近年、ヨーロッパ諸国において極右が台頭しているが、それは、第一に68年の5月革命が、先輩たちのように「反ファシズム」の概念に頼らなくなったために、それが参照基準にならなくなったからである。

また、第二に「知識人たちがウルトラナショナリズムの定義を転換したことにもあった。実際に彼らは外国嫌いと不寛容とを、自由民主的な普遍言語の表現へと置き換えた。」

具体的には、少数民族の差別化、自由主義とナショナリズムとの結合、レーガン・サッチャー革命による新自由主義・新保守主義の台頭である。(ケヴィン・パスモア『ファシズムとは何か』、岩波書店、2016、pp157?165)。

外国嫌いと不寛容という点では、今の日本の極右も同様ではないか。「極右は・・・グローバル化と文化多元主義を構築している者こそが、国民ごとの差異を瓦解させる者として真の人種差別主義者だ、と主張する。」(同書、p.187)。この指摘は、現代日本にも当てはまる。

中国や韓国の政府は、日本批判を強め、そこに国民の注意を集中させることで、自らに対する国民の不満を解消させようとする。しかし、我々が同じことをする必要はない。反日、嫌韓、嫌中、いずれも、国家間の関係改善に資することはないからである。

「外国人嫌い」は商業主義でもあり、それで部数や視聴率を伸ばすことを目論むのみで、国際関係への配慮など、全くない。他国との良好な関係は、地道な努力の上にしか成立しない。

ナチス・ヒトラーの「反ユダヤ主義」に対する反省の上に、第二次世界大戦後の民主主義があるのではないのか。

舛添要一
舛添政治経済研究所所長/前東京都知事

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