◆【コラム】韓国人はまた信じたいことだけ信じている

大韓帝国時代の日刊紙・皇城新聞の社説「是日也放声大哭」は、その有名な見出しに比べ全体の内容を知る人が少ない。
見出しは代々語られているが、全文は広く読まれていない。

読んでいても見出しほどはよく知らない。
前文の内容が当時の知識人でなければ理解しにくいためだ。

社説は、乙巳勒約(第二次韓日協約、1905年)に署名した朝廷の大臣を2回「豚犬不若(犬畜生にも劣る)」と激しく非難している。
ところが、序論に登場する伊藤博文に対する3回にわたる呼称がおかしい。

「伊藤侯」と侯爵の尊称を付けているのだ。内容も穏やかだ。
伊藤侯が東洋平和を望んでいると考え、あらゆる人々(官民上下)が歓迎したのに、乙巳勒約が結ばれるとはどうしたことか、と恨んでいる。

「あらゆる人々が伊藤侯を歓迎した」という時期は1年前の1904年3月。
日本が日露戦争を起こし、韓半島(朝鮮半島)をのみ込んだ時のことだ。

当時の皇城新聞は民族言論の求心点で、識見に優れた知識人が集う場所だった。
このような姿勢は報道機関だけではなかった。

高宗はこの時、訪韓した伊藤博文に大韓帝国の最高勲章「大勲位金尺大綬章」を授与した。
勲功をたたえながら、英国のビクトリア女王、ドイツのビスマルク、清の李鴻章と共に伊藤博文を「近世の4大人傑」と褒めたたえた。
伊藤博文は高宗に「東洋平和に協力すれば韓国の山河が横暴な列強の所有にならないよう、韓国の痛みを日本の痛みと考えて共に対処する」と答えた。

日本に虐げられるだけ虐げられていた時期のことだ。
その10年前に景福宮は日本軍に踏みにじられていた。

東学党の農民は日本軍に虐殺された。翌年、宮殿で王妃が日本軍に殺された。
その翌年には王室がロシア公館に亡命する恥辱を味わわされ、日本からやっと社稷を保全した。
そんな国の王室と当代の知識人たちが伊藤博文の「東洋平和」という「妖説」に頼ったのだ。

日本は「韓国のため共にする」意思はなかった。
満韓交換論は以前から伊藤博文の持論だった。ロシアが満州を取る代わりに、日本が韓国を取るという妥協案だ。

ロシアがこれを拒絶して発生したのが日露戦争だった。
伊藤博文が妖説を口にして帰国した直後、日本は韓国を保護国にするという「大韓帝国に対する方針」を決定した。

乙巳勒約は1年半後に結ばれた。
「東洋平和」を信じ、伊藤博文を称賛した当時の韓国の知識人たちは、その裏切りに泣いた。
「この日、大声で痛哭(是日也放声大哭)」したのだ。

実は「信じた」というよりも「信じたかった」という表現の方が正しい。
旧韓末の知識人はバカではなかった。

歴史を通して日本の乱暴な本性を知っていたし、見聞を通して不利な方へ進む世の中のことも分かっていた。
だが、韓国を助けてくれる国がなかった。

中国とロシアは敗者となり、米国と英国は日本の肩を持った。
日本の慈悲と善意を信じること、本性に目をつぶり、妖説に頼るのがとりあえずは心安らかだった。

信じる根拠があったからではなく、信じたかったから信じたのだ。
その背景には日本帝国主義に対する積もり積もった恐怖があった。

長い間虐げられてきた人ほど、相手の小さな好意にすぐ感動する。
北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が軍事境界線を越えて文在寅(ムン・ジェイン)大統領の手を握った時、手をつないで再び軍事境界線をまたいで北朝鮮側に立った時、「徒歩の橋」での歓談が鳥の声として伝わって来た時、一瞬にしてほぐれた私たち韓国人の感情も、実はそれと同じ感情だったかもしれない。

朝鮮日報 2018/05/06 05:08
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/05/04/2018050400481.html

※続きます