水掛け論の根本に何があるか

いわゆる「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」といった事象は、いまだに日韓、あるいは日中の間で歴史問題となっている。それぞれの出来事についての、基本的な事実すら共有できていないというのが現状である。「慰安婦」が存在したことや、南京で市民が殺された、といったところまでは互いに認めていても、人数その他で両国の主張は異なることが多い。

わずか70年ほど前のことで、なぜこんなに認識が異なるのか。そもそも水掛け論はいつまで続くのか。人数云々以前に、こうした疑問を抱く人も少なからずいるのではないか。

こうした「そもそも」の疑問について、有馬哲夫早大教授は、新著『こうして歴史問題は捏造される』で、歴史論議の「基本」を解説している。有馬氏は公文書研究の第一人者で、これまでに世界各国の公文書をもとに様々な新事実を発掘してきた。

以下、同書より抜粋、引用しながら、なぜ「歴史問題」が終結しないのかの根本を見てみよう。

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大切なのは反証可能なこと

歴史論争をするとき、なぜそれはただの言い合いや水掛け論になってしまうのでしょうか。とくに日本と韓国や中国が歴史問題を議論するときは、互いに根拠をあげて議論するのに結論には一向にたどりつけません。どこまでいっても平行線です。歴史的事実は一つなのですから、議論すればするほど、互いの認識は近くなるはずですが、そうはなりません。

それは歴史(および人文科学)の論議は、反証可能でなければならないという原則を中国と韓国が無視するからです。実は彼らは反証可能な根拠に基づいて歴史論議をしていないのです。

反証可能とはオーストリア出身でイギリスの大学で教鞭をとったカール・ポパーが提唱した概念です。彼の説明を使うと「白鳥はみな白い」というためには「黒い白鳥はいない」ということを証明しなければなりません。しかし、実際には黒い白鳥はいます。したがって「白鳥はみな白い」とはいえません。

ところが、黒い白鳥は数が少ないので、見たことがない人は、自分の経験上「白鳥はみな白い」と思うでしょう。思う分にはかまわないのですが、その思い込みを他人に語って、誤った知識を与えると問題です。そうならないよう、白鳥の色について自説を語りたい人は、生息地を回って、反証がないか確認する必要があります。この場合の反証とは「黒い白鳥がいる」ということです。

このように反証がないかどうかを検討することができることを、「反証可能性がある」といいます。そして言説や仮説には、反証可能性がなければならないというのが、歴史やその他の学問においては大前提です。

ここで混同されないように断わっておくと、「反証可能性がある」ということと「反証がある」というのは別のことです。反証可能性を検討したうえで「反証はない」または「反証はないと現時点では考えておいてよい」となれば、その学説や仮説はその時点では「正しい」と認められることになります。ただし、あとで反証があがってくれば、「誤りだ」ということになります。

また、反証があるかどうか、検討できないということは、正しいか、間違っているか判断できないということです。学問では、正しいかどうか判断できないことは、正しいとはみなしません。何も証明できない、つまり、証明能力がないということになります。

(略)

こうした解説を聞いてなお、「いや、慰安婦は本人の証言がある」「南京事件も実行者の記録がある」といった主張をする人もいるだろう。いわゆる「第一次資料」があるのだ、という見方である。有馬氏は、歴史研究における反証可能な資料は第一次資料だ、としながらも、その取扱いには注意が必要だ、と指摘している。

「関係者本人の証言記録」や「本人の手記」といった、いわゆる「第一次資料」は「新発見!」といったセンセーショナルな謳い文句とともに紹介されることが多い。しかし、当然のことながら、「第一次資料」だからといってすべて信用していいわけではない。

「私は従軍慰安婦を強制連行した」という「証言」「手記」が大嘘だったことはすでに明らかになっている。

https://www.dailyshincho.jp/article/2017/09200610/?all=1

>>2以降に続く)