日中戦争勃発から80年。長期に及んだ戦いのうち、1937年12月に起きた「南京事件」をめぐっては中国が「犠牲者は30万人」と根拠なく主張し、“歴史戦”が続いている。

 中国の一方的な主張に反論するためにも、あるいは旧日本軍の行動を正しく知るためにも、当時、中国で何が起きたのかを史料に基づき検証する必要がある。

 報道カメラマンの横田徹氏は、「南京事件」前夜の上海戦(同年8月〜)の際に当地で日本軍によって写された貴重なフィルムを入手した。1年にわたる取材で、これらの写真は非常に史料的価値が高いことが判明した。ここでその一部を紹介する。

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 栃木県内で開かれたフリーマーケットの店先で、偶然見つけた6冊のネガアルバム。時代を感じさせる革製のカバーには手書きで「上海戦」「上海出征」「中支」などと書かれ、中を開くとブローニーサイズ(6×6cm判)のモノクロ・フィルムがぎっしりと詰まっている。

 フィルムホルダーから1枚ずつ慎重にネガを引き抜き照明にかざして見ると、そこには戦火で廃墟と化した街、行軍する日本兵や病院で治療を受ける日本兵、白骨化した遺体などが写っていた。

 これまでも各地のフリーマーケットで日中戦争や太平洋戦争当時の写真が売られているのを目にしていたが、多くは記念写真として撮られた兵士の集合写真やポートレートなどで、風景といえば戦場から離れた場所ばかりだった。

 使用されたフィルムはライカ判と呼ばれる35mmフィルムが一般的で、今回のような中判サイズは見たことがない。ライカ判に比べてブローニーフィルムは面積が大きく、引き伸ばしても細部までくっきりと判別できる。

 空襲で破壊された建物、前線に掘られた塹壕──それら戦場の風景は、私がイラク北部でイスラム国と戦うクルド人部隊の従軍取材をした際に目にした、戦闘の最前線の光景を彷彿させる。写真の場所では当時、激戦が繰り広げられていたであろうことは一目瞭然だ。

 アルバムには、上海に出征した年月日は記載されていなかったが、帰国したのが「1938年3月5日」とある。写真の兵士の多くが冬用の外套を着用しており、野戦病院に飾られた門松の写真などを考慮すると、撮影者が滞在していたのは第二次上海事変(※注1)が起きた1937年の晩秋以降ではないかと思われる。

【※注1/1937年7月の盧溝橋事件(北京郊外)に続き、同年8月に勃発。「上海戦」とも呼ばれる。日中全面戦争の始まりとなった】

 アルバムに収められたのは上海とその近郊で撮影されたと思われる写真が484枚。撮影者が帰国後、東北地方などで撮影した写真が170枚。合計654枚と膨大な数だ。

 80年近い時間の経過を感じさせないほど保存状態が良く、カメラマンの私が見ても光の捉え方、構図など写真のクオリティが非常に高い。しかし、残念ながら、アルバムには肝心の撮影者の名前が記載されていない。

◆「許されない」写真の数々

 一体、誰がこの写真を撮ったのだろうか。従軍カメラマンか? もしくは記録担当の兵士か?

 写真には、軍用飛行場の爆撃機や野戦病院で手当てを受ける負傷兵など、軍の機密に触れるものが多数あり、これらは従軍記者が撮影を許されるものではない。

 よくある戦意高揚のためのプロパガンダ写真とも違う、兵士の日常生活を撮った写真を見て、私はこの撮影者は被写体と同じ軍人だと確信した。病院や負傷兵の写真が多いことから、軍医など医療関係に従事していた可能性が高い。

 年代的に、この撮影者が生きている可能性は低いだろう。たとえ撮影者を見つけられなくても、これらの写真がどこで撮られ、その時の状況がどうだったのかを知りたい──そんな欲求に駆られた。

 80年前の日中戦争を撮った作品が、現代の戦争取材をライフワークとする私の手元に届いたことに奇縁を感じた私は、戦争関連の資料を所蔵する防衛研究所史料閲覧室、靖国偕行文庫、陸上自衛隊衛生学校などに足を運び、書籍や資料を買い求め、戦史に詳しい研究者に協力を依頼した。

 当時の建物が数多く残る上海に行き、撮影された場所を歩き、中国人識者や上海在住の日本人にも話を聞いた。

https://www.news-postseven.com/archives/20170807_601529.html

>>2以降に続く)