講演を阻んだ一橋大学の学生や教授たちは何も考えていないのだ。(筑波大学大学院教授・古田博司 ふるた ひろし)

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古田博司・筑波大学大学院教授